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北海道(3)音威子府、ビッキ美術館、美深

2024-05-14 | アイヌ民族関連

集英社新刊プラス2024.5.13

アレックス・カー

 プルーストの『失われた時を求めて』には、地名に関する話が多く登場します。プルーストは音楽、絵画、寺院などと同じくらい地名に執心していました。小さい農村やノルマンディ海岸の漁村の地名についても細かく書いていますし、小説の語り手、つまりプルースト自身がいつも乗っていた田舎の電車の停まる駅を一つひとつ取り上げ、町名の語源や歴史、またその発音が醸し出すイメージなどを長々と語っています。若いころの私はその文章を退屈に感じ、プルーストがなぜそこまで地名に没頭するのか疑問に思っていました。しかし、私自身も歳を重ね、地名には奥深い文化と生命力が秘められていることが、ようやく分かるようになってきました。

 旭川から国道40号を使って北を目指すと、人家はどんどん減っていきます。道路脇には防雪柵が延々と続き、北海道内陸部の冬の過酷さがそこから伝わってきます。

 40号の途上には、比布ぴっぷ町、和寒わっさむ町、士別しべつ市、名寄なよろ市、美深びふか町と、いかにも北海道らしいネーミングの場所がネックレスの珠のように続いています。「広島」や「岡山」など、漢字から意味が分かるような地名もそれなりに面白いのですが、徳島県の祖谷いや、岐阜県の恵那えななど、「音」を借りて当て字にした地名には、古来の日本語の響きがあり、そこに私はロマンを感じます。

 北海道のロマンの原型には、アイヌの文化があります。石狩川が流れる比布はアイヌ語で「石のごろごろしているところ、川」、和寒は「オヒョウニレの木、傍ら」という意味だそうですが、それらの音を聞いただけで、日本とはまた違う北海道を感じ取れるのです。

 国道40号は美深町の南側に位置する名寄市あたりから、天塩てしお川という大きな川に沿って敷かれています。総延長二百五十六キロメートルの天塩川は、石狩川に続いて道内で二番目に長い大河であり、平坦な土地を流れるため、水面が穏やかです。ゆるやかな蛇行を繰り返す天塩川を数回、橋で渡りました。私が見た範囲では、護岸工事はほとんどされておらず、ほぼ自然のままの状態でした。コンクリートで固められていない自然の河川は、現代日本ではとても珍しいものです。

北の小さな村に現代アートの息吹が宿る

 旭川から稚内を結ぶ国道40号は、音威子府おといねっぷで北東と北西に分岐しています。北東に進むとオホーツク海、北西に進むと日本海に通じ、内陸の要衝の地ですが、自治体としての音威子府村は北海道でいちばん小さく、また人口が少ない村です。

 今夜の宿は美深町にある「青い星通信社」に決めていましたが、その前に美深町の北、音威子府にある「エコミュージアムおさしまセンター BIKKYアトリエ3モア」を訪れることにしました。ここにはアイヌのルーツを持った現代彫刻家、砂澤ビッキ(1931-1989)の記念館があるのです。

 通称「砂澤ビッキ記念館」は、天塩川にかかる筬おさ島しま大橋を渡った先の筬島地区にあります。敷地内には二棟の建物が立っています。

(写真)「エコミュージアムおさしまセンター BIKKYアトリエ3モア」通称、砂澤ビッキ記念館は旧・筬島小学校の校舎

 一つは廃校になった村立の旧・筬島小学校の校舎で、生前にビッキが暮らしていた建物です。ここが現在はミュージアムの展示空間となっています。もう一つは丸いトタン屋根の仕事場で、まるでビッキがいまも生きているかのように、未完の作品が制作中の雰囲気のままに置かれています。

(写真)ビッキの仕事場

 砂澤ビッキは1931年に現在の旭川市にある近文チカブミコタンというアイヌ集落に生まれました。本名は恒雄ひさおでしたが、幼少のころからビッキ(カエル)の愛称で呼ばれ、周囲から親しまれました。

