通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

ディック・ミネ作品集

2022年06月05日 | 音楽
NHKラジオ第1で、1年365日、
午後11時05分から午前5時まで放送中の
ラジオ深夜便。


↓ラジオ深夜便については、こちら↓

「ラジオ深夜便」NHK


今日(6月5日)の午前3時台、
にっぽんの歌こころの歌は、
「ディック・ミネ作品集」
じゃった。



今日は、
ディック・ミネ
についての話でがんす。



「ディック・ミネって、どんな方?」
という方がほとんどじゃと思うので、
まずは、ディック・ミネの紹介から。

ディック・ミネ、
本名・三根徳一(みね とくいち)は、
戦前から活躍した歌手で、
訳詞家・編曲家であり、俳優。

1908(明治41)年、
徳島県生まれ。
立教大学在学中にジャズバンドに参加、
ギターやドラムを演奏していたという。
大学卒業後、逓信省(郵政省)に
就職するが、間もなく退職。
1934(昭和9)年、
「ロマンチック」でデビュー。

同年、ジャズの
スタンダード・ナンバーとして知られる
「ダイナ(Dinah)」を、
三根徳一名義で日本語訳して発表。
テイチクレコード第一号ヒット曲となり、
100万枚の売上を記録したという。
のち、喜劇王・エノケンこと、
榎本健一(えのもと けんいち)が、
「エノケンのダイナ」でカバーした。

ミネは、ジャズだけでなく、
「アイルランドの娘」、
「林檎の木の下で」など
外国の曲を日本語で歌う一方、
「人生の並木路」、
「旅姿三人男」など
正統派歌謡曲も歌い、
果ては「二人は若い」という
コミックソングまで、
幅広い楽曲を歌われた方。

戦後も歌手として活躍し、
日本歌手協会の3代目の会長を務める。

1991(平成3)年、
急性心不全のため82歳で死去。



わしにとってのディック・ミネといえば、
和製ミュージカル映画
『鴛鴦歌合戦(おしどりうたがっせん)』
(1939年、日活)じゃの。

この作品は、浪人・浅井礼三郎と
3人の娘たちの恋のさや当てを
明るくコミカルに描いたもので、
ミネはバカ殿様・峰沢丹波守として
からんでくる。
丹波守は骨董を集めることが趣味で、
自分が目利きした逸品の数々を
朗朗(ろうろう)と歌いあげる。

この映画、全編がこんなノリだと
思ってもろうて間違いない。
わしの大好きな映画の一本じゃ。


↓丹波守については、こちら↓

「oshidori」YouTube



『DICK MINE Empire of Jazz』(2011年 テイチクエンタテインメント)

ディック・ミネを知ったことで、
戦前日本のジャズを知ることができた。
この映画を観ることがなかったら、
「ディック・ミネ=
懐メロで見かけるおじさん」
くらいの認識しかなかったじゃろうの。



1937年に始まった日中戦争は長期化、
国内では各種物資が不足し始めた1940年、
「七・七禁令(しちしちきんれい)」
が出されたことで、戦争に関係のない
貴金属・装飾品などの製造・販売が
禁止された。

同じく1940年には、
カタカナの名前は改名を指示された。
ディック・ミネもその対象となり、
「三根耕一」と改名することに。

そんな時代に、
三根耕一が発表したのが、
「お洒落(おしゃれ)禁物」という歌。
「♪お洒落禁物~」と歌っているが、
ジャズが敵国音楽とされていた時代に
これだけのバンド編成で
堂々と歌い上げる気骨が残されていた。
また、「お洒落は敵(かたき)だ」を
「お洒落は素敵(すてき)だ」と
読み替えるだけの余裕が
人々の心にあった。

