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アイヌ遺骨6体返還を 浦幌アイヌ協会、東大提訴 損害賠償請求も

2019-11-02 | アイヌ民族関連
北海道新聞 11/01 20:10 更新
 【釧路】十勝管内浦幌町の浦幌アイヌ協会は1日、東大を相手取り、同大が保管しているアイヌ民族の遺骨6体の返還と50万円の損害賠償を求めて釧路地裁に提訴した。協会が遺骨の返還を求めて提訴するのは北大、札幌医大に次いで3例目、損害賠償請求は東大が初めて。
 訴状によると、遺骨6体のうち5体は1888年(明治21年)、解剖学や人類学を研究していた東大教授が浦幌町ウツナイの墓地で発掘して持ち去り、残る1体は1965年(昭和40年)、同大の別の教授が同町十勝太の墓地から掘り出したとしている。
 遺骨は、6体の墓地を管理していた子孫で構成する同協会が遺骨の管理権を受け継ぐが、盗掘によって違法な占有が続き、慰霊行為が妨害されているとし、50万円の損害賠償も求めた。
 提訴後に釧路市内で記者会見した同協会の差間(さしま)正樹会長(69)は「慰霊行為は先祖の供養だけでなく、私たちの生活をお守りいただく意味合いもある。早く取り返したい思いでいっぱい」、市川守弘弁護士は「100年以上にわたって信教の自由という無形的利益が侵害されている」と話した。
 東大広報課は「提訴についてのコメントは差し控えたい」と話している。(熊谷知喜)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/360769

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遺骨返還求め東大提訴=北海道浦幌町のアイヌ協会-釧路地裁

2019-11-02 | アイヌ民族関連
JIJI.COM 2019年11月01日19時03分
 北海道浦幌町の浦幌アイヌ協会は1日、東京大学を相手取り、保管するアイヌの遺骨の返還を求める訴訟を釧路地裁に起こした。信教の自由が侵害されているなどとし、50万円の損害賠償も求めた。
 原告側は訴状などで、東大の教授2人が6体分の遺骨を研究目的で発掘し、大学に持ち帰ったと主張。5体は1888年に、1体は1965年に発掘されたとし、同町のアイヌ集団の子孫である自分たちが遺骨の管理権限を引き継いだと訴えている。
 原告側はこれまでに北海道大と札幌医科大を相手に同様の訴訟を起こし、いずれも大学側が遺骨を返還することで和解している。
 浦幌アイヌ協会の差間正樹会長は記者会見し、「大学が勝手に持って行った。返すべきだ」などと語った。
 東大広報課は「コメントは差し控える」と話している。
https://www.jiji.com/jc/article?k=2019110101096&g=soc

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アイヌ遺骨、白老に集約 慰霊施設、来春オープン 12大学に保管の1500体 /北海道

2019-11-02 | アイヌ民族関連
会員限定有料記事 毎日新聞2019年11月1日 地方版
研究利用、懸念も
 アイヌ民族の遺骨1500体以上を保管する北海道大など全国12大学と文部科学省が、11月上旬から12月中旬までの間に、遺骨を白老町で来年4月にオープンするアイヌ文化施設「民族共生象徴空間(ウポポイ)」の慰霊施設に移送する方向で検討している。関係者への取材で判明した。移送した遺骨は同施設に集約して管理するが、研究目的で利用される可能性があり、アイヌから批判が出ている。
 大学が保管するアイヌの遺骨の返還手続きを定めたガイドラインは、地域のアイヌ団体からの返還申請を10…
この記事は有料記事です。
残り538文字(全文780文字)
https://mainichi.jp/articles/20191101/ddl/k01/040/051000c

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遺骨返還求め東京大提訴 アイヌ協会、釧路地裁に

2019-11-02 | アイヌ民族関連
産経新聞 2019.11.1 18:18社会裁判
 北海道浦幌町の浦幌アイヌ協会は1日、東京大に対し、明治・昭和期に男性教授2人が研究目的で町内のアイヌ民族の墓地から持ち去った遺骨6体の返還と、50万円の損害賠償を求める訴訟を釧路地裁に起こした。協会が遺骨の返還を求めるのは北海道大、札幌医科大に続いて3例目。
 訴状によると、協会は6体の墓地を管理していたアイヌコタン(集落)の子孫らで構成し、遺骨の管理権を受け継いでいると主張。東大が遺骨を違法に占有しているため、慰霊を妨害されているとしている。
 6体のうち5体は明治21(1888)年に現在の浦幌町ウツナイで解剖学者が発掘。1体は昭和40年に別の教授が同町十勝太で掘り出した。
 差間正樹会長は提訴後の記者会見で「先祖が自分たちの土地に帰り、安らかに眠ってもらいたいという思いで提訴した」と話した。東大広報課は「コメントは差し控える」としている。
https://www.sankei.com/affairs/news/191101/afr1911010047-n1.html

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遺骨返還求め東大提訴=北海道浦幌町のアイヌ協会-釧路地裁

2019-11-02 | アイヌ民族関連
JIJI.COM 2019年11月01日19時03分
 北海道浦幌町の浦幌アイヌ協会は1日、東京大学を相手取り、保管するアイヌの遺骨の返還を求める訴訟を釧路地裁に起こした。信教の自由が侵害されているなどとし、50万円の損害賠償も求めた。
 原告側は訴状などで、東大の教授2人が6体分の遺骨を研究目的で発掘し、大学に持ち帰ったと主張。5体は1888年に、1体は1965年に発掘されたとし、同町のアイヌ集団の子孫である自分たちが遺骨の管理権限を引き継いだと訴えている。
 原告側はこれまでに北海道大と札幌医科大を相手に同様の訴訟を起こし、いずれも大学側が遺骨を返還することで和解している。
 浦幌アイヌ協会の差間正樹会長は記者会見し、「大学が勝手に持って行った。返すべきだ」などと語った。
 東大広報課は「コメントは差し控える」と話している。

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【ジャパン2020】 アイヌや琉球、「別の」日本を浮かび上がらせる織物コレクション

