kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

食事に行く

2014-02-16 | 陸上競技
木曜日、練習終了後急いで帰宅。卒業生と食事に行く約束をしていたのでかなり慌てて帰りました。ここ最近少なくなってきましたが陸上部の卒業生とは一緒に食事に行くことがあります。二十歳を越えた子も多くなってきているので若干(?)お酒を飲むこともあります。高校時代とは異なる関わり方ができるというのも嬉しいですね。わざわざ送り迎えをしてくれます。感謝。

今回は1月に約束していたのですが私が東京に行くことになり、戻ってきてかなりバタバタだったので無理を言って一ヶ月伸ばしてもらいました。普通の事務ではなく看護師をしているので日程を決めておかないといけません。翌日が休みの日に設定するようにお願いしていました。私の日程に合わせるといつになるか分かりません(笑)。店の予約までしてくれていました。計画的です。他の卒業生は約束をしていても合流してから店を決めるのでロスが多い(笑)。

この子とは色々と話をします。これは高校生の時からだと思います。うちの陸上競技部が県内で認められるようになったのはこの子達がいた時からです。全くの無名校だった本校、数年間で戦えるようになったのは選手が良かったというのが大きな理由だと思いますね。「良かった」というのは才能溢れる選手が集まって来たという意味ではありません。「素直に話を聞ける」と「努力できる」という意味です。こちらの求めることを純粋にやって行くことができる。これでチームは強くなりました。

この日も話をしましたが、初めて県外の合宿に参加させてもらったののもこの子達の時です。中国地区の強豪校の合宿に参加して明らかな違いに衝撃を受けました。選手も同様。この合宿から帰ってすぐに髪の毛をバッサリ切っていました。勝負するために「覚悟」が必要。私から言われてではなく自分達でそれを感じ取っての行動でした。強くなるための素養はあったと思います。

この頃は県で活躍した選手が入学してくるということはありませんでした。個人の成績はほとんどなし。それでも全員が中国大会に行くのが当たり前。個人で中国に行けない選手はいないという学年もありました。同級生が6人いて県新人で5人が3位以内に入る。その時のキャプテンが自分だけが個人で中国に行けなかったと涙を流していたことがあります。翌年は専門外の800mで中国へ。県総体で長距離選手0名でトラック優勝、総合優勝も果たしました。この前後の学年がチームの基礎を作ってくれたと思います。

今でもその頃の話を良くします。この子達にとって当時の競技生活は大きな財産になっているのでしょう。

それ以外には「命」の話もしました。これはあまりにも真剣な話だったのでここでは割愛。結構真面目な話でした。気がついたら4時間話をしていました。二人でしたから誰も止めてくれません。閉店時間となったので終了という感じでした。相変わらずですね。ひたすら話をしたという記憶しかありません。

なかなか時間が作れませんがこういう時間も私の中に大切だなと思います。真剣に何かを話すというのはよほど気の合う相手としかできません。これからどれだけの機会があるのか分かりませんが誘われたら行くようにしたいですね。なかなか私から行こうという感じにはならないので、卒業生の皆さん誘ってください(笑)。

気分転換できました。感謝。

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しっかりと走る日

2014-02-15 | 陸上競技
木曜日、この日は不足分を補うべく走り込みとしました。前半部分でほとんど走練習ができていないのでせめて2回はしっかりとした負荷をかけておきたいという気持ちがあります。急激に練習量を増やすというのは良くないのである程度の量を数回に分けてやっておくほうが良いかなと考えています。

この日は大学生が練習に参加してくれることになっていました。前日までの流れを断ち切るのにはちょうどいい刺激になると思います。自分たちだけで練習するよりは外部の選手と一緒に走るほうが気も紛れますししっかりと雰囲気も変わると思います。大学生が高校生にあれこれ教えてもらうというのはプライド的にどうなのかという気はしましたがそれでも従ってもらうことにしました。練習に来てもらうのは全く問題はありません。が、こちらが遠慮して練習できないというのでは困ります。「通常通り」の練習の中に入ってもらうという感じですね。

この日は技術的なことをやってから後半は走練習としていました。基本の確認をしてから走る。基本の確認時には大学生にも動きを理解してもらう。説明することでそれなりの理解が図れると思います。言葉は悪いかもしれませんが大学生の存在を利用させてもらうという感じでしょうか。100・200の選手が2人、短長が1人、混成(!?)が1人というメンバー。それぞれ実力者なのでうちにとっては一緒に練習するというだけでいつもと違う緊張感があります。1月に合宿を行って以来他校との交流がありません。刺激が不足するとマンネリ化します。これが「やらされている」という感じにつながるのかもしれません。

大学生には「かなり走るけど良いのか?」と事前に確認していました。それでも「参加する」ということでした。世の中には変わった人たちがいるものです(笑)。通常どのような練習をしているのかはっきりとわかりません。短短でも600mを走ったりするという話を聞いていました。そういう練習は一切しないけどかなり負荷は高いという部分は理解しておいてもわないといけません。知らなかったというのはあまりにも可哀そうなので・・・。

ドリルともも上げ、フレキハードルもやりました。そのまま並走。いつもは南側から北側に向かって走るのですがこの日は風が北風。せっかく走るのであれば追い風で走らせるほうが良いだろうと思い走らせました。並走では「課題」を決めています。が、この日は間違いなく「渡す」ということだけしか考えられていませんでした。すぐに指示をしてもいいのですがあえて言わず。何組かは流れていました。「渡す場所を決める」という部分に意味がある。そこの場所で渡すためには何をするべきか?ここが考えられなければ単純に走るだけの練習となってしまいます。気を付けなければいけません。

