く~にゃん雑記帳

音楽やスポーツの感動、愉快なお話などを綴ります。旅や花の写真、お祭り、ピーターラビットの「く~にゃん物語」などもあるよ。

<奈良市埋蔵文化財センター> 巡回展示「奈良を掘る1 土師氏と埴輪」

2016年06月05日 | 考古・歴史

【菅原東遺跡の埴輪窯跡から出土の馬形埴輪や円筒埴輪など】

 奈良市埋蔵文化財調査センター(大安寺西)で「奈良を掘る」と題した巡回展示の第一弾「土師氏と埴輪」が始まった。古墳の造営や埴輪の製作を担ったといわれる土師氏に焦点を当て、ゆかりの地でもある菅原東遺跡の出土遺物を中心に展示。同センターでの展示は6月30日までで、7月には奈良大学博物館、8月には奈良市役所ロビーで展示する。

 

 土師氏の祖は大相撲の祖といわれる野見宿禰。垂仁天皇7年の展覧相撲で当麻蹴速を破った宿禰は天皇の后、日葉酢媛命(ひばすひめ)が亡くなったとき、陵墓に殉死の代わりに埴輪を立てることを進言した。その功績が認められて「土師(はじ)」の姓が与えられた。堺市土師町、藤井寺市の土師ノ里など、大古墳群の近くに今も土師の地名が残る。その地に土師氏一族が住まいして、埴輪づくりなどに取り組んだのだろう。奈良市内には土師の地名はない。だが、土師氏一族が8世紀後半に居住地を基に姓を改めた「菅原」や「秋篠」の地名は今に続く。

 奈良市菅原町は近鉄西大寺駅の南西に位置し、宿禰の子孫である菅原道真の生誕地ともいわれる。その東側、垂仁天皇陵の北側に広がる菅原東遺跡からは古墳時代後期(6世紀)の埴輪の窯跡が見つかっている。そこで作られた埴輪は奈良県内の後期古墳に広く供給されたとみられる。今展ではその窯跡から出土した馬形埴輪や円筒埴輪(上の写真)、人物・蓋形(きぬがさがた)の形象埴輪の破片などが展示されている。

 

 窯跡近くの溝からは素焼きの「陶棺(とうかん)」の破片も出土した(上の写真㊧)。埴輪と同じ土で作られていることから、陶棺も埴輪とともにここで焼かれていた可能性が浮上している。菅原町の北西、西大寺赤田町にはこの陶棺が多数埋葬された赤田横穴墓群がある。これまでに16基の横穴墓が確認されており、発掘調査した9基のうち7基から陶棺と副葬品が見つかった(写真㊨は7号墓陶棺)。それらの陶棺は作りも埴輪とよく似ているという。奈良市北西部に多い陶棺は土師氏一族が用いた特殊な棺とみる説もあるそうだ。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<イボタノキ(疣取木、水蝋樹)> 寄生虫が分泌するロウが皮膚のイボ取りによく効く?

2016年06月04日 | 花の四季

【漏斗状の白花を密に、虫の名はカイガラムシの仲間イボタロウムシ】

 北海道から九州まで全国の山野に広く分布するモクセイ科イボタノキ属の半常緑性低木。樹高は2~4mほどで、5~6月ごろ新しい本年枝の先に総状花序を出し、白い小花をたくさん付ける。花は先端が4つに裂けた筒状の漏斗形。10~12月ごろ同属のネズミモチによく似た楕円形の果実が黒紫色に熟す。

 イボタノキの樹皮には「イボタロウムシ」というカイガラムシの仲間が寄生し、雄の成虫が白い蝋(ろう)状物質を分泌する。これを採取して過熱し溶かして精製し常温で固めたものを「イボタロウ」と呼ぶ。生薬名は「虫白蝋(ちゅうはくろう)」。そのロウを溶かして皮膚にできたイボに垂らすとイボ取りに効き目があるという。イボタノキの「イボタ」もイボトリがイボタに転嫁したものといわれる。