2019-11-02 | アイヌ民族関連
BBC NEWS JAPAN 2019年11月1日アンドレア・メアチャル=ワトソン

日本の文化に浸りきる。なんて素晴らしい時間なのだろう。でもどこから始めればいい? ラグビー・ワールドカップ(W杯)も終盤、来年には東京でオリンピック開催を控える中、この魅力的な国のスポーツに、多くの人が興味を向けている。
BBCの旅番組「Japan with Sue Perkins」では、案内人のスー・パーキンスが花見をしたりバーを訪れたり、その後は相撲を観戦していた。番組によれば、相撲という古来の儀式を通じて日本の文化が垣間見えるという。
同じように日本文化を垣間見れるのが、最近発売された「Textiles of Japan: The Thomas Murray Collection(日本の織物:トーマス・マリー・コレクション)」という図録だ。
総重量4キロにもなるこの図録は、日本の織物を知らない人にとっては、腕の筋肉を鍛えなおすだけでなく、織物という芸術を見直すきっかけになるだろう。
そこには江戸城や能楽堂を彩った豪華な絹や錦の織物ではなく、「別の」日本が生み出した、しかしなお日本文化の根幹を成すような織物が収録されている。
それは庶民の、農民や猟師の、そして古代にルーツを持つ少数民族の世界だ。
トーマス・マリー氏のアジアの島々への興味は、アイルランド人で船乗りだったおじのトーマス・キルケニー氏が語った、食人習慣や首狩りの話に端を発する。
1960年代、マリー氏はシャーマニズムへの興味や、ヒッピーカルチャー、ドラッグなど(マリー氏はこれらをおおっぴらに認めている)に影響され、インドネシアの織物や彫刻を集め始めた。
日本の織物に出会ったのは1982年、シャーマニズムに関する展示にコレクションを出品してほしいと頼まれたときのことだった。
マリー氏は、「私はコレクションをひとつも売らなかった。今でも、『これは欧州の趣味だ。しかし私たちは日本人だから、独自の好みがある』という辛らつな非難を覚えている」と語っている。
福岡市美術館の岩永悦子学芸課長は図録の序文で、「トーマス・マリー氏はこの日本らしさ、日本の美学の本質といったものを見つけるために奮闘した」と書いている。
「その答えがこの本の中にあるはずだ」
マリー氏はまた、「織物や衣服の小さな隙間から、社会全体についての非常に広い知見を得られると気づいた」と述べている。
「私はこの本を、自分の脳の2つの側面を使って書いた。厳格に学術的な側面と、直感的で織物を愛する側面だ。私が保証できるのは、この本で上半身を鍛えられるということだけだ」
マリー氏の織物コレクションは今年3月、米ミネアポリス美術館が非公開の値段で買い取っている。
庶民の芸術を保全する
日本の織物の中でマリー氏が注力したのは、北海道のアイヌ民族の作品と、1879年に日本に併合されるまで琉球王国という別の国だった沖縄の、紅型(びんがた)と呼ばれる色鮮やかな織物だ。
他の文化に染まっていない先住民族の芸術、また現地社会や自然素材への憧れに押され、マリー氏は民芸運動を踏襲し、民芸品を集め始めた。
民芸運動とは、大正後期から始まった、古来の民芸品や庶民の日用品に美を見いだす活動のこと。運動の中心人物だった柳宗悦氏によって1936年に建てられた日本民芸館には、現在1万7000点の収蔵品がある。
アメリカで美術品の取引などを行っている増元クミさんは、「工芸品は粗悪で洗練されていないというイメージがあるが、日本の民芸品は多くの分野で、その洗練された水準が評価されつつある」と話した。
18世紀から20世紀半ばにかけ、アイヌの衣服はイラクサや麻といった植物やニレの樹皮、そして鮭の皮などで作られていた。
狩猟や採集を主とし、日本社会から疎外されてきたアイヌは、こうした基礎的な素材を金にも匹敵する織物に変えてきた。実際、アイヌの衣服は現在、かなりの値段になる。
また、アイヌは不思議で高価な綿(何しろイラクサよりもずっと柔らかい)を使い、素晴らしいアップリケを施した礼服を作った。こうした礼服はクマをいけにえとする儀式などでしか着られないため、その多くが素晴らしい状態で残っている。
一方、沖縄の織物はアイヌのものに比べ、日本の美学に近しいものがある。
紅型には、防染(布の一部を染めない手法)や型染めといった、インドネシアや中国、インドから渡来してきた技術が使われており、その歴史は14世紀までさかのぼる。
染めのパターンは草花、魚、木、水など、自然から着想を得ている。また、着ている人の階級が一目で分かるよう、デザインは厳格に決められていた。明るいデザインは高い階級でしか使われず、庶民は藍や黒に染めた、シンプルで暗いデザインのものを着ていたという。
また、前もって染め分けた糸を織っていくイカットの手法も、貴族階級にだけ許されていた。
マリー氏の図録を出版したハリ・パブリケーションズのダニエル・シャファー主任編集長は、「アイヌの織物は高額だし、沖縄の素晴らしい紅型はなかなか市場に出てこない」と話す。
一方でシャファー氏は、この本の成功には驚いているという。
「我が社で最も成功した本になったし、すでに第2版が決まっている」
宮廷や貴族階級のまとう華美な衣服ではない代わりに、地域社会で生まれた衣服や織物にはある共通のモチーフが使われている。強運や富、幸せを呼び寄せたり、あるいは悪を寄せ付けないための意匠だ。
アイヌの衣服においては、おそらくスキタイやシベリアに由来する動物の意匠に加護の力があると考えられていた。
英ヴィクトリア・アンド・アルバート(V&A)美術館でアジア美術を担当するアンナ・ジャクソン氏はこの本の序文で、「こうした織物の中には、霊的信仰と切り離せないものもある」と説明している。
吉兆の印や動植物の意匠は、マリー氏が所蔵する他の織物にも登場する。羽織や寝具、火消しの法被などだ。
こうしたモチーフは今日まで日本の織物に使われ、その精密さと芸術性が評価されているが、これこそが日本の芸術家たちが取り上げる物語のテーマの一部を形作っている。その物語は多くが感動的な内容だ。
ハリ・パブリケーションズのベン・エヴァンズ編集長は、「季節の移り変わり、愛、文化的な行事、どれも人気のテーマだが、それらを自然や人生の移ろいにまつわる神秘的なアイデアと融合させている」と説明した。
「非常に閉鎖的で、名誉や階級との関係に強く縛られている社会では、こうした境界を乗り越える表現として織物がある」
あらゆるところに存在する藍染め
日本の素晴らしい織物芸術の秘密で大きな役割を果たしている、染めについても話をしよう。
雄黄(ゆうおう)、辰砂(たつさ)、カイガラムシ、墨などが使われているが、中でも異常なまで市場を独占しているのが、藍を使った藍染めだ。これは、1630年代から1853年までの鎖国政策に理由がある。
今日に至るまで、藍染めの生地は日本文化のあらゆるところに存在しており、その歴史的資料としては、数え切れないほどの版画を取り上げることができる。
V&A美術館のジャクソン氏は歌川広重やその他の画家の作品を取り上げ、こうした画家が衣服や布に並々ならぬ興味を示していたと指摘した。
エヴァンズ編集長も、「日本の織物の伝統はなお大きく、活気に満ちている。例えば1555年創業の京都の老舗「千總」は今も着物を作っている」と話す。
一方、1800年代後半から洋服が普及し始めたことで、着物は特別な時の衣服へと変遷していった。
「西洋の現代的な服装が力強く根付いた結果、伝統的な日本の衣服は何年も危機にさらされている」と増元さんは語る。
アメリカ先住民と同じように抑圧され、疎外されてきたアイヌに関しては特にこのことが言えるだろう。日本政府は2008年まで、アイヌを先住民族と認めていなかった。
そして2020年、北海道に国立アイヌ民族博物館が設立される。マリー氏は、「これはアイヌ復権運動の一環で、特別な儀式で着用された伝統的な柄の手織物の復刻なども含まれている」と話した。
古来の染め技術もまた、復刻されつつある。
イギリスのジャパン・ハウス・ロンドンでは今年初め、「襲(かさね)」に関する展示会が開かれた。襲とは着物の色の組み合わせのことで、かつては特権階級がその階級や好み、育ちの良さなどを表すため使ったという。起用された「染司よしおか」は京都で代々植物染めを受け継いでおり、歴史的資料や布地のサンプルから古い時代の技術を復刻している。
ロンドンのV&A美術館でも2020年、着物の展示が行われる予定だ。着物の芸術を通じて、「社会的な肌」とされる衣服がどのように階級や権力、経済、そして芸術を理解する手段となるかを解き明かすという。
着物はいつか過去の遺物となり、ほとんどが美術館の中に閉じ込められてしまうのだろうか?
増元さんはこの問いについて、「『日本の素晴らしい伝統的な織物』と銘打たれるさまざまな衣服が、急激に人気を失っている」と話した。
「それでもなお、日本の織物デザインの中にある創意工夫や創造の力は素晴らしいもので、新しい革新的な織物関連産業に影響を与え続けている」
(英語記事 The fabrics that reveal the 'other' Japan)
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-49985327

