kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

「心」で感じること

2013-12-03 | 陸上競技
ここ最近の記事はほとんど「本の紹介」になっています。良いことなのかどうかわかりませんが、「共感できる」と思える部分がかなりあります。紹介し続けると本の内容を全て書いてしまうことになるので大問題です。しかし、本当に「今の自分の想い」と重なる部分がある。これまでの自分の想いと重ねてみてしまう部分がある。そういう時期なのでしょうか。

以前から「リレーでインターハイ」というのが私の大きな目標でした。普通のチームが練習をして強くなる。一人では達成できないことを全員の力を合わせて手に入れる。最初は「リレーで中国大会」という目標でしたが、それを達成してから後は「リレーでインターハイ」というのが目標となっています。「強い選手が集まる学校」であればそれほど難しくない目標なのかもしれません。また、「たまたま集まった」というチームでもインターハイに行くことはできる。しかし、それを継続して目標とするチームはそれほど多くはないと思います。

何度も何度もチャレンジしてきて跳ね返されています。繰り返しになりますがうちのような普通のチームがインターハイを狙うというのは簡単なことではありません。中学時代に12秒台で走っている選手もいない。そんなメンバーが集まって「インターハイへ」と進むためにはかなりのエネルギーが必要となります。チーム状況として良いときもあれば悪い時もある。常に上のレベルで安定することはない。そんな中で競技をしていく。目には見えない部分かもしれませんが「心」が多少なりともつながっている部分がある。どこかで完全に「心」や「想い」が途切れてしまったらそれは不可能。一人でもこれまでの取り組みを「心」で感じて「想い」を引き継いでくれるのであれば、必ず届く目標なのではないかとずっと思い続けてきました。


夢を引き継ぐもの

「「自分が実現させたいこと」について、何度も考えて、考えて、考えつくすこと。人と話すときは、その会話のはしっこでもいいから、「自分が実現させたいこと」について語ること。平和や安定を愛しながらも、いつまでも続く平和や安定はない、という事実を、つねづね自分に言い聞かせること。誰かが問題や事件に巻き込まれたとき、無関心でいたり、口を出すだけですませたりすることなく、その解決のために、積極的に動くこと。そうすれば、仮に「自分の実現させたこと」が、断念せざるを得ない状況になったとしても、誰かがその夢をうけついでくれることでしょう。」

「覚悟の磨き方」 超訳 吉田松陰 編訳 池田貴将 P50~51

これまでの本気でインターハイを目指してきた選手たちの「想い」というのは引き継がれていく。自分は達成できなくなってもその「想い」を誰かが引き継いでくれる。時には「もう無理だ」と思う時があるかもしれない。それでも「絶対に成し遂げる」と思って行動を続けることで必ず道は開ける。そう信じて前に進みたい。そう思っています。

もう一つ文章を紹介。

信じて疑わない

「私は 人を疑い続けて、うまくやるよりも、人を信じ続けて、馬鹿を見る男になりたい。」

「覚悟の磨き方」 超訳 吉田松陰 編訳 池田貴将 P214

「人」とは限らないと思います。「夢」や「目標」と置き換えることもできる。「人」であれば「約束をきちんと守ってくれるだろうか」とか「勉強をきちんとしているだろうか」という部分だと思います。何度裏切られても私にできるのは「信じること」です。これは今だけではなくずっと前に同じことを書いています(多分)。「裏切られる」と疑い続けてたら本当の信頼関係は生まれない。裏切られるかもしれないがそれでも信じる。「夢」や「目標」に疑いを持てばきりがない。必ず届くと信じ続けているからこれほど頑張れるのだと思います。

今の自分の「心」を表現する文章だと思ったので紹介しました。「心」で感じてもらえたらと思います。
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本当の「学び」とは

2013-12-03 | 陸上競技
昨日、トレーニングについて少し書いたことで自分の中の「変化」が顕著だなと感じました。そのことについて少し自己分析を。

今の仕事を始めたころ、完全に「頭でっかち」になっていたと思います。学生時代に経済学部から教育学研究科に進みました。これは単純に「もう少し走りたい」という部分があったから(笑)。4年間で大学の競技を終わらせるのではなくもう少し走りたいと強く思っていました。そこで教育学研究科で「運動心理学」を学ぶことに。これは新鮮でした。運動生理学(身体の仕組みトレーニングの組み立て)などを「科学的」に調べてその「データ」を用いて「こんな練習をすると良い」とうのが示してありました。

