先住民族関連ニュース

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北海道アイヌ協会が札医大でイチャルパ 先祖の遺骨を供養

2022-10-06 | アイヌ民族関連
北海道新聞10/05 23:49 更新

札医大でカムイノミをする北海道アイヌ協会の会員ら
 北海道アイヌ協会は5日、アイヌ民族の遺骨を保管している札幌医科大の構内で、先祖を供養する伝統儀式「イチャルパ」を行った。協会員や大学関係者約30人が出席し、先祖の霊に鎮魂の祈りをささげた。
 儀式に先立ち同協会の大川勝理事長(77)が「将来に遺恨を残さないよう国に必要な対応をお願いする」とあいさつ。札幌アイヌ協会共同代表の結城幸司さん(58)が祭司を務め、神々への祈りの儀式「カムイノミ」に続き、祭壇に供物をささげるイチャルパで先祖の霊を供養した。
 札医大は2019年、保管していたアイヌ民族の遺骨263体の大半を胆振管内白老町のアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」の慰霊施設に納めた。現在は13体を保管し、釧路市阿寒町や江別市などのアイヌ民族団体への返還を目指している。(金子文太郎)
※「イチャルパ」の「ル」は小さい字
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/741137/

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北海道だらけの2週間 高島屋日本橋店で「大北海道展」開幕

2022-10-06 | アイヌ民族関連
北海道新聞10/05 21:56 更新

大北海道展の「北の大地を醸すSAKE(サケ)」コーナーでワインを選ぶ客=高島屋日本橋店
 高島屋の旗艦店・日本橋店(東京都中央区)で5日、「大北海道展」が始まった。17日まで館内各所にコーナーが設けられ、恒例の北海道物産展をメインに、酒類や旭川家具の特別販売などを行う。
 高島屋と道が2月に締結した包括連携協定の一環で、道が商品の紹介や仕入れを支援した。物産展は約70店が出店し、海産弁当や乳製品などを販売。別の階では旭川家具や食器、アクセサリーなどを扱う「ツクリテ展」を同時開催する。
 1階には、道産の日本酒やワインをそろえた特別コーナーも。モンガク谷ワイナリー(後志管内余市町)や上川大雪酒造(上川管内上川町)などの道外では手に入りにくい商品を求めて長い列ができた。会社員男性(63)は「知らない酒や食べものを見つけることができて楽しい」と話した。
 期間中、アイヌ文化や道産ワインなどについてのトークショーを予定している。(堀田昭一)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/741085/

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<旭川>嵐山のチセを建て替えた 杉村有人さん(36)

2022-10-06 | アイヌ民族関連
北海道新聞10/05 05:00

杉村有人さん
 旭川市と鷹栖町にまたがる嵐山公園の「アイヌ文化の森・伝承のコタン」にある老朽化した伝統的家屋「チセ」を仲間とともに建て替えた。4月から約半年間、壁の原材料となるササを確保するために和寒町との間を50回程度往復し、休日をすべて費やした。「私たちにとって宝物のようなチセ。よく出来たと思います」
 チセ作りは10代後半のころから関わったことがあり、今回で4回目。これまでは作業を手伝う立場だったが、今回は中心メンバーの一人となり、先輩たちから伝統技術を受け継いだ。「これからも旭川のアイヌの歴史や文化を次世代につないでいけるように必死に勉強し、胆振管内白老町などに負けないくらい盛り上げていきたいです」(村田亮)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/740904/

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<白老>ICOMの映像祭で金賞 劉高力さん(40)

2022-10-06 | アイヌ民族関連
北海道新聞10/05 05:00

劉高力さん
 国立アイヌ民族博物館アソシエイトフェロー。国際博物館会議(ICOM)の委員会が主催した、博物館に関する映像祭「F@imp 2021&2022」で、仮想現実(VR)などの部門に作品を出し、金賞に選ばれた。
 国立アイヌ民族博物館が同館の見学映像をインターネット上で公開しているバーチャル博物館の素材を、5分弱にまとめた作品で、8月下旬にチェコのプラハで行われた授賞式で表彰された。「まさか金賞を受賞できるとは」と謙虚に喜びを語る。
 北京出身。京都大大学院などで文化人類学を学び、20年5月から現職。すでに自身が中国語に翻訳したアイヌ文化に関する書籍を、中国で出版することが現在の夢の一つだ。(竹田菜七)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/740901/

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俳優の宇梶剛士さん 人吉市での映画上映を前に市長を表敬訪問

2022-10-06 | アイヌ民族関連
NHK10月05日 12時18分

俳優の宇梶剛士さんが演出などを手がけたアイヌをテーマにした映画の上映会が今月末に人吉市で開かれるのを前に、4日、宇梶さんが松岡隼人市長を表敬訪問しました。
人吉市で上映されるのは、宇梶さんがみずからのルーツであるアイヌの歴史や人の尊厳を描いた演劇を映画化した「永遠ノ矢トワノアイ」です。
宇梶さんは球磨焼酎を通じて人吉市と縁があり、人吉球磨の人たちに、アイヌの人たちの生き方を知ってもらおうと、無料で上映会を開くことにしました。
映画には、人吉市出身の俳優、杉本凌士さんも出演しています。
4日、人吉市の松岡市長を表敬訪問した宇梶さんは「これからの時代、自分を見つめながらどう生きていくのか、作品を通して主人公の気持ちや思いを感じていただけたらうれしく思います」と述べました。
これに対して、松岡市長は「復興に向けて人吉市も力が必要です。上映をとても楽しみにしています」とこたえていました。
宇梶さんは「人吉市とは10年以上ご縁があります。幅広い年齢層の方に映画を見ていただきたい」などと話していました。
映画は今月29日に、人吉市カルチャーパレスで無料で上映されます。
https://www3.nhk.or.jp/lnews/kumamoto/20221005/5000017169.html

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神々に感謝し先祖を供養 厚真アイヌ協会「カムイノミ・イチャルパ」

2022-10-06 | アイヌ民族関連
苫小牧民報2022/10/5配信
 厚真アイヌ協会(織田登会長)主催の「カムイノミ・イチャルパ」が2日、町内の軽舞遺跡調査整理事務所(旧軽舞小学校)で行われた。関係者や来賓ら約50人が参加。神々に感謝し、先祖を供養する伝統儀式を行った。  町教育委員会によると、200…
この続き:210文字
ここから先の閲覧は有料です。
https://www.tomamin.co.jp/article/news/area2/89387/

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ダニエル・ボイド「トレジャー・アイランド」展/ボランティアガイド便り

2022-10-06 | アイヌ民族関連
日豪プレス2022.10.05
NSW州立美術館 ボランティアガイド便り
ダニエル・ボイド「トレジャー・アイランド」展 2023年1月29日まで開催中
執筆者=吉澤なほみ/日本語ガイド

