kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

水曜日~話をする~

2014-02-14 | 陸上競技
練習開始前、キャプテンを個別に呼び話をしました。その前に1年生に「いつも通りの準備」とだけ伝えていました。普段はキャプテンが練習の概要を聞きにきて他のものに伝えるのですが話をしたかったので別の者に指示を伝えました。

日誌に「疑問に思うこと」と書いていたので話をしました。前日に話をした「目標」について自分たちの考えと先生の考えが一致していないというもの。ここは差を埋めておきたい。私が掲げる目標は「最大目標」です。勝負できるようにすることが目標。「県で勝つ」「県記録を出す」「中国地区で勝つ」「インターハイに行って勝負する」というもの。選手には4つの目標が全く別物として受け止められたらしく「目標をひとつにしたい」という感じだったようです。これに関してはここに詳しくは書きません。私は記録を出して上の大会に進みそこで勝負をしていくのだという感覚でした。選手は「インターハイ」と「目標記録」が同じものであることが分かっていない。県記録を更新してインターハイにいけないということは到底考えられません。「こちらの意図」が上手く伝わらないという部分は難しいですね。

他の部分の話もしました。いつもチームの代表としてキャプテンが話をされます。うちのチームでキャプテンをするというのは本当に大変だと思います。私の求めることを他の選手に伝える。かなり嫌な役回りです。大きな負担がある。単純に練習さえすればよいというわけではなくなります。辛い部分は多くあります。それでも誰かが必ずやらなければいけない役割。向き不向きもあると思います。キャプテンはうちのチームの「核」となります。この子は「キャプテン」としてだけでなく「チームの中心選手」です。この子の存在でチームは大きく影響を及ぼします。ムードメーカー的な存在がある。そういう部分もあって話をしておかなければいけません。

1時間近く話をしたでしょうか。練習をするために部室に行かせました。私が練習場所に行くと他の者は全員で練習をしていました。ここは「問題」と感じたので即座に止めさせて話を。

何が問題なのでしょうか?選手は自主的に練習を始めているのです。「練習をやらないといけない」という感覚はあるのでしょう。しかし、本当にそれだけでいいのでしょうか?キャプテンは「チームの代表」として私から指導受けているのです。その選手だけ他の者と一緒に練習ができない状態。これが本当に良いのか?指導を受けるのはキャプテンが代表している。他の者は「我関せず」ではキャプテンが大きな負担をするだけ終わり。なぜそのことが分からないのか?「チーム」として機能することがありません。

「練習をしていること」に関して話をしているのではありません。無駄に1時間待つことはない。が、全員が同じ練習をして「待つ」というのはどうなのか?自分以外がみんなで練習をしている姿をキャプテンが見たらどのように感じるか?「なぜ自分ばかり負担して他の者は何もないのか」という不満を感じるでしょう。補強をしたり各自の課題を克服するための練習をするのとは違います。「全員」でやっているのであればやはりキャプテンを「待つ」という気はなかったのではないかという部分です。

多分、「何かをしていなかったら怒られる」と思ったのでしょう。結局、「怒られないためにやる」という感覚なのです。自分のための練習ではない。火曜日の練習中に私が指示を出さなかったら「どうしたらいいんだろう」と集まってコソコソやっている。結局、自分たちでは動かず「キャプテンに聞いてもらう」という流れになる。キャプテンは他の部分でも大きな負担をしているにも関わらず、自分たちは「嫌なことは人任せ」にしてしまっている。その部分の改善ができなければ特定の人物だけが嫌な思いをすることいなるのです。

本当にキャプテンでなければ指示を聞くことができないのか?他の者でもできることを人任せにしているだけではないのか?注意を受けるのもキャプテン、練習を確認することもキャプテン、誰もやらないことをやるのはキャプテン。そこまで負担させているにも関わらずそのキャプテンを待つこともできない。「注意を受けるのはキャプテンがやれば終わり」というのは無責任すぎないのか?

