女子陸上競技で、日本人初のオリンピック金メダリストとなったのが、2000(平成12)年のシドニーオリンピックの女子マラソンで優勝した、Qちゃんこと、高橋尚子。
【問題】
海田町(かいたちょう)出身で、1928(昭和3)年に行われたアムステルダムオリンピックの三段跳で、日本人初の金メダルを獲得したのは、次のうち誰でしょうか?
1.織田幹雄(おだ みきお)
2.小掛照二(こがけ てるじ)
3.田島直人(たじま なおと)
4.南部忠平(なんぶ ちゅうへい)
【正解】
1.織田幹雄
【解説】
織田幹雄(1905年-1998年)は、広島県安芸郡海田町(現・海田町稲荷町)出身の元陸上選手。
日本人初のオリンピック金メダリスト。
1928(昭和3)年のアムステルダムオリンピックでは日本選手団の主将として出場するとともに、8月2日に行われた三段跳決勝で日本人初の金メダルを獲得した。
記録は15メートル21。
1931(昭和6)年10月27日、当時の三段跳の世界記録(15メートル58)を樹立した。
(「織田幹雄記念国際陸上競技大会」ウィキペディア)
織田の功績を称えて、毎年4月29日、織田幹雄記念国際陸上競技大会が、広島広域公園陸上競技場(広島ビッグアーチ)で行われとります。
当時、英語で「ホップ・ステップ・ジャンプ」と呼ばれていた競技名に、日本語で「三段跳」と命名したのが織田だといわれとります。
ちなみに現在は、トリプルジャンプと呼ばれとる。
ホップ・ステップ・ジャンプといえば、広島出身の西城秀樹も『ホップ・ステップ・ジャンプ』(1979年)という曲を歌われとりましたのう。
1922(大正11)年、広島一中(現・広島国泰寺高校)5年、極東選手権の予選会で、走高跳で1メートル73、走幅跳で6メートル29の日本記録を樹立。
三段跳は13メートル38で、日本記録にあと7センチ足らなかった。
1923(大正12)年、広島高等師範付属臨時教員養成所に入学。
1924(大正13)年、パリオリンピックに出場。
走幅跳は予選落ちをしたが、三段跳で14メートル35の日本記録で6位。
日本陸上初の入賞を果たした。
(5位の記録は14m97)、自分と他の5選手の記録には相当大きな実力の差があり。
入賞出来たのは幸運であった。
次のオリンピックでは三段跳で3位以内に入ってやろうと心に決めた。
三段跳を正式に練習しはじめてから2年間に約2メートル記録が伸びたから、今から4年であと1メートルくらい記録を伸ばすのは無理ではない
「日記」より
1925(大正14)年、早稲田大学第一高等学校入学、競争部に入部。
三段跳はもとより、走幅跳、走高跳、棒高跳、十種競技、リレーなど、万能選手として活躍。
1928(昭和3)年、早稲田大学商学部に入学。
アムステルダムオリンピックに出場。
走高跳は1メートル88で8位。
三段跳は15メートル21で、日本人初の金メダルを獲得した。
遂に永い間の苦心は報いられた。
日章旗が高々と掲げられ国歌が奏せられた時は自然と頭が下がり国旗をあおぐことさえ出来ず涙が自然にあふれ出た。
スタンドに待って居た選手諸君にかつがれて控室に帰った時にはまるで夢を見て居るようだった。
(中略)
永い永い競技生活を通じて初めて勝利の喜びにひたることが出来た。
成績は思わしくなかったけれども重い重い責任をはたし得た事は何よりも嬉しい。
(中略)
人見嬢も800で頑張って2等になった。
2つも国旗を揚げることが出来た今日の日はなんと日本にとって幸運な日だったろう。
私の一生の最も記念すべき日なのだ。
国の人々はどんなに喜んでくれるだろう。
敗れたならば合わす顔はないのだったがこれで同胞に顔を合わせる事が出来る。
「日記」より
文中にある「人見嬢」とは、100メートル、200メートル、走幅跳の元世界記録保持者、人見絹枝(ひとみ きぬえ)のこと。
織田が金メダルを取ったのと同じ8月2日、800メートル決勝で2位(2分17秒6)に入り、日本人女性初のメダリストとなった。
1932(昭和7)年、結婚。
負傷もあり、競技の第一線から退く。
