熱が冷めた原発ゼロ運動
昨年の衆院選で国を割る争点になったはずの原発ゼロ運動が、態度を明らかにせず様子見姿勢だった自民党が圧勝して以来、少なくとも政治とメディアの世界から消えた。原発ゼロを主張した政党は衆院選で惨敗し、連日のように反原発運動を論じた原発専門家はテレビから消えた。<o:p></o:p>
あれほどマスコミに取り上げられた原発ゼロ運動は国民的運動になり損ねた。今も変わらずテレビに登場するのは苦境が続く被災者の姿と原発立地の適否を判断する地層学的調査だけだ。何でこんなことになったのか、私にはこの手の活動に特有の三つの問題があったと思う。(1)運動が原理主義化し、(2)マスコミが為にする報道、(3)政治が運動を道具に使った為だ。<o:p></o:p>
テレビが原発ゼロに先鋭化<o:p></o:p>
大震災後の反原発運動が不幸だったのは、以前からあった原理主義的な反原発運動と結びつきリアリティを失ったことだ。もともと「原発ゼロ」には議論を許さない原理主義的な響きがある。科学的データを基に合理的に議論しないで何でも反対する原理主義的な運動になった。物言わぬ国民は原発ゼロののもたらす生活の問題をを無視し経済的合理性を脇に押しやられたと感じた。<o:p></o:p>
この運動を先鋭化させるためテレビが大きな役割を果たした。ある時は海外の例を持ち出し、ある時は世界標準より厳しいスタンダードを押し出した。その極めつけは自然界が発する放射線レベルよりも低い放射線量を危険と主張し、原発なしでも電力は足りるとエキセントリックな主張をする専門家を連日テレビ番組に登場させ、全国に不安を煽ったことだ。<o:p></o:p>
テレビがこの手の専門家の露出を高めたのは視聴率を稼ごうとしたからだが、それは全国民を不安にさせ合理的な議論や判断をさせないように努めたとすら私は考える。彼等は今やテレビに出ることはない。任命責任ならず出演させた責任、報道する見識を問いたい。良くあるパターンだが結果として国のエネルギー政策を見直す国民的な問題としての議論が深まらなかった。<o:p></o:p>
見え見えの政治利用<o:p></o:p>
原理主義化した反原発運動を利用し進化させたのはマスコミだが、そのマスコミが盛り上げた反原発の風を三流政治家に利用されたのが三つめの不幸だった。従来から反原発運動と関係がないはずの三流政治家が選挙の道具として利用した。考え得る最悪の連中に利用された。原発ゼロの主張の正当性まで傷つけられたように感じる。<o:p></o:p>
選挙民は極端な報道も政治家の原発ゼロの主張もどこか真摯さに欠ける嘘っぽさを感じて信用しなかった。表面的には足元の生活をどうすべきか経済のほうが優先度が高かったとみるべきだが、放射能汚染の脅威が報じられたほど感じなくなっていたとも解釈できる。誤った情報により大震災が引き起こした反原発の思いが利用され泥まみれになった、私はそんな風に感じる。<o:p></o:p>
かつて反核・平和活動(原水禁)が国民的運動として盛り上がりを見せた時、共産党や社会党が政治イデオロギーと結びつけて勢力争いして失速していった歴史がある。今回の原発ゼロ運動の政治利用はもっと見え見えでひどく粗雑だった。こんなことで国民の支持を得られると思ったのだろうか、だが原発ゼロ運動には不幸だった。<o:p></o:p>
議論抜きでズルズルと方向付け<o:p></o:p>
その後の事故調や識者の報告には原子力の利用の在り方について重要な指摘もあったが、もはや活動家・マスコミ・政治家も熱が冷めてしまったように静かだ。視聴率を稼げず、票にならないことがはっきりしたからだが、こうして物事が落着するのはわざわざ「民度」を低めるやり方だ。しかし、自民党は原発の判断は先送りすると明言して選挙に勝った。彼らに責任ありとは言えない。<o:p></o:p>
いずれにしても建設的な議論をして方向付けする機会は損なわれたと私は感じる。今後原子力規制委が作る新基準が作られ、それに基づいて再稼働や新設の原子力発電所の建設がなされるだろう。個人的にはこの方向で正しいと思うのだが、なし崩し的感のする決まり方を私は懸念する。国民的なコンセンサスを得るプロセス抜きのやり方にいささか脱力感がある。■