水曜日、この日も思うことがあり話をしました。日誌の内容についての思う部分があったので。いくつかの段階に分けて書きます。この記事だけでは流れが表現できないので。「誰のためにやるのか」という大きなテーマがありそこの部分を考えて生きたいと思います。
こちらが思うことと選手が思うことが違う。表現の仕方が違うのか?ここは良く分かりませんが。基本的に「先生が指導する」というのが当然となっていて「雰囲気が悪い」と感じるのは「先生の機嫌が悪い」という部分に直結するようです。それも大きく影響するのでしょうが本当は「自分たちでやる」という感覚が必要なのです。良い練習ができない。それは誰の責任なのか?私が選手を盛り上げながらやっていくことが本当にプラスだと思いません。
以前(11月)「練習を見る気にならない」と話したことがあります。「勤務時間だけ○月までは見るがそれ以後は知らない」と。そのとき「指導が平等ではない」と言われましたし、「○月までで良いから見てくれ」と言われました。別に誰が見ても同じなのだと思います。指導に関しては「平等」ではないと私自身は思っています。練習中に手を抜いたり、約束事が守れないものが「自分ももっと指導してほしい」というのは「お門違い」ではないか?練習を見てほしいのであれば自分がきちんとする必要がある。それもないのに「練習を見てくれ」というのは自分のことしか考えていないのです。それでも我慢して指導はしましたが・・・。
「○月まででいい」と言われたので「必要ないのになぜ私が見なければいけないのか」という感覚になりました。このときは私もかなり怒っていましたから「一緒にやりたくない」と事前に何度も言っていました。大人気ないのかもしれませんが、なぜ私が「選手に練習をしていただく」ために我慢し続けなければいけないのか。それなら「本気で強くなりたい」と考えている者とだけやるほうがいいと強く思っていました。真剣に「指導する必要はない」と。「○月まででいい」という表現、「不要」だと言われている感覚でした。
「○月を過ぎたら見なくていいのか?」と確認すると「それまでに自分たちが一生懸命練習をして先生が練習を見たいと思えるようにする」と話していました。この時点で「練習をするのは自分だ」という感覚がそれなりにあるのではないかと大きな期待をしていました。が、結局は惰性で私が指導をするという流れ。本当に良かったのか?
この流れもあり「顧問の顔色を伺いながら練習をする」という姿勢が嫌でした。「自分のための練習をする」「指導者が見ていて指導したいという雰囲気にする」と言っていたにも関わらず、「声を出さない」「返事をしない」「こちらからの指示を待つ」という状況。かなり矛盾していると思います。選手からすれば「指導者の言い分が矛盾している」と思う部分も多々あるでしょう。ここに「信頼関係」は存在しなくなります。本当にそれでいいのか?練習を見る必要はないのではないかと思っていました。
選手にも多くの言い分があるでしょう。私が怒っていたら話しかけにくい。当然です。それでも本当に練習をしようと思えば自分から聞きに来るべきでは?繰り返しになりますが「練習をしていただく」のは違う。指導者が選手の皆さんに頭を下げて練習をしていただいて、強くなって大会で結果を残してもらうのでしょうか?なぜ、こちらが大きな譲歩をしてまで練習をしてもらわないといけないのか?大きな疑問です。
選手にはこの気持ちが分からないかもしれません。「練習を見てもらうことが当たり前」であり「練習をすることが自分の権利」と感じている部分もあるでしょうから。だから「機嫌が悪い指導者が悪い」と感じる。「やめてしまえ」と言われたら「自分は強くなりたいから練習をしているのだから辞めない」という話になる。こちらは「やらされる練習しかできないならやる意味はない」と感じているからそのような話をしているのです。これが設立当初の部活動であればそこまで求めません。しかし、ある程度成熟期に来ているチームが「顧問の顔色を伺いながら練習をする」という状況で本当に良いのか?
ある程度の水準まで来ているのは確かなのです。しかし、最後の一押しができない。「戦うのは自分自身」という感覚が持てなければ最後の最後の部分で負けてしまいます。自分自身が本当に勝負したいと思えばどんな状況であれ「良い練習をする」ことにこだわる。しかし、「やらされている」という感覚では指導者の機嫌によって内容が大きく異なる。それで本当に意味のある練習となるのか?