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北海道埋蔵文化財センターで「ムックリ作り体験」 国立アイヌ民族博物館PRの一環で

2019-11-02 | アイヌ民族関連
北海道経済新聞 2019.11.01
 北海道埋蔵文化財センター(江別市西野幌、TEL 011-386-3231)で11月2日、体験イベント「ムックリをつくろう」が開催される。
 2020年4月24日にオープンする国立アイヌ民族博物館(白老町大町1)のPR展示の一環として行われる。主催は国立アイヌ博物館設立準備室。
 ムックリはアイヌ民族に伝わる竹製の楽器で、口琴と呼ばれる楽器の一種。竹製の薄い板の中央に弁が付いており、弁にひもが付いている。ひもを引っ張ることで弁を振動させ、口腔(こうこう)内で共鳴させて音色を奏でる。音程はほとんど変わらないが、口の形を変えて共鳴する音を変化させるのが特徴。
 同センターの坂本尚史さんは「ムックリ作り体験が、アイヌ文化に『触れる』、そして『知る』一つのきっかけになれば」と話す。
 開催時間は13時30分~14時30分。参加無料。対象は小学生以上。電話での申し込みが必要。
https://sapporo.keizai.biz/headline/3189/

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アイヌ民族の過去と今、舞台で表現 劇団「妖怪大縁会」

2019-11-02 | アイヌ民族関連
北海道新聞 11/01 20:58 更新

 アイヌ民族の過去と今をテーマにした舞台が1日、札幌市西区のコンカリーニョで始まった。アイヌ民族の女性と和人の青年の出会いを描き、歴史や差別を巡る痛みとどう向き合うかを問いかける作品で、観劇した約100人からは大きな拍手が送られた。
 道内の社会人や学生による劇団「妖怪大縁会」主催。上演作の「妖怪百歌物語~ホロケウカムイ篇(へん)」は、同化政策などで生活や言葉を奪われた過去に加え、今ある差別や偏見も描いている。所々に登場するホロケウカムイ(エゾオオカミ)が物語の鍵を握る。
 劇中の音楽は生演奏で、アイヌ民族の豊川容子さん(41)も歌い手として参加。オリジナル曲「ホロケウカムイの謡(うたい)」など深みのある歌声を披露した。舞台は2、3日も開かれるが、チケットはいずれも完売。キャンセル待ちのみとなる。(斉藤千絵)
★「ホロケウカムイ」の「ロ」は小文字
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/360792

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ウポポイの広告付き年賀はがき発売 白老

2019-11-02 | アイヌ民族関連
北海道新聞 11/01 19:23
 【白老】日本郵便北海道支社は1日、胆振管内白老町に開業するアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」の広告付き年賀はがきを発売した。広告付き年賀はがきの発行は北海道で初めて。
 来年4月24日のオープンをPRしようと、ウポポイのロゴマークと完成イメージ図の広告があしらわれた5万枚を製作した。1枚58円。白老町が広告主となっており、通常より5円安い。胆振管内と札幌市の一部の郵便局計85局で販売する。
 開業まで半年を切り、認知度向上が課題のウポポイ。年賀はがきが全国に届けられ、年間来場者100万人の目標が「正夢」になるか―。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/360758

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道と札大、アイヌ文化振興で連携協定

2019-11-02 | アイヌ民族関連
北海道新聞 11/01 16:18
 道と札幌大学(札幌市豊平区)は1日、アイヌ文化の振興などで協力する包括連携協定を結んだ。
 両者は、胆振管内白老町に来年4月に開業するアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」のPRやアイヌ政策の講座開催などで協力する予定。
 道庁で開かれた協定調印式で、鈴木直道知事は「国内外にアイヌ文化を強力に発信したい」と述べ、札大の荒川裕生理事長は「道と結びつき、次世代の地域を担う人材を育成したい」と話した。(鹿内朗代)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/360656

