Forbes 2019/10/31 18:00
「緒方貞子さん死去。92歳」
その速報をみたのは昼の電車の中で、涙が溢れてきてスマホの画面から目が離せなかった。そのあと、駅の立ち食い蕎麦を一人で食べながら、やっぱり涙が止まらなくて、お蕎麦の中にポタポタたれた。悲しさと、それを上回る悔しさで涙が止まらなかった。
またやってしまった。会いたい人に、大事な人に、会いたいときにちゃんと会いに行こうと、祖父が亡くなったときあんなに誓ったのに。緒方さんの「私の仕事」を最初に読んだのは中学生のときだった。
次から次に立ちはだかる困難に、人間味あふれる彼女が、葛藤の中で考え抜いて挑んでいた。中学生の私にとって、難民問題や国際関係は難しすぎて、正直あまり理解できなかった。しかし、日本人の女性でこんな人がいるんだと、そのかっこよさに憧れて、わたしも国連で働きたいと思った。
彼女が国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)で高等弁務官の職に就いたのがちょうど自分が生まれた1991年だったことも印象に残った。英語の授業で不規則に変化する動詞があることを知り、途方に暮れていた時期のわたしは「へ〜緒方さんは英語がしゃべれるのかな…」と、今考えると非常に失礼なことを思った。英語を使って仕事をしている人など、田舎の中学生には想像できなかったし会ったこともなかった。
もちろんその時は、将来自分が英語を使って仕事をする日がくるとは1ミリも思っていなかった。でも国連で働きたいなんてことは大きすぎて、恥ずかしくて言えなかった。
大学で国際文化学科に入り、開発と人権のゼミで勉強し、バングラデシュの先住民族の地域(チッタゴン丘陵地帯)でNGOの活動をした。そこは見えない紛争地だった。同地域にある国連開発計画(UNDP)でもインターンした。理不尽さに泣けてくる事ばかりだった。
軍がバックアップする入植者によって先住民族の村が襲撃されても、国連は直接的に非難することも、支援活動することも出来なかった。なぜかというと、国連の役割は政府の活動を支援する存在だから。”政治的配慮”の存在を初めて体で感じた。
緒方さんは大きな組織のトップとして、人命を扱う組織として、きっと政府に配慮しなきゃいけないことばかりで、いったい現場でなにを考えたんだろうと、Amazonで「緒方貞子ー難民支援の現場から」を注文した。結局、首都から12時間離れたバングラデシュの山奥には、注文した本は1カ月経っても届かなかった。あの本はおそらく、今もバングラデシュのどこかで止まっているはずだ。
そんな22才の私は、憧れていた国連という組織に少しお邪魔させてもらいつつ、目の前で起きる出来事に対してどうしたらよいか分からなくなった。キレイなことしか教えてくれない大人たちにも正直イライラした。あつくるしい学生だったと思う。美しい写真ばかり載っている国連の報告書にも悲しくなった。いや、同じ地域で少女へのレイプ事件が起きているのに、なぜそれは載せないの?と怒りがこみ上げた。
政府とのパートナーシップが大事なんて、頭ではわかるけど、その政府が市民を殺してるとき、ニコニコとパートナーシップが大事と言うのかと。勝手に襲撃事件のための支援金を集め始めたときは、チーフに呼び出された。「国連は中立だ。先住民族だけに肩入れしないように」という厳重注意だった。自分も先住民族であるにも関わらず、そう言わなくてはいけないチーフの心の内を当時は想像できず、悔しさに泣きながら家に帰った。
先住民族の若者たちの中には、本気で社会を変えようとしている子たちもいた。首都の大学で学び、留学をして、いつか海外で学んだ知見を愛する故郷のために使いたいと、停電の中でも勉強している子たちがいた。襲撃事件で村が焼かれると、真っ先に現場に行くジャーナリストの友人もいた。カメラを持って現場に入ることで、自分がブラックリストに載ることも理解していた。
