今週の日曜日に、3匹目の猫がきてしまった。先月やってきたのはメスの三毛猫で、950グラムだった体重が、どんどん増え、ミュウという名前をつけられて、今ではこの家に住むのが当然である如く、家中を走り回っているが、今度きたのは白いオスで、体重750グラムぐらい。
動物病院の先生の見立てでは、ミュウの方は生後4ヶ月ぐらい、新入りの方は生後50日ぐらいだろうとのこと。結膜炎で目が赤くなっているこのnewcomerは、ミュウにもまして元気がよく、すぐさま一回り大きいミュウと、追いつ追われつ、じゃれ合っている。ミュウは先日二階の廊下から一階に転落したばかりだが、昨日の朝は2匹が階段を上がって二階へ探検に出かけた直後に、newcomerの方が、やはり同じように転落した。どちらも飛び降りたわけではなく、まだ引力の作用をわきまえずに落ちてしまったに違いないが、さすが猫だけあって、脳震盪を起こしたり、ギャアと悲鳴をあげたりはしなかった。
もっと世慣れた猫になると、結構見栄っ張りで、高い場所に飛び上がろうとして飛びつきそこなうというような失敗を認めたがらず、何も失敗なんかしていないような振りをするという、すこぶる人間的なごまかしや照れ隠しをするものだが、この2匹は、まだそこまで成長してはいないので、人間に見られたことを気にして、平気を装ったわけではあるまい。
今では古顔となったキキの方は、メタボの体を持て余してか、坊ちゃん嬢ちゃんの相手はできないとでも言いたげな顔つきで、超然あるいは憮然と構えて、年寄りの貫禄を示している。
世のネコ派の中で代表選手を探せば、「哲学するネコ」の著者である学習院大学文学部左近司祥子教授の右に出る人は稀だろう。
左近司さんに養われている猫は、常に40匹ぐらいいるようだから、ギリシア哲学の専門家であるこの人は、おそらく始終、猫の死をみとるという重荷をも担っていることになるだろう。
動物を飼うということは、「生者必滅、会者定離」の法則を、否応なく学ぶことでもあるが、どんな広い家があろうと、豊かな身代があろうと、最後の「みとり」ということを考えると、よほどな覚悟がなければ、40匹も飼えはしない。
しかし左近司さんのような人も、犬や猫を捨てる人がいなければ、好き好んでそれほどの苦労を背負い込みはすまい。やはり捨てる人間が悪い。
犬2頭、猫3匹となったわが家の同居者たちは、すべて元homelessである。
まだ草深いとも言える環境で暮らしているおかげで、隣近所とのtroubleもなく、犬や猫たちには、都会では望めないような暮らしをさせているつもりだ。もっとも彼らがそう認識しているかどうかは疑問だが。特に猫にとっては、住みよい家であるはずだ。
それでも捨てられて寄る辺なくうろついている犬や猫には、なるべく出会いたくない。目も耳も塞ぎたい。そこで目や耳を塞げないのが「哲学するネコ」で描かれる左近司さん一家の人々だ。
その中で、「お助けレイディー1号」として登場するのは、1988年司法試験に合格、司法研修所43期にその人ありと知られる(多分)現職裁判官。私が定年後に千葉県弁護士会に登録した当時は、千葉地裁刑事部の単独事件係と合議部の陪席を兼ねていて、再三、法廷で顔を合わせたことがあったが、今では東京高裁第9刑事部の陪席判事で、気安くは傍に寄れない。
祥子先生は、この長女が「うちの多くのネコの拾い手」で、「家族泣かせのお助けレイディー」だとおっしゃるが、命あるものを見殺しにできない気質がある裁判官の方が、冷ややかに見殺しにできる裁判官よりは、よほどましではあるまいか。 もっとも、そういう裁判官が出世できるかどうかは、保証の限りではないが。