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電気自動車、あなたが思うほど「環境に優しい」? リチウム採掘の現状(動画)

2019-11-02 | 先住民族関連
BBC NEWS JAPAN 2019年11月1日
2030年までに、世界中で1億2500万台の電気自動車(EV)が街中を走ると予想されている。しかし、その電池を動かすリチウムはどこから来ているのか?
地球上で最も軽い金属とされるリチウム、その大半は南米アンデス山脈の塩類平原の地下に埋まっている。
アルゼンチン・フフイ州では現在、大規模なリチウム採掘プロジェクトが進行している。一方、この地域はアルゼンチンで最も先住民族が多く暮らしている場所でもある。
また、水が貴重な乾燥地帯であるにもかかわらず、リチウムの精製には大量の真水が必要とされる。
そこには不安と反発を覚える人たちがいた。
https://www.bbc.com/japanese/video-50258885

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パイプラインから原油流出、反対根強いキーストーン 米ノースダコタ州

2019-11-02 | 先住民族関連
CNN 2019.11.01 Fri posted at 11:35 JST

米ノースダコタ州で、パイプラインから原油が流出しているのが見つかった/TC Energy
(CNN) 米ノースダコタ州で、カナダと米国を結ぶキーストーン・パイプラインから約9120バレル(約145万リットル)の原油が流出しているのが見つかった。TCエネルギーが明らかにした。
原油はノースダコタ州北東部のエディンバーグ北部で、約2000平方メートルの範囲に流出していた。
同社は29日に同パイプラインで圧力の低下が検知されたため、直ちに閉鎖したと説明している。流出の原因は分かっておらず、独立機関がパイプラインを調べている。
大気の質や水質、野生生物などのモニターも続ける予定で、今のところ負傷者はなく、野生生物への影響も確認されていないという。
ノースダコタ州環境品質局も、湿地帯で原油が流出し、同局の担当者が現場で対策に当たっていることを明らかにした。
今回の流出について、非営利組織の先住民族環境ネットワークは「キーストーンXLの建設に関してまさに我々が懸念していた事態だ」と述べ、パイプラインのインフラ安全対策が不十分だったとして同社を批判した。
キーストーン・パイプラインはカナダのアルバータ州から米テキサス州まで全長約4000キロを結ぶ。流出が起きたのはアルバータ州を起点として米イリノイ州とオクラホマ州へと延びる「キーストーン1」と呼ばれる部分だった。
同パイプラインをネブラスカ州へと延長する「キーストーンXL」のプロジェクトについては、TCエネルギーは2020年にも建設に着工したい意向だが、反対の声も根強く、過去には警察とデモ参加者の衝突も起きている。
https://www.cnn.co.jp/usa/35144793.html

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【美土路の見どころ】 意表つく「ハカ」への向き合い方 3位決定戦ではいかに

