先住民族関連ニュース

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厚岸湖の丸木舟 泥が「保存」

2019-11-11 | アイヌ民族関連
北海道新聞 11/11 16:00

白老に貸し出された板綴舟の舟底部分の発掘作業の様子。泥の中に舟を伏せた状態で埋まっていた(町海事記念館提供、宮川佳治さん撮影)
ウポポイ貸し出し含め 江戸期の7隻分出土
 【厚岸】厚岸湖で1987年に発掘され、町海事記念館で長年展示されていたアイヌ民族の外洋向け丸木舟「板綴舟(いたつづりぶね)(イタオマチプ)」の舟底部分が9月、胆振管内白老町で来年4月に開館するアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」の中核施設「国立アイヌ民族博物館」に、展示の目玉として貸し出された。厚岸湖ではこれまで江戸時代のものとみられるアイヌ民族の丸木舟が、破片状のものも含め計7隻分出土、このうち4隻分が板綴舟の舟底部分だ。なぜ厚岸湖で多く出土したのか、町海事記念館の熊崎農夫博(のぶひろ)専門員の解説でひもとく。(村岡健一)
 国立アイヌ民族博物館に貸し出された舟は全長566センチ、幅60センチ、高さ19センチのセンノキ製。厚岸湖北東部の干潟から出土し、板綴舟の特徴である波よけの板「舷側板(げんそくばん)」を取り付けるための穴が舟べりに規則正しく残る点で価値が高い。同館で「交流」をテーマにしたコーナーの目玉として、厚岸湖で出土した舷側板やかいと一緒に展示予定だ。
道東の拠点 交易や漁労
 江戸時代、厚岸は道東のアイヌ民族の一大拠点として栄えていた。天然の良港・厚岸湾や厚岸湖を拠点に、板綴舟で根室市落石や十勝管内浦幌町の辺りにも行き来し、交易や漁労も行っていたとみられる。
 厚岸湖では78~97年、町教委が丸木舟の発掘調査を行った。78年に湖岸東側で埋蔵文化財調査やアッケシソウの分布調査をしていた際に偶然、波打ち際から40メートルほど沖の干潟から、先端部がわずかに露出した1隻を発見したのがきっかけだ。この舟は、白老に貸し出した舟の代わりに9月から町海事記念館で展示されている。残存率40%程度で、貸し出した舟より保存状態は悪いが、サイズは若干大きく全長607センチ、幅60センチ、高さ19センチのセンノキ製だ。
 これまで舟が発見されたのはいずれも厚岸湖岸の北東部と東部の2地区で、波打ち際と平行した状態で干潟の泥に埋もれていた。熊崎専門員は、何らかの理由で放棄された舟が潮の流れや風に吹き寄せられ、2地区に集中したのではないかとみている。
波当たらず 腐食も遅く
 白老に貸し出された舟も、発見時は干潮で姿を現した湖北東部の干潟で、波打ち際と平行に泥の中に埋まっていた。熊崎専門員は「泥でパックされたため、腐食のスピードが遅くなり、状態良く保存されていた。もし海岸に打ち寄せられていたとしたら、激しい波浪の影響で残らなかっただろう」と指摘する。
 町教委によると、厚岸湖を含む道東は、北海道の下に潜り込む太平洋プレートの影響で、発掘当時より地盤沈下している。もし、まだ舟が泥に埋まっていたとしても、水面下だったり岸から遠いなど、発見するのは難しくなっているという。
 熊崎専門員は「発掘当時は全国的に考古学ブームで熱気もあった。厚岸湖で行われた発掘は、最後のチャンスを生かせたと言える」と話している。
〈メモ〉
 厚岸湖では昔からカキ漁が行われてきた。湖岸には続縄文時代(紀元前1世紀ごろ)からアイヌ文化期(17~18世紀ごろ)の先住民族とアイヌ民族の遺跡「神岩チャシ跡及び竪穴群」(北海道指定史跡)などがある。釧路市立博物館では「蝦夷生計図説(えぞせいけいずせつ)」に描かれている舟をモデルに、1992年に北海道ウタリ協会釧路支部(現・釧路アイヌ協会)に製作を依頼した板綴舟(全長7.6メートル、全幅1.3メートル)を展示している。
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/363618

