正月早々、縁起でもない。確かにそうかも知れないが、メメントモリ(死を思え)という言葉もある。正月にこの手の本を読んでみるのもいいかもしれない。
明治・大正・昭和の文士達が無くなったときの追悼の文章について書かれた本だが、追悼文も文豪が書いたものであり、それをネタに書くのが、エッセイの名手嵐山光三郎氏であるからして、もう文章は名文だらけであり、文体を味わうのであれば、これは濃縮された素晴らしい本である。
それにしても追悼文とは、いいところに目をつけたわけで、本書内でも書かれているように、追悼とは大抵まだ書き手側でも心が動揺しているうちに、一日、長くても数日のうちに書き終わらなければならないわけで、その書き手の地金がモロに出るものである。
この本の前半では、泉鏡花がまさに追悼の達人であった。文章の使い手としては百年に一人といってもいいのではないかと思う鏡花だけあって、掲載されている文書も流石である。特に芥川氏の追悼の文章の玲瓏ぶりには舌を巻く以外ない。
一方後半、つまり近世の追悼の達人いうべきは川端康成であって、追悼する相手によって文体まで変わっている。しかもそれも非常に凝ったものであって、文壇で「追悼は川端」と相場が決まっていたのもうなずける話である。
また森鴎外、夏目漱石の臨終の様子や正岡子規あたりの話も非常に面白かった。
文章が好きな人間であれば、飽きるまで何度も読むべき本であろう。そして自分の追悼文を想像してみるのも悪くない。
明治・大正・昭和の文士達が無くなったときの追悼の文章について書かれた本だが、追悼文も文豪が書いたものであり、それをネタに書くのが、エッセイの名手嵐山光三郎氏であるからして、もう文章は名文だらけであり、文体を味わうのであれば、これは濃縮された素晴らしい本である。
それにしても追悼文とは、いいところに目をつけたわけで、本書内でも書かれているように、追悼とは大抵まだ書き手側でも心が動揺しているうちに、一日、長くても数日のうちに書き終わらなければならないわけで、その書き手の地金がモロに出るものである。
この本の前半では、泉鏡花がまさに追悼の達人であった。文章の使い手としては百年に一人といってもいいのではないかと思う鏡花だけあって、掲載されている文書も流石である。特に芥川氏の追悼の文章の玲瓏ぶりには舌を巻く以外ない。
一方後半、つまり近世の追悼の達人いうべきは川端康成であって、追悼する相手によって文体まで変わっている。しかもそれも非常に凝ったものであって、文壇で「追悼は川端」と相場が決まっていたのもうなずける話である。
また森鴎外、夏目漱石の臨終の様子や正岡子規あたりの話も非常に面白かった。
文章が好きな人間であれば、飽きるまで何度も読むべき本であろう。そして自分の追悼文を想像してみるのも悪くない。
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