そのまま25mと50mの組み合わせ走。これも同様。「課題」があるのです。大学生に細かい話をすると時間がかかりすぎるし、普段から言われていることと異なると混乱してしまう危険性もあります。それほど難しい話ではないのですがまずはペアを決めて走るという段階。少しは意図を説明しましたが細かくは割愛。今うちがやろうとしていることとを説明するには時間が足りません。「走り込み」と決めていたのですからそこまでは到達しなければいけません。

いつもよりも人数が多くなっているので走るメンバーを少し変えました。うちの選手と大学生が一緒に走れるようにしました。ここまできて高校生は高校生、学生は学生という枠で走っても意味がなくなりますからね。実はうちの卒業生もこの大学生の中にはいました。今の2年生が入学したときの3年生です。当時は「絶対に負ける相手ではない」という選手でしたが今は・・・。力が逆転している部分があります。そのため「負けるのは嫌だ」という感覚はあるでしょう。しかし、それでも「今の力を知る」ということは大事です。避けていたらいつまでもレベルアップはしませんから。あえて高校生と一緒に走らせることで卒業生にも「大きな刺激」を与えることができるのではないかと考えていました。

練習内容は120mのタイヤ引きと120mと60m。うちの学校の最大距離です(笑)。これ以上はグランドの関係で使えません。150mを走りたいのですが距離がないので120mのタイヤ引きで代用。それほどガンガン走るという感じではなかったと思うのですが一人タイヤ引きの時点で脱落。やりなれない練習ですから仕方ないと思います。他の3人は何とか走れていました。他の選手の動きをみるとタイヤ引きで完全に足が遅れてしまう選手がいます。また、力が上に抜けてしまう選手も。すぐに動きは改善できません。可能であれば何回か一緒に練習できればいいのになと感じました。うちの選手にも刺激になりますからね。

うちの選手はよく走れていました。前日までの「取り組む姿勢」についての話が少しは入っているのでしょう。声も出ていましたし行動も早かった。火曜日は「返事」がないという部分でかなり指導しました。私が指示をした時だけの「返事」だけではなく、「行きます!」と選手が走る前に発した言葉に対しての「はい」という返事がなかったのです。それでは練習の雰囲気は明るくなりません。ここが大きな課題でしたがこの日は大きく出せていました。これが「最低限の話」なのです。練習さえすればそれでいいというわけではない。きつい練習であっても自分たちで盛り上げていくことで雰囲気が大きく変わります。そこができるかどうかというのが「誰のための練習なのか」という部分につながっていきます。

普段はタイヤ引きでヘロヘロになっている選手もこの日は大学生を置き去りにしていました。この動きと走りが毎回できれば確実に戦えるのですが。今チームの中で伸びてきている1年生は大学生の短長選手と一緒に走っていました。最も体力がない選手が短長の選手と走るのでこれはこれで大きな刺激になります。疲れてきておいていかれそうになるときにどうやって付いていくか?動きを考えたり工夫をすることで対応していくしかないと思います。何とかついていけていました。うちの選手は全体的にこの日は動いていました。このくらいの動きが毎回できると本当に面白いと思います。かなり上のレベルで戦えるのではないかという印象を受けました。

最後に「この日は良い雰囲気で練習ができた」とだけ伝えました。「自分のための練習」というのがどのようなものなのか?ここを理解できるかどうかです。大学生の力を借りてでも練習をする。それが最終的に自分たちのためになるのです。人数が多ければ活気も出ます。そうなるとレベルアップもできる。良い練習ができるかどうかが大切なのです。

少し前に進めたかなと感じました。時間がかかってもそれを本物にしていく必要があります。少しずつ本物にしていきたいですね。
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水曜日~練習~

2014-02-15 | 陸上競技
本来であればかなり走っておきたいと考えていたのですが、キャプテンとの話に1時間、他の選手と話をするのに30分くらいかかりました。結局練習開始は17時半を過ぎていたのではないかと思います。この状態でどれだけ練習ができるのか?大いなる疑問ですが全くやらないというのはこの時期マイナスです。短時間ですが練習をすることに。

選手には「自分たちの練習」という意識を持つように言いました。私が言ったからやるというのでは全く成長がありません。練習時間が短い分、1つ1つの内容を理解して意識して行う。集中して行うことで時間不足を補うしかありません。さすがに言われてすぐですから集中して取り組むことができていました。

一番最低な練習は「やるだけ」の練習です。とにかくメニューをこなすという考え方(いや、考えていないのか)では「運動をしている」だけであって練習の効果はほとんどありません。ジョギングをして健康維持に努めるというレベルだと思っています。その次が「やらされる」練習。「今日も部活がある。行きたくないな。やりたくないな。」という表現をする生徒はかなりの数います。今日も練習きつい、先生に怒られるかもしれない。それでも練習に来る。言われたことだけを誤魔化しながらやる。結局は一生懸命になれないのでそれなりの成果しか出ません。

もう一つ上の段階は「やらされる」のですが、「強くなりたい」という気持ちが大きい練習。うちがここのレベルだと思っています。練習に関しては一生懸命やる。それは「インターハイに行く」という大きな目標があるから。ある程度きついことしなければ自分自身が強くならないことが分かっているので練習に一生懸命に取り組みます。が、誰かに依存して「周りがいるからやる」というレベルでもある。「強くなりたい」という部分と「やらされている」という部分が混在する。だから「声を出す」ということもできなくなる。お通夜のような練習になります。

良い練習は「自分が強くなるため」の練習です。練習の主体は他の誰でもなく「自分自身」です。強くなるためなら何でもする。自分を支えてくれる様々な方に「感謝」の気持ちを持って練習に取り組む。自分が競技で結果を残すことが最大の恩返しになると知っている。だから練習中も「自分が何をするべきか」を常に考えながら練習を進めることができる。チームで目標を共有しながら協力して前に進む。こういう状況になれば間違いなく強くなります。