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「トコロチャシ跡遺跡群」整備 21年度から北見市教委 竪穴住居など復元

2019-11-11 | アイヌ民族関連
北海道新聞 11/11 05:00

通路や案内看板が設置されるトコロチャシ跡遺跡群
 北見市教委は2021~24年度、国指定史跡の常呂遺跡を構成する「トコロチャシ跡遺跡群」に通路や案内看板を整備し、竪穴住居など復元する。02年、常呂遺跡に追加指定されたが、整備が手つかずだった。市教委は今年10月に整備基本計画を策定。見学しやすい環境を整え、市民が歴史を学び、観光客が立ち寄る場にする。
 常呂遺跡は約128万4千平方メートルで、常呂川河口付近からサロマ湖東岸にかけて東西8・6キロにわたり、大きく4区域に点在する。このうちトコロチャシ跡遺跡群は、常呂川近くに広がり約6万5千平方メートル。17、18世紀にアイヌ民族が砦(とりで)や儀式の場などにしたとされるチャシのほか、8、9世紀のオホーツク文化期に、オホーツク人が暮らした竪穴住居などが見つかっている。
 市教委は、遺跡群を散策できるように通路を整備するとともに、チャシを囲んでいた柵やオホーツク文化期などの竪穴住居を復元する。案内看板やトイレ、駐車スペースも設ける計画だ。20年度、実施設計に着手し、翌21年度に着工予定。
 常呂遺跡の整備を巡っては、旧常呂町が1990年代、栄浦地区に復元住居や埋蔵文化財センターを備えた史跡公園「ところ遺跡の森」を整えたが、それ以外の地区の常呂遺跡は保存・管理にとどまっている。
 トコロチャシ跡遺跡群が02年、国指定史跡に追加指定されたことを受け、行政や有識者らが常呂遺跡全体をどう保存・活用すべきか方向性を議論してきた。14年度から整備基本計画の策定を本格的に進め、北見市街や網走方面からアクセスの良いトコロチャシ跡遺跡群を学びや憩いの場とする方針を含めた計画が今年、完成した。
 策定に関わったところ遺跡の森の山田哲所長は「常呂遺跡の保存と活用を推進し、貴重な文化遺産として将来に継承していきたい」と話している。(本田みなみ)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/362164