 明治時代から1940年代まで続いていた近文コタンは、旭川で盛んに行われていたアイヌ工芸の中心地の一つで、ビッキの両親も工芸職人でした。51年に家族は道東の阿寒湖(現・釧路市)へ移住。冬は近文で小刀などの工芸品を制作し、夏に阿寒湖畔の店でそれらを販売していました。ビッキの母、ベラモンコロは当時大人気だった木彫りの熊を売っていましたが、その熊を彫っていたのがビッキでした。

 ビッキは53年に最初の妻である画家の山田美年子みねこと鎌倉に移住し、五年ほど鎌倉と阿寒湖を行き来する生活を送ります。鎌倉では文学者、澁澤しぶさわ龍彦のサークルに所属し、世界的な画家、彫刻家、作家の作品に触れます。前衛舞踊「舞踏」の創設者、土方ひじかた巽たつみという最先端のアーティストとも親交があり、ここからアーティストとしての自我を磨いていくことになりました。

 59年に旭川に戻ったビッキは、78年に音威子府の長閑な田園風景を気に入って、移住を決めました。廃校となった筬島小学校跡を村から譲り受け、「BIKKYアトリエ3モア」として、89年に亡くなるまで音子威子府の地で作品制作を続けました。

 ミュージアムは2003年に校舎を改修したものです。館内は展示スペース含め、七つの空間に分けられています。

 入口からすぐの部屋は、ビッキが札幌で内装を手がけたバーを再現した「いないいないばぁー」という喫茶スペースになっています。ウッディな「いないいないばぁー」は、1970年代に芸術家たちが集まったアングラバーのような雰囲気もあり、居心地のいい一画です。

(写真)いないいないばぁー

 そこから「風の回廊」「土」「人」「森」……と、昔の教室を使った展示室が続きます。風の回廊の床にはウッドチップが敷き詰められていて、それぞれのスペースが資料館として、うまく演出されています。

 館内に掛けられていた写真のビッキは、精悍な顔立ちでフサフサしたヒゲを生やし、熊のような表情で、大地から生まれた野性を感じさせます。

(写真)「風の回廊」に掛けられたビッキの肖像写真

 館内の展示で、私は特に二つの作品に感銘を受けました。一つは、半分朽ちた状態の大きな木彫像です。これは80年にビッキが制作した高さ十五メートルのトーテムポール「オトイネップタワー」の残骸で、木の破片と共に土の上に置かれています。音威子府駅前に十年の間、設置されていましたが、90年に強風で倒れてしまったとのこと。この牛頭部分だけをミュージアムの駐車場に屋外展示していましたが、十年ほど経つうちに腐食が進み、最終的に展示室内で保管することになりました。ビッキは「作品は自然の手が加わってはじめて完成する」という言葉を残しています。その言葉の通り、薄暗い部屋に眠る牛の彫刻は神秘的でした。

「土」の部屋にあるビッキの作品、牛頭の彫刻

 もう一つは、十字架の形をした大きな木の彫刻「TOH」です。原住民のアートを学ぶためにしばらくカナダに滞在したビッキが、84年に日本に戻ってから作り上げた晩年の傑作です。全体像は抽象的でミニマルですが、ノミの跡がついた表面からは木の息吹がいきいきと感じられます。

(写真)ビッキの作品「TOH」は“樹氣”との対話から生まれたという

 展示を見終えた後「いないいないばぁー」でコーヒーを飲みながら、学芸員の川崎映さんと話をしました。札幌市出身の川崎さんは、音威子府村立の「北海道おといねっぷ美術工芸高等学校」で美術工芸を学んだ卒業生です。札幌の大学を卒業した後、再び音威子府に戻り、エコミュージアムで学芸員の仕事をしながら、自身でも生き物の細密画を描き、個展も開いています。

 音威子府は小さな村でありながら、アートに力を入れることで、ユニークな存在感を発揮しています。ビッキの活動を支援しただけでなく、84年に設立した美術工芸高校では、生徒が道内のみならず全国から集まってきて、その半数は寮生活をするそうです。極小の自治体ではありますが、この美術工芸高校があることで、十代の人口の幅が広がっています。

 川崎さんがバーカウンターの向こうでコーヒーを淹れてくれる喫茶スペースは、もともとビッキが書斎として使っていた部屋でした。彼が生前に収集した蔵書は、内外の美術書のほかに、夢に関する本、世界の民族芸術、メキシコやアフリカの絵画や仮面、フクロウやオオカミについての自然の本など、一千冊以上に及んでいたそうです。

