かぶれの世界(新)

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敬意と誇り

2010-12-31 11:51:18 | 社会・経済

今年を振り返ると、殆どの人にとって政治は期待と失望の年だった。だが、こうなったのは報道を含めた国民の責任が大であると私は思う。政治は民意の表れだ。その国民そのものについて、Jオースチンの小説の題名みたいだが、私が感じた希望と失望を年の最後に紹介したい。

良き敗者

石川遼君や斉藤祐樹君はいつも爽やかで、インタビューの受け答えも若くして立派な大人の風格がある。報道する大人の方が時に視聴者に媚びる姿勢が見苦しい。この二人は日常生活から常に注目され、鵜の目鷹の目のスポーツ芸能記者から監視されているはずで、それでも一貫した姿勢を保てるのはたいしたものだと思う。

だが、私が感銘を受け最も印象に残っているのは、話題になった斉藤祐樹君の「持ってる」発言の報道されない部分だ。彼が続けてそれは「仲間」だと言い、仲間とはナインがいて応援してくれた仲間がいて、慶応大学という素晴しいライバルがいたと応えた。その時ベンチ前に整列していた慶応ナインが帽子を脱いで応えた。

後からこの話を聞いて以来、斉藤祐樹君のインタビューの録画を見るたびに、決して映されることはない反対側に立つ慶応ナインの清々しい態度が目に浮かぶ。勝者にしか光を当てない報道が多い。私は敗れた慶応ナインもまた立派な勝者であり、プロの報道陣なら伝えなければならないロールモデルだと思った。

イチローがMLBに挑戦してよく見るようになった米国の野球中継で、ホームランを打った選手が淡々とベースを一周するのがとても新鮮に見えた。それが打たれたピッチャーに対する敬意の表現だと聞いて成る程と思った。それは敗者に対する思いやりでもあった。

日本の野球もかつてはガッツポーズなど派手なポーズは見かけなかった。日本の場合それが相手に対する思いやりとか敬意だったのかどうかは分からないが。いつの頃からか高校野球で派手なジェスチャーで喜びを表現し、人前で構わず泣くようになった。

だが、日本でも超一流の選手は少なくとも公では感情を抑制する。イチローや松井、サッカーの中田を見れば明らかだろう。報じる側が一流でなければ彼ら一流の素晴しさが表面的にしか伝わらない。となれば、自ら現場に足を運ばなければ本当の良さが分からないのかもしれない。慶応ナインの素晴しさはまさにそういう類のものだった。

悪しき弱者

先のバブル崩壊以降、日本社会は急速な高齢化の進行とあいまって、経済弱者が趨勢的にじりじりと増えている。リーマンショック後の景気と雇用状況は一気に悪化し、寧ろこの傾向はニューノーマルといわれるように定常的となり、中々回復の兆しが見えない。

高齢化の対極にある若者の雇用悪化も深刻で、連日のように新聞テレビで報じられている。だが、若者の大企業志向と中小企業の人材不足が一方で指摘されている。厳しい労働条件や安い労賃の仕事は、依然として外国人労働者がやっている。報じられた経営者の言によれば外国人労働者でないと長く務まらないのだそうだ。

一方、歴史的財政赤字だろうと何だろうと年金や医療費、子供手当てなどの社会保障を増やせ、農業の個別補償をやれという声が強い政治力を持っている。だが、私にはチョットおかしいという違和感がある。

昔の話で恐縮だが、隣近所の普通の老人が「人の世話にはならない」、と言うのを子供の時良く聞いた気がする。彼等の年代になった今思えば、彼等は実に誇り高き人だった。だが今メディアが報じるのは、年金をもっとよこせと声高に叫ぶ‘元気な’老人や農夫の姿だ。彼等から失われたのは自助精神の誇りだ。

実は本当に支援が必要な弱者がいる。その人達には申し訳ない。だが、その周りに頑張れば何とかやれるが頑張らない大量の境界領域の人達がいる。自助精神の誇りを失った人達は頑張れない。一人ひとり事情を調べなければ分からないが、私には国民全体に自助精神の喪失があるように感じる。

「貧すれば鈍する」説に私は賛成できない。今年話題になったテレビ番組で、極貧の下級武士の家庭で何代にもわたって伝えられた精神が日本を救うドラマが良いお手本ではないか。だが、現代の我国は貧して鈍する道を歩んでいるように感じる。■

最後に泣き言で終りました。これから年越しソバを食べて最後の片付けです。良いお年を。

コメント
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