2019-11-02 | 先住民族関連
BBC NEWS JAPAN 2019年11月1日

杯準決勝の試合前、ハカを披露するニュージーランド代表に向き合うイングランドの選手たち(手前)
ニュージーランド代表と対戦するチームがまず直面するのが、伝統的な踊り「ハカ」だ。今大会はこれまでにない向き合い方もみられ、ハカをめぐる議論が起きている。
開催国日本のファンが自国以外の国歌も覚えて歌うという新しい応援スタイルが話題を呼んだラグビーワールドカップ(W杯)日本大会は、1880年代からオールブラックス(ニュージーランド代表の愛称)が試合前に行ってきたハカという伝統の在り方について改めて考えるきっかけにもなった。
準決勝で選手がV字形を作ってハカに対抗したイングランドは、国際統括団体のワールドラグビーから罰金を科せられた。
これは、ハカのような文化的挑戦を受けるチームはハーフウェイラインを越えてはいけないという大会規則に一部の選手が反したことに対する処分。2011年W杯決勝でハーフウェイラインを越えてハカに迫ったフランスにも、同様の処分が下っている。
V字形に賞賛の声
一方、通常の横1列ではなくV字形に並んで挑戦し返したイングランドの行為自体は、ニュージーランドでも肯定的に受け止められている。
オールブラックスのスティーヴ・ハンセン監督が「ハカは挑戦であり、受けて立たなくてはならない。(イングランドの対抗策は)見事で独創的でもあった」と話し、ニュージーランド人のウェールズ監督、ウォーレン・ガトランドも「すべてのチームはハカに対抗することができる。イングランドは背中を向けたりせず、ハカに敬意を持って受けて立った」とコメント。
英ガーディアン紙の「ニュージーランド人がイングランドのハカへの対応を賞賛」と題した記事によると、ニュージーランドの多くのハカの専門家が、イングランドの行為はマオリ文化を冒涜するものではないと見ているという。
もともと、オールブラックスの対戦相手は、様々な形でハカに対抗してきた。
「素晴らしい挑戦」
1989年にダブリンでオールブラックスを迎え撃ったアイルランドは一列になって前進し、ハカを行うオールブラックスの選手の顔に自分たちの顔がぶつかるぐらいまで迫った。
この時、レフェリーは止めに入ろうとせずに静観。オールブラックスのウェイン・シェルフォードは、後にアイルランドのスポーツチャンネルの番組の中で「素晴らしい挑戦」と振り返っている。
1995年W杯の決勝では、ハーフウェイラインまで前に出て並んだスプリングボクスに対して、逆にオールブラックスのジョナ・ロムーがハカを行いながらにじり寄り、ロックのコウバス・ヴィーゼが一歩も引かずに受けて立って、最後は顔と顔がぶつからんばかりだった。
2003年W杯では、オールブラックスがハカを始めると、対するトンガもシピ・タウを始め、お互いの文化的挑戦の応酬となった。
ロッカールームで
こうした対戦相手によるハカへの挑戦の仕方を巡って、オールブラックスが試合直前のフィールドではなくロッカールームでハカを行う異例の事態が起きたことがある。
ウェールズが1905年に初めてオールブラックスと対戦した試合では、ハカの後にウェールズ国歌を歌っている。2005年に行われた100周年記念試合でこれが再現されたが、翌2006年にオールブラックスがウェールズに遠征した時、ホストのウェールズ協会がハカの後にウェールズ国歌を歌って対抗する試合運営にしたところ、ニュージーランド側がこれを拒否。結局折り合いがつかずに、オールブラックスは自分たちのロッカールームでハカを行った後にフィールドへと出ていった。
イングランドのV字形ほど目立つものでなくても、対戦チームはそれぞれ対応策を考えている。オールブラックスのペースで試合に入ることを避けるため、ハカが終わった後に一つの動作を入れて一度リセットしようと、トラックスーツを着て入場し、ハカの後に脱いでキックオフに臨むチームもある。
オーストラリアで取材したトライ・ネイションズ(南半球の3カ国対抗戦)のある試合では、ハカが終わった後にオーストラリアの応援歌である「ワルチング・マチルダ」を観客が歌手のリードで合唱し、それからキックオフに向かうという運営だった。
是非を問う声も
オールブラックスを一方的に利するようにも見えるハカだが、それでも世界のラグビー界は先住民族の文化に敬意を表し、伝統を重んじて受け入れてきた。
しかし、今大会の会期中には、ハカを行うこと自体の是非に関する議論が起きていた。
発端はアイルランドの「スポーツライター・オブ・ザ・イヤー」を受賞したこともあるユアン・マッケンナが、W杯開幕直後の9月23日にアイルランドのスポーツウェッブサイトに「ハカはニュージーランドを不要に優遇するもので止めるべきだ」と主張するコラムを掲載したことだった。
同じ時期に、ラグビーだけでなく社会問題、政治問題にまで積極的に意見を表明している元イングランド代表選手のブライアン・ムーアは「ハカには飽きた」とツイッターに投稿した。
禁止論や中止論も
イングランドの挑戦とそれに対するワールドラグビーの処分は、この議論を再燃させた。
英デイリーメイル紙のオンライン版は「オールブラックスのハカの禁止を求める声高まる」と題した記事を10月30日付で掲載した。
さらに、ニュージーランドヘラルド紙も同日付で、ハカはオールブラックスの選手の集中力を削いでエネルギーを消費するという視点から、ハカをやめる時期にきたというスポーツライター、クリス・ラテューの記事を掲載している。
オールブラックスには今大会、もう一度ハカを行う機会がある。11月1日に行われるウェールズとの3位決定戦だ。
3位決定戦については、その存在意義が長く問われている。ワールドラグビーは、銅メダルを争うオリンピックに倣って「ブロンズファイナル」と呼んでいるが、決勝進出目前で敗れた2チームによる試合という実態に変わりはない。
目標に向かって対決
かつては、この試合に意味を持たせるため、3位までに次大会の出場権を与えたこともあった。
しかし、1995年W杯の3位決定戦でフランスに敗れたイングランドが、1999年W杯の欧州予選でオランダと110-0の大差の試合を演じるに至って、この制度は廃止。現在は1次リーグ各組3位までの計12チームに次大会の出場権が与えられている。
オールブラックスの対戦相手のウェールズは、今年のシックス・ネイションズ(欧州6代表対抗戦)でグランドスラム(全勝優勝)を果たし、W杯直前の今年8月には初の世界ランク1位になるなど、優勝への期待がこれまでで最も高いチームだっただけに、準決勝敗退の失望は大きい。
しかし、過去34回対戦して3回しか勝っていないオールブラックスから66年振りの白星を挙げて1987年W杯以来の自己最高タイとなる3位を目指すという目標がある。
30秒以上にらみ合い
オールブラックスは優勝候補の筆頭として臨んだ1999年W杯の準決勝でフランスに歴史に残る敗北を喫した後、さらに3位決定戦でも南アフリカに敗れて、ラグビー王国として大きな屈辱を味わった。
スティーヴ・ハンセン監督は3位決定戦に向け、「大事な試合だ。(モチベーションは)いろいろあるが、まずは敗戦から立ち直ること。そして、ウェールズに対しては(66年間負けていない)歴史がある。それを守る責任がある」と話している。
ウェールズはかつて、ユニークな方法でハカに対抗したことがある。
2008年にウェールズ・カーディフで行われた一戦で、一列に並んでオールブラックスに対峙した選手たちは、ハカが終わってもその場を全く動かずに黒衣の相手をにらみつけ続けた。これにはオールブラックスも動くわけにはいかず、にらみ合いは30秒以上続いた。
東京スタジアムでは、どんな挑戦が見られるだろうか。
https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-50258247

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狩猟民族と環境破壊 彼らが学ぶおさまりのつかない問題とは? <下川裕治の旅をせんとや生まれけむ>

2019-11-02 | 先住民族関連
アエラ 019.11.1 11:30
「おや?」と思って立ち止まる。そしてはじまる旅の迷路――。バックパッカーの神様とも呼ばれる、旅行作家・下川裕治氏が、世界を歩き、食べ、見て、乗って悩む謎解き連載「旅をせんとや生まれけむ」。第12回は「狩猟民族と環境問題」について。
*  *  *
 それは僕の性格なのか、旅を重ねるとそうなっていくのか。辺境と呼ばれるエリアを訪ねることが多い。そこで先住民と出会うことになる。
 しばらく台湾の秘境温泉を歩いていたが、そこにいたのはタイヤル族、ブヌン族といった台湾の先住民だった。温泉脇で彼らが酒を飲んでいたが、つまみは山のネズミだった。山道に入ろうとすると、日本語を話す先住民の老人からこういわれた。
「ヘビが出るぞ。うまいぞ」
 彼らの食生活は狩猟の時代を受け継いでいた。
 その後、カナダのユーコン準州から北西(ノースウエスト)準州に向かった。インディアンやイヌイットが暮らす世界である。
 9月だった。10月にはサケが遡上(そじょう)し、11月には川が凍結していく。このエリアの多くの土地は北極圏だった。
 インディアンは、遡上するサケを捕らえ、薫製にする。その小屋を北極海に向かって流れるマッケンジー川に沿った村で探したが、なかなかみつからなかった。北極海に面したトゥクトヤクトゥクまで辿り着いてしまった。「ARCTIC OCEAN」(北極海)という看板がある岬の脇に、いくつかの薫製小屋があった。小屋のなかには誰もいなかったが、なにかできすぎたシチュエーションに観光のにおいがした。ここまでやってきた観光客に薫製のサケ……。
「10月に入ると、ユーコン川やマッケンジー川をサケがあがってくる。でも、資源保護のために捕獲する数が厳しく制限されているんだ。政府からね。獲ったサケは政府が買いとる。だから昔のようにサケは獲れない。薫製小屋も減ってきたんだ」
 途中の商店の前であった中年の男性が教えてくれた。インディアン? と訊くと、タッチョーネといった。インディアンのひとつのグループである。
「政府は森の動物の狩猟も厳しく制限している。インディアンはもともと狩猟民族。私たちの生活手段は、ことごとく環境問題とぶつかるんですよ」
 理不尽さが残った。インディアンの捕獲する量は、環境を破壊するほどの量ではない。環境に影響を与える捕獲は、ビジネスのための漁だった。
 欧米人がこの一帯に入り込んだきっかけは金だった。ゴールドラッシュである。彼らは力でインディアンの土地を手に入れていく。やがてカナダという国に組み込まれ、インディアンは教育を受ける機会を手に入れる。そこで彼らが学ぶ内容のなかには環境問題も含まれている。なにかおさまりのつかない環境問題が横たわっている。
 話をしていると、山から銃声が聞こえた。彼の体がピクッと動いた。狩猟民族の血が反応している気がした。
https://dot.asahi.com/dot/2019103000023.html?page=1