時間をかけているのは「自分のため」です。練習の時間をどれだけ有効に使えるのか?これも「自分のため」でなければいけない。言われたから一生懸命にやるというのでは話が違ってきます。指導者が主体となって練習をさせる。気分が落ちていたら「大丈夫か?頑張れるか?」と声をかける。一歩引いたところから見ると「良い風景」に見えるのかもしれません。が、「青春ごっこ」をするのは今のチーム力からすれば無意味です。私に励まされたから練習が頑張れる。いやいや、これでは誰のための練習か分かりません。どんな練習であれ「自分のために」と思えば、辛くても乗り越えられる。最悪、選手同士で「なにをやってるんだ」と言い合えるようなチームにならなければいけないと思っています。あくまで「理想」ですが。その「理想」を追い求めなければ「現状維持」で終わり。先には進めません。

話がそれましたがドリルを行い、フレキを使ってのスイッチング。スキップとシザースを組み合わせてそのまま並走。これも時間の関係で3本としました。50mをたった3本しか走れない。時間というのは大事です。この段階で上手くいくかどうか分からない練習を試すことに。先日からイメージしていた練習なのですがどれだけ効果があるか分かりません。というか、本当にできるのかどうか分からないというほうが正解でしょうか。スタート局面、中間への移行という部分を意識するための練習。トップスピードを維持するためにどうすればいいかを考えて取り入れることにしました。これも「正解」はないと思っていますが。

2人1組で行いました。一人は25mを走る。もう一人は50mを走る。たったそれだけのことです。それを交替しながら6本ずつ行いました。短時間での練習です。もう少し工夫すれば練習の質も上がるのではないかと感じました。こういう練習をすると雰囲気も上がります。こういう部分の工夫は指導者がしなければいけないと思っています。たまたま(?)思いつきでやってみる練習だったのですがこういう意味では効果があったと思います。

「自分のための練習」をする。ここが全てです。しっかりと意識しながら取り組んでもらえたらと思います。大きなレベルアップのための「停滞期」だと思います。必ず自分たちで練習を作れるようになれると信じています。
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水曜日~話をする~

2014-02-14 | 陸上競技
練習開始前、キャプテンを個別に呼び話をしました。その前に1年生に「いつも通りの準備」とだけ伝えていました。普段はキャプテンが練習の概要を聞きにきて他のものに伝えるのですが話をしたかったので別の者に指示を伝えました。

日誌に「疑問に思うこと」と書いていたので話をしました。前日に話をした「目標」について自分たちの考えと先生の考えが一致していないというもの。ここは差を埋めておきたい。私が掲げる目標は「最大目標」です。勝負できるようにすることが目標。「県で勝つ」「県記録を出す」「中国地区で勝つ」「インターハイに行って勝負する」というもの。選手には4つの目標が全く別物として受け止められたらしく「目標をひとつにしたい」という感じだったようです。これに関してはここに詳しくは書きません。私は記録を出して上の大会に進みそこで勝負をしていくのだという感覚でした。選手は「インターハイ」と「目標記録」が同じものであることが分かっていない。県記録を更新してインターハイにいけないということは到底考えられません。「こちらの意図」が上手く伝わらないという部分は難しいですね。

他の部分の話もしました。いつもチームの代表としてキャプテンが話をされます。うちのチームでキャプテンをするというのは本当に大変だと思います。私の求めることを他の選手に伝える。かなり嫌な役回りです。大きな負担がある。単純に練習さえすればよいというわけではなくなります。辛い部分は多くあります。それでも誰かが必ずやらなければいけない役割。向き不向きもあると思います。キャプテンはうちのチームの「核」となります。この子は「キャプテン」としてだけでなく「チームの中心選手」です。この子の存在でチームは大きく影響を及ぼします。ムードメーカー的な存在がある。そういう部分もあって話をしておかなければいけません。

1時間近く話をしたでしょうか。練習をするために部室に行かせました。私が練習場所に行くと他の者は全員で練習をしていました。ここは「問題」と感じたので即座に止めさせて話を。

何が問題なのでしょうか?選手は自主的に練習を始めているのです。「練習をやらないといけない」という感覚はあるのでしょう。しかし、本当にそれだけでいいのでしょうか?キャプテンは「チームの代表」として私から指導受けているのです。その選手だけ他の者と一緒に練習ができない状態。これが本当に良いのか?指導を受けるのはキャプテンが代表している。他の者は「我関せず」ではキャプテンが大きな負担をするだけ終わり。なぜそのことが分からないのか?「チーム」として機能することがありません。

「練習をしていること」に関して話をしているのではありません。無駄に1時間待つことはない。が、全員が同じ練習をして「待つ」というのはどうなのか?自分以外がみんなで練習をしている姿をキャプテンが見たらどのように感じるか?「なぜ自分ばかり負担して他の者は何もないのか」という不満を感じるでしょう。補強をしたり各自の課題を克服するための練習をするのとは違います。「全員」でやっているのであればやはりキャプテンを「待つ」という気はなかったのではないかという部分です。

多分、「何かをしていなかったら怒られる」と思ったのでしょう。結局、「怒られないためにやる」という感覚なのです。自分のための練習ではない。火曜日の練習中に私が指示を出さなかったら「どうしたらいいんだろう」と集まってコソコソやっている。結局、自分たちでは動かず「キャプテンに聞いてもらう」という流れになる。キャプテンは他の部分でも大きな負担をしているにも関わらず、自分たちは「嫌なことは人任せ」にしてしまっている。その部分の改善ができなければ特定の人物だけが嫌な思いをすることいなるのです。

本当にキャプテンでなければ指示を聞くことができないのか?他の者でもできることを人任せにしているだけではないのか?注意を受けるのもキャプテン、練習を確認することもキャプテン、誰もやらないことをやるのはキャプテン。そこまで負担させているにも関わらずそのキャプテンを待つこともできない。「注意を受けるのはキャプテンがやれば終わり」というのは無責任すぎないのか?

