現代ビジネス10/22(土) 7:33
アメリカでしばしば話題になる「ウォーク文化」とはいったい何なのか。慶應義塾大学教授で、近著に『アメリカとは何か 自画像と世界観をめぐる相剋』があるアメリカ研究者の渡辺靖氏が解説する。
「ウォーク」の起源

オバマ氏〔PHOTO〕Gettyimages
この1年間に6回ほど米国に出張し、さまざまな大学やシンクタンクを訪れたが、そのたびに盛り上がるのが「ウォーク文化」に関する話だ。ウォークと言っても健康増進のための“walk”(歩行)ではなく、”wake”の過去分詞”woke”(目覚めた)を指し、具体的には「見えない差別や偏見のコードにも神経を研ぎ澄ましていること」を意味する。日本語の「意識が高い」「意識が高い人たち」といった表現の意味するところに近いが、より挑発的なニュアンスがある。
「ウォーク」という表現は1920年代前後から黒人の間で用いられ、1938年に発表された黒人ミュージシャン、レッドベリーの楽曲「スコッツボロ・ボーイズ」の最後に出てくる「目を覚ましたまま、彼らの目を開いたままにしておくのがベストだ」(”best stay woke, keep their eyes open”)というフレーズに直接的な起源を求める向きもある。
この曲は1931年にアーカンソー州スコッツボロで黒人のティーンエイジャー9人が白人女性2人をレイプした罪に問われたことへのプロテストソングだ。奴隷解放から70年近く経っても黒人への差別や偏見が執拗に続いていたが、社会に潜む見えないコードへの警戒を怠るなとのメッセージがそこには込められていた。
それ以降も”stay woke”という表現は主に黒人文化の中でたびたび用いられてきたが、全米で注目を浴びる契機になったのは、2014年にミズーリ州ファーガソンで起きた黒人青年マイケル・ブラウン射殺事件だ。当時18歳だったブラウンさんは、丸腰であったにもかかわらず、白人警官によって射殺された。
その事件に関する抗議デモに対して警察が催涙ガスを噴射したことから暴動へと発展し、「ブラック・ライブズ・マター」(BLM、黒人の命も大切だ)運動が全米に拡大した。その際、”stay woke“という表現も人口に膾炙するようになり、2017年にはオクスフォード英語辞典にも掲載された。
さらに大きな契機となったのが2020年のミネソタ州ミネアポリスで起きたジョージ・フロイド事件だった。白人警官が黒人男性フロイドさんを拘束し、首を9分間近く膝で押さえつけ死亡させた場面が、たまたま現場に居合わせた女子高生のスマホで一部始終撮影されていたことから、瞬く間に拡散。SNS上で「#BLM」や「#StayWoke」などのハッシュタグをつけた投稿が、米国のみならず、世界各地で飛び交った。
そして、もともとは黒人差別を糾弾するときに用いられた表現だった「ウォーク」は、より広く現代世界に巣食う人種や民族、国籍、宗教、身体性、年齢、性的指向への差別、あるいは格差拡大や貧困、自然破壊など、社会の不公正や不正義を告発する運動を表すキーワードになっていった。
発想としては1980年代から隆盛し始めた「ポリティカル・コレクトネス」(PC、政治的正しさ・適切さ)と似ている。私がハーバード大学で大学院生活を始めた1990年当時も、私の専攻科の授業の課題図書に女性研究者の著作が少ないことに対して、一部の女子学生が抗議していた。
私の寮のすぐ隣のロースクール(法科大学院)では、黒人教授の増加を求めるデモが繰り広げられていた。その中心人物がのちに大統領となるバラク・オバマ氏だった。こうした異議申し立てを社会の隅々にまで広げ、見えない差別や偏見を是正し、さらなる社会革新を目指すのが今日の「ウォーク文化」の特徴だ。
大学の「シラバス」に起きた変化
私は去る10月半ばにワシントン州シアトルにあるワシントン大学を訪れたが、そこでも「ウォーク文化」の広がりを感じた。ワシントンは全米有数のリベラル州で、しかもシアトルのような大きな都市はリベラル傾向が強い。とりわけ大学は総じてリベラル色が濃いこともあり、ある程度、予想はしていたものの、同大関係者から聞いたエピソードは実に興味深かった。
今年1月に同大のコンピューター・サイエンスの教授が担当授業のシラバス(授業計画)に「私は、財産に関する(ジョン・ロックの)労働理論にしたがって、コースト・サーリッシュの人びと(北米大陸の北西海岸の先住民族)が、現在、ワシントン大学が占有している土地のほとんどについて歴史的所有権を主張できないことを認めます」と記したことが裁判沙汰になっているという。同大では大地を守ってきた先住民に対する敬意の表明(”land acknowledgement”)を、各種のイベントや刊行物をはじめ、授業のシラバスなどでも明記するよう促している。
同教授のシラバスがこの方針に背くもので、かつコースト・サーリッシュの人びとを侮辱するものだと判断した事務局スタッフは、すぐにシラバスを削除し、学生に謝罪。同一内容の授業を他の教員も同時開講すると学生に伝えた。この措置に憤慨した当該の教授は、合衆国憲法修正第一条が定める「表現の自由」を侵害されたとして大学側を訴え、現在も係争中だ。
ちなみに、同大のIT部門が作成したスタッフ向けのガイドラインには、多様性に配慮したキャンパスづくりのため、たとえば、以下の表現を使用しないよう記されている。
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・Blackout、Blacklist、Blackboxなど(blackのイメージが人種差別を連想させるため)