Daniel Boyd, 2022 (Image: AGNSW, Jenni Carter)
 アボリジナル現代アーティスト、ダニエル・ボイド(Daniel Boyd、1982生まれ)の、20年間のキャリアから新プロジェクトを含む80点を集めた大展覧会が開催されています。
 ボイドは、西欧中心の歴史思考・記述に対する考察を作品の重要なテーマとしてきました。
 学生時代に、イギリス君主やキャプテン・クックなどの探検家の肖像画を作品に引用し、海賊や侵略者に例えた「No Beard」(2005)シリーズで注目を浴びます。
 また、同年に発表した「Treasure Isl and」(05)は、植民地化の非道な略奪をシンボル化した彼の代表作として知られ、今回の展覧会のタイトルにもなっています。
 このタイトルをボイドは、イギリス作家ロバート・ルイス・スティーブンソンの宝の地図を追う海洋冒険小説「宝島」(邦題)の原題から採っています。250以上の居住圏をさまざまな色で分布した先住民族の豪州地図を引用した作品には、スピリチュアルにつながる大地と、多様で豊かであった先史文化や言語が内包されています。
 09年ごろからボイドは、凸面のドットを繰り返す独特の表現方法を作品に用い始めます。彼が「レンズ」と呼ぶこの手法は、「見る行為」を示唆しており、覆い隠されてきた歴史や真実、現状を顕在化することに焦点を当てています。
 ボイドは、過去の記録を多角的な視点と新しい方向から捉え、改めて表現することで、閉ざされていたイメージを共有化し、過去と同じ過ちを再び起こさないことを提起しているのです。
Art Gallery of NSW
ニュー・サウス・ウェールズ州立美術館。常設展入場無料。本連載は美術館の日本語ボランティア・ガイドが担当。「件名:Japanese Tour」でEメールでの日本語での問い合わせ可。
Web: www.artgallery.nsw.gov.au
Email: volunteerg@ag.nsw.gov.au
https://nichigopress.jp/topics-item/46149/

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湾都市の土地に刻まれる物語。釜山ビエンナーレ2022を通してたどる歴史の巨大なうねり