問題は自分たち全員の部分です。それを代表して聞いているキャプテンの存在に対して気配りや思いやりを持てないのか?声を出す、雰囲気を作るのは「キャプテンの責任」ではない。各自がやればできることをやらないから雰囲気作りができない。これは「指導者の機嫌が悪いから良い練習ができない」というのと同じではないか。誰か一人に責任を押し付けて「雰囲気が悪い」となる。嫌な仕事はキャプテンに押し付ける。結局「自分たちの練習」になっていない。

キャプテンに練習を作ってもらう。指導者に練習の雰囲気を作ってもらう。これが本当に良いことか?なぜ「自分で作り出そう」という気持ちが出てこないのか?全員が「人任せ」のままで終わっているのです。

否定的なことを多く書いていますが、選手は練習をがんばっていると思います。簡単にはできないことを一生懸命にやっています。それは「強くなりたい」から。そこは私自身も分かっています。しかし、その環境を作り出すのが「指導者」であったり「特定の人物」でいいのか?本当に強くなりたいのであれば「自分のための練習」をするべきです。「怒られるからやる」のであれば何も残りません。

「自分のためにやる」ことができるようになると一気にレベルは上がります。「やらされる練習」から抜け出して「自分が強くなるために練習をする」という感覚になれば全ての面が変わってくるのです。

キャプテンを待つことができない。人任せにしているからそのような行為ができる。ここ最近の練習の中で感じていることは全て「人任せ」「やらされている」という感覚の中で生まれてきているのです。「良い練習」とは「自分のためにする練習」です。自分が強くなるために自分でその雰囲気を変えていく。他の者が声を出さなくても自分はきちんと出す。声を出すのも人任せにせず自分でやる。練習内容の確認も練習道具を出すことも同様。自分自身の責任で自分自身でやる。

全ての話はつながっています。そこの部分ができるかどうかで全てが変わる。理解して行動に移せるかどうかです。ここができればこの数日間blogに書き続けているような内容は全て解決すると思っています。自分自身のためにやるのですから。

この話でひたすら引っ張るつもりはありません。ここまでかなり引っ張っていますが・・・。選手の精神的負担は大きい。分かっています。それでも「本当の勝負」をするためにはここは超えないといけない。「自分のためにやる」という気持ちを持ってもらいたい。そのための時間です。

分かりにくい部分、気分を害するような表現があったかもしれません。申し訳ありません。選手には変わって欲しい。そう強く思っています。理解してもらいたいですね。
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水曜日~話をする前に~

2014-02-14 | 陸上競技
水曜日、この日も思うことがあり話をしました。日誌の内容についての思う部分があったので。いくつかの段階に分けて書きます。この記事だけでは流れが表現できないので。「誰のためにやるのか」という大きなテーマがありそこの部分を考えて生きたいと思います。

こちらが思うことと選手が思うことが違う。表現の仕方が違うのか?ここは良く分かりませんが。基本的に「先生が指導する」というのが当然となっていて「雰囲気が悪い」と感じるのは「先生の機嫌が悪い」という部分に直結するようです。それも大きく影響するのでしょうが本当は「自分たちでやる」という感覚が必要なのです。良い練習ができない。それは誰の責任なのか?私が選手を盛り上げながらやっていくことが本当にプラスだと思いません。

以前(11月)「練習を見る気にならない」と話したことがあります。「勤務時間だけ○月までは見るがそれ以後は知らない」と。そのとき「指導が平等ではない」と言われましたし、「○月までで良いから見てくれ」と言われました。別に誰が見ても同じなのだと思います。指導に関しては「平等」ではないと私自身は思っています。練習中に手を抜いたり、約束事が守れないものが「自分ももっと指導してほしい」というのは「お門違い」ではないか?練習を見てほしいのであれば自分がきちんとする必要がある。それもないのに「練習を見てくれ」というのは自分のことしか考えていないのです。それでも我慢して指導はしましたが・・・。

「○月まででいい」と言われたので「必要ないのになぜ私が見なければいけないのか」という感覚になりました。このときは私もかなり怒っていましたから「一緒にやりたくない」と事前に何度も言っていました。大人気ないのかもしれませんが、なぜ私が「選手に練習をしていただく」ために我慢し続けなければいけないのか。それなら「本気で強くなりたい」と考えている者とだけやるほうがいいと強く思っていました。真剣に「指導する必要はない」と。「○月まででいい」という表現、「不要」だと言われている感覚でした。

「○月を過ぎたら見なくていいのか?」と確認すると「それまでに自分たちが一生懸命練習をして先生が練習を見たいと思えるようにする」と話していました。この時点で「練習をするのは自分だ」という感覚がそれなりにあるのではないかと大きな期待をしていました。が、結局は惰性で私が指導をするという流れ。本当に良かったのか?