問題は自分たち全員の部分です。それを代表して聞いているキャプテンの存在に対して気配りや思いやりを持てないのか?声を出す、雰囲気を作るのは「キャプテンの責任」ではない。各自がやればできることをやらないから雰囲気作りができない。これは「指導者の機嫌が悪いから良い練習ができない」というのと同じではないか。誰か一人に責任を押し付けて「雰囲気が悪い」となる。嫌な仕事はキャプテンに押し付ける。結局「自分たちの練習」になっていない。

キャプテンに練習を作ってもらう。指導者に練習の雰囲気を作ってもらう。これが本当に良いことか?なぜ「自分で作り出そう」という気持ちが出てこないのか?全員が「人任せ」のままで終わっているのです。

否定的なことを多く書いていますが、選手は練習をがんばっていると思います。簡単にはできないことを一生懸命にやっています。それは「強くなりたい」から。そこは私自身も分かっています。しかし、その環境を作り出すのが「指導者」であったり「特定の人物」でいいのか?本当に強くなりたいのであれば「自分のための練習」をするべきです。「怒られるからやる」のであれば何も残りません。

「自分のためにやる」ことができるようになると一気にレベルは上がります。「やらされる練習」から抜け出して「自分が強くなるために練習をする」という感覚になれば全ての面が変わってくるのです。

キャプテンを待つことができない。人任せにしているからそのような行為ができる。ここ最近の練習の中で感じていることは全て「人任せ」「やらされている」という感覚の中で生まれてきているのです。「良い練習」とは「自分のためにする練習」です。自分が強くなるために自分でその雰囲気を変えていく。他の者が声を出さなくても自分はきちんと出す。声を出すのも人任せにせず自分でやる。練習内容の確認も練習道具を出すことも同様。自分自身の責任で自分自身でやる。

全ての話はつながっています。そこの部分ができるかどうかで全てが変わる。理解して行動に移せるかどうかです。ここができればこの数日間blogに書き続けているような内容は全て解決すると思っています。自分自身のためにやるのですから。

この話でひたすら引っ張るつもりはありません。ここまでかなり引っ張っていますが・・・。選手の精神的負担は大きい。分かっています。それでも「本当の勝負」をするためにはここは超えないといけない。「自分のためにやる」という気持ちを持ってもらいたい。そのための時間です。

分かりにくい部分、気分を害するような表現があったかもしれません。申し訳ありません。選手には変わって欲しい。そう強く思っています。理解してもらいたいですね。
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水曜日~話をする前に~

2014-02-14 | 陸上競技
水曜日、この日も思うことがあり話をしました。日誌の内容についての思う部分があったので。いくつかの段階に分けて書きます。この記事だけでは流れが表現できないので。「誰のためにやるのか」という大きなテーマがありそこの部分を考えて生きたいと思います。

こちらが思うことと選手が思うことが違う。表現の仕方が違うのか?ここは良く分かりませんが。基本的に「先生が指導する」というのが当然となっていて「雰囲気が悪い」と感じるのは「先生の機嫌が悪い」という部分に直結するようです。それも大きく影響するのでしょうが本当は「自分たちでやる」という感覚が必要なのです。良い練習ができない。それは誰の責任なのか?私が選手を盛り上げながらやっていくことが本当にプラスだと思いません。

以前(11月)「練習を見る気にならない」と話したことがあります。「勤務時間だけ○月までは見るがそれ以後は知らない」と。そのとき「指導が平等ではない」と言われましたし、「○月までで良いから見てくれ」と言われました。別に誰が見ても同じなのだと思います。指導に関しては「平等」ではないと私自身は思っています。練習中に手を抜いたり、約束事が守れないものが「自分ももっと指導してほしい」というのは「お門違い」ではないか?練習を見てほしいのであれば自分がきちんとする必要がある。それもないのに「練習を見てくれ」というのは自分のことしか考えていないのです。それでも我慢して指導はしましたが・・・。