2022-10-06 | 先住民族関連
美術手帖10/5(水) 7:08配信

メイン会場となる釜山現代美術館の外観
 ソウルから釜山まで、高速鉄道に乗って2時間半でたどり着いた。できれば下関と釜山を結ぶ「関釜フェリー」で海から釜山入りしたかったが、コロナ対策で運航が停止されていたため、ソウルから陸路で向かうことになった。
 釜山は韓国第2の都市であり、交通の要衝として歴史的に日本と深い関係を持ってきた。15世紀に日本人居留地の「倭館」が設置され、日本統治時代には日本人街が築かれたこともある。
 1950年に朝鮮戦争が勃発すると、首都ソウルの陥落に伴い、釜山が臨時首都に指定された。釜山周辺を除く朝鮮半島の大部分を北朝鮮軍が掌握したことで大量の難民が押し寄せ、釜山の人口は劇的に増加することになった。そして戦後、釜山はアジア最大級のハブ港湾として経済発展を遂げている。
 9月3日に開幕した釜山ビエンナーレ2022では、近代以降の釜山の歩みと現在の都市空間を結びつける無数のナラティブが創出されていた。
 芸術監督のキム・ヘジュが掲げるテーマは「We, on the Rising
Wave(私たちは、立ち上がる波の上で)」。イントロダクションを読むと「立ち上がる波(≒挑戦)」という言葉にはいくつかの意味が込められていることがわかる(植民地支配や戦争の歴史、難民や移民の増加、戦後復興による都市の変容、なだらかな起伏を持つ釜山の大地など)。
 会場は全4ヶ所ある。メイン会場の釜山現代美術館に加えて、交易の象徴としての釜山港第1埠頭、造船業を支えた影島(ヨンド)、そして倭館が置かれていた草梁(チョリャン)などがその舞台となる。
海から始まるナラティブの創出:釜山現代美術館(1)
 釜山現代美術館の展示室に入って最初に目に飛び込んでくるのは、フィリダ・バーロウ(Phyllida Barlow)による巨大なインスタレーションだ。
 1944年イギリス生まれのバーロウは、半世紀以上にわたってコンクリート、鉄筋、木材、合板などの安価な工業素材による作品を制作してきた。このたび新たに発表された《Untitled:
Bluecatcher; 2022》では、釜山の漁船が使っているのと同じ網が集められ、液状のコンクリートに浸されたうえで鉄柱に立て掛けられている。
 シーソーのようにコンクリートブロックが連なるリズミカルな形状からは、肉体労働や船のマスト、そして近代化される港町の姿が連想される。港湾都市としての釜山の歩みを象徴した作品であるだろう。
 2018年に結成されたアート・コレクティブ、ライス・ブリューリング・シスターズ・クラブ(Rice Brewing Sisters
Club、以下RBSC)は、釜山の海女や海藻についての調査をもとにしたサークル状のインスタレーションを展開している。
 海藻が多く自生する釜山の沿岸地域に着目したRBSCは、その地形をイメージした舞台を制作。その上に近代化の過程で取りこぼされてきた「手仕事」を示すイラストや海藻のドローイングを配置し、いままさに消滅しつつある漁村コミュニティのエコシステムを表現している。
 海をキーワードに呼応する作品はほかにも見られた。インドネシア系移民の子としてオランダで生まれたジェニファー・ティー(Jennifer
Tee)は、「タンパン・チューリップ」というシリーズ作品を展示していた。「タンパン」とは、インドネシアのスマトラ島南部で生産されている伝統的なテキスタイルのこと。誕生、成人、結婚、死など、人生における重要な催事に際して用いられているという。
 本作では、人の身体と船のマストが融合し、植物のように宙に伸びている様子が象られている。1950年代に船でインドネシアからオランダへ渡ったティーの父親や、チューリップ球根の輸出業者としてアメリカ大陸に渡航していた祖父の個人史などが暗示されている。家族の歴史が国家規模の歴史にオーバーラップして語られる自伝的な作品だ。
 1970年にパキスタンで生まれたアディーラ・スレーマン(Adeela
Suleman)は、母国におけるジェンダー不平等や階級格差などの問題を象徴する食器を発表した。 
 一見すると伝統的な食器のようだが、その図柄をよく見てみると、目を覆いたくなるほど暴力的な光景が描かれている。これはスレーマンがムガル帝国の細密画を参照しながら職人たちと制作した図柄で、彼女自身がパキスタンで日常的に体験している暴力の起源を問い直すものだという。
歴史の交錯が生んだ奇妙なかたち:釜山現代美術館(2)
 このように、釜山ビエンナーレ2022では個人の歴史と国家の歴史がオーバーラップする地点から生まれたユニークな「かたち」をとらえようとする試みが際立っていた。なかでも印象的だったのは、1979年韓国生まれの作家、オ・ソックン(Oh Suk Kuhn)による連作写真だ。
 ソックンは、韓国の近現代史と個人史がクロスして立ち上がった特有の「建築様式」をリサーチしている。彼が生まれ育った仁川をはじめ、大渚、加徳島、釜山などの韓国各地では、植民地時代に数多くの日本家屋が建てられた。日本の支配からの解放後、米軍による接収を経て韓国政府に移管されたこれらの建築物は、戦後に個人が政府から直接購入できるようになったという。
 これらの建築が数奇な運命をたどることになるのはそれからだ。部分的には日本様式が残されながらも、度重なる改装によって様々な様式が混ざり合う不思議な建築物が生み出されることになった。ソックンが提示するのは、こうした歴史的経緯とともに生活の息吹が感じられる個人的な情景である。彼が生まれ育った仁川でも撮影されたというその光景は、作家自身にとっては否定しようもなく「リアル」な情景であるのだろう。
 その向かいには、鎌田友介の作品が配置されていた。鎌田も日韓の歴史と建築をテーマにしている点でソックンと共通している。
 本作で鎌田が取り組んだのは、釜山と九州を結ぶ架空の「石庭」づくりだ。16世紀の豊臣秀吉による朝鮮出兵の際、釜山には日本の要塞が建てられた。このときに秀吉が出兵を正当化するために引き合いに出したと言われるのが、神功皇后が新羅(古代の朝鮮半島の一部)に軍隊を派遣したことがあるとする『日本書紀』の記述だった。
 鎌田は、朝鮮半島で撮影した石と、神功皇后の伝説が残る九州、対馬、壱岐などで撮影した石のイメージ、そして日本家屋の写真などを組み合わせることで架空の「石庭」を出現させた。中央に配置された家屋の写真がパネルごと切断されている様子は、東アジアの歴史に刻まれた何本もの「断層」を暗示しているかのようだった。
潮風とともに作品を見る:釜山港第1埠頭
 続いて訪れたのは、釜山港に設けられた会場「第1埠頭」だ。バスを降り立つと見えてくる広大な港湾風景は、東アジア最大級のハブ港として知られる釜山港の経済力を物語っている。
 潮風の漂う空間は、つい先ほどまで目にしていた「海」にまつわるイメージに身体ごと投げ込まれてしまったような錯覚を覚えさせる。
 実際にこの第1埠頭には、より深く「海」について意識させられる作品が集められていた。広大な空間に入ると、すぐ目の前にはミーガン・コープ(Megan
Cope)のインスタレーションが広がる。
 1982年にオーストラリアで生まれたコープは、カンダムーカと呼ばれるオーストラリア先住民をルーツに持つアーティストだ。
 カンダムーカの人々は、伝統的に持続可能な量の牡蠣を養殖して常食していた。本作で再現されるのは、そんな彼らが伝統的に行っていた牡蠣の養殖風景。それは工業化によって破壊された先住民族の文化とコミュニティを象徴するものであるという。
 1990年に韓国で生まれたヒョン・ナム(Hyun Nahm)は、地球全体をつなぐ海底ケーブルと『三国志』で魏の将軍が用いたことで知られる「連環の計」を結びつけるインスタレーションを展開していた。
 チェーンのうえには彫刻が括り付けられており、互いの自重でバランスを取り合っている。その様子は、いずれかひとつでも欠けてしまうと構造全体が崩れ落ちてしまう均衡を物語っている。また背後に見える巨大な錨は、会場である第1埠頭に放置されていた船で実際に用いられていたものだとのことだ。
抵抗の精神:影島(ヨンド)
 続く展示会場の影島(ヨンド)は、日本統治時代の1912年に朝鮮半島初の近代式造船所がつくられた地区である。1970~80年代には20万人以上の人口を擁したが、現在は造船業の陰りによって人口は半減している。
 そんな歴史ある影島の造船所跡が会場となる。広大な空間に入ってまず目前に広がるのは、ミレ・リー(Mire Lee)の《Landscape with Many Holes: Skins of Young-do Sea》だ。
 そして空間の奥には、イーディス・アミチュアナイ(Edith Amituanai)による巨大なライトボックスの連作が展開されている。
 サモア移民の子として1980年にニュージーランドで生まれたアミチュアナイは、ニュージーランドにおけるサモア・コミュニティで流行している「サイレン」カルチャーを提示する。
 同カルチャーの始まりは、トンガ高校に通う10代のグループが火災警報器のサイレン音をBluetoothスピーカーから再生できるように再プログラミングしたことにあった。その後この文化はオークランドに伝播し、カスタマイズされたスピーカーを車に取り付けて音楽を鳴らすコミュニティへと発展している。
 造船所の目の前に広がる空き地には、Chim↑Pom from Smappa!Groupによるコンテナが設置されている。
 コンテナの内部では「DOBUROKGEOLLI(ドブロッコリ)」と書かれた電飾が煌々と光っている。本作では、韓国のマッコリと日本の獨酒(どぶろく)の共通点をもとに、両者を融合させた独自の「ドブロッコリ」が提示されている。
 マッコリも獨酒も、ともに「自宅で容易に醸造できるアルコール度数の高いにごり酒」という共通点がある。実際に江戸時代までは各家庭で自由に醸造されていたが、明治期の酒造税施行により、自由な醸造が禁止されるようになったものだ。
 同じくマッコリも日本の植民地時代に醸造が禁止されることとなるが、釜山では取り締まりの目を逃れるために、住民が鐘を鳴らして当局の取り締まり情報を共有する「システム」が定着。それにより釜山の金井山城マッコリは1979年に国民酒に指定されるまで生き延びることとなった。 
 本作では、そんなマッコリと獨酒を融合させた、韓国酒とも日本酒とも呼べない第3のアルコールがつくられている。当局からの監視に抵抗して醸造を続けた釜山市民の「DIY精神」に焦点を当てた作品であると言えるだろう。
人々の生きた証:草梁(チョリャン)
 最後に訪れたのは、1678年より「倭館」が設置されていた草梁(チョリャン)だ。約10万坪の敷地の倭館には数百人の対馬藩関係者が常駐し、敷地内には住居や神社なども整備されていた。しかし現在はその面影は残っておらず、傾斜のある土地に所狭しと並んだ民家は、戦後の釜山でいかに急激な人口増加が起きたかを物語っている。
 草梁にある空き家を会場に選んだのは、1985年韓国生まれの作家、ソン・ミンジョン(Song Min Jung)だ。
 ミンジョンの作品には、1945年神戸生まれの「春子」という架空の日本人女性が登場する。23歳のときにエンジニアの夫の赴任に伴い釜山に越してきた春子が、工場で働く同い年のチュンジャ(韓国語で「春の子」を意味する)と出会うという物語だ。
 この2人の物語はスマートフォンに映し出され、実在の風景に接続するように、民家の名残りを色濃く残す空間のなかで呼応している。展示会場には、かつてここで人が暮らしていたときの面影を感じさせる照明や壁紙などがそのまま残されている。
 それとともに、急勾配の斜面を縫うように建てられたかつて民家だった建造物の中を実際に歩くことによって、目まぐるしい歴史に翻弄されながらも、人々がこの土地で力強く暮らしていたことに思いを馳せることになった。
 大きな歴史と小さな歴史の交錯。その巨大なうねりの上に立ち、懸命に生きてきた人々の生きた証をたどるかのような会場構成となっている。会期は2022年11月6日まで。ぜひこの機会にその「うねり」を体感してほしい。
文=藤生新 写真提供(*のぞく)=釜山ビエンナーレ2022
https://news.yahoo.co.jp/articles/15cb1bd751cc4f06d47bfec714d651bcd1967979