一人で考えていても、こんなことじゃ前に進まないと思って、進んだのが東京大学大学院「人間の安全保障プログラム」だった。人間の安全保障という概念が生まれたきっかけには、緒方さんとインドのアマルティア・センという経済学者が共同議長を務めていた『人間の安全保障委員会』(2003年)の報告書がある。冷戦が終わり、国境を超え多様化・複雑化した課題に人々が直面するいま、国家の安全保障だけでは人間の安心・安全を保障することは難しい。国家の安全保障と人間の安全保障は相互補完的な概念だ。
その大学院に入るために、上京したのが24歳だった。同級生たちは、もう社会人2年目だった。静岡県の田舎と、バングラデシュの先住民族の村にしか住んだことがなかった女の子にとって、人と情報に溢れた東京は驚きの連続だった。ああ渋谷のスクランブル交差点って本当にあるんだ、と思った日を覚えている。
いろんな人に出会った。これまでの人生で出会ったことがない種類の大人にも出会い、視野が広がった。
そんな中の一人が、日本に難民としてやってきた青年だった。コンゴ民主共和国という、うっすら名前は聞いたことはあるけど、地図上では明確に指差せない国から来ていた。「遠っ!」って思った。スーツを着ておしゃれな帽子を被っていた。
そんな彼と彼の友人たちには、家がなかった。夜はマクドナルドで過ごしたり、日中は山手線に1日7周乗ったりしながら時間を潰していた。終電までは寒さをしのげるそうだ。彼らがひたすらに時間を潰しながら待っていたのは「難民認定」だった。
それはどのくらいの人が得られるものなのか調べたら、その年は、7586人の申請者のうち、27人だった……。
これが、日本の難民が置かれる現状を知ったときだった。不当逮捕されて市民が殺されたり、女の人へのレイプや性暴力が権力に従わせる手段として使われたり、暮らしていた街が空爆されたり、学生の平和的な抗議運動を軍隊が制圧したりする混乱から、どうにか逃れ、希望を求めて日本にやってきた賢くて優しい同世代の若者たちが、東京でひたすら、どこにも所属できない宙ぶらりんな状態でいた。
少しずつ、そんな状態にいる人たちの存在が見えてきた。渋谷駅、日比谷公園、埼玉の蕨市……人に聞いて、足を運び、少しずつ繋がっていった。日本には政府の難民キャンプやシェルターがないので、モスク(イスラム教の礼拝堂)での仮住まいや最悪、野宿になる人もいた。冬は、特にきつい。24時間のマクドナルドで朝まで話しこんだり、寝袋でみんなで寝たりする中で聞いたのが、こういった話だった。
「今度の選挙が誰も死なずに終わるように、日本から仲間を手伝ってる」「ブロックチェーンの技術を使って経済圏を作りたい」「意欲があるけれど貧しい家庭の子どもたちの奨学金を作りたい」何だこの輝く人たちは! 聡明で優しい同世代たちの存在に、好奇心が掻き立てられた。
NPO法人WELgee(ウェルジー)は2016年、こうした対話から始まった。こんな魅力ある人たちがいるなら、それを伝えたいと思ったことから、最初は彼らと社会をつなぐ活動を始めた。ユニークな彼らが、国籍や民族や出身に関係なく、日本で生き生きと暮らし働き始めている社会を想像すると、この国にとっても、なかなかいいなと思った。模索の日々の中から「難民ホームステイ」という活動が始まった。
オフィスは無料で借してもらっていた1Kで、寝袋で寝ていた。いつも誰かが泊まっていた。難民の若者たちも家がないときは泊まっていた。日本の家庭で、難民としてやってきた若者たちが一緒に時間を過ごす。
10の都道府県で20のホームステイを進めてきた2017年の世界難民の日に、国連のシンポジウムに登壇者として呼ばれた。表参道の国連大学にある大きなホールだった。他の登壇者はみんな、国際報道の解説者や国連機関や国際機関や何十年も活動されてる支援団体の人だった。MIYAVIさんもいた。きれいめの服を着たものの、どう考えてもわたしだけ浮いていた
これならバングラデシュの先住民族の民族衣装でも着てくればよかったと思った。壇上で、当時進めていた難民ホームステイについて話した。「難民」と聞いた時の印象と、一緒に時間を過ごした後の印象は全然違うんだということを話し、同世代の難民の若者たちがもつ魅力について話した。かわいそうというよりは、これは日本にとっても、もったいないと素直に伝えた。