そして、1942年には
世にも恐ろしいスローガン
「欲しがりません勝つまでは」が登場。
日本は勝ち目のない戦いに
突入していった。


↓「お洒落禁物」については、こちら↓

「【ぜいたくは(素)敵だ!?】ディック・ミネ「お洒落禁物」がオシャレすぎる件【1940年の懐メロ】」YouTube



今日は、
ディック・ミネ
について話をさせてもろうたでがんす。


ほいじゃあ、またの。

(文中、敬称略)
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内に秘めた優しさを~串田アキラさん

2022年05月02日 | 音楽
古い話で申し訳ないが、
NHKラジオ『ラジオ深夜便』
2月6日(日)午前4時台
「時代を創った声」は、
串田アキラさんじゃった。
串田さんは、
『宇宙刑事ギャバン』や
『キン肉マン』をはじめとする
数多くのアニメ・特撮の主題歌を
歌われた方じゃの。


↓串田アキラさんについては、こちら↓

串田アキラ Website



今日は、
串田アキラさん
についての話でがんす。



串田アキラさんは、
戦争が終わった翌年の1946年生まれ、
神奈川県横浜市出身。

10代のころから、
横浜にある米軍キャンプへ
通うようになった。
最初は客席から見ていたのが、
ステージの上で演奏することに。
音楽的には、ソウルや
R&B(リズム アンド ブルース)が
好きだったという。

しかし、「音楽で生活していくのなら
勘当(かんどう。
親から縁を切られること)だ!」
ということで高校を中退、
家を出ることに。

バンド活動をしているうち
レコード会社から誘われ、
「からっぽの青春」という曲で
1969年、プロデビュー。
それまで
ハッピーな曲を歌ってきたのが、
この曲は暗めの歌だった。

「こんなのソウルじゃないよ。
辞めたいなぁ…」と思っていたころ、
あるオーディションを受けることに。
曲を歌うと、あっさりOK。
「動きやすい服装で、
明日から来てください」
それが、NHKの音楽番組
『ステージ101(いちまるいち)』
との出会いだった。


↓『ステージ101』については、こちら↓

「ステージ101」NHK



1970年1月から1974年3月まで
NHKで放送された『ステージ101』で、
串田さんは初期メンバーとして活動。
(1970年1月から1972年3月まで)

『ステージ101』も、
自分の目指す音楽とは違うので、
辞めたいと思ったが、
今度はそこで気持ちを切り替えた。
どんな曲でも来た曲を歌ってみせるぞ!
と考えることで、
勉強になったし、楽しくもなってきた。
また、NHKの番組に出演したことで
勘当された親から許してもらえたとも。




画面中央が太陽戦隊サンバルカンのバルイーグル
(『東映戦隊ヒーロー 主題歌・挿入歌集 Vol.1』日本コロムビア 1987年)


串田さんが、今のようにアニソン、
特ソンを歌うようになったきっかけが、
「太陽戦隊サンバルカン」。
これは、1981年から1982年にかけて
テレビ朝日で放送された特撮テレビ番組
『太陽戦隊サンバルカン』
の主題歌だった。

レコーディングの時の
ディレクターからの指示は、
「カッコ良く歌ってください」。
これを聞いた串田さんさんは
自分が思う「カッコ良さ」で歌うが、
なかなかOKが出ない。

「それは違う」
「もっとカッコ良く」
とディレクターは言うが、
具体的にどうすれば良いかという
指示はなかった。

「もう一度歌ってダメだったら、
辞めさせてもらおう」
と思って臨んだ最後のテイク。
譜面とおりに歌うと、
なんと、OKが出た?!