この駄文がご当人の目にふれて、お叱りをこうむると困るので、ここは「哲学するネコ」その他もろもろの左近司教授の著作を、皆さん、お読みくださいと提灯持ちすることで、お見逃しを願うことにしたい。
動物病院の先生の見立てでは、ミュウの方は生後4ヶ月ぐらい、新入りの方は生後50日ぐらいだろうとのこと。結膜炎で目が赤くなっているこのnewcomerは、ミュウにもまして元気がよく、すぐさま一回り大きいミュウと、追いつ追われつ、じゃれ合っている。ミュウは先日二階の廊下から一階に転落したばかりだが、昨日の朝は2匹が階段を上がって二階へ探検に出かけた直後に、newcomerの方が、やはり同じように転落した。どちらも飛び降りたわけではなく、まだ引力の作用をわきまえずに落ちてしまったに違いないが、さすが猫だけあって、脳震盪を起こしたり、ギャアと悲鳴をあげたりはしなかった。
もっと世慣れた猫になると、結構見栄っ張りで、高い場所に飛び上がろうとして飛びつきそこなうというような失敗を認めたがらず、何も失敗なんかしていないような振りをするという、すこぶる人間的なごまかしや照れ隠しをするものだが、この2匹は、まだそこまで成長してはいないので、人間に見られたことを気にして、平気を装ったわけではあるまい。
今では古顔となったキキの方は、メタボの体を持て余してか、坊ちゃん嬢ちゃんの相手はできないとでも言いたげな顔つきで、超然あるいは憮然と構えて、年寄りの貫禄を示している。
世のネコ派の中で代表選手を探せば、「哲学するネコ」の著者である学習院大学文学部左近司祥子教授の右に出る人は稀だろう。
左近司さんに養われている猫は、常に40匹ぐらいいるようだから、ギリシア哲学の専門家であるこの人は、おそらく始終、猫の死をみとるという重荷をも担っていることになるだろう。
動物を飼うということは、「生者必滅、会者定離」の法則を、否応なく学ぶことでもあるが、どんな広い家があろうと、豊かな身代があろうと、最後の「みとり」ということを考えると、よほどな覚悟がなければ、40匹も飼えはしない。
しかし左近司さんのような人も、犬や猫を捨てる人がいなければ、好き好んでそれほどの苦労を背負い込みはすまい。やはり捨てる人間が悪い。
犬2頭、猫3匹となったわが家の同居者たちは、すべて元homelessである。
まだ草深いとも言える環境で暮らしているおかげで、隣近所とのtroubleもなく、犬や猫たちには、都会では望めないような暮らしをさせているつもりだ。もっとも彼らがそう認識しているかどうかは疑問だが。特に猫にとっては、住みよい家であるはずだ。
それでも捨てられて寄る辺なくうろついている犬や猫には、なるべく出会いたくない。目も耳も塞ぎたい。そこで目や耳を塞げないのが「哲学するネコ」で描かれる左近司さん一家の人々だ。
その中で、「お助けレイディー1号」として登場するのは、1988年司法試験に合格、司法研修所43期にその人ありと知られる(多分)現職裁判官。私が定年後に千葉県弁護士会に登録した当時は、千葉地裁刑事部の単独事件係と合議部の陪席を兼ねていて、再三、法廷で顔を合わせたことがあったが、今では東京高裁第9刑事部の陪席判事で、気安くは傍に寄れない。
祥子先生は、この長女が「うちの多くのネコの拾い手」で、「家族泣かせのお助けレイディー」だとおっしゃるが、命あるものを見殺しにできない気質がある裁判官の方が、冷ややかに見殺しにできる裁判官よりは、よほどましではあるまいか。 もっとも、そういう裁判官が出世できるかどうかは、保証の限りではないが。
この駄文がご当人の目にふれて、お叱りをこうむると困るので、ここは「哲学するネコ」その他もろもろの左近司教授の著作を、皆さん、お読みくださいと提灯持ちすることで、お見逃しを願うことにしたい。