1948(昭和23)年、JOC(日本オリンピック委員会)委員に就任。
1965(昭和40)年、早稲田大学教授に就任。
1964(昭和39)年、東京オリンピックで陸上競技の総監督を務める。
1967(昭和42)年、第1回織田幹雄記念陸上開催。
1982(昭和57)年、早稲田大学スポーツ功労者(第1号)。
1986(昭和61)年、故郷の海田町名誉町民に。
1988(昭和63)年、文化功労者。
1989(平成元)年、日本陸連名誉会長に就任。
1998(平成10)年、永眠。
享年93歳。
年表については、「「生誕100周年記念 織田幹雄年譜」早稲田大学競走部」を参考にさせてもらいました。
↓海田町の名誉町民については、こちら↓
「名誉町民」海田町ホームページ
↓海田総合公園にある顕彰モニュメントについては、こちら↓
「織田幹雄氏 顕彰モニュメントについて」海田総合公園
選択肢2の小掛照二は、甲奴郡上下町(こうぬぐん じょうげちょう。現・府中市上下町)出身。
日本陸連名誉副会長。
1956(昭和31)年、日本陸上競技選手権で16メートル48の世界記録(当時)を樹立した。
選択肢3の田島直人(1912年-1990年)は、1936(昭和11)年のベルリンオリンピックの三段跳で、16メートル00の世界記録(当時)で金メダルを獲得。
織田・南部・田島の3人で、オリンピックの三段跳競技で、日本が3連覇を果たした。
選択肢4の南部忠平(1904年-1997年)は、1932(昭和7)年のロサンゼルスオリンピックの三段跳に出場し、15メートル72の世界記録(当時)を樹立して金メダルを獲得した。
織田幹雄とともに出場したアムステルダムオリンピックでは、4位。
↓海田町についての過去の記事は、こちら↓
三村敏之に町民栄誉賞を贈ることにした町の名前は?
今日は、織田幹雄について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。
ほいじゃあ、またの。
【問題】
海田町(かいたちょう)出身で、1928(昭和3)年に行われたアムステルダムオリンピックの三段跳で、日本人初の金メダルを獲得したのは、次のうち誰でしょうか?
1.織田幹雄(おだ みきお)
2.小掛照二(こがけ てるじ)
3.田島直人(たじま なおと)
4.南部忠平(なんぶ ちゅうへい)
【正解】
1.織田幹雄
【解説】
織田幹雄(1905年-1998年)は、広島県安芸郡海田町(現・海田町稲荷町)出身の元陸上選手。
日本人初のオリンピック金メダリスト。
1928(昭和3)年のアムステルダムオリンピックでは日本選手団の主将として出場するとともに、8月2日に行われた三段跳決勝で日本人初の金メダルを獲得した。
記録は15メートル21。
1931(昭和6)年10月27日、当時の三段跳の世界記録(15メートル58)を樹立した。
(「織田幹雄記念国際陸上競技大会」ウィキペディア)
織田の功績を称えて、毎年4月29日、織田幹雄記念国際陸上競技大会が、広島広域公園陸上競技場(広島ビッグアーチ)で行われとります。
当時、英語で「ホップ・ステップ・ジャンプ」と呼ばれていた競技名に、日本語で「三段跳」と命名したのが織田だといわれとります。
ちなみに現在は、トリプルジャンプと呼ばれとる。
ホップ・ステップ・ジャンプといえば、広島出身の西城秀樹も『ホップ・ステップ・ジャンプ』(1979年)という曲を歌われとりましたのう。
1922(大正11)年、広島一中(現・広島国泰寺高校)5年、極東選手権の予選会で、走高跳で1メートル73、走幅跳で6メートル29の日本記録を樹立。
三段跳は13メートル38で、日本記録にあと7センチ足らなかった。
1923(大正12)年、広島高等師範付属臨時教員養成所に入学。
1924(大正13)年、パリオリンピックに出場。
走幅跳は予選落ちをしたが、三段跳で14メートル35の日本記録で6位。
日本陸上初の入賞を果たした。
(5位の記録は14m97)、自分と他の5選手の記録には相当大きな実力の差があり。