相手は高校生です。そこまで求めるのはやり過ぎたと言われる可能性はあると思っています。指導者の機嫌が悪かったら高校生なのだからやはり戸惑う。どうしていいのか分からなくなる。当然ありえることです。指導者が嫌な気持ちであってもそれを押し殺して毎日毎日「選手に練習をしていただく」ために雰囲気作りをすればいい。そう言われるかもしれません。しかし、そこに「価値」はない。そう思っています。
長くなりました。同じような話を何度も何度も書いています。それで何が生み出せるのか?私の自己満足。そのとおりだと思います。しかし、「成長」するためには「超えなければいけない壁」と「自分のためにやる感覚」の部分に関して考える必要があります。このblogを見て不愉快になる方もこの数日間はいらっしゃるのではないかと思います。選手の成長のために、選手自身のためにこちらも様々なことを考えます。多くの指導者はそれを隠して我慢して指導している。私は表面化してそこに対して考える。いいことなのかどうかは分かりません。
批判される可能性は十分あると思っています。そうなればこのblogの閉鎖も本気で考える必要があります。誰かを傷つけながらやっていくような部分は良くないですからね。
また書きます。
こちらが思うことと選手が思うことが違う。表現の仕方が違うのか?ここは良く分かりませんが。基本的に「先生が指導する」というのが当然となっていて「雰囲気が悪い」と感じるのは「先生の機嫌が悪い」という部分に直結するようです。それも大きく影響するのでしょうが本当は「自分たちでやる」という感覚が必要なのです。良い練習ができない。それは誰の責任なのか?私が選手を盛り上げながらやっていくことが本当にプラスだと思いません。
以前(11月)「練習を見る気にならない」と話したことがあります。「勤務時間だけ○月までは見るがそれ以後は知らない」と。そのとき「指導が平等ではない」と言われましたし、「○月までで良いから見てくれ」と言われました。別に誰が見ても同じなのだと思います。指導に関しては「平等」ではないと私自身は思っています。練習中に手を抜いたり、約束事が守れないものが「自分ももっと指導してほしい」というのは「お門違い」ではないか?練習を見てほしいのであれば自分がきちんとする必要がある。それもないのに「練習を見てくれ」というのは自分のことしか考えていないのです。それでも我慢して指導はしましたが・・・。
「○月まででいい」と言われたので「必要ないのになぜ私が見なければいけないのか」という感覚になりました。このときは私もかなり怒っていましたから「一緒にやりたくない」と事前に何度も言っていました。大人気ないのかもしれませんが、なぜ私が「選手に練習をしていただく」ために我慢し続けなければいけないのか。それなら「本気で強くなりたい」と考えている者とだけやるほうがいいと強く思っていました。真剣に「指導する必要はない」と。「○月まででいい」という表現、「不要」だと言われている感覚でした。
「○月を過ぎたら見なくていいのか?」と確認すると「それまでに自分たちが一生懸命練習をして先生が練習を見たいと思えるようにする」と話していました。この時点で「練習をするのは自分だ」という感覚がそれなりにあるのではないかと大きな期待をしていました。が、結局は惰性で私が指導をするという流れ。本当に良かったのか?
この流れもあり「顧問の顔色を伺いながら練習をする」という姿勢が嫌でした。「自分のための練習をする」「指導者が見ていて指導したいという雰囲気にする」と言っていたにも関わらず、「声を出さない」「返事をしない」「こちらからの指示を待つ」という状況。かなり矛盾していると思います。選手からすれば「指導者の言い分が矛盾している」と思う部分も多々あるでしょう。ここに「信頼関係」は存在しなくなります。本当にそれでいいのか?練習を見る必要はないのではないかと思っていました。
選手にも多くの言い分があるでしょう。私が怒っていたら話しかけにくい。当然です。それでも本当に練習をしようと思えば自分から聞きに来るべきでは?繰り返しになりますが「練習をしていただく」のは違う。指導者が選手の皆さんに頭を下げて練習をしていただいて、強くなって大会で結果を残してもらうのでしょうか?なぜ、こちらが大きな譲歩をしてまで練習をしてもらわないといけないのか?大きな疑問です。
選手にはこの気持ちが分からないかもしれません。「練習を見てもらうことが当たり前」であり「練習をすることが自分の権利」と感じている部分もあるでしょうから。だから「機嫌が悪い指導者が悪い」と感じる。「やめてしまえ」と言われたら「自分は強くなりたいから練習をしているのだから辞めない」という話になる。こちらは「やらされる練習しかできないならやる意味はない」と感じているからそのような話をしているのです。これが設立当初の部活動であればそこまで求めません。しかし、ある程度成熟期に来ているチームが「顧問の顔色を伺いながら練習をする」という状況で本当に良いのか?
ある程度の水準まで来ているのは確かなのです。しかし、最後の一押しができない。「戦うのは自分自身」という感覚が持てなければ最後の最後の部分で負けてしまいます。自分自身が本当に勝負したいと思えばどんな状況であれ「良い練習をする」ことにこだわる。しかし、「やらされている」という感覚では指導者の機嫌によって内容が大きく異なる。それで本当に意味のある練習となるのか?
相手は高校生です。そこまで求めるのはやり過ぎたと言われる可能性はあると思っています。指導者の機嫌が悪かったら高校生なのだからやはり戸惑う。どうしていいのか分からなくなる。当然ありえることです。指導者が嫌な気持ちであってもそれを押し殺して毎日毎日「選手に練習をしていただく」ために雰囲気作りをすればいい。そう言われるかもしれません。しかし、そこに「価値」はない。そう思っています。
長くなりました。同じような話を何度も何度も書いています。それで何が生み出せるのか?私の自己満足。そのとおりだと思います。しかし、「成長」するためには「超えなければいけない壁」と「自分のためにやる感覚」の部分に関して考える必要があります。このblogを見て不愉快になる方もこの数日間はいらっしゃるのではないかと思います。選手の成長のために、選手自身のためにこちらも様々なことを考えます。多くの指導者はそれを隠して我慢して指導している。私は表面化してそこに対して考える。いいことなのかどうかは分かりません。
批判される可能性は十分あると思っています。そうなればこのblogの閉鎖も本気で考える必要があります。誰かを傷つけながらやっていくような部分は良くないですからね。
また書きます。