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憲法違反してまで4選、直後に辞任 ボリビア大統領なぜ

2019-11-11 | 先住民族関連
朝日新聞 2019年11月11日18時00分 アチャカチ〈ボリビア北部〉=岡田玄
 南米ボリビアのエボ・モラレス大統領(59)が10日、辞任に追い込まれた。10月の大統領選で「4選」をしたばかりだったが、選挙をめぐる不正への抗議デモが広がるなか、職にとどまることができなくなった。なにが支持を急落させたのか。
 「先住民族のアイマラ出身の彼は、私たち先住民の苦境をわかってくれていると信じていた。希望だった」
初の先住民出身の大統領
 標高3800メートルの高地にあるティティカカ湖畔の街、アチャカチの公務員ネルソン・キスペさん(34)は10月20日に行われた選挙を前に、モラレス氏をこう表現した。酪農を営む父母やきょうだいとともに、モラレス氏をずっと支持してきた。母のマリア・クティリさん(65)は「演説で『兄弟姉妹よ』と呼びかけられ、私たちのための大統領だと思えた」と語った。
 ボリビアは、先住民や先住民の血を引く人が国民の半数以上とされる。だが、政治や経済は長年にわたって、人口の1割ほどでしかない白人系が握り、先住民は進学や就職の機会が限られてきた。そんななか、2005年に初の先住民出身の大統領として当選したのがモラレス氏だった。就任すると、貧困層を手厚く支援する政策を展開し、妊婦や子どもへの補助金を創設したほか、高齢者へは支給額を増やした。暮らしの貧しい先住民たちは、モラレス氏に期待を寄せた。
広がる汚職疑惑
 だが、モラレス氏はいまや、先住民から「カラ・インディヘナ」と呼ばれる。「カラ」はアイマラ語で金持ち、「インディヘナ」はスペイン語で先住民の意味だ。キスペさんも「彼は変わってしまった」と悲しそうに話す。
 就任から13年を経て、政権幹部から地方の与党関係者まで汚職疑惑が広がる。モラレス氏も大統領官邸を高層ビルにし、故郷には700万ドルをかけて自身の功績をたたえる博物館を建設した。さらに、イメージを悪化させたのは、今回の立候補に至る経緯だ。
 ボリビアは09年、モラレス氏の主導で憲法を改正し、大統領の任期は連続2期までと規定された。モラレス氏はすでに2期目に入っていたが、「新憲法下では1期目」と主張して14年の大統領選に立候補し、3選を決めた。
 本来ならば、4期目に向けた立候補はできないはずだった。ところが、モラレス氏はさらなる再選をめざし、16年には自らが改正した憲法の再選規定の撤廃を国民投票で問う。しかも、反対51%で否決されたにもかかわらず、与党は「任期制限は人権侵害だ」と主張し、モラレス氏は立候補を表明。モラレス派が多数の最高裁や選管当局もこれを容認した。
 ネルソンさんの父、レオナルド・キスペさん(77)は「私たちの先住民共同体では、代表を毎年選ぶ。それが習慣で、決まりだからだ。憲法も大統領は連続2期までしか認めていない。決まりは守られるべきだ」と話す。先住民が多数のアチャカチで、モラレス氏は14年の大統領選で80%の票を獲得したが、今回は52%まで落ちた。
根強い「エボ」人気
 一方、支持を続ける人たちもいる。中心都市ラパスから車で1時間ほどのパルココ集落を通りかかると、ブロックを積んだ、建築途中の家が何軒も見えた。建築作業を住民が手がけることを条件に、ブロックやセメントなどの建築資材を政府が提供する支援住宅だ。どの家も、屋根は青色だ。
 「青はエボの色だよ」。床にセメントを塗っていたモイセス・ライメさん(35)は笑った。青色をシンボルカラーとするモラレス氏は、支持者から「エボ」と呼ばれる。ライメさんは「エボのおかげで家も持てる。道路も片側2車線になった」と声を弾ませた。
 ライメさん念願のマイホームは、寝室2間に台所とシャワー、トイレがついて62平方メートル。6月から仕事の合間に大工仕事をし、完成は間近だ。土壁と土間の一部屋しかない家から、近代的な家に住める日が待ち遠しいという。ライメさんは、「先住民は統治できないと言われてきたが、エボは13年も大統領をやり、先住民でもできると見せつけた。ダメな大統領なら代えるべきだが、エボはきちんとやっている。代える必要はない」と話した。
 ボリビアの選挙管理当局によると、大統領選でモラレス氏の得票率は47・08%だった。一方、野党候補のカルロス・メサ元大統領(66)は36・51%。モラレス氏は「得票率40%以上で、次点候補に10ポイント以上の差を付ける」という当選の規定を満たしたとして、10月24日に勝利宣言をした。しかし、開票作業がいったん中断した後にモラレス氏がリードを伸ばしたこともあり、野党側は結果を受け入れず、再選挙や決選投票の実施を求める抗議デモが全土に広がった。
 11月10日になって、モラレス氏は再選挙実施を表明した。しかし、それでもデモは収まらず、この日の午後には警察や、「中立」を宣言していた軍も辞任を要求。同日午後にはモラレス氏が辞任を発表した。
増える対外債務
 ボリビアの政治経済学者のホルヘ・ドゥロン氏は「冷静に考えれば、モラレス氏は立候補を見送った方が得策だった。だが、それができない理由がある」と語る。モラレス政権は、国有化した天然ガス資源の高騰の恩恵を受けてきたが、価格は低下しつつある。また、インフラ整備などを進めた結果、対外債務が増え、通貨安定のために外貨準備金を使ってきた。
 「次に誰が大統領になっても、経済が冷え込むのは明らかだ」とドゥロン氏は話す。「別の大統領の下で経済危機が起これば、モラレス氏はそれを批判し、次の大統領選で返り咲ける。だが、権力を離れれば汚職疑惑が捜査されてしまう。それを避けるには、大統領で居続けるしかなかった」と説明した。(アチャカチ〈ボリビア北部〉=岡田玄)
https://digital.asahi.com/articles/ASMBR2PM4MBRUHBI00C.html?_requesturl=articles%2FASMBR2PM4MBRUHBI00C.html&pn=8

