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石井伸之の国立市議会議員日記 自由民主党会派所属

東京都国立市の若手?市議会議員(6期目)による日記です。国立市議会議員として国立市政の最新情報を伝えて行きます。

11月19日 本日は一般質問の打ち合わせを行いました

2015年11月19日 | 国立市議会
 こんにちは、一般質問に向けて質問の組み立てを行うと共に、担当課長と意見交換を行っています。

 本日は、特命担当部長、政策経営課長、産業振興課長、環境政策課長といった方々と打ち合わせを行いました

 様々な意見交換をを行う中で、国立市政50周年記念式典と記念事業についての意見交換、ストックマネジメントについての意見交換、南部地域の原風景を守ることについての意見交換、それぞれ興味深いものがあります。

 詳しい部分の話は控えさせていただきますが、各部課長と意見交換をしていると、市政発展に向けて様々な分野で一生懸命努力されている姿がよく分かりました。

 そして、一般質問において少しでも職員の方々が仕事を進めやすいように、指針となる答弁を市長・副市長より引き出せればと考えております。

 どの市も間違いなく、様々な政策においてトップである市長の判断が求められます

 市長決裁(A決裁とも呼ばれています)という判があって、市の大きな政策は実行に移ります。

 それまでに新たな政策は、担当部であったり市民の意見、議会の意見などを総合的に勘案した中で、ようやく陽の目を浴びることとなります。

 今回の国立市政50周年記念式典についても、私はとある市のように億の予算を掛けて実施するほどの事業ではないと考えています。

 さりとて、数十万円で終わらせて良い訳ではありません。

 最小の予算で最大の効果を発揮できる点をどの程度に見積もるか?この点が最大の焦点ではないでしょうか

 そして、50周年記念事業は単なる点でしかありません。

 この点を、四次元的に広げて行けるかが大きなポイントです。

 広げた先に何を求め、国立市の素晴らしさをアピールする一助としなければ、折角の機会を活かしたことにはなりません

 ちなみに国立市は昭和42年(1967年)1月1日市政施行となっています。

 来年の平成28年は49年目、平成29年が50周年です。

 そんなこんなを考えているとワクワクして来ます。

 私達議員が出来ることは限られていますが、議会で大きなアドバルーンを打ち上げることは、1つの役割であると認識しています

 そして、国立市において「~だったらいいね」という問題となる部分を見い出し、解決する為に大きな視野を持ちたいと考えています。

 それには市民の皆様の声が必要です。

 今後ともご意見を承ることができましたら幸いに存じます

 写真は、昨日の自民党国立総支部バス旅行における百里基地での記念写真です。

 中央には松本洋平衆議院議員と百里基地司令、百里基地副指令、周りに大和議員、大谷議員、遠藤議員、私が並んでいます。

 

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11月18日本日は自民党国立総支部青年部で航空自衛隊百里基地と筑波宇宙センターを見学しました

2015年11月19日 | 自由民主党
 こんにちは、自民党国立総支部青年部副部長の石井伸之です

 本日は自民党国立総支部青年部主催のバス旅行で、茨城県小美玉市にある航空自衛隊百里基地とつくばみらい市にある筑波宇宙センターを見学しました。

 午前6時バスで国立市を出発します。

 国立府中インターから高速に乗って数百メートルと経たずに渋滞です。

 それでも激しい渋滞は調布インター周辺で終わり、首都高速から常磐道を使って、百里基地へ向かいました。

 無事百里基地を到着してからは、基地司令に挨拶をさせていただいた後に、百里基地の説明を受けます

 百里基地の由来は下記の通りです。

 百里基地がある百里という大字は、昭和29年に市町合併前の小川町が誕生した時に設定されました。 なぜ百里と呼ぶようになったかには諸説があり、主なものは次の2つです。
 江戸時代に時の水戸藩主が、下総国(千葉)の九十九里海岸に対抗して命名したという説と、一里を約650メートルとしていた時代に、水戸からこの地を通り潮来まで伸びていた百里海道から名付けたとの説です。(街道ではなく海道と呼んでいたようです)

