事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

「バブルへGo!!」(’07 ホイチョイ・プロダクションズ) PART1

2008-08-27 | 邦画

M0325138301  バブルとはいったい何だったのだろう。部報でも『プラザ合意に始まり土地の総量規制に終わった』と形容したが、日本中が金まみれで狂騒していたかに語られるあの時代も、貧乏な地方公務員(別に謙遜しているわけではなくて、公務員の収入は若いときマジ少ないのである)にとっては「何の話?」なのが正直なところ。ちょっと例によってウィキペディアで調べてみよう。

 まず、プラザ合意。

プラザ合意(-ごうい、英Plaza Accord)は、1985年9月22日、アメリカ合衆国ニューヨークの「プラザホテル」で行われたG5(先進5カ国蔵相・中央銀行総裁会議)により発表された、為替レートに関する合意。当時のアメリカ合衆国の対外不均衡解消を名目とした協調介入への合意である。対日貿易赤字の是正を狙い、円高ドル安政策を採るものであった。発表の翌日1日(24時間)で、ドル円レートは、1ドル235円から約20円下落した。一年後には、ドルの価値はほぼ半減し120円台での取引が行われるようになった。

……要するにアメリカの要請に応えるかたちで、時の中曽根康弘総理、竹下登蔵相が円高ドル安を容認したわけだ。その結果どうなったかというと、円高不況を恐れて低金利政策をとらざるをえず、金はいっきに株と不動産に流れこんで空前の株高の時代へ。しかも円高なものだから海外資産を「お買い得!」とばかりに買いあさり、世界の不興をかうことになった。世紀の悪法「リゾート法」によって全国にゴルフ場がつくられて環境汚染がすすみ、地上げ屋が大活躍してアンダーグラウンドに金がじゃじゃ漏れになり、ベンツやBMWの牙城だった高級車市場に日本のメーカーが参入、セルシオやシーマはバブルの象徴になった。

 とにかく経済の実体と株価があまりにもかけ離れていたせいで、むしろ『異常さを異常と感じることができない』時代だったといえるかもしれない。

 あー文学部出身者にはむずかしい話でしんどいけれど、今度は総量規制の方を調べてみよう。

経済政策としての総量規制(そうりょうきせい)は、1990年3月に当時の大蔵省から金融機関に対して行われた行政指導。大蔵省銀行局長通達「土地関連融資の抑制について」のうちの不動産向け融資の伸び率を総貸出の伸び率以下に抑えることをいう。行き過ぎた不動産価格の高騰を沈静化させることを目的とする政策であったが、想定以上に急激な景気後退(いわゆるバブル崩壊)の引き金となってしまった。

……この総量規制を「無かったことにしてしまえ」と強引に仮定したのがホイチョイ・プロダクションズの「バブルへGo!!」だ。以下次号

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「死者との誓い」R.ブロック著 PART4

2008-08-27 | ミステリ

203 PART3はこちら

~最終回はネタバレ必至です。よろしく~

「死者との誓い」が他のスカダーシリーズとくらべて(世評高い「八百万の死にざま」よりも)すばらしいのは、スカダーの昔の恋人の存在だ。死病にとりつかれた彼女は、みずからの“選択肢”を確保するために、拳銃をスカダーにリクエストする。スカダーは悩みつつも彼女に手渡す(調達の仕方もなかなかひねってある)。

 しかし終章で彼女がどんな“選択”をしたかが語られ、読者を感動させる。ネタバレ覚悟で彼女の決意を紹介しよう。彼女も、元アル中なのだ。

「あなたが帰ったあと、わたしは鏡を見たのよ。わたしには自分のみすぼらしさが信じられなかった。でも、こう思ったの。だからなんなの?って。自分のみすぼらしさとだってわたしは一緒に生きていける。そう思ったら、どんなこととでも生きていけるって思えたの。それと一緒に生きていかなければならないのなら、自分はそれに対して何もできないかもしれないけれど、一緒に生きていくことはできる。それに耐えることはできるってそう思えたのよ。
 自分にはどうすることもできないものがある。痛みとか容貌とか。それに、そう、自分は今のこの状態から生きては抜け出せないという受け容れがたい事実とかね。それに対して銃というのは、自分でどうにかできるものよ。現在の状況に我慢できなくなったら、ただ引き金を引けばいい。でも、どうにかしなきゃいけないなんて誰が言ったの?
ふと気がつくと、わたしはこういうことを理解してた。それは、わたしはどんなものも失いたくないということよ。だってそれが素面でいることの一番の目的じゃない?自分の人生を失うことはもうやめようというのが、素面でいることの一番の目的じゃないの。だから今もわたしはそうありたいと思った。死もまた人生におけるひとつの体験よ。その体験をわたしは逃したくない。昔は、死は突然訪れてくれればいいと思ってた。脳卒中とか心臓発作とか、一番いいのは、何が起こっているのかわからないまま眠っているあいだに死ぬことだって思ってた。でも、今はちがう。そんなことは少しも望まない。ゆっくりとネジがほどけるように死んでいきたい。」

……どんなことであっても、それを受け容れる決意。これはアルコール依存症患者が断酒にのぞむ決意とも相似形をなしている。「死者との誓い」がミステリとして上等なのはもちろんだけれど(それだけでももちろんすばらしいことだが)、一種の都市小説として、一種の救いの小説として光り輝いているのは、この終章のすばらしさによる。10年に一作出るか出ないかの傑作。ぜひ一読を。

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「死者との誓い」R.ブロック著 PART3

2008-08-27 | ミステリ

Myblueberrynights PART2はこちら

 探偵免許を持たず、知り合いからの紹介でのみ事件に関与する設定は、大都会、特にニューヨークでなければありえないだろう。それだけでなく、ニューヨークに生きる中年の孤独こそがスカダーシリーズ最大の魅力だ。

……その日、私は彼女のアパートメントを出ると、11番街までひとブロック歩いて、彼が殺された現場まで行き、信号が何回か変わるあいだしばらくそこに佇んだ。それからディウィット・クリントン・パークまで足を伸ばして大尉を表敬訪問し、誤って引用されたマクレーンの詩を読んだ。
  世を去った彼らとの誓いを
  きみが破れば
  われらは眠れないだろう……
 私はグレン・ホルツマンとジョージ・サデッキとの誓いを破ったのだろうか。私にはまだできることがあるのに、何も行動を起こせないでいる。だから彼らの魂はいまだに休むことができない。そうなのだろうか?

 英語圏、特にニューヨーカーにはたまらない文章ではないだろうか(田口俊樹の訳も絶好調だけど)。ブロックが描くNYはほぼ現実どおりで、観光案内としても機能する。最新作では9.11に関するニューヨーカーとしての悲痛なつぶやきもある。自由の女神やブロードウェイにはまったく心が動かないけれど、ブロックが描くニューヨークには強くひかれる。行きたいなあニューヨーク。

 スカダーは、“卑しい街を行く孤高の騎士”が“やせがまんを重ね”“軽口を叩きながら”事件を解決するという点で古典的ハードボイルドの血を色濃く受け継いでいる。しかし犯人像はさすがに時代を反映し、絶対悪と呼べる卑劣な殺人者であることが多い。

 しかし「死者との誓い」は、(ネタバレになるので詳しくは書けないが)ちょっと違う。ある事件の真犯人を捜し出すためにスカダーはさまざまな寄り道をするが、最大の謎は、一見ムダに思えるスカダーの捜査が、いったいどんな目的のために行われているか、なのだ。つまり、「探偵の動機」こそがこの小説の最大のキモであるあたり、うなった。

 しかしミステリとしての素晴らしさ以上の美点が「死者との誓い」にはある。以下次号

画像はブロックが共同で脚本を担当した「マイ・ブルーベリー・ナイツ」

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