心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
マウス画・絵及び文章の著作権は このブログ作者(けい)にあります。

ようやく行ってきました♪

2017年08月31日 | ほんのすこし
昨日、ずっとずっと行こうと思っていた『戸嶋靖昌展』を見てきました。最終日の前の日に行くなんてね~。冷蔵庫にずっと貼っていて、



この顔を見るたびに行きたいなあと思っていたのですが。なんとなく行きそびれていたのでした。あの暑い最中にはどこにも行く気持ちが沸かず、こうして涼しくなった途端、あっもう最終日が近づいているではないか! と慌てて出かけたのでした。しかも今日はこんな曇天で雨模様ですが、昨日はなんと快晴に恵まれ、気分も高揚していたのです。
場所は郊外の大館郷土博物館。以前ここで紹介したひなまつり展を見て来た場所です。展示室も同じ場所でした。



入って最初に目につくのが、「かれいに寄せた交響楽」でした。
これは戸嶋氏がまだ故郷で代用教員として過ごしていたときに同じ職場だった先輩に描いて渡したものだそうです。交響楽というだけあって、沢山の色が重なり合って不思議な世界を作っていました。わたしが入ると同時に出て行こうとする方が、「俺にはこのかれいの絵しかわからん。他のは全然わからん」と言って、受付にいた方々に話し始めていました。その方も地元で絵の会に所属しているようでした。

絵を描いている方でも「わからない(理解できない)」と即答するんだなあ、と思いましたよ。

戸嶋氏については日曜美術館に今年だったか放映されていて、それを見ていたので、ぜひ実物を見てみたい! と思っていたのです。スペイン在住し、数々の作品をそこに残しています。スペインに住む人たちを描いていますが、どの顔も姿も一体どんな人生を歩いてきたらこんな表情になるのだろう、こんな皺が刻まれるのだろう、と思うほど鋭く深い暗闇が迫ってきました。

わたし自身は彼の描いた森や木の方に興味を抱きました。「三本の木立」はその中でも一番好きになりました。また見たいくらいです。30号サイズの中で三本の木が大きく描かれているのですが、木以外の部分も見る場所によって発見があるというか、これはあの感じかな、とか。森に入ったときのなんともいえない他の世界と隔絶された感覚がそこにはあるようでした。



この右にある「三つのメンブリージョ」という絵を見たときは、これは一体何を描いたのだろうと思いました。メンブリージョって何?
スペイン語なのでしょうね。

左のは「女・エヴ」です。目が、どの人物も目が・・・吸い込まれます。

43点の展示でしたが、入館料300円で見ることができるとは! もっと宣伝しても良かったのではないかなと思ったほどです。

冒頭の写真は、この博物館を出た左側にある小林多喜二の記念碑です。



大きな二本の木が守ってくれています。





『蟹工船』を書いた小林多喜二。ここにこんな碑があることを地元にいても今まで知らなかったわたしです。トホホですね。
そんなトホホなわたしに昨日の空は素敵で、「またいい場所を見つけたね」って微笑んでくれた気がします。





最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
胸が痛みます (fuyou)
2017-08-31 13:23:09
今の時代にいきたならなら
小林多喜二は死ななくてすんだでしょうに
あまりにもひどすぎます
拷問だなんて
返信する
fuyouさんへ (けい)
2017-08-31 13:31:57
生まれた時代によって亡くさなくてもよかった命が消えていくのは辛いです。
多喜二のお母さんが亡骸を見たときのことを思うと悔しさがこみあげます。当時、拷問した方はどんな気持ちで人生を過ごされたのかと思うと、それもまた辛いものがあります。
人間を分断するようなことがこれから先無いことを願うだけです。
fuyouさんのブログの優しい言葉にささくれた気持ちがいつも穏やかになっています。
返信する
私も (fuyou)
2017-08-31 14:55:24
けいさまと同じようなこと
私も思うのです
 
それは殺人で殺された人は勿論かわいそうだけど
殺人を犯した人もかわいそうでと
何故ならこれから先どう生きればいいのかと

すると周囲の人はいうのです
それは殺人を犯したのだから
仕方がないのだと

私そんな時ふとおもうのです
若しも神様がよい例も悪しき例もこの世にしめされるならば
学者とか大臣とかになる人も神様はえらばれるかも
ならば世の多くの凶悪犯人も神様からえらばれるのかも
本来は世のために役立つ人も
世の凶悪犯人も根本的には
善なのかも
選ばれ方の問題かも
だから罪を憎んで人を憎まずといえるのかも

少し変かしら

返信する
fuyouさんへ (けい)
2017-09-01 15:13:57
変ではないと思います。
これが絶対の考え方だといえるものが果たしてあるのかどうか、誰かはまた全然違う考え方をし、誰かはまた共感を抱き、世の中には自分が思ってもいない考えや自分が思っていたことと似ている考えを持つ人がいますし、それがあってこその諸々の変化だと思います。
「生まれる」ということでは皆同じだと思います。でもその後の生き方は千差万別で、それが自分で選んだのか神様が選んだのかと考えるとどうなのかしら。わたしには計り知れないものがあります。
でもfuyouさんが思うように生まれたときは皆が犯罪を犯す存在になるなんてことなく、善なるものであったと思いたいです。
その後、どう道を歩むかはひとりひとりの心をのぞかないとわかりませんが。
前に脳科学者の村上さんが書いた本を読んだのですが、その中に人間の細胞は毎日生まれ変わっていて生きていることは奇跡でしかないのだと書いていました。
奇跡の証であるわたしたち、自分だけではなく今この地球上に生きている皆が奇跡なのだと思えば、命をいとおしく思う気持ちも生まれる気がします。自分のことがいとおしいように自分以外のものにも命の奇跡を感じることができれば、罪を犯すこともないのかなあと思うのです。

でも神様はどうして凶悪犯など選ぶのかしら。選ばれた人は困ってしまいます。もしかして沢山選んでいても凶悪犯に最終的になる人は少なく、ほかの大勢の人はどこかで自分と向き合って踏みとどまっている、そこを神様に見せているのかもしれないとふと思いました。神様が選んだとすれば、そういう悩む姿を見たかったのかもしれないなあ、とか。fuyouさんの言葉を読みながらいろいろなことが頭に浮かんできました。
先の村上さんが、自分は神とか信じているわけではないが、この世界には畏怖を持つ存在があるのだと。それは人間の内面、奥深いところに触れるものでもあり、自然の中に感じるものでもあり、科学を超えたものだ・・・と。

罪を憎んで人を憎まず、この言葉を何度か見聞きしてきました。そのたびに傷つけられたあるいは殺された方の残された方たちのことを思います。罪びとを憎まずにはいれないだろうなと。きっとわたしが思う以上に辛い気持ちだろうなと。
なんだか話があっちに行ったりこっちに来たりしてしまいました。
久しぶりにあれこれ考える機会を与えてくださってありがとうございます♪



返信する

コメントを投稿