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ペン・ステーションに、鮮やかなアート出現 世界各地の夕日、柱に描く

2022-10-06 | 先住民族関連
dailysunny10/04/2022

Photo本紙=4日午後
 マンハッタン区のペン・ステーションに、このほど新たなアートがお目見えした。先住民族のシンボルに焦点を当てるとともに、世界各地の夕日を柱に描いた作品。通勤・通学者や観光客が足を止める姿が見られる。タイムアウトが9月30日、伝えた。
 「アート・アット・アムトラック・パブリックアートシリーズ」の一環としてベールを脱いだ今回の作品。今夏に始まったシリーズは、数ヶ月ごとに変わる臨時展示会を通じて、ニューヨークエリアで活躍するアーティストによる現代美術を紹介している。
 今回の作品群は、鮮やかな色彩をふんだんに使用しており、コンコース全体に明るい印象を与えている。キュレーターのデブラ・サイモン氏は「これらは単なる壁紙ではなく、何かを伝えるものだ」と強調。「彼らの作品はすぐに理解できる上、視覚的に魅力的だ。そして、その裏には意味が潜んでいる」と話す。
 アーティスト集団「ゴーストオブドリーム」の作品は、ペン・ステーションを地球の中心に見立て、連続した水平線をアレンジ。メンバーの一員ローレン・ワス氏は「太陽は国境を越えて、世界中どこでも同じものを見ることができる」と、作品に込めた意図を解説する。ペン・ステーションの関係者は「地元アーティストの作品を展示できることは、非常に大きな意味を持つ」と指摘している。
https://www.dailysunny.com/2022/10/04/nynews221004-3/

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赤坂のチョコレート専門店がチョコレートと気候変動に関するオンラインイベント

2022-10-06 | 先住民族関連
みんなの経済新聞10/5(水) 7:00配信

オンラインイベントを紹介する店主の江沢孝太朗さん
 赤坂のチョコレート専門店「MAMANO(ママノ) CHOCOLATE」(港区赤坂3、TEL 03-6441-2744)が10月22日、オンラインイベント「教えて!チョコレートと気候変動の深ーい関係」を開催する。(赤坂経済新聞)
 カカオの希少種という「アリバカカオ」を使ったフェアトレードチョコレートを専門で提供する同店。2013(平成25)年のオープン以来、エクアドルのアマゾン地域に住むキチュア族の家族が営む、自家消費用作物、医療用植物、市場向けの作物、森林保全などを同時に行う「チャクラ農法」で育ったカカオのみを使い、「チョコレートで笑顔あふれる地球をつくる」を合言葉に営業している。
 今回のイベントは、店主の江沢孝太朗さんが「チョコレートと気候変動」や「生物多様性の深くて面白い関係」を、チョコレート好きな人に知ってもらうことで、よりよい社会を作っていくことに一歩でも近づけたらとの考えから企画した。当日は「先住民キチュアの伝統的なアグロフォレストリー農法がどのように気候変動や生物多様性に影響するのか」をサブタイトルに、約1時間30分にわたり開催する。
 当日のメインスピーカーは、アマゾン州立大学のボリエル・トレスさん、「FAOエクアドル」のアナ・アンドラデさん、「WWFエクアドル」のビクトリア・メナさんを予定する。スピーチは英語で、日本語による通訳は同時通訳でなく、短い文章ごとに交互に通訳を行うという。
 江沢さんは「チョコレート好きな人だけでなく、SDGsに興味がある人にも発見があるイベントだと思うので、チョコレートを食べながら気軽に参加してほしい」と話す。「この機会に『チャクラ農法』と、農業と林業を組み合わせた造語からくる『アグロフォレストリー農法』は、同じような農法を意味する言葉であるということなども知ってもらえたら」とも。。
 開催時間は9時~。参加無料。事前申込制。申し込みは同店のイベントサイト。前日24時まで。
https://news.yahoo.co.jp/articles/cd836b2733de52e63a425b9c878e9ed65bf8c617

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[インタビュー]「『東海・日本海併記』30年間主張してきた韓国が先に実践すべき」