この流れもあり「顧問の顔色を伺いながら練習をする」という姿勢が嫌でした。「自分のための練習をする」「指導者が見ていて指導したいという雰囲気にする」と言っていたにも関わらず、「声を出さない」「返事をしない」「こちらからの指示を待つ」という状況。かなり矛盾していると思います。選手からすれば「指導者の言い分が矛盾している」と思う部分も多々あるでしょう。ここに「信頼関係」は存在しなくなります。本当にそれでいいのか?練習を見る必要はないのではないかと思っていました。

選手にも多くの言い分があるでしょう。私が怒っていたら話しかけにくい。当然です。それでも本当に練習をしようと思えば自分から聞きに来るべきでは?繰り返しになりますが「練習をしていただく」のは違う。指導者が選手の皆さんに頭を下げて練習をしていただいて、強くなって大会で結果を残してもらうのでしょうか?なぜ、こちらが大きな譲歩をしてまで練習をしてもらわないといけないのか?大きな疑問です。

選手にはこの気持ちが分からないかもしれません。「練習を見てもらうことが当たり前」であり「練習をすることが自分の権利」と感じている部分もあるでしょうから。だから「機嫌が悪い指導者が悪い」と感じる。「やめてしまえ」と言われたら「自分は強くなりたいから練習をしているのだから辞めない」という話になる。こちらは「やらされる練習しかできないならやる意味はない」と感じているからそのような話をしているのです。これが設立当初の部活動であればそこまで求めません。しかし、ある程度成熟期に来ているチームが「顧問の顔色を伺いながら練習をする」という状況で本当に良いのか?

ある程度の水準まで来ているのは確かなのです。しかし、最後の一押しができない。「戦うのは自分自身」という感覚が持てなければ最後の最後の部分で負けてしまいます。自分自身が本当に勝負したいと思えばどんな状況であれ「良い練習をする」ことにこだわる。しかし、「やらされている」という感覚では指導者の機嫌によって内容が大きく異なる。それで本当に意味のある練習となるのか?

相手は高校生です。そこまで求めるのはやり過ぎたと言われる可能性はあると思っています。指導者の機嫌が悪かったら高校生なのだからやはり戸惑う。どうしていいのか分からなくなる。当然ありえることです。指導者が嫌な気持ちであってもそれを押し殺して毎日毎日「選手に練習をしていただく」ために雰囲気作りをすればいい。そう言われるかもしれません。しかし、そこに「価値」はない。そう思っています。

長くなりました。同じような話を何度も何度も書いています。それで何が生み出せるのか?私の自己満足。そのとおりだと思います。しかし、「成長」するためには「超えなければいけない壁」と「自分のためにやる感覚」の部分に関して考える必要があります。このblogを見て不愉快になる方もこの数日間はいらっしゃるのではないかと思います。選手の成長のために、選手自身のためにこちらも様々なことを考えます。多くの指導者はそれを隠して我慢して指導している。私は表面化してそこに対して考える。いいことなのかどうかは分かりません。

批判される可能性は十分あると思っています。そうなればこのblogの閉鎖も本気で考える必要があります。誰かを傷つけながらやっていくような部分は良くないですからね。

また書きます。
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前後しますが

2014-02-13 | 陸上競技
あまりにもマイナスなことを書いているので期待されている方もいるのではないかと思います。基本的に前に進むために避けては通れない道だと思っています。


木曜日、練習はかなり良い感じで出来たのではないかと思います。少し進んだかなと。

水曜日の事を書く前に木曜日の事を書くのはどうかと思いますが。チームは崩壊しません。目標があるはずですから。ここに至る経緯はまた別に書きますのでお許しを。一先ず見てくださっている方々にご心配をおかけしているのではないかも思い報告だけしておきます。大丈夫です。
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良い練習ができない

2014-02-13 | 陸上競技
火曜日、この日は休日。朝から練習としていました。前日大学生から連絡があり練習に参加させてもらいたいとのこと。特別に何かするわけではありませんから全く問題なし。参加するからにはうちの練習の流れに沿ってもらいますが。

事前に「大学生に説明するように」と指示は出しました。初めてやるような練習ですから年齢は上であっても分からないと思います。が、高校生が大学生に指導をするというのは非常に難しい。遠慮してしまう部分があるでしょうから。それでも「自分のやっていることの確認」という意味では効果は高いと思います。見ているとほとんど説明できていませんでした。「難しいことを求めている」というのは分かるのですが「普段からやっていること」を説明できなければ練習の効果は上がりません。

前日の流れもあり、かなり引いたところから見ていました。これは選手にとっては「不満」以外の何物でもないでしょう。私に「練習内容を確認する」というのはかなりプレッシャーがかかる状態。機嫌が悪いというのが明確ですから。ここは私自身がもっと大人にならなければいけないのかもしれません。が、結構我慢はしています。ここ最近は「指導してもらって当たり前」というか「練習内容が不明」であれば声をかけてもらうのを待っている状況があります。しつこいようですが「誰のための練習なのか」という部分が明確ではないのです。高校生からすれば「顧問の機嫌が悪い」というのは大きなことかもしれません。練習をする雰囲気にならない。全ては「私の責任」ということでしょう。

雰囲気が悪く声が全く出ません。返事もしない。選手にも言い分はあると思います。「顧問が声をかけにく雰囲気を作っている」のですから自分から声を出す気にならない。まーそれならそれで良いと思います。そんな状況で何故私が時間を割いてまで指導をしなければいけないのか?高校生はまだまだ幼いのだから指導者が我慢するべきだと言われる部分もあるでしょう。いや、かなり我慢しています。まだまだ我慢の度合いが足りなのかもしれません。私の責任で練習の雰囲気が悪くなるのであれば私自身が指導をする必要はないということです。かなり嫌な気持ちで練習を見ていました。

自分たちの練習。指導者にすべて準備してもらってそれを行う。これが「当然」であり指導者が準備をしたり声掛けをしなければ練習はできない。本当にそうなのでしょうか?大きな疑問があります。「やってもらって当たり前」という感覚が強くあります。この感覚がいつになったら抜けるでしょうか。私が全ての面で妥協して選手に「練習をしてください」と頭を下げるのか?そこまでして「練習をしていただく」ことに意味があるのか。雰囲気は重く「やらされている」練習でしかない。この状況を見てどうしろというのか?それでもこちらが優しく声掛けをして「練習を頑張ってもらう」のでしょうか?

