武将ジャパン2024/03/16
2021年3月、日本テレビの番組『スッキリ』において、ある発言が問題になりました。
お笑い芸人・脳みそ夫氏が「この作品とかけまして動物を見つけた時ととく。その心は、あ、犬」という謎かけをしたのです。
脳みそ夫氏当人の中に、それほどの意識はなかったかもしれません。
しかし、その言葉の意味するところは明確なアイヌ差別であり、すでに大人気漫画『ゴールデンカムイ』でも指摘しているところで、「1巻 第6話」(→amazon)においてはこんな会話がありました。
白石「そのアイヌはお前さんの飼いイヌか?」
杉元「アゴを砕いて本当にしゃべられんようにしてやろうか」
アシリパ「よせ杉元 私は気にしない 慣れてる」
『ゴールデンカムイ1巻 第6話』(→amazon)より
※アシリパの「リ」は小文字です
『ゴールデンカムイ』は明治時代のアイヌを描いた漫画・アニメで、作中では彼らの暮らしだけでなく、長く続いた辛い歴史も反映されています。
上記第6話でのシーンをもう少し補足しますと……。
脱獄囚人の白石がアシリパのことを、和人である杉元の飼いイヌであるのか?とからかったことから始まりました。
即座に杉元は激怒しますが「私は気にしない。慣れてる」と返答するアシリパ。
その時「慣れる必要がどこにある」と杉元は怒りを感じます。
このからかいは単に「アイヌ」と「犬」を掛けた駄洒落ではありません。
アイヌの人々を「アッ、犬」と侮辱し、人より劣る犬扱いという差別的な言動が存在します。杉元が激怒したのは、その差別性に気づいたからです。
白石という人物は、このあと杉元一行に加わりました。
囚人ながら気のいい男で、アシリパを差別するようなこともない。
そんな白石ですら、最初は口に出してしまうほど、当時の北海道にはアイヌ差別が蔓延していたという表現でしょう。
本作では、アシリパだけではなく、キロランケやインカラマッといったアイヌの人々も、和人の蔑視や差別にしばしばさらされます。
アイヌになりすまし、そのコタン(村落)を乗っ取っていた和人も登場します。
こうした和人がいるからこそ、杉元らの見せるアイヌへの誠意が際だって見えるのでしょう。
本稿では、長らく続いた和人のアイヌ差別の歴史を古代から振り返ってみます。
※記事の中には差別的な語彙や表現が出てきますが、実態を描写するために敢えて記載しております。ご理解ください
大和朝廷討伐対象者としての「蝦夷」
和人がアイヌをどう見ていたのか?
この問題を語り始めるには、まず大和朝廷の討伐対象者としての視点にふれなければなりません。
彼らに対する中央の理解は「なんとなく北方に野蛮な人がいることはわかる」という程度。
和歌に詠まれた「像」等を見ても曖昧で、実態からかけ離れています。
聖徳太子や源義経が、蝦夷の人々を制圧する絵物語も広がりました。
現代人にとっての宇宙空間のような、そんな想像の世界にあるものであったのです。
このころは「愛瀰詩」や「毛人」といった字を当て「エミシ」という名称で呼ばれました。
12世紀頃からは「エビス」と呼ばれるようになりました。
京の貴族たちが、野蛮に思える東国武士を「エビス」呼ばわりすることもあったほどです。
こうした東国武士は、元寇の際に敵陣営である蒙古や朝鮮の人々を「エビス」と呼んでおります。
自分と違う外国人を呼ぶ言葉が、中世までの「蝦夷」でした。
このころはアイヌと東北地方の人々の区別がついておりません。
両方とも「蝦夷」です。
朝廷に叛旗を翻した東北のアテルイやモレらも「蝦夷」とされておりました。
では、アイヌの人々と東北地方の住民が同一であるか?