2022-10-06 | 先住民族関連
ハンギョレ新聞2022-10-05 06:24 修正:2022-10-05 10:40
東海研究会会長チュ・ソンジェ教授

東海研究会長のチュ・ソンジェ教授が9月29日、慶煕大学研究室で東海・日本海併記運動30年について語っている=キム・ミョンジン記者//ハンギョレ新聞社
 「東海(トンヘ)併記運動30年の最大の成果ですか? この問題を世界に広く知らしめたことです。今や地名専門家と地図製作会社が(この問題について)意識しています。むやみに単独表記できません」
 韓国が国際的に使われる東海水域の表記を「日本海」ではなく「東海と日本海(east sea・sea of Japan)」を併記しよう」という運動を始めて、今年でちょうど30年になった。この運動を主導してきた東海研究会の第4代会長である慶煕大学地理学科のチュ・ソンジェ教授は、「国際的に東海の併記をさらに拡散させるためには、韓国の主張が『日本海という表記を東海に変えよう』というのではなく、これを一緒に使おうという『併記』であることを韓国社会がより深く理解しなければならない」と語った。
 先月29日、慶煕大学の研究室でチュ教授に会った。
1991年の南北国連同時加盟を機に 
1992年の地名標準化会議で「併記」を提案 
研究会の運動で国際社会の認識変えた 
「併記表記率50%近くに増加傾向」 
2年前から地名の代わりにデジタル番号に 
「国外用の地図製作の際、併記試みる価値がある」
 韓国人にとってあまりにも当たり前の「東海」を国際的に認めてもらうための運動が1992年に始まったのは、分断と冷戦に関わる朝鮮半島をめぐる複雑な事情があったからだ。韓国と北朝鮮の国連同時加盟が実現したのは、大韓民国が建国されてから40年余りが経った1991年9月だった。ところが加盟の後、多くの国連機関は当たり前のように各種公文書に東海の水域を日本海と単独表記していることを知った。この事実に驚いた外交部は1992年6月、文化部や教育部、公報処、交通部(水路局)、建設部(国立地理院)など関係省庁との協議を経て、7月に「東海名称の国際通用推進対策案件」という文書を作成した。これを通じて韓国政府は「日本海という表記を東海に変えよう」というのではなく、「東海と日本海を併記しよう」という原則を定めた。韓国政府が国際社会でこれを初めて主張したのは、1992年8月に開かれた第6回国連地名標準化会議の時だった。それがこの30年に及ぶ長い戦いの始まりだった。
 韓国の併記主張は国際社会に少なからぬ波紋を呼んだ。自分と自分の周りにある山や川や海を何と呼ぶかは、その人のアイデンティティと関連した非常に重要な問題だ。その上、自分の歴史とアイデンティティだけが重要だという「東海単独表記」ではなく、相手を認め、共存を追求しようという「併記」だった。世界の地名専門家たちが耳を傾けざるを得なかった。効果はゆっくりだが着実に表れた。外交部が在外公館を通じて調査した内容によると、2000年にはわずか2.8%に過ぎなかった各種世界地図と教科書の併記率は、2009年には28.1%まで高まった。その後、外交部は正確な数値を公開していないが、最近の併記率は40%程度だという。
 チュ会長は「この運動を通じていつでも私たちと志を共にすることのできる強固な国際的ネットワークが作られたことも、大きな成果」と話した。「そういう意味でも併記が重要。いつだったか、ある政府機関のホームページに『東海併記運動の究極の目標は東海単独表記』と書かれたことがあります。英国地名委員会事務総長を務めたポール・ウッドマン氏は、電子メールを送ってきて尋ねました。『これが本当なのならば、あなたたちとこれ以上共にすることはできない』と」
 2020年には重要な変化が起きた。これまで東海併記運動の「主戦場」になってきた国際水路機関(IHO)で1929年に発行された「大洋と海の境界(S-23)」が、デジタル時代に合うS-130という新しい標準に変わった。これを通じてS-23によって付けられた「紅海」や「地中海」のような地名が消え、「固有の識別番号」(数字)が作られた。日本海の単独表記を東海との併記に変えることはできなかったが、将来導入されるデジタル標準では日本海など海の名称自体をなくす成果を上げたのだ。
 さらに一歩進んで考えると、この30年は東海併記だけでなく、地名に対する人類の認識が広がる時期でもあった。チュ会長は最近、地名と関連した「国際的な流れは包容(inclusion)と、地名を文化遺産的観点から見ようという動き」だとした。「米国では『ブラック・ライブズ・マター(BLM)』(黒人の命も大切)運動が重要になり、人種差別的な意味のある地名を排除する動きが続いています。また、国連ではそれよりずっと前の2002年頃から、地名を文化遺産的観点から見るための考察が始まりました。北欧諸国が北極圏で暮らしてきたサーミ族の使う地名や、オーストラリアとニュージーランドが先住民の地名を守ろうとしているのです」。このような流れにより、アラスカ最高峰であるマッキンレーの名前は、2015年に先住民の名称である「デナリ」に変更された。世界のへそと呼ばれるオーストラリアの「エアーズロック」は、1993年に先住民の言語の「ウルル」(偉大な石)と併記されている。ニュージーランドでは国名自体をマオリ語にちなんで「アオテアロア」(長く白い雲のたなびく地)と呼ぼうという運動が起きている。
 もう一つの重要な変化は、デジタル時代の地名だ。世界の人々が紙の地図ではなく「グーグルマップ」を主に利用するようになり、多くのことが変わった。「デジタルにより複数の地名を収容できるようになり(多様性)、スケール(縮尺)に応じて柔軟に調整することもできます(柔軟性)。韓国で東海水域を検索すると東海、日本で検索すると日本海と出ます。第三国で探すと、まず『シー・オブ・ジャパン』が現れ、何度もズームインしないと『イースト・シー』は出てきません。私たちの主張はこの二つを同等な水準で扱うべきということです」。チュ会長は「グーグルマップの担当者も韓国の主張をよく知っているが、実際的な変化が起きるためにはグーグルの本社レベルで政策が変わらなければならない」と語った。
 だが、東海併記問題を究極的に解決するためには、日本との共感を広げなければならない。チュ会長はこのため、「韓国が主張してきた併記の提案を自ら実践してみるのはどうかと思う」という大胆な案を示した。「韓国語の地図は当然東海です。でも、国土地理情報院が英語など外国語で制作する地図に併記してみるのはどうでしょうか。国際社会は、東海という名称を広めるために韓国が取った成熟した態度として受け止めるでしょう。私たちは和解と解決を目指さなければなりません」
キル・ユンヒョン記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
https://www.hani.co.kr/arti/international/asiapacific/1061174.html
韓国語原文入:2022-10-04 02:34
訳H.J
http://japan.hani.co.kr/arti/politics/44735.html

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SpaceX が最初のロシアの宇宙飛行士を打ち上げる: ライブ ビデオの視聴方法