話しながらふと気づいたのたが、最前列で、こちらをじっと見ながら聞いてくれていた小さな女性が、……なんと緒方さんだった。
びっくりして息が止まりそうだったけれど、どうにかパネルディスカッションが終わった。単なる学生だったわたしは、終わった後、彼女に会うことができなかった。会いたかった。心の中ではすごく会いたかったけれど、おつきの人に連れられて見えなくなってしまった。まあ、彼女に会える立場ではないなと小さく納得した。
あれから数年、もがいてきた。緒方さんも聞いてくれた「難民ホームステイ」のプログラムは一旦閉じた。ホストファミリーを引き受けてくれた方々は今も活動を応援してくれている。難民の人からもたくさんの声が届いたけれど、結局、ホームステイをしたあと、彼らには行く場所がなかったのだ。自立の道がなかった。また東京で一人で過ごすのかと。私たちは「出口」を作れていなかった。
そうなると、シェルターが大事な気がした。今日寝るところもないのに、今後の人生のことなんて考えられない。本来は、国を逃れてきた人たちに、認定されるまでのひたすら待つ時間に安全な場所を提供するのは政府の難民キャンプや、シェルターだが、それがない。
NGOの現場が火の車になりながら、やっとアパートを提供できているのも全部で30部屋くらいしかなく、ネットカフェ代を渡してどうにか生き延びてもらっていることも知った。頑張るNGOにとっても、NGOが提供しているから、政府がやらなくていいという言い訳になってはいけないだろうというもどかしさはあった。
UNHCRの駐日事務所がどんな活動をしているかも知った。日本は海外の難民キャンプに多額の支援をしているから、日本政府としての難民の政策にコメントしづらい立場であることも痛いほど理解した。組織の中で奮闘し、最善を模索するスタッフさんたちの声も聞いた。
難民の学生に奨学金を提供するプログラムもある。大学が連携し若者に学びの場を提供することは、日本や祖国の未来だ。でも残念なことに、日本政府に難民として認定された人しか応募ができなかった。例えば2018年は認定された38人しか応募が叶わないということになる。大学3年までを母国で過ごし、日本に逃れてきた青年は、まだ認定を待っていた。応募資格に当てはまらなかった。
そして、そんなことを考えている間にも、収容されてゆく人たちがいる。いま、全国の入国管理センターの中の収容施設に1000人以上が収容されている。こないだまで一緒に話をしていた人が、ガラス越しでしか会えなくなる。30分だけの面会は辛い。なぜ自分が収容されているかわからない無期限収容はきつい。長期収容に抗議するハンガーストライキが起こって、中で命を落とした人もいる。
正しさとははなんなのか、国家の安全保障とはなんなのか、人間の安全保障とはなんなのか。正直、この課題は政治的すぎて、イデオロギーが絡みすぎて、既存の団体の壁も想像以上に分厚くて、変わらない現状に支援団体も疲弊していて、わたしたちも混乱した。
法務省は、偽装難民が増加しているという理由で、2018年に「難民認定制度の適正化のための更なる運用の見直し」をかけた。難民ではないのに、偽装で難民申請する人、それをさせる仲介業者が増えると、真の難民の審査の時間がさらに長くなる。その通りだ。
しかしそれによって、難民認定申請をするための書類の受理さえしてもらえない人も出てきた。待っている間に得る在留資格も、以前より頻繁に更新しなくてはいけないものになった。住民票の登録ができるのもかなり後になった。収容されている人は、以前に比べると外に出られなくなった。
いま、日本にいるほとんどは「難民」にもなれない「難民申請者」だ。つまり、日本政府が難民として認定する前の人たちである。こないだ会ったスリランカの男性は、難民認定までに12年かかったそうだ。ある青年は3年半、一度も審査のインタビューにも呼ばれていない。
国境管理をする政府の立場としたら、難民ではないかもしれない人、保障できない人が国に入ってくることを脅威に感じるだろう。しかし他に手段がない、迫害を逃れてやってくる人たちが成田空港に今日も辿り着いているのもまた事実だ。現実解はどこにあるんだ?