翌82年、
特撮テレビ番組
『宇宙刑事ギャバン』
の主題歌を歌うことに。
この時のレコーディングは
スムーズに進んだ。
ここで歌い方のコツをつかんだと
串田さんは言う。

表に出てくるカッコ良さでなく、
内に秘めた強さ、優しさこそが
必要だったのだ。



以下、余談。


串田さんは1982年、
『機動戦士ガンダム』を手掛けた
富野喜幸(とみの よしゆき)
監督によるテレビアニメ
『戦闘メカ ザブングル』の
主題歌を歌われた。

このレコードを友達から借りた時に
言われたのが、
「目を閉じて聞いてみんさい。
和田アキ子が歌いよるように
聞こえるけぇ」

…確かに!
目の前で和田アキ子が
歌いよるように聞こえたもんじゃ。



今日は、
串田アキラさん
について話をさせてもろうたでがんす。


ほいじゃあ、またの。
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古田喜昭さん

2022年04月25日 | 音楽
NHK-FM「アニソン・アカデミー」
4月16日の特集は、
作詞・作曲家の
古田喜昭(ふるた よしあき)さんだった。


↓「アニソン・アカデミー」については、こちら↓

「アニソン・アカデミー」NHK



今日は、
作詞・作曲家の古田喜昭さん
についての話でがんす。



「古田喜昭」という名前を聞いても、
ピンとこない方がほとんどじゃろうの。

番組中で紹介された
投書の言葉を借りると、
「80年代をまぶしい輝きで横切った
彗星のような存在」。
まさに、そのとおり!

古田さんは、
今から41年前の1981年、
作詞、作曲を担当した、
シュガーのデビューシングル
「ウエディング・ベル」が大ヒット。

以降、わしが好きなアニメ作品
だけでいうと、



『ときめきトゥナイト』
OP「ときめきトゥナイト」
ED「Super Love Lotion」(1982年)、



『魔法の天使クリィミーマミ』
OP「デリケートに好きして」、



『特装機兵ドルバック』
OP「地球にI LOVE YOU」
ED「君に贈るララバイ」
(以上、1983年)、



『OKAWARI-BOY スターザンS』
OP「SHOW ME YOUR SPACE
~君の宇宙を見せて~」、



『とんがり帽子のメモル』
OP「とんがり帽子のメモル」
(以上、1984年)



などの楽曲を担当されています。

(『特装機兵ドルバック』。
今回の特集では触れられることが
なかったのが残念でした)



古田さんはしかし、
あまり表に出ることがなかった。
また、先に紹介したアニメ作品が
1982年から1984年に集中していた
こともあって、わしは古田さんのことを
単なる「一発屋」だと思っていた。

この日の「アニソン・アカデミー」では、
古田さんが自身について語られた。
いろいろと面白い話を
聞くことができたが、
中でも面白かったのが、
古田さんの人間観察法。

たとえば、
街で見かけた人を観察して、
「あの人はこういう人で、
こういうことを考えているのでは…?」
と、自分の中で想像することがある。

これは、たいていの人が
することだと思う。
古田さんがすごいのは、
ここから先である。

街で見かけた人を観察するとき、
その人の「現在」だけでなく、
「過去」「未来」まで思いをはせる。
なぜなら、「現在」だけでは、
薄っぺらな人間になってしまうから。
人間にはかならず、過去と未来がある。
そこを想像することで、
その人の人生に厚みが出てくる。

…すごいですねぇ。
そういう物の見方をされる方が
いらっしゃるんですね。

古田さんは高校時代、
漫画家のちばてつやさんに
作品の持ち込みしたところ、
「絵は下手だが、ストーリーが面白い。
高校を卒業したらうちにおいで」
と誘われたという。
子どものころ
からそういう物の見方をしていたので、
「ストーリーが面白い」
と評価されたのだと想像する。



今日は、
作詞・作曲家の古田喜昭さん
について話をさせてもろうたでがんす。


ほいじゃあ、またの。
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「ライブ盤でたどる日本ポップス史」NHKラジオ

2022年04月17日 | 音楽
最近、面白いテレビ番組がない!
というわけで、
家にいるときは「ながら族」、
ラジオや音楽を聞きながら
何かをしていることが多い。