「○月まででいい」と言われたので「必要ないのになぜ私が見なければいけないのか」という感覚になりました。このときは私もかなり怒っていましたから「一緒にやりたくない」と事前に何度も言っていました。大人気ないのかもしれませんが、なぜ私が「選手に練習をしていただく」ために我慢し続けなければいけないのか。それなら「本気で強くなりたい」と考えている者とだけやるほうがいいと強く思っていました。真剣に「指導する必要はない」と。「○月まででいい」という表現、「不要」だと言われている感覚でした。

「○月を過ぎたら見なくていいのか?」と確認すると「それまでに自分たちが一生懸命練習をして先生が練習を見たいと思えるようにする」と話していました。この時点で「練習をするのは自分だ」という感覚がそれなりにあるのではないかと大きな期待をしていました。が、結局は惰性で私が指導をするという流れ。本当に良かったのか?

この流れもあり「顧問の顔色を伺いながら練習をする」という姿勢が嫌でした。「自分のための練習をする」「指導者が見ていて指導したいという雰囲気にする」と言っていたにも関わらず、「声を出さない」「返事をしない」「こちらからの指示を待つ」という状況。かなり矛盾していると思います。選手からすれば「指導者の言い分が矛盾している」と思う部分も多々あるでしょう。ここに「信頼関係」は存在しなくなります。本当にそれでいいのか?練習を見る必要はないのではないかと思っていました。

選手にも多くの言い分があるでしょう。私が怒っていたら話しかけにくい。当然です。それでも本当に練習をしようと思えば自分から聞きに来るべきでは?繰り返しになりますが「練習をしていただく」のは違う。指導者が選手の皆さんに頭を下げて練習をしていただいて、強くなって大会で結果を残してもらうのでしょうか?なぜ、こちらが大きな譲歩をしてまで練習をしてもらわないといけないのか?大きな疑問です。

選手にはこの気持ちが分からないかもしれません。「練習を見てもらうことが当たり前」であり「練習をすることが自分の権利」と感じている部分もあるでしょうから。だから「機嫌が悪い指導者が悪い」と感じる。「やめてしまえ」と言われたら「自分は強くなりたいから練習をしているのだから辞めない」という話になる。こちらは「やらされる練習しかできないならやる意味はない」と感じているからそのような話をしているのです。これが設立当初の部活動であればそこまで求めません。しかし、ある程度成熟期に来ているチームが「顧問の顔色を伺いながら練習をする」という状況で本当に良いのか?

ある程度の水準まで来ているのは確かなのです。しかし、最後の一押しができない。「戦うのは自分自身」という感覚が持てなければ最後の最後の部分で負けてしまいます。自分自身が本当に勝負したいと思えばどんな状況であれ「良い練習をする」ことにこだわる。しかし、「やらされている」という感覚では指導者の機嫌によって内容が大きく異なる。それで本当に意味のある練習となるのか?

相手は高校生です。そこまで求めるのはやり過ぎたと言われる可能性はあると思っています。指導者の機嫌が悪かったら高校生なのだからやはり戸惑う。どうしていいのか分からなくなる。当然ありえることです。指導者が嫌な気持ちであってもそれを押し殺して毎日毎日「選手に練習をしていただく」ために雰囲気作りをすればいい。そう言われるかもしれません。しかし、そこに「価値」はない。そう思っています。

長くなりました。同じような話を何度も何度も書いています。それで何が生み出せるのか?私の自己満足。そのとおりだと思います。しかし、「成長」するためには「超えなければいけない壁」と「自分のためにやる感覚」の部分に関して考える必要があります。このblogを見て不愉快になる方もこの数日間はいらっしゃるのではないかと思います。選手の成長のために、選手自身のためにこちらも様々なことを考えます。多くの指導者はそれを隠して我慢して指導している。私は表面化してそこに対して考える。いいことなのかどうかは分かりません。

批判される可能性は十分あると思っています。そうなればこのblogの閉鎖も本気で考える必要があります。誰かを傷つけながらやっていくような部分は良くないですからね。

また書きます。
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