事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

「出星前夜」 飯嶋和一著 小学館刊

2008-08-30 | 本と雑誌

51q0ivvbddl ‘88年デビュー以降の、飯嶋和一の著作は以下のとおり。

「汝ふたたび故郷へ帰れず」(小学館文庫)
「雷電本紀」(小学館文庫)
神無き月十番目の夜」(小学館文庫)
「始祖鳥記」(小学館文庫)
黄金旅風」(小学館文庫)

そして最新作「出星前夜」(小学館)これだけ。超寡作。文献を徹底的に読みこんで、史実の陰にほの見えるドラマを再構築するという、およそ量産のきく作風ではないので仕方がないかな。一冊でも読んだことがある人なら、彼の筆力にびっくりしたはず。未読の人は、唯一の非時代小説である「汝~」における、息づまるボクシングシーンだけでもお試しを。彼を上回る描写ができる現役の作家がはたして何人いるだろう。

 飯嶋のもうひとつの特徴は、徹底して“抗う人”である点だ。為政者、特に無能な為政者への嫌悪がむき出し。多くの場合、そのために飯嶋の作品は悲劇に終わる。特に「神無き~」では幕府のために村民全員が虐殺される始末だ。

 しかし、飯嶋作品の主役たちの矜持は“お上に媚びへつらう”ことを許さない。人間としての誇りを守るために、悲劇は必然だったと作品は静かに語っている。そんな飯嶋が今回とりあげたのが島原の乱。日本における最大の謀反、というか内戦。本領発揮とばかりに飯嶋は4年間かけてこの作品を完成させた。どうして“天草”四郎なのに“島原”の乱なのか、蜂起がめざしたものは何だったのか、関ヶ原からわずか三十数年で世の中がどう変貌したのか……そうかそうかこんな経緯だったのかと得心。キリシタン弾圧や凶作などが背景にありながら、この内乱を生んだ最大の理由は、中央集権化を推し進める幕藩体制そのものだったのだ。最後の最後にタイトルの意味も理解できる。またしても傑作の誕生。眠れない夜をお約束します。

それにしても、飯嶋和一と横山秀夫、そして伊坂幸太郎にまで辞退された直木賞なるものに、いまや何の意義もないことを痛感。もらってやれよ飯嶋。あなたのことをまったく知らない未知の読者たちに、すばらしい作品の存在をアピールするためにさ。文藝春秋に代表される“文壇”なるものに抗いたいのはわかるけれども。

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「バブルへGo!!」 PART4

2008-08-30 | 邦画

Cap183

PART3はこちら

ホイチョイ・プロダクションズ製作の映画は以下のとおり。
『私をスキーに連れてって』(87年)
『彼女が水着にきがえたら』(89年)
『波の数だけ抱きしめて』(91年)
『メッセンジャー』(99年)
『バブルへGO!! タイムマシンはドラム式』(07年)

製作年をみればおわかりのように、バブルの申し子らしく、ちょっと景気がよくなったときしか映画を撮っていない(^o^)。

『私を~』を観た某映画業界人は頭をかかえたそうだ。「ここまで無内容な映画でいいのか」と。手あかのついた言い方をすれば“若者の風俗”しか描いていないわけ。でもそれが圧倒的にうけてしまった。沖田浩之が「とりあえず」とポラロイドカメラ(時代だねぇ)を持ち出すたびに館内がわくのだ。この笑いについていけなかったわたしは当時から時代に取り残されていたのか(T_T)。

まあ、映画としての出来は『私を~』を上回るものはない。でも、俳優の選択はいつもみごとだった。角川色の強かった原田知世を引っぱり出したり(彼女が角川春樹事務所を独立する前に撮影を開始し、退社してからやっと主役が現場にやってきた)、まだメジャーになる前の織田裕二を抜擢したり。「バブルへGo!!」でも、すでに“終わった”女優かと思われていた(わたしだけですか)広末涼子をキャバクラ嬢役に使ったセンスはかえる。まあ、あまり成功はしていないけれど。

 脚本が君塚良一だから予想されたこととはいえ、ストーリーはタイムパラドックスなど無視して強引に家族の泣かせの物語に終始する。バブル崩壊を人為的なものとする設定は、泡の時代におどった連中を免罪するようで気に入らないが、野暮は言うまい。前半のかったるさにはあきれたけれど、タイムスリップしてからはなかなか。当時の六本木の風景や、ディスコ事情にくわしい人ならもっと笑えただろう。