ある程度のレベルまで来ていますがそれは「私が引き上げる」という感覚だけでいいのか?高校生であれ学生であれ最後勝負するのは「自分自身」です。このままでは「私に頼る」部分が大きすぎて最後の勝負の場面で力を出し切れないのでないかという危機感があります。それ以外にも練習メニューが分からなかったら「どうしたらいいのだろう」と戸惑う。「自分から聞きに来る」というのができません。または特定の人物だけが聞きに来て他の者は「人任せ」となる。ここが克服できないままで本当に「良い練習」なのでしょうか?

高校生にはこんな難しいことは分からないと言われるかもしれません。「指導者の言うとおりにやる」ことがメインとなっている学校も多くあるでしょう。しかし、それで本当に面白いのか?「私がこの選手たちを育て上げたからこんなに強くなりました」というのは私の感覚とは違います。選手自身が自分たちのために自分たちでしっかりと努力をする。それが大切なことでありその「取り組む姿勢」を身に付けさせるのが重要だと考えています。

繰り返しになりますが「声を出さない」「返事をしない」「指示が出るまで聞きに来ない」「他人に任せる」という状況が目の前にあってそれでも「みなさん、頑張って練習してください」というのは「誰のための練習なのか?」という大きな疑問が生じます。選手にとっては「顧問が悪い」という認識なのでしょうが、こちらにも感情はあります。それ言えば選手にもあると思います。「誰のための練習なのか」を問いたい。私自身が「強くなりたい」と思って練習をするのか?「やらされている練習」では何も生み出さないのです。

この日の練習はここ最近で最も悪かった。得るものはない練習だったと思います。私が妥協して「それなりの練習」を求めればいいのかもしれないですが、最後の最後です。ここからは自分達の練習を積んでいなければいけないのではないでしょうか?「目標を持って頑張っている」のは認めます。私が今求めているのはそこを超えた部分です。自分たちで自分たちの練習の雰囲気を作る。ここができて初めて今後の練習の効果が上がると思っています。逆にここを乗り越えられなければ先のレベルには進めない。それが現実です。

このような状態になるのは私が求めすぎなのが大きな原因でしょう。なかなかしんどい部分があります。
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月曜日の練習

2014-02-13 | 陸上競技
練習についても書いておきます。というかほぼ記憶がありませんが・・・。

長いミーティングの後、練習をすることに。とにかく「意識」を変えてもらわないと勝負にはなりません。選手自体は「頑張っている」と思います。ここに関しては否定するつもりはありません。まー選手はそう感じていないかもしれませんが。「いつも先生に否定される」と思ってい不平不満を感じているかもしれないなと思っています。「頑張っている」というのは間違いない事実。しかし、本当はもっとできるのではないかという視点から見ています。「インターハイで戦いたい」と思っているのも分かります。だから練習が十分積めているのかどうかは全くの別問題。「取り組む姿勢」の部分がもう少しレベルアップすることで近づけると思っています。だからあえて厳しく話をします。

練習は微妙。当然ですね。かなり話をされています。気持ちを切り替えて「良い雰囲気で」という感覚はないでしょう。そこが本当に良いことなのか?練習の雰囲気を作るのは指導者?そうなのかもしれません。しかし、本当に練習をするのは誰でしょうか。自分たちの練習。私の期限を伺いながら練習をするようなレベルであればやってもやらなくても同じだと思います。以前から「練習中には気持ちを切り替えてやれ」と話しています。それができるかどうか。高校生レベルではできないのかもしれません。それでも「自分のための練習」という位置づけを理解することができれば大きく変わってくるはずです。

練習を開始して少ししてから「足が痛い」と申し出てくる者が。それも他の選手に相談してから言いに来ました。聞いてみると「前から痛かったが大丈夫だろうと思っていた」とのこと。ここに「甘さ」があります。うちのように人数が少ないチームはそれぞれが「自分の責任」を感じておかなければいけません。一人抜けるとそのことが大きなマイナスになる。勝負するために「自分の責任を果たす」という感覚が必要。痛くなってから「どうすればいいか」ではありません。

この状況で「インターハイで戦いたい」はあり得ません。それも人に相談してから報告に来るというのは「誰かに頼る」という典型的なパターンです。この状況では大切なところで勝負にはなりません。勘違いされると困るのですが「足が痛い」ということに関して行っているわけではありません。突発的な故障などは誰にでもあることです。しかし、以前から違和感があってそれを放置しているというのは問題があるのでは?言われてから動くのではなく自分自身でどのようにするべきかを考える必要があります。そこの「甘さ」が問題だと言っているのです。

久々にフレキハードルを使った練習を導入。シーズン中にはよく行っている練習です。フレキを使ってからスキップとシザース。これで走る感覚を作っていく。できない選手は足が回ってしまいます。フレキハードルを避けるような動きになる。これでは走りにつながりません。ここは難しい部分です。この時点ですでに暗くなっています。練習としては細かい部分ができません。「無駄に長いミーティング」が原因でしょう。そんなことをする時間があれば練習をするべきだと言われるのかもしれませんね。

最後に並走を数本やって終わり。刺激的には本当に少ない。これでいいのか?よくわかりません。

雰囲気的にかなり「重い」中で進んでいきました。私自身、「面白くないな」と思っていたので選手も「息苦しい」と感じていたでしょう。ここは指導者としての私の責任を追及されても仕方ない部分かもしれません。「選手が良い練習をするためには指導者が環境を整える」という考え方があります。「部活の指導はやるのが当たり前」と言われる部分もあるでしょう。が、私自身も一人の人間です。「絶対にやってやる」という雰囲気でやる練習なら指導はできます。が、こちらが盛り上げて盛り上げて「練習をしてください」というような形で指導する気にはなりません。