 本や芸術雑誌から得た知見は、ビッキのアートにおける重要な要素でした。たとえばビッキが独自に考案した「ビッキ文様」は、アイヌ文様のモレウ(渦巻文)や西洋の組紐文、古代ギリシアの迷宮の文様など、さまざまなものが混ざり合って生まれたものです。ビッキの作品は、いにしえのアイヌ思想をベースにしながら、諸国の民族芸術や世界のモダンアートと融合した、折衷的なものといえます。

 これは世界中の伝統ある文化圏で起こっている現象です。現代人にとって古いものは古いままではパッとしません。伝統的な環境で育った現代アーティストは皆大なり小なり「伝統」と「現代」というミスマッチを、何らかの形で乗り越えなければなりません。逆説的になりますが、その際は外からの影響や現代的な精神を取り込むことで、はじめて古いものの良さや精神性が引き立って見えるようになります。

 ビッキ自身は「アイヌでもシャモ(和人)でもなく、一人の現代彫刻家として評価されたい」と語っていたそうです。ジャンルは違いますが、坂東玉三郎さんや安藤忠雄さんは、日本の芸術家でありながらインターナショナルな存在で、同時代のトレンドを自身の表現や作品に取り入れることで、世界的な評価を得ています。ビッキはアイヌというアイデンティティを生涯持ち続けながら、超モダンからアングラまで世界のあらゆるアートに触れ、彼だけの世界を実現しました。その異端なあり方から、私はかえってアイヌ文化とその奥にあるアイヌ精神というものを深く感じることができました。

「激流の滝」が墨絵のような景色を作る

 さて、音威子府からいったん逆戻りする形で、美深町へ南下します。

 美深は東京二十三区よりも広い面積を持つ町で、数千人が住む集落以外には森と湿原が奥深く広がっています。美深という漢字は何ともロマンチックなものですが、その語源はアイヌ語の「ピウカ」で、「石の多い場所」という意味だそうです。美深は稲作の北限とされる土地で、車窓からの景色も麦畑や牧場が目立ちます。

 私たちは美深東部にある仁宇布にうぷ地区の「仁宇布の冷水・十六滝」へ行ってみることにしました。「深緑の滝」「雨霧の滝」「高広の滝」などと名付けられた十六の滝は、それぞれに個性があるようですが、広域に散らばっています。この日の午後に降った激しい雨のせいで、一帯がひどくぬかるんでいたので、今回は「激流の滝」だけを見ることにしました。

 小雨の中、未舗装の山道を進んでいく途中には、濡れたシダやフキの葉が鮮やかな緑に輝き、周りの木々からは透明な雫が絶え間なく落ちていました。静まり返った森には私たち以外に人の気配はありません。滝の側まで来ると「熊・出没注意」の看板が立っていました。青森でも同じ看板にたびたび遭遇しましたが、北海道のクマは本州にいるツキノワグマより、はるかに獰猛とされるヒグマですので、緊張がより高まります。

(写真)「激流の滝」にいたる小径

 激流の滝は「滝」すなわち高台から落ちる水というよりも、岩の間に降り注ぐ急流といった趣でした。岩の並びに沿って、左右ジグザグに向きを変えながら流れる白く泡立った急流と、岸にある松の下り枝が古い墨絵のような景色を作り出していました。

(写真)「激流の滝」

 その眺めに見惚れているうちに、あたりが暗くなり始めました。熊が出没したら大変。名残を惜しみながらその場を後にし、美深の市街地まで急いで戻りました。

 天塩川にかかる紋穂内もんぽない橋という長い橋を渡った先に、青い星通信社があります。橋を渡る途中に見た川は、午後に襲ってきた激しい雨で増水し、川面は茶色く濁って、流れも速くなっていました。紋穂内橋の端から端までは、けっこう距離があります。左右に天塩川の大きな流れを見ていると、本当にこの先に宿があるのだろうかと思いました。橋を渡り切ったところに、石レンガの建物と灯りが見えてきました。

(つづく)

構成・清野由美 撮影・大島淳之

https://shinsho-plus.shueisha.co.jp/column/alexkerr_deepnippon/26930

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