まあ、そんなバブルと無縁なわたしでも、無名時代の飯島直子にヒロスエが「あなたは缶コーヒーのCMに出るといいわよ」とアドバイスしたり、タイムマシンが洗濯機型(当然日立製)なので入るときに水着に着がえるサービスがあり、しかもその水着に(財務省主導のプロジェクトだから)MOFと入っているあたり、笑えた。携帯電話が一般化していないものだから、当時の若者が待ち合わせのときは「駅のどっち口のどこの柱の前」と細かく指定しているのは風俗。

いちばんのギャグはラモスの登場とその結末なんだけど、これはこれから観る人のためにナイショ。「バブルの時代は楽しいけど、わたしには2007年の方が合ってる」というヒロスエのセリフに(ホイチョイの本音ではないだろうが)、実はわたしも同感だ。

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バブルへGo!! PART3

2008-08-28 | 邦画

A0055913_024035 PART2はこちら

「気まぐれコンセプト」は、1981年からビッグコミックスピリッツに連載され、以降一度も休載せず、誌上最長の連載となっている4コマまんがだ(Wikipediaより)。相原コージの「コージ苑」、吉田戦車の「伝染るんです」、高橋留美子の「めぞん一刻」など、80年代初期のスピリッツは最強だったので、このころはよく読んでいた。

ネタとしては、要するに広告代理店などの“業界人”の生態を描くことで、結果的に世の中のトレンドを先取りしてしまえ、という欲張りなお話。登場人物たちが勤務する白クマ広告社と荒鷲エージェンシー(電通や博報堂よりもワンランク下の代理店という設定)が、メーカーやTV局との間でどのようにちゃらんぽらんに金を稼いでいるか、どんな苦境も笑ってごまかしているかがギャグの中心。生活のすべてがセックスに奉仕され、広告屋だからよオレたちは所詮よ、と自虐的になりながら、片側では猛烈なプライドが体液のように流れ出ている。まことにアンビバレントな連中だ。原作は「バブルへGo!!」を監督している馬場康夫。作画は馬場の同級生の松田充信。馬場は日立の宣伝部出身だから、むしろメーカーの側から代理店をさめた目で見ていたことになる。

前回、とにかくホイチョイはトレンドのパイオニアたらんとしていると言ったけれど、おかげで彼らの著作は文庫化されることもなく、再刊もめったに行われない(「東京いい店やれる店」だけはケータイサイトでしっかり商売にしている)。テレビの内情をおもしろおかしく暴いた「OTV」など、いま読んでも十分に面白いと思うのになあ。まあ、これが流行りものをネタにしている宿命だろう。

おかげで「気まぐれコンセプト」は、84年以降、一度も単行本化されていなかったのだ……しかしこれはホイチョイの狙いだったことがわかった(狙いじゃないと思うけど)。07年の1月に、二十三年分を再編集し「気まぐれコンセプトクロニクル」として刊行したのだ。これはすごかった。千ページに及ぼうかという量(おかげで重くて重くて)と、常に時代と“軽薄に切り結んでいる”姿勢が圧倒的。いい女とやることを第一義に考える姿勢はそのままなのに、やはり登場人物の行動は時代に影響をうけまくっていることがいやでも感じとれるようになっている。まさしく、クロニクル(年代記)だ。これだけの量があるとギャグはくだらないのに傑作に思えてくる。結果的にホイチョイの代表作になったかも。

 そしてやっぱり業界の狂躁が激しいのはバブルの時代。馬場が「オレがやらんで誰がやる!」とばかりに撮った映画が「バブルへGo!!」だ。次号最終回

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バブルへGo!! PART2

2008-08-28 | 邦画

PART1はこちら

 バブルの象徴として前回セルシオとシーマを挙げた。今は普通の高級車になっているが、初代はトヨタと日産が気合い入れまくりでつくりあげたエポックカーだったのだ。乗ったことないけど。さて、バブルと言われて思い浮かぶのは、わたしにとって以下のとおり。

ワンレン……これほど一般化し、そして消えていった髪型もめずらしい。もっともインパクトがあったのはフジ「夢で会えたら」における清水ミチコのしょーもないワンレンかんちがい女。

ボディコン……これは今のスキニーとは違うことなの?