私の判断の拠り所となったものは、ただひとつ、彼らを「救わなければならない」ということであった。この基本原則(プリンシプル)を守るために、私は行動規範(ルール)を変えることにした。(緒方貞子『私の仕事』草思社、2002年)
あれからも緒方さんに会いたいとは、もちろんずっと思ってた。でも、私の中では彼女は大きな存在すぎた。明確な答えを持たない、まだなにも成し遂げていないわたしが会ってもいいのか、勝手に考え悩み、今はまだ会えないと思ってしまった。
政府が捉える脅威を乗り越えられるようないい提案も見出せてないし、日本という主権国家を目の前にして国連がどうするべきなのかもわからない。いまじゃない、と。
2019年8月、全く別の機会に偶然、緒方さんの息子さんにお会いした。そのときも、自分が日本にきた難民の活動をしていると、喉まで出かかって言い出せなかった。彼女が入院していることも知ったのに、会いに行きたいと伝えられなかった。「人生でなんども励まされ背中を押されました。会えて嬉しいです」とだけ言えれば十分だったはずなのに。
就労許可がなくなった友人の途方に暮れる顔や、日本にもういられないと帰れないはずの国に帰国した友人、生きてる価値がないと言う同世代や、入管の収容施設でハンガーストライキをして死んでいく人、命をつないだ国に、希望が見出せず鬱になる人がいる。なにもできてない自分が悔しくて、緒方さんにはまだ会えないと呪縛をかけていた。一方で、生き生きと一歩を踏み出した人たちも大勢知っている。試行錯誤の中で多くの人の力を借りながら、WELgeeは、難民の就活に伴走する事業を始めた。
就職を果たした7名の中には企業にイノベーションをもたらす人材もいた。「生きることは、働くことなんだ」という難民の若者たち、「新しい事業を成功に導く優秀な社員の一人として期待しているよ」という日本の企業の幹部の社員さんたち、家がなかった頃にうちの緊急シェルターに暮らしたアフリカの家族は、お父さんが就職し家族を支えながら、小学生のお姉ちゃんは今や日本語ペラペラで覚えたばかりの九九を教えてくれる。
ゼロからプログラミングを研修したアフガニスタンの同い年の人は、プログラマーとして日々師匠に学びつつ働き、独自のアプリを開発している。起業経験もある西アフリカ出身のSさんは、アフリカ進出を目指す上場企業の中核社員として採用された。
とはいえ、道のりは簡単ではない。まず言葉や文化の壁、「難民」という言葉からネガティブなイメージや、何よりも在留資格の壁など、新卒の日本の学生のシューカツと比べた時の壁は多い。そんな中でも、想いのある経営者の方々が「成長意欲の高い人材が欲しい」「誰もが上を向いて歩ける社会を作りたい」と、難民というレッテルを超え、ひとりの能力ある人材として捉え、採用に至ってきた。
政府だけが、難民問題を解決するアクターではない。彼らは、いつか平和になる祖国や世界の担い手であり、行き詰まった社会や会社に新しい風をもたらす。この、難民の就職に伴走する事業がもう少し形になったら、社会的・経済的・法的安定性を、政府だけではなくて民間企業と作ってゆくモデルを作れたら、彼女に会いに行こうと勝手に思っていた。息子さんに送るためのメールは、ずっとメールの下書きBOXにあった。
だから、緒方さんの死去のニュースに、悲しさと悔しさが押し寄せた。自分に対する怒りも沸いた。自分は変わってしまったのかもしれないとも思った。
いろんなことを知り、学び、希望を見出し動いてきたはずだったのに、現実を知った結果、考えすぎた結果、現実的なコメントをもらいすぎたわたしは、自分の感情に素直に「緒方さんに会いたい!」と叫ぶこともできない人間になっていた。
若者失格か? こうやって若者たちは大人になってゆく。バランスをとり、権力や大きな力になにも言わない大人になってゆくのか。豊かな感性を押し殺し、おかしいと思ったことを、おかしいと言わない大人になってゆくのか。
緒方さんが2019年10月29日にわたしに教えてくれたことは、もう一度、自分の心の声に素直になることだった。
『熱い心と冷たい頭(Hot heart, cool head)』
これも緒方さんの言葉。決してあきらめない強い決意と、熱心な思いやり、冷静かつ機転のきく優秀な頭脳。実際はうまくいかないことも多い。でも課題の大きさのせいにはしたくない。課題がでかいことなんてわかってる。しかし現場には、うまくいかない瞬間と同じくらい、心がときめく瞬間がある。
2019年、強制的に家を終われた人は7000万人となった。そんな中、これからも私たちは、たくさん未来に向けた戦略を練ってゆく。
一方的に「難民」を「支援する」のではなく、彼らと一緒に、イノベーションを起こしてゆきたい。唯一の正解なんてない。しかし世界の混乱の中で、どこの国にも所属できない人たちが、様々な課題解決のアクターになっていく未来がある。
緒方さんは、「国家主権の前でなにもできない国連」と揶揄される時もある組織の中にいることももちろん理解していたし、その存在の重要性も矛盾もジレンマも人一倍感じていた。でも最後まで不思議なほどずっと前向きだった。意志ある強い言葉と前向きさ。国際協調や、各国間の連携や、意志ある人たちの連帯を信じていた。それが世界を動かした。
「忍耐と哲学をかければ、物事は動いていく」(緒方さん)
緒方さんの存在に、背中を押されたたくさんの人たちの中の一人として、緒方さんに胸をはって報告できる世界の一部を作りたいし、作ろうと思います。天国で会ったら、今度こそ声をかけるんだ。
安らかに、お眠りください。たくさんの勇気をありがとうございました。
※ここに記したことは個人の見解であり、所属する組織の公式見解ではありません。
https://forbesjapan.com/articles/detail/30486