事務職員へのこの1冊

市町村立小中学校事務職員のたえまない日常~ちょっとは仕事しろ。

007/カジノ・ロワイヤル PART5

2007-05-30 | 洋画

前号繰越

1962年の第一作から2006年の新作まで、44年間で21本の007シリーズがあるわけだから、平均すれば2年に一本は製作されていた勘定になる。ところが、途中でずいぶんと間が開いてしまっている時期がある。89年の「消されたライセンス」と95年の「ゴールデンアイ」、そして02年の「ダイ・アナザー・デイ」と06年の「カジノ・ロワイヤル」の間だ。共通点はどちらも主役が交代していること。五代目と、六代目選びが難航したのだ。

Rogermoore 三代目のロジャー・ムーア(27年生まれ)は、初代のショーン・コネリー(30年生まれ)よりも年長で、彼の最終作「美しき獲物たち」のときは58才にもなっていたし、最初からアクションは苦手だったから主役の交代は必然だったろう。おかげでスムーズに四代目のティモシー・ダルトンに移行したようだ。でもそのダルトン主演の二作がヒットしなかったことで大騒ぎ。6年の空白の後、結局はダルトンに決まる前に候補に上っていたピアース・ブロスナンがボンド役をひきうける。彼のボンドは好評だったが、しかしそのブロスナンの降板劇は奇々怪々だった。さほど観客動員が落ちたわけでもなく、特にイギリス人に人気のあったブロスナンがなぜ降ろされたのか、あるいは自分で辞めることにしたのか、諸説あってわけがわからん。ギャラの問題もあったらしいし。しかもその裏では、製作会社のMGMをソニーが買収する(実はソニーはブロッコリ家とは別のところで007を作ろうとしていた経緯がある)動きが微妙に影響したようで、バーバラ・ブロッコリもかなり苦労したことだろう。

Owene01 そんななか、新作「カジノ・ロワイヤル」のボンド役には数多くの男優がリストアップされた。有名どころではユアン・マクレガーやヒュー・ジャックマン、エリック・バナやブロスナンの復帰まで。もっとも信憑性が高くて、わたしも彼ならいいんじゃないかと思ったのはクライブ・オーウェン。今までのボンドのイメージに一番近いし、「ピンクパンサー」の新作や「ボーン・アイデンティティ」でも諜報員の役をやっていて、これがかなりよかったから。身長も189㎝!しかしバーバラが選んだのは“金髪で”“変な顔”“華のない”と散々な言われようのダニエル・クレイグだったのだ。「ミュンヘン」の工作員役とか、ひたすら地味でエキセントリックなイメージの強いあんな俳優を?だいじょうぶかバーバラ!
ところが……

PART6につづく。

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007/カジノ・ロワイヤル PART4

2007-05-28 | 洋画

前号繰越Barbara01

ブロッコリ、という珍しいファミリー・ネームを持つ一族は、その名のように野菜のブロッコリを創りだし、普及させたと言われている。その末裔が007シリーズの製作者アルバート・R・ブロッコリと、愛娘バーバラ・ブロッコリだ。

 かつて007の原作者イアン・フレミング(「意外なふたり」シリーズでクリストファー・リーの従兄弟であることは紹介しました)は、自分の小説は絶対に映像に向く、と考えていたのに、いざテレビドラマ化されたらしょぼいものになってしまい、かなり落胆したらしい。そのため、みずから映画化への意欲をみせたところであらわれたのが映画製作者ハリー・サルツマンとアルバート・R・ブロッコリ。できあがったのが「007 ドクター・ノオ」だった。

今回はウンチク話ばかりになるけれど、「ドクター・ノオ」の公開時のタイトルは「007は殺しの番号」。2作目の「ロシアより愛をこめて」は「007 危機一発」。危機一髪、じゃなくてね。この意図的な誤用で全国の受験生を悩ませたのが当時ユナイトの宣伝部にいた水野晴郎だった。
それはともかく、フレミングが期待したように映画が大ヒットし、シリーズ化された007も、サルツマンとブロッコリがめざす方向が違うことで作品は混迷していく。サルツマンは文学的香りを、ブロッコリは荒唐無稽さを追求しようとし、結果としてシリーズはブロッコリが望んだ方向に進み、サルツマンはシリーズを離れる。

Casino_royale_012 以降、007はアルバートのものとなり、そして彼の死後はバーバラが製作をつとめている。朝日新聞の「カジノ・ロワイヤル」特集で007を「ブロッコリ家の“家業”」と表現していたのには笑った。