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ゲゲゲ…遭遇したくなる!?南米の妖怪をウォッチ 図鑑を刊行、40種紹介

2019-11-11 | アイヌ民族関連
東京新聞 2019年11月10日

 アニメ「ゲゲゲの鬼太郎」や「妖怪ウォッチ」などのように子どもに人気のキャラクター・妖怪。あまり知られていない海外の妖怪を紹介しようと、アルゼンチン出身でさいたま市在住のホセ・サナルディさん(51)=写真=が、地球の裏側、南米の妖怪をまとめた「南米妖怪図鑑」(ロクリン社)を出版した。遭遇した時の対処法(!)まで解説していて、読めば妖怪たちに会いに行きたくなるかも-。 (田口透)
 17歳の時に空手の世界大会で初来日したサナルディさん。日本にあこがれ、地元の大学を卒業後に留学し、現在はエンジニア幹部として働いている。
 仕事の傍ら文化人類学への興味から南米の魔法使い、シャーマン、先住民族などを調べ始め、日本でいう母国の「妖怪」の存在をまとめたいと思い立った。文献の研究のほか、現地にも足を運び、聞き取りなども繰り返した。
 図鑑の絵を担当したグラフィックデザイナーの弟セーサルさん(アルゼンチン在住)と何度も打ち合わせし、ビジュアル面にも力を入れた。「文字を持たない先住民族の伝承では『妖怪』の姿形が分からないものもあったが、聞き取り調査などからまとめていった」
 南米の妖怪は、先住民から伝わったもの、欧州の開拓者に影響されたもの、近代に生まれたものに分類されるという。
 「理解できないものへの不安、自然に対する恐れなどを『妖怪』という形に表したのではないか。現地では今でも本当に信じられている妖怪が多い。ポピュラーソングにも歌われるなど、怖いけれど良いヤツも多いんですよ」と笑う。
 掲載された40種の妖怪は性的なもの、ユーモラスなものなど多彩だ。「調べただけでも100種類以上、先住民族の伝承など調べればまだまだたくさんいる。中には映画『シェイプ・オブ・ウォーター』に登場した『ヤクルーナ』のようにポピュラーなものもいます」
 図鑑は全てサナルディさんが日本語で書いたが、今後、改めてスペイン語に翻訳してアルゼンチンでも出版したいという。図鑑の妖怪をフィギュアにしたいとの夢も。「私も弟も、水木しげるさんや歌川国芳が好きで日本に興味を持ったが、同じように妖怪を通じて南米を好きになってもらえたら」と話している。
 図鑑は128ページ、1600円(税別)。
<ホセ・サナルディ> アルゼンチン・ブエノスアイレス出身。地元の工科大学電子工学科卒業。1996年に留学、埼玉大大学院博士課程修了。多国籍企業の精密機械のエンジニア幹部として技術研究開発に従事している。趣味はサックス演奏など。
https://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/list/201911/CK2019111002000152.html

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昔の日本人の食事は“狩った猪やシカ”ではなく「木の実」がメイン ~日本人の暮らしぶりと食の歴史~