今、楽しみな番組のひとつが、
「ライブ盤でたどる日本ポップス史」
である。


↓「ライブ盤でたどる日本ポップス史」については、こちら↓

「カルチャーラジオ 日曜カルチャー」NHK



今日は、
「ライブ盤でたどる日本ポップス史」
についての話でがんす。



「ライブ盤でたどる日本ポップス史」は、
1960年代から現在に至るまでの
日本ポップスの歴史を、
音楽評論家のスージー鈴木さんが、
レコード(録音)からでなく
ライブ盤(生)からたどるという番組。
日曜の午後8時から
NHKラジオ第2で、
4月3日・10日・17日・24日の
4回シリーズで放送される。

1回目(4月3日)は60年代、
2回目(4月10日)は70年代を特集した。

が、音楽に疎い(うとい)わしは、
リアルタイムで聞いとらんせいもあって、
話についていけんかった。
2回目の最後あたり、
アリスが1978年8月、
日本武道館で行った武道館ライブ
あたりからようやくついていける
ようになったかの。
2回目は、NHKの聴き逃し配信で
今日まで楽しむことができます。


↓聴き逃しについては、こちら↓

「カルチャーラジオ 日曜カルチャー」聴き逃し NHKラジオ らじる★らじる


今日(4月17日)放送される3回目は、
80年代を特集。
山下達郎(やました たつろう)さん、
佐野元春(さの もとはる)さん、
サザンオールスターズの
桑田佳祐(くわた けいすけ)さんに加え、
レベッカ、
ザ・ブルーハーツ
といったバンドが紹介されるそうじゃ。


(山下達郎「ON THE STREET CORNER 2」MOON 初リリース:1986年)

個人的には、山下さんの
ドゥー・ワップ、一人アカペラが
大好きである。
また、日曜の昼下がりは、可能な限り
「山下達郎のサンデー・ソングブック」
(TOKYO FM系)を聞いている。


↓「サンデー・ソングブック」については、こちら↓

「サンデー・ソングブック」山下達郎 OFFICIAL SITE


80年代であれば、
山下久美子(やました くみこ)さん、
白井貴子(しらい たかこ)さん、
浜田省吾(はまだ しょうご)さん
なども取り上げて欲しいもんじゃの。


(浜田省吾「ON THE ROAD」ライブ盤 収録:1981年)



以下、余談。


1972年にデビューしたアリスは、
ヒット曲に恵まれなかった。
そこで、ヒット曲狙いで、
『青春時代』『二十歳の頃』
(作詞:なかにし礼、作曲:都倉俊一)
をリリースするが、売れなかった。
その上、ヒット狙いの姿勢が
仲間たちからも批判された。


谷村新司は述懐する。
「(略)
ぼくらはシングルはもういいや、アルバムとコンサート活動に力を入れようと開き直りました。
(略)
自分たちがしっかりしていないから、他力本願にならざるをえないということです。だったら、自分たちでファンを開拓しようと思ったんです」

(富沢一誠『フォークが聴きたい』徳間文庫 1999年 289ページ)



それからは全国をくまなく回って、
年間300本ちかく(!)の
コンサートをこなしたという。
1975年、コンサートで歌っていた
「今はもうだれも」を発売すると、
初めてオリコンシングルチャート
週間20位以内にランクインした。

それから、「帰らざる日々」
「遠くで汽笛を聞きながら」
「さらば青春の時」
「冬の稲妻」
「涙の誓い」
とヒット曲を出したあとの1978年、
日本人アーティストとして初めて
日本武道館3日間公演を成功させた。



(『映画手帳』1977年12月号 71ページ)

アリスは武道館公演の前年、
1977年12月17日に
広島郵便貯金会館でコンサートが行った。
この雑誌で見る限り、
「ライブ(ライヴ)」や
「コンサート」でなく、
「リサイタル」と呼んでいたんじゃの。