バーバラ・ブロッコリはわたしと同い年で、「007は二度死ぬ」(’67)の九州ロケに同行している。熱を出したときに(「他の人は床に寝ていたのに♪」~おそらく畳のことだと思うが)、ショーン・コネリーがベッドをゆずってくれたそうだ。さすが、家業の跡継ぎは言うことに年季が入っている。

現在の007はバーバラが主導しているが、主役のキャスティングにおける彼女の嗅覚は本物だ。世間の圧倒的な反対を押し切って、新作にダニエル・クレイグを起用したことでそれはわかる。
次回でやっと新作に!】

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007/カジノ・ロワイヤル PART3

2007-05-27 | 洋画

前号繰越Casino_royale

ジェームス・ボンドの決めゼリフといえば
My name is Bond, James Bond
Vodka Martini. Shaken, not stirred.”(ウォッカマティーニを。ステアせずにシェィクで)
かな。新作「カジノ・ロワイヤル」では、うなるほどみごとな使い方をされています。マティーニについてはふた通りの考え方があるそうだ。ステアせずにシェイクして飲むのは、さすが英国紳士のこだわりと好意的にとらえるか、あるいはそんな田舎者みたいな飲み方をしやがって、ととるか(byさいとうたかを)。どうしてふた通りあるかというと、それは初代ジェームス・ボンドであるショーン・コネリーをどう評価するかにかかっている。およそ都会的な顔立ちとはいえず、老いてから独立運動にかんでいることでも有名な、根っからのスコットランド人であるショーン・コネリーが、女王陛下に忠誠をつくすスパイを演ずるのは無理があると考えた人は多かったようだ。むしろその頃、テレビ「セイント」で人気があった都会的風貌のロジャー・ムーアを推す声もあったという。

 でも、結果的にはコネリーを選んで大正解。このシリーズが40年以上も続いているのは彼のジェームス・ボンド像が世界中で受け入れられたからだ。前号でひねくれたことを言ったけれど、その後DVDなどでコネリー版007を見てつくづく素晴らしいと思った。むせかえるような男臭さを、仕立てのいいスーツで押し隠したセクシーさは比類がない。まあ、あれだけクセが強いわけだから嫌う人も多いだろうけれども。

 そして彼は、ジェームス・ボンド役のイメージがつきまとうことに嫌気がさし(それならどうして「ネバーセイ・ネバーアゲイン」をつくったのだろう)、007シリーズから離れる。その後「歳をとるならショーン・コネリーみたいに」と男ならみんなが思うくらいに渋くなっているので、この選択は正しかったのだろう。

 問題は二代目だ。オーストラリア生まれで演技経験がなかったファッションモデルあがりのジョージ・レーゼンビー。彼が例の「女王陛下の007」出演中に“尊大で、途中でギャラのアップを要求”するなどして一作で交代させられている。DVDの特典映像で当時を語る彼が、すっかり脂が抜けていいオヤジになっているのが笑える。
 さて、このような主役交代劇のたびに表に出てくる人間がいる。ブロッコリ、という冗談のような名前を持つ一族だ。(つづく


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007/カジノ・ロワイヤル PART1

2007-05-25 | 洋画

Casinoroyale01♪デンデケデンデンデデデ・デンデケデンデンデデデ・デデーン!デデデン♪

おなじみ、モンティ・ノーマンのテーマが流れる。画面の中央に銃口を象徴する円が描かれ、そのなかに男が現れて振り向きざまに(観客に向かって)発砲する。女体をモチーフにしたタイトル画面に移り、流麗なボーカルが聞こえてくる……

 007シリーズの通常の始まり方だ。ところが、新作「カジノ・ロワイヤル」はそれをちょっとひねった形で始まる。「これはいつもの007じゃないぞ」と製作者が高らかに宣言しているかのように。かくして、この作品はシリーズ最高作であることをオープニングから予感させる。

 007シリーズを、ブロッコリ家(あとでふれます)が製作した正規の21作品だけでなく、ほとんどギャグ作品だったオリジナル「カジノ・ロワイヤル」や、ジェイムス・ボンド役がいやで降りたはずのショーン・コネリーが何を思ったか自分でつくった「ネバーセイ・ネバーアゲイン」まで、すべてを観てしまっている(T_T)わたしは、今度の「カジノ・ロワイヤル」には熱狂した。
DVD発売記念に、いっちょ特集しましょう。