それまではほぼ(完全?)我流で練習をしていた私はこの「客観的指標」というのに憧れました。技術的指導は受けたことがないので飛びついたというのもあると思います。それまでも何冊もトレーニング関係の本を読んでいました。かなりマニアックな情報まで集めていました(笑)。当時は「腸腰筋」という部分にはそれほど着目されていませんでしたが調べていくうちに「腸腰筋」が足を引き出すためには必要な筋肉だと知り、教授に質問しに行ったこともあります。まーそれほど注目されていなかったので「階段でも上がれば?」と言われた程度でしたが(笑)。

大学の研究は「データ集め」から始まり「客観的指標」を示すことで初めて「論文」として認められます。「感覚的に」という部分では認められないのです。誰がやっても同じ結果が出せるというものだけが「研究」。トップアスリートと普通の選手の動きを比べて「この部分が違う」というのをデータとして引き出せたらそれだけで論文が書ける。競技で記録を出すことよりも「違いを見出す」ことが最優先となる。そういう世界で学んでいたら「研究者」として物事を考える癖がついていきます。仕事として仕方ない部分があると思いますね。

実際に現場で働くことになって当初は「科学的データ」が全てという「錯覚」が大きく残っていました。「こういう練習が良い」という情報があれば調べてみる。「強い学校がやっている練習」が正しいという完全な偏見を持っていました。今考えると恥ずかしくて恥ずかしくて・・・。blogの最初のころは特にそのような状況だったと思います。10年くらい前でしょうか。多くの情報を持っていることがステータスであり、その情報を他の人よりも持っているということが自信になる時期でした。

あるきっかけで今も師事している方と出逢うことができました。「目から鱗」というのはこのことです。本から学ぶことよりも現場で選手と見続けている「指導者」の話を聞くほうが何倍も勉強になる。競技に関してだけではなく「考え方」について学ぶことになるのです。大きな転機でした。この出逢いがなければ今の私は存在していないのではないかと思うくらいの大きな出来事です。「科学は普遍的」だと思っていたものが「絵に描いた餅」であることに気づかされ、このままでは何もできないと悟る。「知識」として多少はプラスになるのかもしれませんが実際の指導にはほとんど生かされません。

この頃までは競技に関する本やトレーニングに関する本を読み漁っていました。近くにある本屋さんよりは本は多いと思います。今ではほとんど読まなくなっています。時々購入しますがそれ以外の本を読むことの方が多くなっています。「見ていたら分かる」と師事している方から言われそれ以後、練習の組み立てよりも「動きを見る」ことを優先してきました。もちろん全く分からないこともたくさんあってその度に電話でひたすら質問をするというパターンが繰り返されるのですが、私自身にとっては大きなことだと思います。もちろん直接会って話をすることも。競技のこともですが「物事に対する考え方」を学ぶことが多いですね。今でも「視野が狭い」と注意を受けることがあります(笑)。

このことに関して少し引用を。

惜しみなく教え、頭を下げる

「「あいつはよく勉強している」と言われるような人は、よく本を読んだり、調べ物をしたりしている、ということではなく、その道をきわめようとしています。それもただその道をきわめようとするだけでなく、後ろからやって来る者に対しては、自分が知っていることを、惜しみなく教えようとします。さらに「その場においては先輩」だと認識していれば、相手の年齢や、役職がどれだけ下だとしてもこだわらず、頭を下げて教えを乞います。技術はずいぶん進んで、情報収集をする人は世の中にあふれ返っています。しかしそんな風に道をきわめようとする人は、ほとんどいないんです。」

「覚悟の磨き方 超訳 吉田松陰」編訳池田貴将 P180より引用

本から「学ぶ」というだけでなく、自分自身のこれまでの行動の振り返りになると思います。多少なりと自分自身も成長してきているのかなと感じることができます。もちろん、まだまだ先は長いですが・・・(笑)。
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