今日は、
「ライブ盤でたどる日本ポップス史」
について話をさせてもろうたでがんす。


ほいじゃあ、またの。
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死んだ男の残したものは

2022年04月16日 | 音楽
昨日(4月15日)の朝5時50分ころ、
NHKラジオである歌が流れた。


死んだ兵士の 残したものは
こわれた銃と ゆがんだ地球
他には何も 残せなかった
平和ひとつ 残せなかった



朝5時50分といえば、
出勤前の慌ただしい時間。
ラジオは片手間で聞いているが、
初めて聞く歌ということもあって、
思わず聞き入ってしまった。

歌が終わった後に、
「高石ともやさんの
「死んだ男の残したものは」でした」
という紹介があった。


↓高石ともやさんの「死んだ男の残したものは」については、こちら↓

「死んだ男の残したものは」YouTube



今日は、
「死んだ男の残したものは」という歌
についての話でがんす。



「死んだ男の残したものは」という歌は、
どういう経緯で作られたんじゃろ?


谷川 俊太郎(たにかわ しゅんたろう)の作詞、武満 徹(たけみつ とおる)の作曲による歌。ベトナム戦争のさなかの1965年、「ベトナムの平和を願う市民の集会」のためにつくられ、友竹正則(ともたけ まさのり)によって披露された日本の反戦歌の1つである。

「死んだ男の残したものは」ウィキペディア



集会の前日、
詩人の谷川さんが作曲家の武満さんに、
「明日の集会で歌えるよう、
この詩に曲をつけてほしい」と依頼。
武満はその夜のうちに作曲し、
曲を渡すときに、
「メッセージ・ソングのように
気張って歌わず、
『愛染かつら』のような気持ちで
歌ってほしい」と伝えたという。

この歌は反戦歌ということもあり、
また、合唱曲に編曲されている
こともあって、
たくさんの人が歌っておられます。

YouTubeでいろいろと聞いてみたんじゃが、
気張って歌っていない、
ボサノバ調にアレンジされた
石川セリさんのバージョンを
紹介してみようかの。


↓石川セリさんの「死んだ男の残したものは」については、こちら↓

「石川セリ 死んだ男の残したものは」YouTube



以下、余談。


この歌は、
「ベトナムの平和を願う市民の集会」
のために作られたものと紹介したが、
皆さんは「ベトナム戦争」を
ご存じじゃろか?

ベトナム戦争は、
第二次世界大戦後に分断された
南北ベトナムの統一をめぐって行われ、
今から47年前の
1975年4月30日に終わった戦争。
冷戦時代の代理戦争ともいわれた。

「冷戦」という言葉が出てきた。
このころは、
アメリカの資本主義・自由主義陣営と、
ソ連の共産主義・社会主義陣営が対立し、
世界を二分しとった時代。
この対立を「米ソ冷戦」とか
「東西冷戦」と呼んどったんじゃの。

ベトナム戦争も、表向きは
北ベトナムと南ベトナムの戦争だったが、
本質的には、
共産主義対資本主義の戦争じゃった。

この歌が作られた1965年は、
アメリカが北爆(ほくばく。
北ベトナムに対する爆撃)を行い、
ベトナム戦争に介入を始めた年でもある。
そして、日本が太平洋戦争に負けてから
20年目にあたる年でもある。
戦争の傷あとが、
生きている人の記憶の中に
はっきりと残っている時代でもあった。

そんな時代に作られた歌が、
「死んだ男の残したものは」
だったんじゃの。



以下、さらに余談。


「死んだ男の残したものは」
を最初に歌った友竹正則さんは、
広島県福山市の出身で、
国立(くにたち)音楽大学声楽科卒業。

わしは存じあげんのじゃが、
女房は、料理番組『くいしん坊!万才』で
レポーターを務めていたときの
友竹さんを知っとった。


↓友竹正則さんについては、こちら↓

「誠之館人物誌「友竹正則(友竹辰)」」福山誠之館同窓会



今日は、
「死んだ男の残したものは」という歌
について話をさせてもろうたでがんす。


ほいじゃあ、またの。
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