 この基地は昭和13年旧日本海軍百里ヶ原航空隊が結成され、この地で訓練が行われていたそうです

 終戦後に、この基地は米軍に接収される事無く廃止されました。

 その後、時の小川町町長が基地復活に向けて誘致活動を行います。

 町長のリコールや数々の反対運動もありましたが、昭和33年百里分屯基地は発足して現在に至ります。

 現在でも未確認機発見によるスクランブル発進は、日本全体で平成26年は943回に及んでいます

 百里基地でも未確認機発見のブザーが鳴って5分以内に飛び立てるよう、戦闘機を整備しているそうです。

 続いて、駐機場へ向かい、下記の飛行機を見学しました。
戦闘機:F-15J/DJ、F-4EJ改
偵察機:RF-4E/RF-4EJ
中等練習機:T-4
救難捜索機:U-125A
救難救助機:UH-60J

 その中でも記憶に新しいのは、常総市の洪水被災者救助に当たっていた、ヘリコプター救難救助機UH-60Jです

 写真撮影を禁止されていたので、実物を写真でお見せできないのが残念ですが、この基地にある3機のヘリコプターで141人を救助しています。

 自衛隊の方へ、テレビでも報道された、電信柱につかまっていた方と一戸建てから救助を求めている方の中で、一戸建ての方を先に救助した瞬間に、その建物が倒壊した件で、どのように判断したのか聞きました。

 すると、それは全て現地パイロットの判断で、電信柱は強固なのでまだ耐えられるが、建物は耐えられないと判断して先に救助したとのことです

 その一瞬の判断は、訓練の賜物ではないでしょうか?

 いざ災害時にこうやって救助活動を行う自衛隊員の皆様に心から感謝したいと思います。

 意見交換の中で、今後は景気回復と共に、自衛隊への募集は厳しくなると予想されていると言われていました

 また、パイロットという肉体的にも精神的にも厳しい職業に耐えられる人材の確保も大きな課題です。

 更に、この基地の問題としては、基地建設に反対する方による一坪地主活動が展開されています。

 非常用の滑走路として使う予定だった、飛行機誘導路がその運動によって「へ」の字に曲がっています。

 自衛隊に反対する活動をする方の考え方はそれぞれあるかと思いますが、国民を守る為の活動に対しては理解していただきたいところです

 お昼にはカレーをいただきました。

 厳しい訓練の中で楽しみは食べることと言われていた通り、大変美味しくいただきました。

 続いて、筑波宇宙センターへ向かいました。

 実は、この建物の建設工事に携わっていました。

 私が国立市議に初当選する前に、派遣でコクヨの現場監督を務めていました。

 コクヨと言うと文房具のイメージが強いかと思いますが、机や椅子、フロアタイル、じゅうたん、建具などの製造、取り付けを行っています

 埼玉でとある学校の机や椅子などの搬入設置工事が終わった後に、筑波宇宙センター建設工事における床工事、建具工事の現場代理人を務めて欲しいとの話をいただき、1年余り携わりました。

 元請けは鹿島建設で、非常に厳しい品質が求められたことを今でも忘れられません。

 筑波宇宙センターに入るのは、建設工事以来12年ぶりです。

 新品の綺麗なブルーのじゅうたんがすっかり色あせていたことに、時の流れを感じざるを得ません

 また、設計の方が頭を捻る難しい納まりを私が検討して提案し、実際に採用された部分がどのようになっているのか見たいところでしたが、立ち入り禁止部分となっておりました。







 展示室では、国際宇宙ステーションの中にある日本の「きぼう」の内部やロケットの歴史、人工衛星の歴史が展示されていました。



 宇宙飛行士の油井さんと記念写真です。










 ロケットの変遷です。




 筑波宇宙センターの外観です。
 
 時間的に厳しいことから非常にタイトなスケジュールとなってしまったことが、非常に残念でしたが、参加者には大変喜んでいただきました。

 見学に向けて、こうやって段取りをつけていただいた松本洋平衆議院議員には心から感謝したいと思います。 
 

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