NTT株……87年2月に第1次放出。政府売り出し価格の119万7000円が、わずか1か月足らずの間に300万円を超えるまでに上昇。しかしバブル崩壊後に72万円まで一気に降下した。ひと株の値段が百万円超というのは、当時意味がよくわからなかった。実はいまでもよくわからない。

ふるさと創成基金……全国の市町村に一律1億円をばらまいたもの。竹下登の超バブリーな政策。これは時代だよなあ。

・「平成」……忘れられがちだけれど、昭和64年~平成元年って1989年のことなのだ。バブルまっさかり。微妙にへたくそな(そう思いませんでした?)年号決定パネルを掲げたのが小渕官房長官だったので、後年この人が当時の首相だと誤解されるかも。その頃の首相は当然竹下登。彼のスキャンダルが噴きだした途端に昭和天皇が死んだものだから、「なんかやったろ!」と思ったものでした。生命維持装置をはずすとか。ホントに、なんにもやらなかったのか?

……さて、このようなバブル関連用語に(『平成』はともかく)わたしはほとんど関係がなかった。職場にワンレンボディコンOLがいるわけでもなく(いてほしかった)、NTT株を買う資金もなく(買わなくてよかった)、ふるさと創成基金のいま思えばもっとも効果的な使途は借金返済だったはず(交付税措置だから無理か)。

 そんな時代に、トレンドを追いかけるどころかトレンドをつくりあげる立場にいたのがホイチョイ・プロダクションズ。成蹊大学(だから安倍前首相とは同窓生)の映画製作グループが、社会人になってからも徒党を組んで世間を騒がせ続けている。なんか、うらやましい。

「見栄講座」「極楽スキー」「東京いい店やれる店」など、著作のコンセプトはかなり露骨。トレンドのフォロワー(追随者)なんぞには絶対にならない、という気概すらうかがえる。その彼らの真骨頂が「気まぐれコンセプト」だ。以下次号

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「バブルへGo!!」(’07 ホイチョイ・プロダクションズ) PART1

2008-08-27 | 邦画

M0325138301  バブルとはいったい何だったのだろう。部報でも『プラザ合意に始まり土地の総量規制に終わった』と形容したが、日本中が金まみれで狂騒していたかに語られるあの時代も、貧乏な地方公務員(別に謙遜しているわけではなくて、公務員の収入は若いときマジ少ないのである)にとっては「何の話?」なのが正直なところ。ちょっと例によってウィキペディアで調べてみよう。

 まず、プラザ合意。

プラザ合意(-ごうい、英Plaza Accord)は、1985年9月22日、アメリカ合衆国ニューヨークの「プラザホテル」で行われたG5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)により発表された、為替レートに関する合意。当時のアメリカ合衆国の対外不均衡解消を名目とした協調介入への合意である。対日貿易赤字の是正を狙い、円高ドル安政策を採るものであった。発表の翌日1日(24時間)で、ドル円レートは、1ドル235円から約20円下落した。一年後には、ドルの価値はほぼ半減し120円台での取引が行われるようになった。

……要するにアメリカの要請に応えるかたちで、時の中曽根康弘総理、竹下登蔵相が円高ドル安を容認したわけだ。その結果どうなったかというと、円高不況を恐れて低金利政策をとらざるをえず、金はいっきに株と不動産に流れこんで空前の株高の時代へ。しかも円高なものだから海外資産を「お買い得!」とばかりに買いあさり、世界の不興をかうことになった。世紀の悪法「リゾート法」によって全国にゴルフ場がつくられて環境汚染がすすみ、地上げ屋が大活躍してアンダーグラウンドに金がじゃじゃ漏れになり、ベンツやBMWの牙城だった高級車市場に日本のメーカーが参入、セルシオやシーマはバブルの象徴になった。

 とにかく経済の実体と株価があまりにもかけ離れていたせいで、むしろ『異常さを異常と感じることができない』時代だったといえるかもしれない。

 あー文学部出身者にはむずかしい話でしんどいけれど、今度は総量規制の方を調べてみよう。

経済政策としての総量規制(そうりょうきせい)は、1990年3月に当時の大蔵省から金融機関に対して行われた行政指導。大蔵省銀行局長通達「土地関連融資の抑制について」のうちの不動産向け融資の伸び率を総貸出の伸び率以下に抑えることをいう。行き過ぎた不動産価格の高騰を沈静化させることを目的とする政策であったが、想定以上に急激な景気後退(いわゆるバブル崩壊)の引き金となってしまった。

……この総量規制を「無かったことにしてしまえ」と強引に仮定したのがホイチョイ・プロダクションズの「バブルへGo!!」だ。以下次号

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「死者との誓い」R.ブロック著 PART4

2008-08-27 | ミステリ

203 PART3はこちら

~最終回はネタバレ必至です。よろしく~

「死者との誓い」が他のスカダーシリーズとくらべて(世評高い「八百万の死にざま」よりも)すばらしいのは、スカダーの昔の恋人の存在だ。死病にとりつかれた彼女は、みずからの“選択肢”を確保するために、拳銃をスカダーにリクエストする。スカダーは悩みつつも彼女に手渡す(調達の仕方もなかなかひねってある)。

 しかし終章で彼女がどんな“選択”をしたかが語られ、読者を感動させる。ネタバレ覚悟で彼女の決意を紹介しよう。彼女も、元アル中なのだ。

「あなたが帰ったあと、わたしは鏡を見たのよ。わたしには自分のみすぼらしさが信じられなかった。でも、こう思ったの。だからなんなの?って。自分のみすぼらしさとだってわたしは一緒に生きていける。そう思ったら、どんなこととでも生きていけるって思えたの。それと一緒に生きていかなければならないのなら、自分はそれに対して何もできないかもしれないけれど、一緒に生きていくことはできる。それに耐えることはできるってそう思えたのよ。
 自分にはどうすることもできないものがある。痛みとか容貌とか。それに、そう、自分は今のこの状態から生きては抜け出せないという受け容れがたい事実とかね。それに対して銃というのは、自分でどうにかできるものよ。現在の状況に我慢できなくなったら、ただ引き金を引けばいい。でも、どうにかしなきゃいけないなんて誰が言ったの?
ふと気がつくと、わたしはこういうことを理解してた。それは、わたしはどんなものも失いたくないということよ。だってそれが素面でいることの一番の目的じゃない?自分の人生を失うことはもうやめようというのが、素面でいることの一番の目的じゃないの。だから今もわたしはそうありたいと思った。死もまた人生におけるひとつの体験よ。その体験をわたしは逃したくない。昔は、死は突然訪れてくれればいいと思ってた。脳卒中とか心臓発作とか、一番いいのは、何が起こっているのかわからないまま眠っているあいだに死ぬことだって思ってた。でも、今はちがう。そんなことは少しも望まない。ゆっくりとネジがほどけるように死んでいきたい。」

……どんなことであっても、それを受け容れる決意。これはアルコール依存症患者が断酒にのぞむ決意とも相似形をなしている。「死者との誓い」がミステリとして上等なのはもちろんだけれど(それだけでももちろんすばらしいことだが)、一種の都市小説として、一種の救いの小説として光り輝いているのは、この終章のすばらしさによる。10年に一作出るか出ないかの傑作。ぜひ一読を。

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「死者との誓い」R.ブロック著 PART3

2008-08-27 | ミステリ

Myblueberrynights PART2はこちら

 探偵免許を持たず、知り合いからの紹介でのみ事件に関与する設定は、大都会、特にニューヨークでなければありえないだろう。それだけでなく、ニューヨークに生きる中年の孤独こそがスカダーシリーズ最大の魅力だ。

……その日、私は彼女のアパートメントを出ると、11番街までひとブロック歩いて、彼が殺された現場まで行き、信号が何回か変わるあいだしばらくそこに佇んだ。それからディウィット・クリントン・パークまで足を伸ばして大尉を表敬訪問し、誤って引用されたマクレーンの詩を読んだ。
  世を去った彼らとの誓いを
  きみが破れば
  われらは眠れないだろう……
 私はグレン・ホルツマンとジョージ・サデッキとの誓いを破ったのだろうか。私にはまだできることがあるのに、何も行動を起こせないでいる。だから彼らの魂はいまだに休むことができない。そうなのだろうか?

 英語圏、特にニューヨーカーにはたまらない文章ではないだろうか(田口俊樹の訳も絶好調だけど)。ブロックが描くNYはほぼ現実どおりで、観光案内としても機能する。最新作では9.11に関するニューヨーカーとしての悲痛なつぶやきもある。自由の女神やブロードウェイにはまったく心が動かないけれど、ブロックが描くニューヨークには強くひかれる。行きたいなあニューヨーク。

 スカダーは、“卑しい街を行く孤高の騎士”が“やせがまんを重ね”“軽口を叩きながら”事件を解決するという点で古典的ハードボイルドの血を色濃く受け継いでいる。しかし犯人像はさすがに時代を反映し、絶対悪と呼べる卑劣な殺人者であることが多い。

 しかし「死者との誓い」は、(ネタバレになるので詳しくは書けないが)ちょっと違う。ある事件の真犯人を捜し出すためにスカダーはさまざまな寄り道をするが、最大の謎は、一見ムダに思えるスカダーの捜査が、いったいどんな目的のために行われているか、なのだ。つまり、「探偵の動機」こそがこの小説の最大のキモであるあたり、うなった。

 しかしミステリとしての素晴らしさ以上の美点が「死者との誓い」にはある。以下次号

画像はブロックが共同で脚本を担当した「マイ・ブルーベリー・ナイツ」

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「死者との誓い」R.ブロック著 PART2

2008-08-26 | ミステリ

Block PART1はこちら

 マット・スカダーのシリーズはこれまでに16作刊行されている。以下はネットからひっぱった著作リストだ。原題がまたすてきなのである。

過去からの弔鐘The Sins of the Fathers 1976 
冬を怖れた女In the Midst of Death 1976 
一ドル銀貨の遺言Time to Murder And Create 1977 
暗闇にひと突きA Stab In the Dark 1981 
八百万の死にざまEight Million Ways to Die 1982 
聖なる酒場の挽歌When the Sacred Ginmill Closes 1986 
慈悲深い死Out On the Cutting Edge 1989 
墓場への切符A Ticket to the Boneyard 1990 
倒錯の舞踏A Dance At the Slaughterhouse 1991 
獣たちの墓A Walk Among the Tombstones 1992 
死者との誓いThe Devil Knows You’re Dead 1993 
死者の長い列A Long Line of Dead Men 1994 
処刑宣告Even the Wicked 1996 
皆殺しEverybody Dies 1998 
死への祈りHope to Die 2001 
すべては死にゆくAll The Flowers Are Dying 2006

……調べてみて初めてわかったのだけれど、このシリーズ、最初は売れなかったのだという。それが「暗闇にひと突き」と「八百万の死にざま」(86年、監督ハル・アシュビー、主演ジェフ・ブリッジス、ロザンナ・アークェットで映画化されている。800万というのはニューヨークの人口のことです~「この腐りきった、くそ溜めみたいな市(まち)に何があるのかわかるかね?何があるのか?八百万の死にざまがあるのさ」~)の成功によって書き継がれ、ブロックはとうに終了させようとしたにもかかわらず、現在もつづいている。

 さて、スカダーとはこんな男だ。
 かつてニューヨーク市警の警官だったスカダーは、犯人を追う途中で跳弾のために少女を死なせてしまう。警察を辞め、妻子とも別れた彼は、次第に酒に溺れるようになってしまう……この、アルコールとのたたかいがシリーズの基調音。AA(Alcoholic Anonymous……ピクサーの「ファインディング・ニモ」で、鮫たちが血を我慢するために語り合っていたのはこの集会のパロディ)と呼ばれるアルコール依存症自主治療協会の存在など、スカダーを読まなければ吾妻ひでお(アル中失踪マンガ家)の著作まで知ることはなかっただろう。

 スカダーの断酒は、何度も失敗しながら現在も継続中であり、高級娼婦だったエレインとの恋愛に物語はシフトしている。浮かび上がってくるのはニューヨークという都会のナマの姿だ。以下次号

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「死者との誓い」ローレンス・ブロック著 田口俊樹訳 二見書房ザ・ミステリ・コレクション

2008-08-26 | ミステリ

513t5a6x8vl ……ニューヨーク市警には、単語の頭文字を並べたこんな隠語がある。少なくとも昔はあった。新米警官が警察学校でまず教えられ、刑事部屋では何度も聞かされることばだ。ゴヤコッド(GOYAKOD)。ケツを上げてドアを叩く(Get Off Your Ass and Knock On Doors)。
 そして、たいていの事件がそうした労を惜しまぬ地道な捜査で解決するのだ、と教えられる。が、それは嘘もはなはだしい。たいていの事件は自然に解決するのである。夫を撃った妻は警察に自ら通報し、コンビニエンス・ストアを襲ったホールドアップ強盗は、たまたま通りかかった警察官の腕に飛び込み、失恋した男は恋人の血糊がついたナイフをベッドの下に隠したままにして、そんなふうに事件は解決するのである。自然に解決してくれない事件も、その大半はタレ込み屋の情報によって解決するのだ。腕のいい職人でなければいい道具は使いこなせないと言うが、それはお巡りとタレ込み屋の関係にはあてはまらない。
 しかし、自然な解決も望めず、悪玉の名を(それが善玉の名の場合もある。タレ込み屋も嘘をつく。それはほかのみんなと変わらない)喜んで密告してくれるタレ込み屋も現れない事件がたまに起こる。捜査というものが真に必要な事件がときたま起こる。そこで初めてゴヤコッドの出番となるのだ。
 今、私がしているのがそれだった。

「死者との誓い」をほぼ10年ぶりに再読する。初めて読んだとき、ページを閉じてちょっと呆然とした。今わたしが読み終わったこれは何だ?オレは今とんでもない作品を読んでしまったのではないか?と。

 何度も「この1冊」で特集したように、わたしはローレンス・ブロックの大ファンだ。ウィットとユーモアに富み、文章の切れ味はするどく(上の文をまず読み込んでほしい)、ありがたいことにたいそう働き者なのでたくさんの著作がある。

殺しのリスト」の号でも紹介したが、彼は三つのシリーズを並行して書き続けている。
1.寡黙な殺し屋ケラー
2.饒舌な泥棒バーニィ
そして、もっとも有名な
3.アル中私立探偵マット・スカダー
のシリーズだ。ああ長くなりそうだ。以下次号

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解説者を評定する~北京オリンピック篇その6「星野ジャパン」

2008-08-26 | スポーツ

20080825k0000m050061000p_size5 北京オリンピック篇その6「地デジの功罪」はこちら

 もう、野球に関してはボロボロのあつかいだ。かつて星野ジャパンを賞揚し、金メダルをとることが“絶対条件”とまであおったマスコミが、である。結果は4勝5敗の負け越し。韓国、キューバ、アメリカには一勝もできなかったし、かつて格下だと侮っていた韓国が9戦全勝で金メダルをとったことを考えれば、確かに惨敗。イチローや両松井がいれば、なーんて無いものねだりをしたところで、他国だって状況はいっしょだし、アメリカにいたっては大学生が先発していたではないか。要因はマスコミがさっそく挙げてくれている。

ストライクゾーンが日本と違い、加えて審判のレベルが低く、コーナーを攻める日本野球に不利だった。

・故障者が多く、24人におさえられたベンチ入りメンバーでは対応しきれなかった。

・国民の期待が大きすぎ、GG佐藤の連続タイムリーエラーなど、プレッシャーに押しつぶされた。

・コーチ陣が専門職ではなく、山本浩二、田淵光一など、星野仙一が自分の同期生で固める仲良しクラブに堕していた。

いちばん過激だったのは「サンデーモーニング」の張本勲で、「(首脳陣は)しばらく出てくるなよっ!」と激昂していた。出てくるな、とは来年行われるWBCの監督を受けるなよ、ってことだろう。

 しかしわたしはこう思う。野球って、こんなスポーツではなかったか。よほどの戦力差がないかぎり、強いチームが必ず勝つとは限らない。日本の9戦全勝って線も十分にありえたはず。ペナントレースを考えてみよう。優勝するチームですら勝率は5~6割である。かつて阪神タイガースとPL学園を戦わせたらどうなるか、というネタで盛りあがったことがあるけれど、10戦して阪神は10勝できるだろうか。巨人は松坂相手の横浜高校に全勝できるか?

 わたしはむしろ「コーナーを攻める投球術など、身内でしか通用しないテクニックだけが進化し、中継ぎやストッパーを固定して“勝利の方程式”なんて思考停止な作戦をとっている反動が出たのではないか」と考える。本番はWBCなのであり、その反省を活かせばいいだけだ。批判が許されなかった星野仙一を、この機会に叩いてしまえとする風潮には賛成できない。熱血漢な星野嫌いのわたしですらこう思っている。みんな、もうちょっと冷静になろう。

次回は「江川  VS 張本

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