2022-10-06 | 先住民族関連
kenmin-souko10月 6, 2022
水曜日に国際宇宙ステーションに打ち上げられた 4 人の宇宙飛行士を乗せた SpaceX ロケット。
乗客の中には、ロシアの宇宙飛行士、アンナ・キキナもいます。 彼女のミッションへの参加は、ロシアのウクライナ侵攻に直面した国際宇宙ステーションで、米国とロシアの間で協力が続いていることを示しています。
ロケットは正午にフロリダ州にある NASA のケネディ宇宙センターから打ち上げられました。 木曜日の午後5時前に宇宙ステーションに到着する予定です。
NASA がロシアの宇宙飛行士を SpaceX のカプセルに搭乗するよう招待したのはなぜですか?
この飛行に参加した 4 人の宇宙飛行士のうち、NASA で働いているのはミッション コマンダーのニコール マンとパイロットのジョシュ カサダの 2 人だけです。 残りの二人は、日本の若田浩一さんとけきなさんです。
ISS プログラムの初期には、ロシアの宇宙飛行士が定期的にスペースシャトルで飛行し、NASA の宇宙飛行士はロシアのソユーズ ロケットで飛行しました。 2011年にスペースシャトルが引退した後、ソユーズは宇宙飛行士を宇宙ステーションに出入りさせるために利用できる唯一の輸送手段でした。
SpaceX の Crew Dragon が 2020 年に運用可能になると、NASA は宇宙飛行士をソユーズ宇宙船に乗せて飛ばす必要がなくなりますが、それでも使用できるようにしたいと考えています。 そして、宇宙機関は、ロシアの宇宙飛行士がクルードラゴンに乗ることを望んでいました(また、来年運用される可能性のある2番目のアメリカのカプセルであるボーイングのスターライナーにも)。
これは、ロシア主導とNASAとそのパートナー主導の2つの部分に分かれている宇宙ステーションの円滑な運用を確保するためです。
ケキナ氏がクルー5のメンバーとして発表された7月、NASAは声明の中で、「統合されたフライトクルーは、重要なメンテナンスと船外活動のために適切に訓練された乗組員がステーションにいることを保証します」と述べた.
懸念されるのは、ある種の緊急事態 (例えば、乗組員の深刻な健康問題) が、地球への早期帰還につながる可能性があることです。 宇宙船に乗っているすべての乗組員も地球に戻らなければなりません。 (そうしないと、残りの宇宙船に十分な座席がありません。) すべてのロシア人がロシアのソユーズに乗って到着した場合、宇宙ステーションのロシアの部分は無人のままになります.
乗組員交換の一環として、NASA の宇宙飛行士フランク ルビオは先月、2 人のロシア人宇宙飛行士と共にソユーズ ロケットに乗って宇宙ステーションに向かった。
ロシアの宇宙機関ロスコスモスの有人宇宙飛行プログラムのエグゼクティブディレクターであるセルゲイ・クリカレフ氏は、月曜日の記者会見で、「この種の交換は私たちのプログラムをより強力にするでしょう。 「そして、この慣行を継続して、ソフトウェアの信頼性を高めていきます。」
アンナ・ケキナとは?
38 歳のケキナさんは現在、ロシア航空宇宙軍で唯一の女性です。 彼女はソユーズ飛行の訓練を受けていましたが、NASA とロシア宇宙機関の間の合意が確定したときに SpaceX ミッションに移されました。 これが彼女の宇宙への最初の飛行です。
彼女は、ロシア航空宇宙軍で宇宙ステーションに飛んだ最後の女性でした。 2014年のエレナ・セローバ. そして最近では、ロシアの女優、 ユリア・ペレシルド、映画のシーンを撮影するために 2021 年に宇宙ステーションに行きます。
他の乗組員は誰ですか?
マン夫人とカサダ氏も、軌道に乗るのは初めての旅行者です。 対照的に、若田氏は宇宙のベテランであり、国際宇宙ステーションでの2回の滞在を含む4回のミッションを経験している。
マンさんは、北カリフォルニアのラウンド バレー インディアン部族のワイラキ族の一員として、NASA から軌道に乗る最初の先住民族の女性になります。
ロシアは国際宇宙ステーションから撤退しますか?
いいえ、すぐにはできません。
ロシアのウクライナ侵攻後、米国とロシアの間で緊張が高まったにもかかわらず、宇宙ステーションでの協力は続いた。 Roscosmos の元トップである Dmitry Rogozin は、ロシアがどのようにプロジェクトから撤退するかについて敵対的な声明を出しましたが、ロシアが撤退することを公式に通知することはありませんでした。
現在の協定は2024年まで有効です.米国は2030年まで運用を延長したいと考えています.ロシアは独自の宇宙ステーションを建設すると述べていますが、準備が整うまで国際宇宙ステーションを離れないことも示しています.
Roscosmos の Krikalev 氏は月曜日、「それがすぐには起こらないことはわかっている。 「そのため、地球の低軌道に人間が存在し続けることを可能にする新しいインフラができるまで、私たちは飛行を続ける可能性が高いです。」
「それで、今のところ、私たちは一緒に飛び続けます」と彼は付け加えました。
SpaceX の飛行中に何が起こるでしょうか?
宇宙ステーションまでの飛行時間は約 29 時間です。飛行時間は、SpaceX カプセルが宇宙ステーションに追いつくために必要な軌道ダイナミクスによって決まります。 4人の乗組員は、来年3月まで宇宙ステーションに留まります。
4月に宇宙ステーションに到着したクルー4の宇宙飛行士が今月末に帰国するまで、しばらくの間、11人が宇宙ステーションに滞在します。
近い将来、他にどのような宇宙飛行士の飛行が計画されていますか?
SpaceX の次のミッションである Crew-6 は、2 月に打ち上げられる予定です。 その飛行には、別のロシア人宇宙飛行士、アンドレイ・フェジャエフが搭乗します。 また、民間宇宙飛行士を宇宙ステーションに飛ばしてきた企業である Axiom Space がアラブ首長国連邦に販売した座席である、アラブ首長国連邦からの宇宙飛行士も参加する予定です。 (Axiom は、Axiom が購入したが NASA が必要としていた以前の Soyuz フライトの座席と引き換えに、NASA から SpaceX の座席を取得しました。)
来年8月に予定されている宇宙ステーションへの2回目の民間飛行で、アクシオムは、アメリカのレーシングドライバーであり投資家であるジョン・ショフナーと、サウジアラビアからの2人の宇宙飛行士を迎える予定です。 アクシオムはまた、宇宙飛行士を軌道に乗せるためにイタリア、ハンガリー、トルコと協定を結んでいます。
春に打ち上げが予定されている次のソユーズ ミッションには、NASA の宇宙飛行士ローレル オハラも搭乗します。
NASAが宇宙飛行士を宇宙ステーションとの間で輸送するために雇ったもう1つの会社であるボーイングは、ついに来年離陸する可能性があります。 2 人の NASA 宇宙飛行士を乗せたスターライナー カプセルのイラスト、 スコット・ティングルとマイク・フィンク、現在 2023 年 2 月に予定されています。
https://kenmin-souko.jp/spacex-が最初のロシアの宇宙飛行士を打ち上げる-ライ/

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(お知らせ)国立民族学博物館、講演会 来月11日「『民族』再考日本と台湾から」

2022-10-06 | アイヌ民族関連
日本経済新聞2022年10月6日 2:00 [有料会員限定]
日本経済新聞社と国立民族学博物館は公開講演会「『民族』再考 日本と台湾から」を開催します。
◇日時 11月11日(金)午後6時30分~8時40分
◇会場 日経ホール(東京都千代田区大手町1-3-7、日経ビル3F)
◇演題と講師 「日本における『民族』概念 その東アジアへの伝播とロシアとの比較を交えて」小熊英二・慶応大教授、「多様なアイヌ民族とシサム(隣人としての和人)」齋藤玲子・国立民族学博物館...
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https://www.nikkei.com/article/DGKKZO64915140V01C22A0CT0000/

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アメリカ先住民族俳優が歩んだいばらの道 ― アカデミー賞授賞式でマーロン・ブランドの代理で受賞拒否したサチーン・リトルフェザーが75歳で逝去。

