エスカレーターに乗る時、ただ身をまかすだけで、何も考えない。
急ぐ人は、右側を駆けのぼっていく。
タフな人は、階段を走り抜けていく。
だれもゴーギャンの遺作と呼ばれている絵のタイトルのようなことは考えないだろう。
そこで、カメラ爺は、シャッターを押す。
そしてつぶやくのだ。
「われわれはどこから来たのか われわれは何者なのか われわれはどこへ行くのか」
急ぐ人は、右側を駆けのぼっていく。
タフな人は、階段を走り抜けていく。
だれもゴーギャンの遺作と呼ばれている絵のタイトルのようなことは考えないだろう。
そこで、カメラ爺は、シャッターを押す。
そしてつぶやくのだ。
「われわれはどこから来たのか われわれは何者なのか われわれはどこへ行くのか」
ゴーギャンの大作の題名を想起するとはさすが爺。
だがエスカレーターの左右一方を空けるというマナーは変わりつつあるようだ。
さて古希の爺の「ゆくへ」であるが、6944は百人一首が思い出されてしまう。
由良の門(と)を 渡る舟人(ふなびと) かぢをたえ
ゆくへも知らぬ 恋(こひ)の道かな(曾禰好忠)
である。
爺の行く末もこの歌のように清濁あわせ飲む世界、すなわち人間の業(ごう)を生きていかれるのだろう。
コメントありがとうございます。
エスカレーターの立ち位置、誰が決めたのでしょう。
現役の頃、トリビアのコラムで、大阪と首都圏のエスカレーターの立ち位置の違い、書いたことあります。
最近は、片側をあけること、当たり前になっています。が、渋谷駅地下鉄のエスカレーターの注意書き、「エスカレーターは歩くものではありません。並んで乗ってください」と。
今時、そんなことやったら、後ろから、注意されそう。
確かに、行方も知らぬ恋の道。
若かりし頃はね。
ときめいて、そんなこともありました。
今は、谷崎潤一郎みたいにはなれない。
「知人の愛」なんちゃって。
墓場に近き 老いらくの 恋は怖るる 何ものもなし(川田順)
ところが、エスカレーターに日常的に乗る人って、それほどいません。
よくよく調べて見たら、仙台では、不定なんだそうです。前の人に合わせる。
基本的にエスカレータは人が歩くことを前提には、負荷の計算がなされていないとか。
何フロアもまたぐ長いエスカレーターで、一斉に上る人の力の位相が合ったら、メーカー保証外なんです。
前の人に合わせる・・・
なるほどね。
理にかなっています。
エシカレーターで歩く人、負荷なんて考えていない。
でも、想定外、怖いですね。