この星に なべて生きとし生けるもの
ホモサピエンスのエゴにをののく
「生きもの地球紀行」のような番組を見ると、必ず最後に出てくるのが、開発に脅かされる生態系の危機だ。
人類はあまりに増え過ぎたことによって、人類以外のすべての生物を滅亡に追いやり、ついには自滅の道を歩むというシナリオから逃れられない運命を背負っているのか。
およそ生きとし生けるものは例外なく、生存のために他者の生命を奪わざるを得ない。
わが欲するところの善はなす能わず、欲せざるところの悪はなさざるを得ないという認識の苦汁を、誰も避けることはできない。
そういう原罪の自覚なくしては、正義を語ることも、人権を唱えることも、無用なのではないか。
宮澤賢治の「よだかの星」では、鳥のよだかが虫を餌にして生きることの罪悪感に苦しみ、もう何も食べないで死んでしまおうと思い詰める。
実は鳥が虫を食べなかったら、地球は虫だらけになってしまい、虫も食べるものがなくなって自滅するはずだから、よだかが悩むことはないのだが、この話は読むのが辛い。
同じ作者の「註文の多い料理店」は、猟銃で鹿を追い回して楽しむ身勝手な人間どもが笑いの対象にされる話で、好きな作品の一つだが、ここに登場する二人の紳士たちが、人類のうちで特に罪深い訳ではなく、われわれは、自らの手で動物を殺さないとしても、大規模な食肉産業にそれを代行させていることをけろりと忘れ、動物愛護を語りながら、肉料理、魚料理を楽しむことを常としている。
こうしてわれわれを養ってくれる鳥獣や魚類が、皆、迷わず成仏して、人類の罪を許してくれたらと、虫がいい願いが浮かぶ。
鰻の蒲焼に目がなかった斉藤茂吉は、
「これまでに吾に食はれし鰻らは 仏となりてかがよふらむか」と歌っているが、やはり鰻に成仏してもらいたかったのであろう。
小泉さんが以前におっしゃったとおり、「人生さまざま」だ。
97年11月2日、NHK教育テレビの「いのちの時代」の時間に、バス事故で重度の障害を負った随筆家の大石邦子が、「いのちについて考える」という題で語った番組の録画を見た。
22歳だった64年9月17日に事故にあってから5年間、尿を出す機能が働かず、導尿管を通じてしか排泄できないのが死ぬより辛かったという。ようやく管を通さずに初めて尿が出たときの思いを「失禁といへども遂にわが尿(いばり) 出でしにベッド打ちて泣きしよ」と表白する。
こんな苛酷な運命と向き合う人生があると知らされる度に、この年まで安泰に生かされてきた己の果報を、何の功徳あってかと思い惑う。
臓器移植という難問もある。
当事者ではない者が、かれこれとあげつらえることではないが、一つの命を救うために外の誰かの死を待たねばならぬというdilemma の重さ。
最近のクローズアップ現代で、ALS(筋萎縮性側索硬化症)の患者が、自分の意思を表現する方法が全く失われる状態になったら、人工呼吸器を外してほしいと訴えていることが伝えられた。病院は倫理委員会を設けて1年間にわたる討論の結果、患者本人の意思を尊重すべきだという画期的な判断が示された。
しかし現行刑法では、呼吸器を外すと医師が自殺幇助罪等に問われる可能性を否定できない。
これも、いつ自分の問題となるかも知れぬ。
フランスのジョスパン元首相の母は、世のため、人のために尽くし続けた一生の終りに近づいて、延命医療を拒否するため、自ら死を選ぶ力が残っているうちにと、わが手で人生の幕を閉じた。
まねられるとは思わないが、そういう終り方があってもいい。