PART2につづきます。

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リチャード・ギア

2007-05-24 | 芸能ネタ

Richard_gere_3  いや、あの、勇気をふりしぼって告白しますが、わたしリチャード・ギアの大ファンなのです。スクリーンに彼がいるだけでどんな凡作でも満足。

たとえば「愛と青春の旅立ち」なんていうクソ映画でも、まあギアがやっていることだから仕方がないか、なんて思ってしまう。わたしにとって、まさしくスターだ。

 ジョン・パーカーが著した「リチャード・ギア~Mr.セクシーの真実と嘘」(ゴシップを中心に映画史を読み解いている。下品だが、これは手法としてありだと思う)を読むと、しかし彼の遍歴がおよそ順風満帆ではなかったことがわかる。

 だいたい、彼のデビューにしても業界ではさめた目で見られていたのだ。
プロデューサーのトレヴァー・ウォレスはこう語っている。

「当時(70年代後半から80年代前半にかけて)はハリウッドをあげて、新しい男優を探している時期だった。

誰かいないかとあたりを見回してみても、若手スターは片手で数えられる程度しか見当たらなかった。ポール・ニューマンは五十歳を優に過ぎてたし、ロバート・レッドフォードは四十過ぎで、監督業のほうに色気があった。バート・レイノルズも同じだ。

ダスティン・ホフマンは四十歳になったばかりだが、セックス・シンボルといったタイプじゃない。クリント・イーストウッドは五十に手が届くところで、監督業とどっちつかずの状態だった。デ・ニーロやパチーノは重厚でシリアスな作品ばかりえり好みしている上に、仕事で組む相手にもうるさい。

クリストファー・リーブは『スーパーマン』シリーズにかかりきりだし、ニック・ノルティは低迷したまま。となるとジャック・ニコルソンしかいない。彼は達者な役者だが、やはり四十歳を超えている。まあ、考えてみてくれ。ハリウッドはいついかなる時でも十本あまりの作品が同時に製作されてるとする。セクシーで、若いスターの需要は変わらないのに、全作品に行き渡るほど人材がない。トラヴォルタやギアは、映画史におけるまさにそんな時代に居合わせて、重宝されたんだ。」

 その後、大コケが続いて“過去の人”あつかいされたギアが、一発大逆転を果たしたのがあの「プリティ・ウーマン」。以降は大化けをするでもなく、フェイドアウトするでもなく、安定した履歴になっている。ファンとしてはもっとも理想的な展開。ダライ=ラマに傾倒して反中国の立場をあからさまにしているのも心情的に納得できる。

 世界一のスーパーモデル、シンディ・クロフォードと結婚(後に離婚)していたのに、なぜか常にゲイの噂が絶えないあたりは、松平健と大地真央のカップルに似た事情かもしれない。若い頃すぐ脱ぐ役ばっかりだった影響もあるらしい。

まあ、わたしはあの高貴なルックス(ほんとうに美しいと思う)が健在なら、ゲイでもなんでもいいんですけどね。インド人 ?ほっとけ!

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ブラッド・ダイヤモンド

2007-05-23 | 洋画

Blooddiamond 「ブラッド・ダイヤモンド」を語るときに、まず前提にしなければならない映画がある。「ナイロビの蜂」(’05 The Constant Gardener)だ。ジョン・ル・カレの原作は読んでいないけれど、前作「シティ・オブ・ゴッド」(03年のわたしのベストワンです)の監督フェルナンド・メイレレスは、原作とはずいぶんと肌合いの違う作品にしあげたのだと思う。ブラジル版深作欣二、と勝手に名づけたメイレレスは、「シティ~」と同じように時制を自在にあやつりながら、今度はアフリカの現状と西欧の暴虐をあばいてみせる。アフリカの混乱(エイズ、貧困、部族対立)の陰に、アフリカを食いものにする資本の力があることを怒りをこめてスクリーンにたたきつけているのだ。庭いじりにしか興味のない夫(レイフ・ファインズ)が、妻のやりたかったことを完遂してみせる意地の物語。妻を演ずるレイチェル・ワイズがあいかわらず盛大に脱いでくれているだけでもうれしいが(「レニングラード」のあのお尻は健在でした)、アフリカの風景そのものがもつ力がすごい。