2022-10-06 | 先住民族関連

esquire2022/10/05 By Oh Ryoko
1973年、ハリウッドを揺るがした歴史的スピーチを引き受けた女性の過酷な人生。

BettmannGetty Images
現地時間2022年10月2日(日)、サチーン(サシーン)・リトルフェザーがカリフォルニア州北部(サンフランシスコのすぐ北)にあるナヴァトの自宅で逝去しました。
映画芸術科学アカデミーは2022年6月にリトルフェザーと和解し、9月17日(土)に彼女を称える式典を開催したばかりでしたが、日曜日の夜、ソーシャルメディアでこのニュースを明らかにしました。リトルフェザーは2018年に乳がんと診断されたことを公表しており、近年その症状がさらに進行していたということです。
1973年アカデミー賞受賞拒否事件のあらまし
映画史に残るあの事件の顛末は、以下のようなものでした。
マーロン・ブランドは1973年3月に開催された第45回アカデミー賞授賞式において、主演男優賞を受賞するもボイコットします。それは、映画におけるネイティブ・アメリカンのの描かれ方に対しての抗議であり、同年2月にアメリカン・インディアン運動(AIM)のメンバーおよそ300人がサウスダコタ州の(1890年、アメリカ軍の騎兵隊が民族浄化としてネイティブ・アメリカンを虐殺した事件)町ウンデッド・ニーで数千人の連邦保安官や他の連邦捜査官と対峙した「ウーンデッド・ニーの占領」に敬意を表してのこととでした。
授賞式でプレゼンテーターのリヴ・ウルマンとロジャー・ムーアがマーロン・ブランドのアカデミー主演男優賞受賞を告げると、テレビカメラは当時26歳のリトルフェザーを映します。すると彼女は、アパッチ族の伝統的なドレスで壇上に向かい、アナウンサーのドロシー・チャンドラー・パヴィリオンが「欠席した『ゴッドファーザー』のマーロン・ブランド氏に変わりサチーン・リトルフェザーさんが最優秀主演男優賞を受賞します」とアナウンスしました。
しかし、壇上に進んだリトルフェザー氏はオスカー像を渡そうとするロジャー・ムーアを右手で遮(さえぎ)り、「ワシントンポスト」が伝えるところによれば約8.5億人の視聴者に向けて「(ブランドは)大変残念ながら、この非常に好意的な賞を受け取ることはできません」と話し始めたのです。
https://www.youtube.com/watch?v=2QUacU0I4yU
これにはブランドの指示があったことを、同記事は伝えています。ブランドは彼女にオスカー像に手を触れないよう伝え、彼女に8ページにわたるタイプしたスピーチ原稿を授けていました。ですが、放送プロデューサーはリトルフェザー氏に、「持ち時間は60秒しかない」と言ったのです。
そこで彼女は、「原稿があるけれど時間の都合で読み上げることができない」とした上で、スピーチを敢行。「今回の受賞拒否理由は、現在の映画業界でのアメリカン・インディアンの扱い方、及び最近のウーンデッド・ニーでの出来事によるもの」であることを語りました。その後、「ニューヨーク・タイムズ」紙は彼女が読み上げるはずだったブランドが用意したスピーチ全文を3日間にわたって紙面で公表しています(ウェブ版はこちら)。
アカデミー賞会場でのリトルフェザーの発言は、ブーイングと喝采両方を受けました。当時はコレッタ・スコット・キング(公民権活動家)やシーザー・チャベス(労働組合指導者)などひと握りの人々の賞賛を除き、直後の世論は概ね否定的なものだったのです。いくつかのメディアは、彼女のネイティブ・アメリカンとしての血筋(父親がアパッチ族とヤキ族の血をひき、母親は白人)の正当さを問いながら、「衣裳も授賞式用に借りたものだろう」とデマまで流しました。ジョン・ウェイン、クリント・イーストウッド、チャールトン・ヘストンなど、西部劇に数多く出演した保守派の俳優はブランドとリトルフェザーの行動を批判したとされています。
俳優人生を引退に追いやったハリウッドとアカデミー
その後の彼女は、いばらの道を歩むことになりました。
1973年のアカデミー賞授賞式の直後、リトルフェザーはサンフランシスコのアメリカンコンサーバトリーシアターで演技を学ぶための全額奨学金を受け取ります。「ダンスと演技は、私にとって現実からの逃避でした」と、彼女は2010年に「ザ・ネイティブ・アメリカン・タイムズ」に語っています。
その後、彼女はハリウッドで本格的な役柄を見つけるのに苦労しました。「アメリカ人はブロンドの、サンドラ・ディーのようなルックスを好みます。イタリアの映画でセリフ付きの役を貰いましたが、それは彼らがエキゾチックなものが好きだったからです」と、リトルフェザーは述べています。
ADの後に記事が続きます
リトルフェザー氏はアカデミーでの「事件」の数年前、ワシントンで連邦通信委員会で人種とマイノリティについてのプレゼンテーションを行ったときに初めてマーロン・ブランドと出会っています。
リトルフェザーは、「1970年代にはAIMやインディアンの公民権運動があり、私も参加していました。私はテレビや映画で描かれる典型的なネイティブ・アメリカンのスポークスパーソンだったのです。そのとき私が言いたかったことは、チャック・コナーズ(※1)にジェロニモ(※2)の役を演じて欲しくないということだけでした」と述べています。
※1 元プロ野球・バスケットボール選手。引退後ハリウッドに進出した白人俳優 
※2 ネイティブアメリカン、アパッチ族の英雄。対白人抵抗戦線の象徴
This content is imported from YouTube. You may be able to find the same content in another format, or you may be able to find more information, at their web site.
https://www.youtube.com/watch?v=iKuFY2SqdZs
2018年に上映されたドキュメンタリー映画『Sacheen: Breaking the Silence』で、1973年当時アカデミー賞授賞式に着ていくドレスがないとマーロン・ブランドに話すと、「彼は『君のバックスキン(のドレス)を着ればいいじゃないか』と言いました」とリトルフェザーは述べています。
アカデミー賞の3カ月後、マーロン・ブランドは「ディック・キャヴェット・ショー」に出演し、「サチーンが恥ずかしがった。彼女は意図したことを言えなかったし、それが私自身に向けられていたとしても、人々がブーイングや口笛、足踏みをしたことに心を痛めました。少なくとも、彼女の話を聞く礼儀はあったはずだ」と述べました。
https://www.youtube.com/watch?v=rcCKczj4aK4&t=4s
ブランドの目論みは、ウーンデッド・ニーへの関心を新たにするという効果を狙ったものでした。ですが、リトルフェザーにとってそれは、「自身の命を危険にさらし、俳優としてのキャリアを台無しにした…映画科学アカデミーでの会員資格を失い、業界からも追放された」としています(アカデミーは1973年の彼女のスピーチ後、受賞者が代理人を立て、自分の代わりに賞を受け取ったり拒否したりすることを禁止しました) 
リトルフェザーはドキュメンタリーで、「私はブラックリストに載った、あるいは、レッドリストに載ったと言えます。ジョニー・カーソンやディック・キャベット(二人ともテレビ司会者)などは、私を自分の番組に出したがりませんでした。ハリウッドへのドアは固く閉ざされ、2度と開かれることはありませんでした」と語っています。
米アカデミーの遅すぎた謝罪
その事件から50年近くを経て、映画芸術科学アカデミーは今さらながら彼女に謝罪の意を表しました。
「あなたが受けた長年にわたる被害は、不当で正当化できないものでした。あなたが経験した精神的負担と、私たちの業界におけるあなた自身のキャリアへの代償は、取り返しがつかないものです。あなたが示した勇気はあまりにも長い間、認識されることがありませんでした。これに対し、私たちは深い謝罪と心からの賞賛を捧げます」と、映画芸術科学アカデミー会長のデイヴィッド・ルービンは2022年6月18日付けの彼女への書簡に記しています。
リトルフェザーは、映画『ザ・トライアル・オブ・ビリー・ジャック』(1974年公開)、『Johnny Firecloud』(1975年公開)、『誇り高きインディアンの英雄・ウィンターホーク』(1976年公開)など、いくつかの映画に出演した後に俳優業を辞め、アンティオキア大学でホリスティックヘルスの学位を取得し、ネイティブアメリカン医学を副専攻しました。
オクラホマ州のキオワ族の新聞に健康に関するコラムを書いたり、アリゾナ州ツーソンのセント・メリーズ病院のインディアン伝統医学プログラムで教えたり、ベイエリアのエイズ患者のためにマザー・テレサと働いたりと、ウェルネスの分野で活躍します。その後、サンフランシスコのアメリカン・インディアン・エイズ研究所の創設理事を務めることになりました。
リトルフェザー氏は芸術活動も続け、1980年代前半に非営利団体「National American Indian Performing Arts Registry」を共同設立し、公共放送サービス(PBS=Public Broadcasting Service)の複数の番組でアドバイスを行い、ハリウッドにおけるネイティブアメリカンの受容を提唱し続けていました。 
主張するマイノリティ俳優たちの先駆け
「アカデミー賞の歴史上、有色人種の女性として初めて政治的発言をしたのは私です」と、リトルフェザーは前述のドキュメンタリーで述べています。
数十年の時を経て、あの彼女のステージ上での主張が、現在も続くハリウッドの多様性に関する対話の先駆けであることは明らかです。ジェイダ・ピンケット・スミスは、2016年のアカデミー賞(#OscarsSoWhite式典)をボイコットした際に影響を受けた人物として彼女を挙げています。
2人はメールのやりとりをし、スミスは 「私たちへと道筋をつなげてくれた勇敢さと勇気ある行いに感謝します」と書いています。
リトルフェザー氏は、オクラホマ州レッドロックにある彼女の夫、チャールズ・コシウェイの隣に埋葬される予定です。コシウェイは2021年11月に血液がんのため死去しました。2人は32年前、カリフォルニア大学デービス校のパウワウで出会ったそうです。米国アカデミーの謝罪を受けたリトルフェザーは亡き夫について、「彼の魂は今も私のそばにいます。彼が私に望んでいたのは常に正義と和解だったのです」と語りました。
そして彼女の死2週間前、彼女の名誉を称えるアカデミー映画博物館のイベント「アン・イブニング・ウィズ・サチーン・リトルフェザー」が開催され、リトルフェダーはこう話しています。
「私はここで、謝罪を受け入れます。私ばかりでなく、今夜この謝罪を聞く必要があり、それに値する全ての部族の人々への言葉として…この会場にいるすべてのインディアンの方々に立っていただきたいと思います。仲間を見て、お互いを見て、私たち全員が生存者として立っていることを誇りに思ってください」
「私がいなくなっても、あなたが真実のためにどこに立ち向かおうとも、私の声、そして私たちの国と民族の声を守り続けるのだということを、いつも心に留めていてほしいのです…私はサチーン・リトルフェザーのままであり続けます。ありがとうございました」
生涯2度目となるアカデミーの舞台に立った彼女は、「自分の身に死が間近に迫っていることを知っっていた」と、「ワシントンポスト」同記事は伝えています。
リトルフェザーはお悔やみの代わりに、オークランドのアメリカン・インディアン・チャイルド・リソース・センターへの寄付を希望していました。
https://www.esquire.com/jp/entertainment/celebrity/a41523004/sacheen-littlefeather-died-75/