その点については、様々な見方があります。
東北地方には、アイヌ語由来とみられる地名もあります。
北海道のアイヌにせよ、東北地方の蝦夷にせよ。
西日本の朝廷からすれば野蛮で劣っており、討伐支配する対象とみられていたこと。
ここが見逃してはならない意識です。
この感覚は、中世で終わったわけではありません。
関白・豊臣秀吉の命で上洛した奥羽の大名は、蔑視にさらされました。
伊達政宗はそうした蔑視に対して、自分や伯父の最上義光は、和歌はじめ文化に通じているのだ、と反論したほどです。
戊辰戦争で進軍する西軍側にも、野蛮な東北の連中を倒しに行くという感覚がある者がいました。
1988年(昭和63年)、当時のサントリー社長であった佐治敬三が、テレビ番組でこんな発言をしております。
仙台遷都など阿呆なことを考えてる人がおるそうやけど、(中略)東北は熊襲の産地。文化的程度も極めて低い。
熊襲とは、九州南部地方に住んでいた朝廷からの討伐対象であり、これは発言者のミスです。
20世紀になっても大和朝廷時代の差別発言をしたことに対して、東北地方で反発が起きます。
東北地方での、サントリー不買運動につながりました。
未開で文化もない連中を、中央こそが制圧して導くべきだ――この差別的な考え方は、アイヌの人々や北海道の歴史を蝕むものとなります。
交易相手として
京都の貴族たちにとって、東北にいるのは異民族。
夢の向こうにいるようなもので、ファンタジックなものに過ぎませんでした。
この像が具体性を帯びてくるのは、しばし時代がくだったころ。
戦国時代ともなると、戦国大名の蠣崎氏が、蝦夷地(現在の北海道)を支配しようとしました。
実際、蠣崎義広の代までは、アイヌと激しい抗争を繰り広げております。
しかし、5代目当主・蠣崎季広の代になって、アイヌと和議が成立。
蝦夷地南部の支配権を確立するとともに、交易によってもたらされる利益に目をつけました。
季広の子・松前慶広が松前藩初代藩主となります。
松前藩は、対馬藩の宗氏と並ぶ「無高(一万石高)」の大名です。
幕府からの「黒印状」により異国との交易を認められ、アイヌとの「商場・知行(=交易)」を基にして藩経済を成立させます。
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この構図は、17世紀頃から崩れてゆきます。
蝦夷で金が取れる――そう和人側が認識しつつあったのが原因でした。
1669年(寛文9年)。
シャクシャインの蜂起に手を焼いた幕府は、アイヌ側の要求を認めるようになります。
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しかし、長くはありませんでした。
ロシアも蝦夷に目を向けるようになり、日本とロシアの狭間で、アイヌの人々は苦しむことになったのです。
彼らは異民族か? 同じ民族か?
ロシアが蝦夷地に接近し始めた江戸後期。
このころになると日本も外国船の接近を感じるようになります。
そんな中、国学者は『蝦夷地に住むアイヌの人々は何者なのか?』と考えるようになります。
賀茂真淵は、蝦夷地を訪れた商人を自宅に招き、「蝦夷之噺し」の会合を開きました。
彼はアイヌを中国北部の民族とも交流のある、どこかドラマチックでエキゾチックな、和人とは別の民族であるととらえました。
延享3年(1746年)にエミシとエゾを同一視した歌を『翁家集』に掲載しています。
この歌はロマンチックなもので、アイヌへの憧れすら感じます。
ルールに縛られる和人より、自然と気ままに生きている彼らに憧れる言動も、見られるようになったのでした。
しかし、アイヌをロマンチックに見ているから差別的ではないとは言えません。
こうした別の民族や人種に、過剰な美化やロマンチシズムを感じることは「エキゾチシズム」と呼ばれ、時に差別的な扱いにつながりかねません。
本居宣長は、1767年(明和4年)から三十年にかけて書き綴った『古事記伝』にて、エミシとエゾを同一視した論を展開しました。
この論は現在否定されておりますが、それが確定するまで長い時間がかかっています。
本州に住み続け、学究に尽くした国学者の間で、実体を伴うアイヌ像は展開されませんでした。
彼らの中で、アイヌとはエミシ。
つまり異民族であり続けたのです。
この国学は、幕末にかけて明治維新を成し遂げた者たちにも、強い影響を与えています。
一方、最上徳内ら幕命を受けて蝦夷地に渡った和人は、全く異なる結論に至ります。
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1786年(天命6年)、彼らが幕府に提出した報告書は以下のようなものでした。
女性はお歯黒をせず、口の周りに刺青を入れている。
男性は毛深い。
髪の毛を結うことはなく、長髪のまま。
服飾や習慣は異なることが多いものの、カムイと呼ぶ神に信仰を捧げる人々で非敬、仁愛、礼儀も厚い――。
【異形に相見え候らえども、何にても、日本人に相替わり候儀ござなく候。】
そんな風に分析していたのです。
そこには大和朝廷以来の、異民族を討つべしという思想は見られません。
フィールドワークを通じ、習慣は違うけれども同じ人間なのだから、仲良くできるはずだという、そんな考えすら感じさせるものなのです。