 そして「ブラッド・ダイヤモンド」も、同様に“告発”の映画だ。シオラレオネの内戦において、紛争ダイヤと呼ばれる存在が“内戦が終わってもらっては困る”宝石業界の意向とあいまってアフリカを疲弊させていることと、次々と死んでいく人民と革命の名のもとに洗脳されていく少年兵たちを生み出すものが、『給料の三ヶ月分を支払って美しい宝石を身につけたい』とする先進諸国の国民の無邪気な欲望なのだと告げている。

 両作品とも、その贖罪のためか、主人公の白人男性はアフリカに殉ずる。穏やかな表情で死にゆく彼らの痛みこそ、わたしたちに向けられたナイフの切っ先だ。
 三十才をこえたレオナルド・ディカプリオが意外なほどいい。彼が画面にいるだけでドラマがはずんでいる。「タイタニック」以降、どこが“うまい”役者なのかなあと思っていたけれど、ちょっと見直しました。ジャーナリストを演ずるジェニファー・コネリーとの、こんな会話がちゃんと納得できるのだ。
「あなた、密輸業者じゃない?」
「どうしてそう思う?」
ユニセフ、ってタイプじゃないもの

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ロング・グッドバイ

2007-05-22 | ミステリ

Thelonggoodbye  何度も主張していることだけれど、わたしのオールタイムベスト映画は故ロバート・アルトマンの「ロング・グッドバイ」(’73)だ。私立探偵フィリップ・マーロウをエリオット・グールドが演じ、ロフトに住んで近所のおねえちゃんたちに軽口をたたきながら事件に飛びこんで行く……そうです。松田優作「探偵物語」の元ネタですね。


 残念ながら酒田のビデオ屋にはこの作品は見当たらないので(今がチャンスなのに!)、三十年近く前に観たっきり。すでにマーロウの年令をこえた中年男の目で再見したらどうなのかなあ。ハーモニカを使ってある人物への軽蔑をあからさまにしたラストなど、みごとなものだったが。まあ、アルトマンの「M★A★S★Hマッシュ」(’70)は久しぶりに観ても大感激だったのでだいじょうぶかも。

 原作「The Long Goodbye」はレイモンド・チャンドラーの最高傑作。刊行当時はあまり売れなかったが、時代が下るにつれて評価はうなぎのぼり。日本でも「タフでなければ生きていけない。やさしくなければ生きている資格がない」(実は「ロング・グッドバイ」のセリフじゃない)や、「別れることは少し死ぬことだ」などのフレーズで有名だ。わたしが大好きなのはラストの一行だけれど、これはぜひとも作品にふれて味わっていただきたい。

さて、「キャッチャー・イン・ザ・ライ」につづく村上春樹の夢の改訳第二弾。これまで流通していた清水俊二訳(わたしの世代には映画の字幕でおなじみ)との最大の差は、マーロウが若々しく、自省的に思えることだろうか。村上春樹が訳したことによって反響をよび、ふたたびチャンドラーの作品(大鹿マロイが出てくる「さらば愛しき女よ」は必読)が売れはじめたようでめでたい。

でもミステリファンは偏屈なので、90ページに及ぼうかという村上のあとがきのなかで、一度も“ハードボイルド”ということばが使われていないことに噛みついたりしている。わたしも村上訳にはちょっと違和感があるけれど、上質の文学の側面が強調されたということで、草葉の陰でチャンドラーもよろこんでいるのでは?まずは、読んでいただくことだ。おそろしく魅力的な脇役、テリー・レノックスの存在だけでもその価値はある。

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明細書を見ろ!07年5月号

2007-05-21 | 明細書を見ろ!(事務だより)

Makikotanaka 今日はちょっと趣向を変えて自分の学校で職員向けに出している事務部報を。ここに出てくる“”こそ真紀子の息子。があんまりをいじめるものだからケンカしているあのお兄ちゃんですね。

…… めでたくも(皮肉)教育関連三法案が衆議院をあっさり通過してしまいましたが、実は給与についても重要な問題をはらんでいます。それは学校教育法改正案のなかに
「副校長」
「主幹教諭」
「指導教諭」

を設置“できる”とする部分があるからですが、これはいずれ【主幹の犯罪】として特集しますのでお楽しみに。

 さて、この3月29日に出た『今後の教員給与の在り方について』という中教審答申がなかなかしぶいので紹介します。
 その第三章「メリハリのある教員給与の在り方」にこうあります。
【教員に優秀な人材を確保するという人材確保法の精神をふまえ、人材確保法における教員給与の優遇措置についてその基本を維持しながら】