2019-11-11 | アイヌ民族関連
ヤフーニュース 11/11(月) 12:00配信
健康に良いイメージのある和食も、はじめから健康に良かったわけではないのです。日本人は自分たちの体で効果を確かめながら、長い歳月をかけて和食をより良いものにしてきました。体と食のかかわり合いの歴史を調べることで、私たちは多くのことを学べるはずです。(『日本人の病気と食の歴史』奥田 昌子著 より引用)
■木の実を主食に、クルミも米も食べていた縄文時代
 日本列島で人が暮らし始めたのは、はるか大昔のことです。島根県にある遺跡からは11万~12万年の石器が見つかっており、現在のところ日本最古のものと考えられています。この時期、数万年にわたって続いた氷河期が終わりを迎えようとしていました。
 氷河期には北海道の半分以上にツンドラが広がり、現在では高地に生えるブナの木が西日本の平地にも茂っていたといわれています。海水が凍結したため海面が低く、日本列島は大陸とつながっていました。
 その後、気温が徐々に上昇し、1万5000~1万6000年前になると森林に落葉樹が混じるようになります。これによりコナラ、クヌギなどの実、いわゆるドングリを入手できるようになって集落が生まれ、調理や貯蔵に使う土器の製造も始まりました。約1万6000年前の青森県の遺跡で発掘された土器は世界最古の土器の一つと考えられています。
 こうして始まった縄文時代は、紀元前約1万1000年から紀元前300年ごろまでの約1万年にわたって続きました。国内の代表的な遺跡に青森県の三内丸山遺跡があります。世界に目を向けると、エジプトにあるクフ王のピラミッドや、ギリシャのパルテノン神殿、中国大陸で万里の長城が造られたのがこの時期です。
 今から6000年前には年間平均気温が現在より2度ほど高くなり、ドングリの林が東北地方のほとんどをおおうまでになりました。
 日本人のルーツについてはさまざまな説がありますが、発掘された縄文人の骨から遺伝子を取り出して調べたところ、面白いことがわかりました。縄文人に近い遺伝子を受け継いでいるのはアジアでも日本人だけで、大陸や東南アジアの人の遺伝子は縄文人と大きく異なっていました。
 2019年に公表された研究結果からは、縄文人の祖先が1万8000年前から3万8000年前のあいだに大陸から日本にやって来て、その後日本で独自に進化したことが示されています。
 また、日本本土で暮らす現代日本人の遺伝子が縄文人と約12パーセント同じであることも明らかになりました。祖父母の親である、ひいおじいさん、ひいおばあさんは、私たちと遺伝子が12・5パーセント共通ですから、ちょうど、ひいおじいさんか、ひいおばあさんに縄文人が一人いる計算になります。アイヌ人と沖縄の人には縄文人の遺伝子がもっと濃く伝わっているようです。
 縄文人はどんな暮らしをしていたのでしょうか。当時は文字がなかったため記録が残っていません、遺跡の調査から食生活がだいたい明らかになっています。
 手作りの槍を手に猪や鹿を追い回していた、というのは誤解で、おもに食べていたのは植物でした。主食にあたるのが栗、クルミ、ドングリなどの木の実です。秋に収穫して貯蔵しておけば一年中食べることができました。
 木の実は穀物にはかなわないものの、比較的カロリーの高い食品です。食べられる部分100グラムで比較すると、白米が358キロカロリーなのに対して栗は164キロカロリー、ドングリの仲間が230~280キロカロリー、脂肪分が多いクルミにいたっては674キロカロリーもあります。ただし、これは、のちの時代に海外から伝わったクルミのカロリーです。
 日本には江戸時代に大陸から、明治時代以降にアメリカから、二度にわたってクルミが渡来したといわれています。しかし、日本にはオニグルミやヒメグルミと呼ばれる固有のクルミがもともと生えていて、縄文時代にはすでに広く分布していました。
 日本古来のクルミは海外原産のクルミとくらべると殻が堅くて厚く、食べられる部分が少ししかありません。ですが、アメリカのクルミより脂肪分が約20パーセント少ないうえに、渋味が穏やかで、深い味わいがあるそうです。現在でも東北地方では和グルミの別名でクルミそば、クルミゆべしなどが作られています。一度食べてみたいですね。
 山菜やキノコは形が残らないため遺跡からは出てきませんが、おそらく食べていたと思われます。また、稲作が普及する弥生時代以前にも稲は存在し、種をまいて育てていたようです。ヒョウタンや粟、稗、栗の栽培も行われていました。
文/奥田 昌子
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191111-00010850-besttimes-life

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