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熱い心と冷たい頭。緒方貞子さんが教えてくれたこと

2019-11-02 | 先住民族関連
Forbes 2019/10/31 18:00

「緒方貞子さん死去。92歳」
その速報をみたのは昼の電車の中で、涙が溢れてきてスマホの画面から目が離せなかった。そのあと、駅の立ち食い蕎麦を一人で食べながら、やっぱり涙が止まらなくて、お蕎麦の中にポタポタたれた。悲しさと、それを上回る悔しさで涙が止まらなかった。
またやってしまった。会いたい人に、大事な人に、会いたいときにちゃんと会いに行こうと、祖父が亡くなったときあんなに誓ったのに。緒方さんの「私の仕事」を最初に読んだのは中学生のときだった。
次から次に立ちはだかる困難に、人間味あふれる彼女が、葛藤の中で考え抜いて挑んでいた。中学生の私にとって、難民問題や国際関係は難しすぎて、正直あまり理解できなかった。しかし、日本人の女性でこんな人がいるんだと、そのかっこよさに憧れて、わたしも国連で働きたいと思った。
彼女が国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)で高等弁務官の職に就いたのがちょうど自分が生まれた1991年だったことも印象に残った。英語の授業で不規則に変化する動詞があることを知り、途方に暮れていた時期のわたしは「へ〜緒方さんは英語がしゃべれるのかな…」と、今考えると非常に失礼なことを思った。英語を使って仕事をしている人など、田舎の中学生には想像できなかったし会ったこともなかった。
もちろんその時は、将来自分が英語を使って仕事をする日がくるとは1ミリも思っていなかった。でも国連で働きたいなんてことは大きすぎて、恥ずかしくて言えなかった。
大学で国際文化学科に入り、開発と人権のゼミで勉強し、バングラデシュの先住民族の地域(チッタゴン丘陵地帯)でNGOの活動をした。そこは見えない紛争地だった。同地域にある国連開発計画(UNDP)でもインターンした。理不尽さに泣けてくる事ばかりだった。
軍がバックアップする入植者によって先住民族の村が襲撃されても、国連は直接的に非難することも、支援活動することも出来なかった。なぜかというと、国連の役割は政府の活動を支援する存在だから。”政治的配慮”の存在を初めて体で感じた。
緒方さんは大きな組織のトップとして、人命を扱う組織として、きっと政府に配慮しなきゃいけないことばかりで、いったい現場でなにを考えたんだろうと、Amazonで「緒方貞子ー難民支援の現場から」を注文した。結局、首都から12時間離れたバングラデシュの山奥には、注文した本は1カ月経っても届かなかった。あの本はおそらく、今もバングラデシュのどこかで止まっているはずだ。
そんな22才の私は、憧れていた国連という組織に少しお邪魔させてもらいつつ、目の前で起きる出来事に対してどうしたらよいか分からなくなった。キレイなことしか教えてくれない大人たちにも正直イライラした。あつくるしい学生だったと思う。美しい写真ばかり載っている国連の報告書にも悲しくなった。いや、同じ地域で少女へのレイプ事件が起きているのに、なぜそれは載せないの?と怒りがこみ上げた。
政府とのパートナーシップが大事なんて、頭ではわかるけど、その政府が市民を殺してるとき、ニコニコとパートナーシップが大事と言うのかと。勝手に襲撃事件のための支援金を集め始めたときは、チーフに呼び出された。「国連は中立だ。先住民族だけに肩入れしないように」という厳重注意だった。自分も先住民族であるにも関わらず、そう言わなくてはいけないチーフの心の内を当時は想像できず、悔しさに泣きながら家に帰った。
先住民族の若者たちの中には、本気で社会を変えようとしている子たちもいた。首都の大学で学び、留学をして、いつか海外で学んだ知見を愛する故郷のために使いたいと、停電の中でも勉強している子たちがいた。襲撃事件で村が焼かれると、真っ先に現場に行くジャーナリストの友人もいた。カメラを持って現場に入ることで、自分がブラックリストに載ることも理解していた。
一人で考えていても、こんなことじゃ前に進まないと思って、進んだのが東京大学大学院「人間の安全保障プログラム」だった。人間の安全保障という概念が生まれたきっかけには、緒方さんとインドのアマルティア・センという経済学者が共同議長を務めていた『人間の安全保障委員会』(2003年)の報告書がある。冷戦が終わり、国境を超え多様化・複雑化した課題に人々が直面するいま、国家の安全保障だけでは人間の安心・安全を保障することは難しい。国家の安全保障と人間の安全保障は相互補完的な概念だ。
その大学院に入るために、上京したのが24歳だった。同級生たちは、もう社会人2年目だった。静岡県の田舎と、バングラデシュの先住民族の村にしか住んだことがなかった女の子にとって、人と情報に溢れた東京は驚きの連続だった。ああ渋谷のスクランブル交差点って本当にあるんだ、と思った日を覚えている。
いろんな人に出会った。これまでの人生で出会ったことがない種類の大人にも出会い、視野が広がった。
そんな中の一人が、日本に難民としてやってきた青年だった。コンゴ民主共和国という、うっすら名前は聞いたことはあるけど、地図上では明確に指差せない国から来ていた。「遠っ!」って思った。スーツを着ておしゃれな帽子を被っていた。
そんな彼と彼の友人たちには、家がなかった。夜はマクドナルドで過ごしたり、日中は山手線に1日7周乗ったりしながら時間を潰していた。終電までは寒さをしのげるそうだ。彼らがひたすらに時間を潰しながら待っていたのは「難民認定」だった。
それはどのくらいの人が得られるものなのか調べたら、その年は、7586人の申請者のうち、27人だった……。
これが、日本の難民が置かれる現状を知ったときだった。不当逮捕されて市民が殺されたり、女の人へのレイプや性暴力が権力に従わせる手段として使われたり、暮らしていた街が空爆されたり、学生の平和的な抗議運動を軍隊が制圧したりする混乱から、どうにか逃れ、希望を求めて日本にやってきた賢くて優しい同世代の若者たちが、東京でひたすら、どこにも所属できない宙ぶらりんな状態でいた。