こうしたアイヌと和人を同じ民族であるという論は、「和夷同祖論」と呼ばれます。
最上は、アイヌの人々を「土人」と呼びました。
蔑称を込めたものではなく、むしろその土地に暮らす土着の人という、親しみをこめたものとして使っていたようです。
そうはいえども、朝廷や都で暮らす人は「土人」とは呼ばれません。
中央から遠い地方に住むという、蔑称的なニュアンスが含まれる名称であることは、留意すべきでしょう。
蝦夷人から土人へ
アイヌのことが和人側の公文書で「土人」と呼ばれるようになったのは、1855年(安政2年)からです。
それまでは蝦夷人・夷人・蝦人と記載されていました。
黒船来航から2年後。
ロシアの脅威が北から迫る中のことです。
蝦夷地に住む人々は異民族ではなく、日本に土着する人として扱うようになったわけです。
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日本とはどんな国なのか。
海外に対してどう立ち向かうのか。
そう意識したうえでの変更といえます。
明治維新後、アイヌの人々は他の和人と同じく、天皇の民であるとされました。
皆等しく「土人」と区別することはないとされたのです。
しかし1878年(明治11年)、開拓使は調査等の際にアイヌを旧土人と呼ぶよう、通達を出したのです。
当時は、世界的に見て先住民受難の時代でした。
岩倉使節団で渡米した日本人は、ネイティブ・アメリカンの受けている扱いに驚きました。
先に住んでいた日本人と同じアジア系民族が差別されることに、理不尽さと呆れるほどの感情すら抱いたものです。
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だからといって、自分たちはそうすべきではないとは、思わなかったのでしょう。
むしろ、西洋列強ですら平然と差別をするのだから、日本もそうすべきであると習ったのでは?とすら思われます。
当時は、偽科学的な人種差別論の時代でした。
優等人種と劣等人種は脳すら異なるから、優等人種が劣等人種を同化すべき――そんな現代からすればとんでもない思想がはびこっていたのです。
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結果、幕吏たちのフィールドワークに基づく探険記が忘れ去られ、西洋由来の差別的科学が、アイヌへの政策で用いられるようになりました。
その一方で、幕臣出身で北海道の官吏となった人の多くは、アイヌ政策の過酷さに抗議するように退職してしまいます。
北海道の名付け親とされている松浦武四郎(まつうらたけしろう)は、1870年(明治3年)、北海道の明治政府の開拓の方針が受け入れられず、従五位の官位を返上して退官しています。
アイヌ政策において、彼らは折り合いがつかなかったのです。
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アイヌは同じ人だという理念は、明治政府にはありません。
和人と異なり、劣る旧土人なのだと見なします。
劣った旧土人なのだから、文明化のためにも同一化し、固有の文化や慣習を捨てさせよう――そうした考え方が、広がっていったのでした。
当時の世界には、こうした劣等人種は優等人種の観察の対象だとみなす考え方が蔓延していました。
その悪しき一例が「人間動物園」です。
異なる人種の人々を見世物と見なすこの会場に、アイヌの人々も立たされました。
アイヌの人骨が、動物のような観察対象とされたこともあります。
1995年(平成7年)には、北海道大学からこうした扱いを受けた人骨が発見(北大人骨事件)。
そうした一方、日本人とされたアイヌの人々は、時に戦場に立つこともありました。
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しかし、いくら戦場で活躍しようと、正当な評価を受けたとは言いがたいもの。
1899年(明治32年)には「旧土人保護法」が成立しました。
この法は、保護というよりも同化を求めるものです。
アイヌの文化や伝統を、同化という名の下に消し去ろうとします。
そして1997年(平成9年)に「アイヌ文化振興法」が成立するまで、百年にわたり、アイヌの人々を苦しめ続けたのでした。
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「私は気にしない 慣れてる」
というアシリパの言葉の背後には、当時の人種差別的な偏見に苦しめられてきた、彼女なりの体験がきっとあるのでしょう。
古代から、中央の朝廷に従うかどうかを求めて来た、和人のアイヌ像。
遠い島に住んでいるから野蛮で、中央に従うべきだと、アイヌの人々の自主性や気持ちを無視して考えてきた――そんな和人の認識がそこにはあります。
こうした認識の歴史をふまえると、杉元をならってこう言いたくはなりませんか。
慣れる必要がどこにある――。
https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2024/03/16/115894