入賞出来たのは幸運であった。
次のオリンピックでは三段跳で3位以内に入ってやろうと心に決めた。
三段跳を正式に練習しはじめてから2年間に約2メートル記録が伸びたから、今から4年であと1メートルくらい記録を伸ばすのは無理ではない
「日記」より
1925(大正14)年、早稲田大学第一高等学校入学、競争部に入部。
三段跳はもとより、走幅跳、走高跳、棒高跳、十種競技、リレーなど、万能選手として活躍。
1928(昭和3)年、早稲田大学商学部に入学。
アムステルダムオリンピックに出場。
走高跳は1メートル88で8位。
三段跳は15メートル21で、日本人初の金メダルを獲得した。
遂に永い間の苦心は報いられた。
日章旗が高々と掲げられ国歌が奏せられた時は自然と頭が下がり国旗をあおぐことさえ出来ず涙が自然にあふれ出た。
スタンドに待って居た選手諸君にかつがれて控室に帰った時にはまるで夢を見て居るようだった。
(中略)
永い永い競技生活を通じて初めて勝利の喜びにひたることが出来た。
成績は思わしくなかったけれども重い重い責任をはたし得た事は何よりも嬉しい。
(中略)
人見嬢も800で頑張って2等になった。
2つも国旗を揚げることが出来た今日の日はなんと日本にとって幸運な日だったろう。
私の一生の最も記念すべき日なのだ。
国の人々はどんなに喜んでくれるだろう。
敗れたならば合わす顔はないのだったがこれで同胞に顔を合わせる事が出来る。
「日記」より
文中にある「人見嬢」とは、100メートル、200メートル、走幅跳の元世界記録保持者、人見絹枝(ひとみ きぬえ)のこと。
織田が金メダルを取ったのと同じ8月2日、800メートル決勝で2位(2分17秒6)に入り、日本人女性初のメダリストとなった。
1932(昭和7)年、結婚。
負傷もあり、競技の第一線から退く。
1948(昭和23)年、JOC(日本オリンピック委員会)委員に就任。
1965(昭和40)年、早稲田大学教授に就任。
1964(昭和39)年、東京オリンピックで陸上競技の総監督を務める。
1967(昭和42)年、第1回織田幹雄記念陸上開催。
1982(昭和57)年、早稲田大学スポーツ功労者(第1号)。
1986(昭和61)年、故郷の海田町名誉町民に。
1988(昭和63)年、文化功労者。
1989(平成元)年、日本陸連名誉会長に就任。
1998(平成10)年、永眠。
享年93歳。
年表については、「「生誕100周年記念 織田幹雄年譜」早稲田大学競走部」を参考にさせてもらいました。
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「名誉町民」海田町ホームページ
↓海田総合公園にある顕彰モニュメントについては、こちら↓
「織田幹雄氏 顕彰モニュメントについて」海田総合公園
選択肢2の小掛照二は、甲奴郡上下町(こうぬぐん じょうげちょう。現・府中市上下町)出身。
日本陸連名誉副会長。
1956(昭和31)年、日本陸上競技選手権で16メートル48の世界記録(当時)を樹立した。
選択肢3の田島直人(1912年-1990年)は、1936(昭和11)年のベルリンオリンピックの三段跳で、16メートル00の世界記録(当時)で金メダルを獲得。
織田・南部・田島の3人で、オリンピックの三段跳競技で、日本が3連覇を果たした。
選択肢4の南部忠平(1904年-1997年)は、1932(昭和7)年のロサンゼルスオリンピックの三段跳に出場し、15メートル72の世界記録(当時)を樹立して金メダルを獲得した。
織田幹雄とともに出場したアムステルダムオリンピックでは、4位。
↓海田町についての過去の記事は、こちら↓
三村敏之に町民栄誉賞を贈ることにした町の名前は?
今日は、織田幹雄について勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。
ほいじゃあ、またの。
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