県総体に出たい!!という素人が集まってやる部活動ならそれも段階としてはありでしょう。しかし、今の状況で私が「みなさん、練習頑張ってくださいね」というのはどうも違う気がします。指導者として「傲慢」なのかもしれません。が、本当にそれでいいのか?誰のための練習なのか?極端なことを言えば「大会前に私が交通事故で入院したら試合には出ないのか」という話です。自分たちが自分たちのためにやる。そういう意識が出てこなければ練習にはなりません。高いレベルを求めているのは分かります。しかし、今はそのレベルでやらないとこれ以上のレベルアップはないのです。

嫌な話ばかりですみません・・・。周りから見れば「かなりいい状態」だと思われるのでしょうが、「目指す場所」に向けての取り組みとしては・・・という感じです。
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雑感

2014-02-12 | 陸上競技
思うことを。

前の記事に書いた内容に補足というかプラスアルファで書いておきます。「4つの柱」の最後の部分、「得意分野」にエネルギーを傾ける。ここに「将来のリーダー」という部分がありました。どうすれば優秀なリーダーを育てられるか?答えは「リーダーの素質のある人を見つけて訓練する」というもの。これが一番早い道だと記してあります。リーダーの素質がある者を訓練すれば大きな労力をかけずとも簡単にリーダーになれる。「向き不向き」があって向いている者を見つけて連れてくるほうがあっという間に結果が出るのです。

自分の得意分野を見つけそこで力を伸ばすほうが簡単。当然の話です。これは他の部分にも当てはまります。多くの選手を集めてきてそのうち数人が強くなればそれで評価される。もともと「才能」がある選手を数多く集めればその中から大きく伸びる選手も出てくる。外部的な評価は結局は「結果」でしかない。そこへのプロセスや指導の方法、技術論などは関係ないのです。これが現実だと思っています。強豪校に行って伸びなかった選手に関しては一切触れられません。目立つ「伸びた選手」だけがクローズアップされて、それ以外で実績があった選手が結果を残せなかったことに関してはノータッチ。

私は「強い選手」が伸びるのはある程度当然のことだと思っています。しかし、「普通の選手」が大きく伸びることのほうが大きな価値がある。そこに到達するまでに様々なことをやるからです。技術的なこと、取り組む姿勢に関すること、生活指導などの多くの部分で細かく指導していくからこそ「普通の選手」が伸びていく。これは兵庫県に学校に訪問したときにも言われたことです。「いわゆる「強豪校」と言われる学校が強いのは当たり前。強い選手を集めてきているのだから。本当にすごいのは地方の小規模校で毎年のようにインターハイに出場する学校。そこにはきちんとした「指導」があるから毎年継続的に結果がです。そこが一番すごい。」と。

この時、一緒に行っていた師匠のことがすぐに思い浮かびました。中学時代に全国に出場したことのない選手が集まる。そこで全国入賞を果たしたり毎年のようにインターハイに出場する。そこには「情熱的な指導」がある。「生徒のために」と考える指導がある。だからこそ選手が大きく伸びるのです。「リーダー」を集めてきてそのうち一部が伸びればいいというのではなく、普通の選手が伸びて戦えるようになる。そこが大事だと思っています。

日本の風潮として「強い選手が正しい」という傾向が強くあります。記録を出した選手の練習方法があっという間に広まっていき「ブーム」となる。その「ブーム」は次に強い選手が出てくると過ぎ去ってしまう。「速い選手」の練習が「正しい」という短絡的な考え方が存在します。だから「強い選手」は「良い指導者」となる。自分自身が結果を残しているのですからそれは「正しい」のです。同時に「強い選手」を見ていた「指導者」の指導は正しいという傾向もあります。本当そうなのか?「技術的な指導をしてもらったことがない」と言う選手も数多く存在します。

現役時代強かった選手の意見は「正しい」とされます。「自分はこうやって成功した」という「経験則」に基づく指導です。「根性論」と言われるような「厳しい指導」もこの「経験則」から行われます。自分が選手としてやっていたときは上級生から厳しく指導された。何かあったら「体罰」と言われる行為で従わせる。自分がやっていたことが正しいという視点から物事を考えると結果そのような「行為」が生まれるのです。「自分がやっていた練習が正しい」という視点から物事を見ている人は案外多いと思います。指導を始めた当初は私もそうでした。「強くなるための方法」は自分がやってきたこと以外に知らないからです。しかし、多くの指導者に出会い話を伺ったり技術的なことを勉強していく中で「経験則」だけでは駄目だと痛感しました。

難しい部分です。「強い選手」を育てた指導者の「練習方法」を真似するだけではダメ。かといって、自分で行う「思い込み練習」もダメ。だったら何を基準に「選手を育てるための練習」をするのか?ここに関しては真剣に考えていく必要がある。考えない限りは「答え」は出てきません。技術論だけに走るというのでは先には進めないと思います。

そのように考えると「優れた指導者」というのはどのようなタイプの人なのかが見えてくると思います。私は指導者として全くと言っていいほど未熟です。目指す指導者へは遠い。それでも自分なりに模索しながら進んでいくしかないと思っています。「素質のある者」だけが結果を残せるというのではなく「チーム」としての底上げができる指導者に。簡単ではありません。それでも目指したいと思います。

本当に「雑感」です。内容が微妙ですみません。なんとなく書いておきたかったので・・・。
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「結果」を追い求める