 イボタロウは戸の滑りを良くするため敷居に塗ったり、家具や柱の艶出し、織物の艶付け、刀剣の錆止めなどに使われてきた。「とばしり」や「とすべりのき」と呼ぶ地方もあるようだ。福島県会津地方はかつてイボタロウの主産地で、そのロウを採るためイボタロウムシをわざわざ飼育していたという。イボタノキは材が緻密で堅いことから印材や杖などにも利用された。「イボタの木で箸を作って飯を食うと短気がなおる」。尾張地方にはこんな言い伝えがあったそうだ。

 イボタノキは古くから花物盆栽としても親しまれてきた。ライラックを接ぎ木するときの台木にもなっている。同属の仲間には暖地の海岸近くに分布する「オオバイボタ」、山地の日当たりのいい所に生える「ミヤマイボタ」、本州の兵庫県以西から九州中北部の山地に多い「サイゴクイボタ」、大きな円錐花序を出し「ハナイボタ」とも呼ばれる「ヤナギイボタ」などがある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<大和文華館> 特別企画展「涼を呼ぶ美術―滝・鯉・龍―」

2016年06月03日 | 美術

【渡辺南岳「鯉図」、雪村「花鳥図屏風」など涼やかな作品36点】

 大和文華館(奈良市学園南)で初夏の到来に合わせた特別企画展「涼を呼ぶ美術―滝・鯉・龍―」が始まった。水辺の情景や生き物などを描いた涼やかな絵画や工芸品を集めた作品展で、円山応挙の『双鯉図』や応挙晩年の弟子、渡辺南岳の『鯉図』、雪村周継の『花鳥図屏風』(重要文化財)など、参考出陳も含め36点が展示されている。7月3日まで。

   

 応挙の『双鯉図』(泉屋博古館蔵)は2匹のコイが笹の枝に刺され吊り下げられた構図。1匹は尾を力強く振り上げており、活きの良さが伝わってくる。応挙の作品はほかに参考出陳として『鱈図』『雪汀双鴨図』『四季山水図屏風(春景・夏景)』の3点。南岳の紙本淡彩『鯉図』(黒川古文化研究所蔵、上の作品)は六曲一双の屏風で、右隻に2匹のコイ、左隻に巨木の松の幹と1匹のコイが描かれている。右隻のほぼ半分、第1扇から第3扇までを占める1匹の大きなコイは全長が約1.7mほどもあろうか。その迫力に圧倒される。

 雪村の墨画『花鳥図屏風』は水辺のカモやシラサギを描いた六曲一双の屏風。雪村は雪舟に私淑していた。狩野元信筆と伝わる『奔湍図(ほんたんず)』『瀑布図』は岩間を下る激流や滝壺に激しく落ちる水音が今にも聞こえてくるような気配が漂う。元信は狩野派の祖といわれる狩野正信の長男。これらの作品のうち『花鳥図屏風』や『奔湍図』は数年前の水墨画名品展などでも目にしたが、「涼」をテーマとする今展にふさわしい作品といえるだろう。

 絵画では他に伝狩野源七郎筆『叭々鳥図(ははちょうず)』、狩野探幽筆『古画縮図(花鳥)』、江戸後期の『長谷寺縁起絵巻』『道成寺縁起絵巻』など。狩野源七郎は永徳の弟とも息子ともいわれる。絵画以外では青木木米作『赤絵龍文盃』や中国・景徳鎮窯の『紫釉雨龍盃』などのほか、〝涼を呼ぶ衣装とうつわ〟として『琉球紅型(びんがた)衣装』や『藍色薩摩切子小瓶』、オランダ18世紀の『東印度会社帆船図硝子酒盃』なども展示中。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<ズイナ(髄菜、瑞菜)> 長い花穂に白い小花を付ける日本固有の落葉低木

2016年06月02日 | 花の四季

【別名「ヨメナノキ」、注目を集める葉に含まれる希少糖】

 ズイナ科(旧分類ユキノシタ科)ズイナ属(イテア属)の落葉低木。学名の「イテア・ヤポニカ」が示すように日本固有種で、本州の近畿南部以西と四国、九州の山地の林縁や沢沿いに分布する。樹高は1~2m。晩春、その年に伸びた新しい枝の先に、長さ10~15cmほどのブラシ状の総状花序を出して小さな白花をたくさん付ける。