少しずつ、そんな状態にいる人たちの存在が見えてきた。渋谷駅、日比谷公園、埼玉の蕨市……人に聞いて、足を運び、少しずつ繋がっていった。日本には政府の難民キャンプやシェルターがないので、モスク(イスラム教の礼拝堂)での仮住まいや最悪、野宿になる人もいた。冬は、特にきつい。24時間のマクドナルドで朝まで話しこんだり、寝袋でみんなで寝たりする中で聞いたのが、こういった話だった。
「今度の選挙が誰も死なずに終わるように、日本から仲間を手伝ってる」「ブロックチェーンの技術を使って経済圏を作りたい」「意欲があるけれど貧しい家庭の子どもたちの奨学金を作りたい」何だこの輝く人たちは! 聡明で優しい同世代たちの存在に、好奇心が掻き立てられた。
NPO法人WELgee(ウェルジー)は2016年、こうした対話から始まった。こんな魅力ある人たちがいるなら、それを伝えたいと思ったことから、最初は彼らと社会をつなぐ活動を始めた。ユニークな彼らが、国籍や民族や出身に関係なく、日本で生き生きと暮らし働き始めている社会を想像すると、この国にとっても、なかなかいいなと思った。模索の日々の中から「難民ホームステイ」という活動が始まった。
オフィスは無料で借してもらっていた1Kで、寝袋で寝ていた。いつも誰かが泊まっていた。難民の若者たちも家がないときは泊まっていた。日本の家庭で、難民としてやってきた若者たちが一緒に時間を過ごす。
10の都道府県で20のホームステイを進めてきた2017年の世界難民の日に、国連のシンポジウムに登壇者として呼ばれた。表参道の国連大学にある大きなホールだった。他の登壇者はみんな、国際報道の解説者や国連機関や国際機関や何十年も活動されてる支援団体の人だった。MIYAVIさんもいた。きれいめの服を着たものの、どう考えてもわたしだけ浮いていた
これならバングラデシュの先住民族の民族衣装でも着てくればよかったと思った。壇上で、当時進めていた難民ホームステイについて話した。「難民」と聞いた時の印象と、一緒に時間を過ごした後の印象は全然違うんだということを話し、同世代の難民の若者たちがもつ魅力について話した。かわいそうというよりは、これは日本にとっても、もったいないと素直に伝えた。
話しながらふと気づいたのたが、最前列で、こちらをじっと見ながら聞いてくれていた小さな女性が、……なんと緒方さんだった。
びっくりして息が止まりそうだったけれど、どうにかパネルディスカッションが終わった。単なる学生だったわたしは、終わった後、彼女に会うことができなかった。会いたかった。心の中ではすごく会いたかったけれど、おつきの人に連れられて見えなくなってしまった。まあ、彼女に会える立場ではないなと小さく納得した。
あれから数年、もがいてきた。緒方さんも聞いてくれた「難民ホームステイ」のプログラムは一旦閉じた。ホストファミリーを引き受けてくれた方々は今も活動を応援してくれている。難民の人からもたくさんの声が届いたけれど、結局、ホームステイをしたあと、彼らには行く場所がなかったのだ。自立の道がなかった。また東京で一人で過ごすのかと。私たちは「出口」を作れていなかった。
そうなると、シェルターが大事な気がした。今日寝るところもないのに、今後の人生のことなんて考えられない。本来は、国を逃れてきた人たちに、認定されるまでのひたすら待つ時間に安全な場所を提供するのは政府の難民キャンプや、シェルターだが、それがない。
NGOの現場が火の車になりながら、やっとアパートを提供できているのも全部で30部屋くらいしかなく、ネットカフェ代を渡してどうにか生き延びてもらっていることも知った。頑張るNGOにとっても、NGOが提供しているから、政府がやらなくていいという言い訳になってはいけないだろうというもどかしさはあった。
UNHCRの駐日事務所がどんな活動をしているかも知った。日本は海外の難民キャンプに多額の支援をしているから、日本政府としての難民の政策にコメントしづらい立場であることも痛いほど理解した。組織の中で奮闘し、最善を模索するスタッフさんたちの声も聞いた。
難民の学生に奨学金を提供するプログラムもある。大学が連携し若者に学びの場を提供することは、日本や祖国の未来だ。でも残念なことに、日本政府に難民として認定された人しか応募ができなかった。例えば2018年は認定された38人しか応募が叶わないということになる。大学3年までを母国で過ごし、日本に逃れてきた青年は、まだ認定を待っていた。応募資格に当てはまらなかった。
そして、そんなことを考えている間にも、収容されてゆく人たちがいる。いま、全国の入国管理センターの中の収容施設に1000人以上が収容されている。こないだまで一緒に話をしていた人が、ガラス越しでしか会えなくなる。30分だけの面会は辛い。なぜ自分が収容されているかわからない無期限収容はきつい。長期収容に抗議するハンガーストライキが起こって、中で命を落とした人もいる。
正しさとははなんなのか、国家の安全保障とはなんなのか、人間の安全保障とはなんなのか。正直、この課題は政治的すぎて、イデオロギーが絡みすぎて、既存の団体の壁も想像以上に分厚くて、変わらない現状に支援団体も疲弊していて、わたしたちも混乱した。
法務省は、偽装難民が増加しているという理由で、2018年に「難民認定制度の適正化のための更なる運用の見直し」をかけた。難民ではないのに、偽装で難民申請する人、それをさせる仲介業者が増えると、真の難民の審査の時間がさらに長くなる。その通りだ。
しかしそれによって、難民認定申請をするための書類の受理さえしてもらえない人も出てきた。待っている間に得る在留資格も、以前より頻繁に更新しなくてはいけないものになった。住民票の登録ができるのもかなり後になった。収容されている人は、以前に比べると外に出られなくなった。
いま、日本にいるほとんどは「難民」にもなれない「難民申請者」だ。つまり、日本政府が難民として認定する前の人たちである。こないだ会ったスリランカの男性は、難民認定までに12年かかったそうだ。ある青年は3年半、一度も審査のインタビューにも呼ばれていない。