Gotodamasaharu ……そうです。意識していないかもしれませんが、教員の給与は優遇されているのです。
 その額は一般行政職を上回ることおよそ2.76%。なぜこういう経緯になったかというとここに田中角栄が登場します。
人確法(教職員人材確保法)とは、かつて公務員給与が低かった時代に「先生にでもなるか」「先生にしかなれない」といった「でもしか先生」が増え、教育水準を落とすと問題になった状況を改善するため、74年に制定し、教員給与を一般公務員より高く設定することを決めたものです。その財源が「2.76%」というわけ。
 実は当時どんな動きがあったか、意外なことに後藤田正晴の自伝にあったので紹介しましょう。

……「義務教育諸学校の職員の処遇の改善に関する法律」というのがあるんですよ。あれは最初は処遇の改善ではなくて、「義務教育諸学校職員の給与に関する特例法」だったんだ。これは田中(角栄)さんの発想だった。突然田中さんに呼ばれて、後藤田君、この頃の学校教員の資質が悪いよ、と言うんだ。ぼくはわからんけれど、あの人は孫がいたからわかった。学校教員に少しいい人が来るようにしてくれ、と言う。どうするんですか、と言ったら、待遇をよくしてやらなければいいものは来ないよ、と言う。もちろんそうですよ、それを全部大学からやるんですか、と言ったら、大学はどうでもいい、と言う。何ですか、と言ったら、小学校と中学校だ、義務教育だけでいいよ、と言う。ああそうですか、それならやりましょう、ということで着手した。
田中さんのほんとうの腹は、僕の推測だけれど、日教組対策だな、これは確実に。政府が先手を打って給与さえ改善すれば日教組の存在価値がなくなる。こういう考え方でやったと思うな。総理のそういう意図もわかったから、待遇改善をやりました。そのときの田中さんの注文は、他の役人よりも五割上げろと言うんだ。五号俸ということだったんだ、田中さんの意図は。それは総理、無理ですよ、いくら何でもそんなことできませんよ、と言ったら、そうか、どれぐらいならいいか、というから、まあせいぜい三号ですな、と僕も腰だめでやった。ああよかろう、というんで話が早いんだよ。それで三号にして、三年計画にした。
【情と理~後藤田正晴自伝より】


……この流れが今に続いているという次第。官房副長官時代からカミソリ後藤田(実はダーティ後藤田でもあった)は健在だったわけだ。かつて日教組対策だった人確法を、日教組の側から守れと動いていることに時代を感じます。

 それはともかく、文科省は答申にあるように教員給与を高いまま維持したい。でも政府は骨太方針に基づいて削減に動いている。
 問題は自民党文教族が削減に積極的なことで、だから維持したい方は「なに言ってるんですか。これはそちらの角栄さんがやったことじゃないですか」と指摘。それならば、と今持ち出されているのが“メリハリ”というやつです。これは次号で紹介します。

6月号はこちら。

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1976年のアントニオ猪木 3戦目

2007-05-20 | スポーツ

Inoki_book 前号繰越

 東京体育館の興奮をいまだにおぼえているわたしに、柳澤のこの書は冷水を浴びせかける。プロレスとは基本的にフィックスト(定められた)・マッチだ、と。つまり対戦相手と綿密な打合せを行い、ストーリーを練り上げて観客に満足を与えることこそが目的であり、ガチンコにみえる猪木のプロレスもその例外ではないというのだ。

 プロレス技で有名なものに足4の字固めがある。フィギュア・フォー・レッグロック。子どものころにかけ合いをして、そのあまりの痛さに悲鳴を上げた人も多かろうと思う。しかしあれはやってみるとわかるが“かけられる方の協力”がなければおよそ成立しない技だ。でも、観客へのアピール度が高いものだから決め技としてメジャーなものになっている。同じことが猪木の卍固め(オクトパスホールド)やコブラツイストにもいえる。あの不安定な技を“美しく”決める能力こそが猪木の真骨頂だと(そこまではっきり断定してはいないが)。

 それでは76年の四試合がなにゆえにリアルファイトになってしまったか。柳澤はそこに“技術の不足”を指摘する。ストーリーテリングと身体のバランス感覚において猪木はまちがいなく天才だ。しかしたとえばアリ戦においては、ボクサーのパンチをかいくぐって寝技にもちこむタックルのテクニックを(アマレスの経験がない)猪木がもっていなかったことが凡戦の原因だと推理する。また、プライドの高さや、自らが決めたストーリーに満足できなくなる瞬間がおとずれる、猪木の人格の破綻こそが76年の結末ではなかったか、とも(柳澤のインタビューの申し出を猪木は蹴っている)。

Sakuraba01  猪木のリアルファイトによって、韓国とパキスタンのプロレスは衰退し、キックを何度も足にあびたモハメッド・アリは引退をはやめた。自分の限界を察知した猪木は事業に熱中し、妻(倍賞美津子)と金を失う結果となった。要するに何にもいいことはなかったのである。はてしない消耗戦をつづける猪木に、馬場は「ご勝手に。こっちは“プロレス”を続けさせてもらう」と余裕のかまえだったし、ショープロレスをとことん突きつめたアメリカのマット界は、現在隆盛の極にいる。

 しかしそれでも、アントニオ猪木という存在が偉大であることは微塵も揺るがない。彼のスタイルこそが、格闘技を進化させたのは事実なのだ。寝技と立ち技が融合したグレイシー柔術の席巻を、テクニシャンにしてクレバーな桜庭和志が撃破し続けたのはアリ戦の凡庸さがあったからだ。乱立するプロレス団体も、もはやアメリカのような能天気な世界ではなくなっている。それはすべて、日本にアントニオ猪木がいたからだろう。日本のプロレスは力道山が生み、ジャイアント馬場が育てたかもしれない。でも彼らの後継者は、不肖の息子であるアントニオ猪木の呪縛から、今も離れられずにいるのだ。
【1976年のアントニオ猪木 おしまい】

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1976年のアントニオ猪木 2戦目

2007-05-19 | スポーツ

030_inoki わたしが猪木の試合を意図的に無視していたのは、彼が“テレビ朝日の人間”に見えたからだ。正確に言うと当時はまだテレビ朝日ではなく、NET(日本教育テレビ!)の時代。「踊る大捜査線」の号でもお伝えしたように、山形県は日テレ系列の山形放送1局体制が長くつづき、したがって力道山時代の日本プロレス→ジャイアント馬場の全日本プロレスが金曜8時という『伝統の枠』で放映されていた。

 ここからは猪木信者に気を使った表現になるけれど、力道山が刺殺されたことに始まる日本プロレスから全日本プロレスへの移行には謎が多い。馬場にシンパシーをよせる人は猪木を裏切り者扱いし、猪木信者は馬場を悪鬼のように語る不幸な時代がここからはじまった。逆にいえば、B(馬場)とI(猪木)という二人の天才が切磋琢磨することで、プロレスは日本でだけ異様な進化を達成したのだけれど。

 そんな事情をつゆも知らない山形の「巨人・日テレ・卵焼き」な少年だったわたしは、うーん猪木はどうもうさんくさいなあ、と感じていたのだ。だから世間がどれだけ猪木VSアリ戦でもりあがっていようと、さめた目で見ていたわけ。

 しかし東京に移り住み、金曜8時の新日本プロレスの中継(日テレは「太陽にほえろ!」にかわっていた)を観られるようになってたまげた。予定調和な全日本プロレスとは違う、それはそれは派手な肉弾戦が展開されていたから。特にタイガーマスク(佐山聡)には驚かされた。マット上からリングサイドに助走をつけて吹っ飛んでいくパフォーマンスは、どちらかといえば鈍重な全日本にはありえないものだったし、スタン・ハンセンの、ランニング・ネック・ブリーカー・ドロップを改良した(このあたりは『1、2の三四郎』で学習しました)ウェスタンラリアットはマジで痛そうだった。
「うわ。こっちの方が面白いじゃないか!」
と気づいたときには、しかし猪木のピークはとっくに過ぎていたのだった。76年のリアルファイト以降、猪木は興行主としてIWGPや異種格闘技戦に活路を見いだし、だが経営者として放蕩の限りをつくして新日を追い出されることになる。

 あ、ひとつ言い忘れた。東京に住んでいたころ、わたしの友人に完璧な馬場主義者がいて、まもなく田舎に帰らなければならないわたしをプロレスに誘ってくれた。これが今でも語りぐさのPWFヘビー級選手権「ジャイアント馬場VSスタン・ハンセン」だったのだ。1982年2月4日、東京体育館で行われた伝説の一戦は、両者反則負けといういかにもな結果にもかかわらず観客を熱狂させた。わたしも思いきり興奮したのだったが……以下次号。

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