 属名「イテア」の語源はギリシャ語で柳を意味する「itea」から。葉の形が柳に似て、水辺に生えることに由来するという。ただズイナの葉は先が鋭く尖っているものの長楕円形で、細い柳の葉にはあまり似ていない。別名「ヨメナノキ(嫁菜の木)」。これは野菊の一種ヨメナのように若葉がおひたしや和え物などとして食べられることから。ズイナの「菜」も食用になることを示す。幹や枝の髄の部分は昔、行燈などの灯心に使われたという。

 近縁の仲間に北米東部原産の「コバノズイナ」がある。「アメリカズイナ」とも呼ばれ、日本には明治時代の初期に渡ってきた。白い小花がズイナより密に付いて見応えがあり、真っ赤になる秋の鮮やかな紅葉も美しいため人気がある。「ヒイラギズイナ」は葉の鋭い鋸歯がヒイラギに似ていることからの命名で、奄美大島から琉球諸島、台湾にかけて分布する。中国原産の「シナズイナ」もある。

 ズイナは葉に「D-プシコース」という希少糖成分を含むことが分かって最近話題を集めている。希少糖はキシリトールなどと同様、自然界にごく僅かしか存在しない糖分。カロリーがほぼゼロのため、生活習慣病の予防・改善やダイエットなどにつながると期待されている。希少糖研究の先進県を自負する香川県では、県農業試験場や香川大学、民間企業などがズイナの組織培養、水耕栽培などに取り組んでいる。今春からは希望する小中学校へ水耕栽培した苗木の配布プロジェクトも始まった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<クリ(栗)> 雌雄同株 雄花が密に付いた長い穂の基部に数個の雌花

2016年06月01日 | 花の四季

【縄文時代の貴重な食料、縁起物の「勝ち栗」は土俵の中にも!】

 ブナ科クリ属の落葉果樹。日本原産のニホングリ(シバグリ=芝栗)は北海道から九州の屋久島まで全国の山野に広く自生する。雌雄同株で、6月頃、黄白色の小さな雄花が15cmほどもある長い花穂に密に咲いて、その基部に数個の雌花が付く。雌花は花後、総苞が発達して棘に覆われた殻斗(かくと=イガ)になり、9~10月頃、大きくなったイガが裂けて1~3個の実がこぼれ落ちる。

 クリの語源には様々な説がある。果皮の黒い色から「くろ」の転嫁や「くろみ(黒実)」の縮約、実の硬さから古語で石を意味する「くり」から、丸くてクルクル転がる果実を表す「くるみ」「くりみ」のうち「くりみ」から……。クリは縄文時代の主要な食料だった。三内丸山遺跡(青森県)をはじめ東日本の縄文遺跡からは廃棄された大量のクリの果皮が見つかっている。

 大きな栗の本格的な栽培は丹波地方で始まったともいわれるが、三内丸山遺跡周辺ではクリの林も確認されており、既に当時から栽培されていたことを示す。ある研究によると、縄文時代後期には現在の栽培品種に匹敵するほどの大きな実を付けるものもあったそうだ。堅くて腐りにくいクリの木は古くから建材や線路の枕木などに使われてきた。山内丸山遺跡からは直径1m余のクリの巨木を利用した6本の柱も出土している。

 クリは万葉集にも登場する。山上憶良は「子等を思ふ歌」(巻五)の中で「瓜食(は)めば子ども思ほゆ 栗食めばまして偲(しぬ)はゆ……」と詠んだ。戦国時代には実を干した後、臼でついて殻と渋皮を取り除いた「搗(か)ち栗」(「搗つ」は「搗=つ=く」の古語)は大切な兵糧(ひょうろう)で、「搗ち栗」は「勝ち栗」に通じるとして出陣式にも不可欠なものだった。

 勝ち栗は大相撲にとっても欠かせない。本場所の無事を祈って初日の前の日、古式に則って〝土俵祭り〟が行われるが、勝ち栗は洗米・塩・昆布・スルメ・カヤの実とともに土俵中央の縦横15cmほどの穴の中に納められる。栗きんとんは正月の縁起物としても、おせち料理を飾る。クリ属にはマロングラッセに使われるヨーロッパグリ、渋皮が離れやすく天津甘栗で知られるチュウゴクグリなどもある。「よすがらや花栗匂う山の宿」(正岡子規)。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする