バブルとはいったい何だったのだろう。部報でも『プラザ合意に始まり土地の総量規制に終わった』と形容したが、日本中が金まみれで狂騒していたかに語られるあの時代も、貧乏な地方公務員(別に謙遜しているわけではなくて、公務員の収入は若いときマジ少ないのである)にとっては「何の話?」なのが正直なところ。ちょっと例によってウィキペディアで調べてみよう。
まず、プラザ合意。
プラザ合意(-ごうい、英Plaza Accord)は、1985年9月22日、アメリカ合衆国ニューヨークの「プラザホテル」で行われたG5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)により発表された、為替レートに関する合意。当時のアメリカ合衆国の対外不均衡解消を名目とした協調介入への合意である。対日貿易赤字の是正を狙い、円高ドル安政策を採るものであった。発表の翌日1日(24時間)で、ドル円レートは、1ドル235円から約20円下落した。一年後には、ドルの価値はほぼ半減し120円台での取引が行われるようになった。
……要するにアメリカの要請に応えるかたちで、時の中曽根康弘総理、竹下登蔵相が円高ドル安を容認したわけだ。その結果どうなったかというと、円高不況を恐れて低金利政策をとらざるをえず、金はいっきに株と不動産に流れこんで空前の株高の時代へ。しかも円高なものだから海外資産を「お買い得!」とばかりに買いあさり、世界の不興をかうことになった。世紀の悪法「リゾート法」によって全国にゴルフ場がつくられて環境汚染がすすみ、地上げ屋が大活躍してアンダーグラウンドに金がじゃじゃ漏れになり、ベンツやBMWの牙城だった高級車市場に日本のメーカーが参入、セルシオやシーマはバブルの象徴になった。
とにかく経済の実体と株価があまりにもかけ離れていたせいで、むしろ『異常さを異常と感じることができない』時代だったといえるかもしれない。
あー文学部出身者にはむずかしい話でしんどいけれど、今度は総量規制の方を調べてみよう。
経済政策としての総量規制(そうりょうきせい)は、1990年3月に当時の大蔵省から金融機関に対して行われた行政指導。大蔵省銀行局長通達「土地関連融資の抑制について」のうちの不動産向け融資の伸び率を総貸出の伸び率以下に抑えることをいう。行き過ぎた不動産価格の高騰を沈静化させることを目的とする政策であったが、想定以上に急激な景気後退(いわゆるバブル崩壊)の引き金となってしまった。
……この総量規制を「無かったことにしてしまえ」と強引に仮定したのがホイチョイ・プロダクションズの「バブルへGo!!」だ。以下次号。