2014-02-11 | 陸上競技
長い話をしました。この時点で分からなくなっている者もいるかもしれません。

最初から「負ける」と考えてレースをする。練習をする。このことの無意味さ。県総体で1位になれる人間は1人、中国大会で1位になる人間は1人、インターハイで1位になる人間は1人。それ以外は必ず「負け」を経験します。だから「負けるのが当然」という考え方になる。しかし、それで本当に良いのか?最初から「負け」を考えて走っていたらレースに出る前から負けているのです。同じ地区に5人強い選手がいる。それなら6番目を狙う。当然の考え方かもしれませんがそれでは絶対に6位にはなれないと思います。「負け」を意識した勝負となるのですから。

今回の大阪室内、間違いなく「負け」が最初からありました。それを経験することも大切だと思って細かい部分は指摘しませんでした。この指導が良いのか悪いのか分かりません。しかし、実際に経験しないと分からないのです。自分とは「別次元」で競技をしている選手がいる。そこの「差」を痛感する。それがスタート。そして「勝つ」ことを目標に練習をしなければいけないと思います。「勝利至上主義」を批判する考え方もあります。「勝つためには何をしてもいい」という考え方には私も反対です。しかし、最初から「負け」を意識した競技をするのは面白くないのです。

午前中に話した話をもう一度しました。今、遠征に行く、合宿に行く、スパイクを買う、携帯を使う、食事をするという自分では「当たり前」だと感じている事に対して真剣に考える必要があります。保護者は子供が「陸上競技をしたい」と言えばある程度の援助をしてくれます。うちの学校で競技をやると言ったときに反対があったかもしれませんが最終的に本人が強く望むのであれば「頑張れ」という意味で許可してくれているはずです。選手はそのことを忘れてはいないか?保護者からやってもらって当たり前という感覚を捨てなければいけない。「義務」と「権利」です。自分がやりたいことをやる。そのためには何かしらの「義務」が生じるのです。ここでいう選手の「義務」とはなんでしょうか?

それは「一生懸命に取り組む」事だと思います。自分が「やりたい」と言って始めたことです。保護者はそれを応援してくれています。指導者に注意を受けて辛そうにしている姿、怪我をして思い通りに練習ができない姿も日ごろから一番近くで見ています。それでも本人が「目標」を持って「強くなりたい」と思ってくれていると信じるから無償の愛を注いでくれるのです。「お金がかかるからバイトして競技をしなさい」とは現時点では言われないはずです。多分。

そうであればどのような形かで保護者に「恩返し」をする。それが「義務」だと思います。ではどうするか?一生懸命に練習をするのです。それで一生懸命に目標に向かって進むのです。「結果」にこだわり勝負をするのです。「強くなれたらいいな」というような形では「恩返し」にはなりません。全力で取り組んでその姿を保護者に見せる。「勝つための努力」をしている姿を保護者に見てもらうのです。「勝つ」ことを考えたら2位になったら悔しい。レースが終わった瞬間に「悔しい」という想いがあふれてきて涙するかもしれません。それくらい一生懸命に物事に取り組めば保護者もどのような気持ちで子どもが競技に取り組んでいたのかが分かります。「結果」を追求する。負けるかもしれません。しかし、最初から「負けるための努力」をする姿を保護者が望むでしょうか?

人生の中で何か一つに没頭して「一生懸命になる」というのは大切なことです。その中から人は多くのことを学びます。それは一生の宝となり自分自身の人生を大きく変えていきます。こんなことを高校生に話しても伝わらないと思います。それでも関わる者が「負けてもいいよ」と押してるのは違う気がする。最終的に何を持って「勝ち」とするのか。自分自身の殻を打ち破りこれまでの自分から大きく変わることが「勝ち」かもしれません。正解はこの子たちが大きくなったときにきっと分かると思います。

私は「憎まれ役」で充分です。選手に好かれるために媚びるつもりはありません。保護者から与えられた「才能」を持った子供たち。自分たちでは絶対に頑張りきれません。それをどうやって「一生懸命」にするのか?指導者が選手から好かれるようになるはずがないと思っています。生徒も同様ですが。基本的には嫌なことを言わなければいけない。自分の耳に痛いことを言われるのは人は好みません。当然です。それでも私は指導をしていかなければいけないと思っています。


持っている「能力」は本当に高い。これを引き出せるかどうかなのです。世の中には「能力」があってもそれを引き出せないまま終わってしまう人が大半です。何故なら「能力」を引き出すためには「4つの柱」が必要になるからです。それには大きな「痛み」を伴います。簡単に手に入れることができないのです。ここをどれだけ理解できるか?

選手は「また指導された」というレベルで終わっているかもしれません。私が本当に何を伝えようとしているのかを理解できずに反発する選手も出てくるでしょう。そうなると「能力」を引き出すのが難しくなります。「素直に受け入れる」という感覚がなくなりますから。頃合いが難しい部分ですが。私は本気で選手を伸ばしたいと思っています。それは預かっている保護者への「義務」だと思います。「適当でいいや」と思うような指導はできません。多くの金銭的な負担をしていただいている部分もあります。「うちで競技をやらせたい」と思って進学させてくださった方もいると思います。その「想い」に答えるためにはやはり「結果」で恩返しするしかないと思います。

この子たちが「本気」になればどこまでも戦えると思っています。「中国地区で勝つ」というのが私が抱いている目標です。もちろん、簡単なことではありません。「6番以内に入ればいいや」という指導はしたくありません。高すぎる目標でしょうか?この子たちの「能力」からすれば不可能ではないと思っています。どれだけ分かってもらえるかだと思います。

結局、1時間近くミーティングを行うことになりました。途中休憩をはさみましたが。

長くなりました。書きたいことを書いていると収拾がつかなくなります。分かりにく文章で申し訳ありません。
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