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サチーン・リトルフェザーさん死去、享年75歳

2022-10-06 | 先住民族関連
BANG Showbiz 2022/10/05 07:00

© BANG Showbiz 提供 サチーン・リトルフェザー
サチーン・リトルフェザーさんが死去した。75歳だった。1973年のアカデミー賞授賞式でのスピーチ中にブーイングを受けたことについて、先日映画芸術科学アカデミーからの謝罪を正式に受け入れていたサチーンさんが2日(日)、カリフォルニア州ノヴァトの自宅で息を引き取ったという。リトルフェダーさんは26歳の時、『ゴッドファーザー』で主演男優賞に選ばれたものの受賞を拒否したマーロン・ブランドに代わり先住民女性として初めてアカデミー賞のステージに上がり、1分間のスピーチを行った際に野次を飛ばされていたことで知られる。
サチーンさんの訃報を伝えたのは同アカデミーで、「サチーン・リトルフェザー、1973年のアカデミー賞でマーロン・ブランドに代わり主演男優賞を断ったことで知られる米先住民権利活動家が75歳で亡くなりました」とツイッターに綴っていた。
死因などは発表されていないが、サチーンさんは以前、乳がんが転移したことを明かしていた。
ブランドは『ゴッドファーザー』のヴィトー・コルレオーネ役で主演男優賞に輝いたものの、サチーンさんが代わりにステージに上がり受賞を断り、スクリーン上での米先住民の描写や、アメリカン・インディアン運動(AIM)によるダコタの町ウンデッド・ニーの占領に関して抗議の意思を示していた。
約半世紀の時を経て今年8月、アカデミーが謝罪を表明、「あなたが耐えなければならなかった嫌がらせは不当であり、正当化することはできません。あなたが経験した感情的負担や私達の業界におけるあなたのキャリアへの代償は取返しのつかないものです。あまりにも長い間、あなたが見せた勇気は認められないままでした。これに対し、私達は深く謝罪すると共に心からの称賛の意を表します」とした上で、同アカデミーが先住民の声がグローバルな映画コミュニティにおいて尊敬された貢献者として存在し続けることに力を尽くすことを誓っていた。
先月にはロサンゼルスのアカデミー映画博物館でイベント「アン・イブニング・ウィズ・サチーン・リトルフェザー」が開催され、リトルフェダーさんはこう話した。「私はここで謝罪を受け入れます。私ばかりでなく、今夜この謝罪を聞く必要があり、それに値する全ての部族の人々への言葉として」「この会場にいるすべてのインディアンの方々に立っていただきたいと思います。仲間を見て、お互いを見て、私たち全員が生存者として立っていることを誇りに思ってください」「私がいなくなっても、あなたが真実のためにどこに立ち向かおうとも、私の声、そして私たちの国と民族の声を守り続けるのだということを、どうかいつも心に留めていてほしいのです」「私はサチーン・リトルフェザーのままであり続けます。ありがとうございます」
カリフォルニア州で生まれたサチーンさんは、サンフランシスコの劇団アメリカン・コンサーヴァトリー・シアターで演技を学んだ後、エンターテイメント業界でのキャリアを歩んでいた。
https://www.msn.com/ja-jp/entertainment/hollywood/サチーン-リトルフェザーさん死去-享年75歳/ar-AA12Bgi9

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