・Webmasterなど(masterという表現が奴隷制時代の主従関係を連想させるため)
・Manpowerなど(manという表現が性差別を連想させるため)
・Housekeeping(家事=女性の仕事という性差別を連想させるため)
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その他、昼食を各自調達して参加するミーティングなどを指す「Brown bags」も不適切とされる。なぜなら、かつて黒人の間で行われていた、肌の色を「茶色の紙袋」の色と比較する慣習(”brown paper bag test“という)を連想させるからだという。
確かに、日々何気なく用いている表現を通して社会の意識を変えてゆくというのは一つの見識ではある。大きな変化は小さな実践の積み重ねのうえに成り立つからだ。その一方で、いざ私自身が同大で教鞭を取ることを想像すると、ある種の息苦しさを感じてしまうのもまた確かだ。
リベラル派がこうした「ウォーク文化」を肯定的に捉え、そのさらなる徹底を求めるのに対し、保守派は「不寛容なリベラル派による多様性の抹殺だ」「中国の文化大革命と変わらない」などと猛反発している。
たとえば、ドナルド・トランプ大統領(当時)は支持者集会の演説で東京五輪にトランスジェンダーの選手が参加したことに触れ、「東京五輪は台無しになった」「ウォークはすべての人びとから人生や喜びを奪う」と批判。人種差別抗議を行う女子サッカー米国代表選手に言及し、「ウォークのせいで女子サッカーは惨敗した」と挑発し、支持者から喝采を浴びた。
今年11月の選挙で再選が確実視され、かつ「ポスト・トランプ」の筆頭格であるフロリダ州知事ロン・デサンティス氏は、通称「ストップ・ウォーク法案」(Stop WOKE Act)に署名。これは、企業の特定のダイバーシティトレーニングを逆に「人種・性差別」であるとして制限する法案だ。
加えて同知事は、ウォルト・ディズニー社のテーマパーク「ディズニー・ワールド」が同州で享受してきた税制上の優遇措置などを廃止する法案にも署名している。これは、学校教育でLGBTQ(性的少数者)などに関する話題を取り上げることを禁じた同州の法律に同社が反発し、政治献金の打ち切りを表明したことへの報復措置とされる。
フロリダに限らず、保守的な州や地域を中心に、学校や職場における「批判的人種理論」(critical race theory)の蔓延を批判する動きも目立つ。「批判的人種理論」とは1970年代に法学の分野で提起されたもので、貧困や格差の根底に人種差別があるとの視点から現行の社会制度を批判する立場を指す。マルクス主義の流れを汲むフランクフルト学派などと結びつきながら、現代思想や社会運動に大きな影響を与えた。
本来、高度に学術的な理論だが、保守派は「批判的人種理論」を「白人=抑圧者」「米国=人種差別大国」と描く自虐史観の代名詞として攻撃の俎上に載せている。自らの存在や尊厳が否定(キャンセル)されていると考える保守派にとって「ウォーク文化」や「批判的人種理論」は、忌むべき米社会最大の病理の一つである。
実は、リベラル派の間でも「ウォーク文化」の過剰を懸念する声は少なくない。「表層的な言葉狩りだ」「インテリ層の関心にすぎず、労働者層をますます保守派の側に追いやってしまう」等々。しかし、実際にそうした声を挙げるのはかなりの勇気を要するのが実情だ。
日本でもSNSなどを中心に「ウォーク文化」が芽生え始めているが、米国に比べるとまだ皆無に等しい。多少なりとも米国内のトレンドに慣れ親しんでいる身からすると、政治家、公官庁や企業の幹部、あるいは各所の理事会や評議員会、審議会、選考委員会などにおける男性比率の多さに背筋がゾッとすることがある。刊行物などで著者などの生年や年齢を記す慣習も然り。米国の「ウォーク文化」であれば、これらを恰好の批判のターゲットにする気がしてならない。
センシティビティリーダー」の登場
アカデミー賞の受賞者が白人に偏重していることから「白すぎるオスカー」との批判が米国で湧き上がったのは2016年。すでに6年前の話だ。それ以降、各部門で非白人、非英語作品が積極的にノミネートされるようになっている。直近では、今年のノーベル賞の科学部門で女性受賞者がわずか一人だったこと、非科学部門を含む受賞者全員が欧米出身だったことへの批判が高まった。
批判の射程を広げ続ける「ウォーク文化」を前に、米国では作家やメディア、ミュージアム、学校、企業は表現に非常に敏感になっており、事前にチェックを行う「センシティビティリーダー」と称される専門職が隆盛している。
10月半ばの訪米時、ワシントン大学では有名なスザロ図書館を案内してもらった。荘厳かつ巨大なゴシック建築で、内部の読書室(Reading Room)はとりわけ優雅で、通称「ハリー・ポッター・ルーム」として知られているという。
映画「ハリー・ポッター」に登場するホグワーツ魔術学校のシーンを連想させるからだという。確かに納得だ。本当に美しい。ただ、「ウォーク文化」に関するエピソードを聞いた直後だったせいか、思わず「(原作者の)J・K・ローリングさんは反トランスジェンダー的だとしばしば炎上していますよね?」と口にすると、皆、苦笑し、口をつぐんだ。
渡辺 靖(慶應義塾大学教授)
https://news.yahoo.co.jp/articles/dd4218880717bc0656c72fbd86843f9acea1e08b?page=1