国境管理をする政府の立場としたら、難民ではないかもしれない人、保障できない人が国に入ってくることを脅威に感じるだろう。しかし他に手段がない、迫害を逃れてやってくる人たちが成田空港に今日も辿り着いているのもまた事実だ。現実解はどこにあるんだ?
私の判断の拠り所となったものは、ただひとつ、彼らを「救わなければならない」ということであった。この基本原則(プリンシプル)を守るために、私は行動規範(ルール)を変えることにした。(緒方貞子『私の仕事』草思社、2002年)
あれからも緒方さんに会いたいとは、もちろんずっと思ってた。でも、私の中では彼女は大きな存在すぎた。明確な答えを持たない、まだなにも成し遂げていないわたしが会ってもいいのか、勝手に考え悩み、今はまだ会えないと思ってしまった。
政府が捉える脅威を乗り越えられるようないい提案も見出せてないし、日本という主権国家を目の前にして国連がどうするべきなのかもわからない。いまじゃない、と。
2019年8月、全く別の機会に偶然、緒方さんの息子さんにお会いした。そのときも、自分が日本にきた難民の活動をしていると、喉まで出かかって言い出せなかった。彼女が入院していることも知ったのに、会いに行きたいと伝えられなかった。「人生でなんども励まされ背中を押されました。会えて嬉しいです」とだけ言えれば十分だったはずなのに。
就労許可がなくなった友人の途方に暮れる顔や、日本にもういられないと帰れないはずの国に帰国した友人、生きてる価値がないと言う同世代や、入管の収容施設でハンガーストライキをして死んでいく人、命をつないだ国に、希望が見出せず鬱になる人がいる。なにもできてない自分が悔しくて、緒方さんにはまだ会えないと呪縛をかけていた。一方で、生き生きと一歩を踏み出した人たちも大勢知っている。試行錯誤の中で多くの人の力を借りながら、WELgeeは、難民の就活に伴走する事業を始めた。
就職を果たした7名の中には企業にイノベーションをもたらす人材もいた。「生きることは、働くことなんだ」という難民の若者たち、「新しい事業を成功に導く優秀な社員の一人として期待しているよ」という日本の企業の幹部の社員さんたち、家がなかった頃にうちの緊急シェルターに暮らしたアフリカの家族は、お父さんが就職し家族を支えながら、小学生のお姉ちゃんは今や日本語ペラペラで覚えたばかりの九九を教えてくれる。
ゼロからプログラミングを研修したアフガニスタンの同い年の人は、プログラマーとして日々師匠に学びつつ働き、独自のアプリを開発している。起業経験もある西アフリカ出身のSさんは、アフリカ進出を目指す上場企業の中核社員として採用された。
とはいえ、道のりは簡単ではない。まず言葉や文化の壁、「難民」という言葉からネガティブなイメージや、何よりも在留資格の壁など、新卒の日本の学生のシューカツと比べた時の壁は多い。そんな中でも、想いのある経営者の方々が「成長意欲の高い人材が欲しい」「誰もが上を向いて歩ける社会を作りたい」と、難民というレッテルを超え、ひとりの能力ある人材として捉え、採用に至ってきた。
政府だけが、難民問題を解決するアクターではない。彼らは、いつか平和になる祖国や世界の担い手であり、行き詰まった社会や会社に新しい風をもたらす。この、難民の就職に伴走する事業がもう少し形になったら、社会的・経済的・法的安定性を、政府だけではなくて民間企業と作ってゆくモデルを作れたら、彼女に会いに行こうと勝手に思っていた。息子さんに送るためのメールは、ずっとメールの下書きBOXにあった。
だから、緒方さんの死去のニュースに、悲しさと悔しさが押し寄せた。自分に対する怒りも沸いた。自分は変わってしまったのかもしれないとも思った。
いろんなことを知り、学び、希望を見出し動いてきたはずだったのに、現実を知った結果、考えすぎた結果、現実的なコメントをもらいすぎたわたしは、自分の感情に素直に「緒方さんに会いたい!」と叫ぶこともできない人間になっていた。
若者失格か? こうやって若者たちは大人になってゆく。バランスをとり、権力や大きな力になにも言わない大人になってゆくのか。豊かな感性を押し殺し、おかしいと思ったことを、おかしいと言わない大人になってゆくのか。
緒方さんが2019年10月29日にわたしに教えてくれたことは、もう一度、自分の心の声に素直になることだった。
『熱い心と冷たい頭(Hot heart, cool head)』
これも緒方さんの言葉。決してあきらめない強い決意と、熱心な思いやり、冷静かつ機転のきく優秀な頭脳。実際はうまくいかないことも多い。でも課題の大きさのせいにはしたくない。課題がでかいことなんてわかってる。しかし現場には、うまくいかない瞬間と同じくらい、心がときめく瞬間がある。
2019年、強制的に家を終われた人は7000万人となった。そんな中、これからも私たちは、たくさん未来に向けた戦略を練ってゆく。
一方的に「難民」を「支援する」のではなく、彼らと一緒に、イノベーションを起こしてゆきたい。唯一の正解なんてない。しかし世界の混乱の中で、どこの国にも所属できない人たちが、様々な課題解決のアクターになっていく未来がある。
緒方さんは、「国家主権の前でなにもできない国連」と揶揄される時もある組織の中にいることももちろん理解していたし、その存在の重要性も矛盾もジレンマも人一倍感じていた。でも最後まで不思議なほどずっと前向きだった。意志ある強い言葉と前向きさ。国際協調や、各国間の連携や、意志ある人たちの連帯を信じていた。それが世界を動かした。
「忍耐と哲学をかければ、物事は動いていく」(緒方さん)
緒方さんの存在に、背中を押されたたくさんの人たちの中の一人として、緒方さんに胸をはって報告できる世界の一部を作りたいし、作ろうと思います。天国で会ったら、今度こそ声をかけるんだ。
安らかに、お眠りください。たくさんの勇気をありがとうございました。
※ここに記したことは個人の見解であり、所属する組織の公式見解ではありません。
https://forbesjapan.com/articles/detail/30486

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