通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

宇品線跡を歩く~広島駅からマツダスタジアムまで

2024年07月17日 | 見て歩き
「今年、2024年は、1894(明治27)年に起こった日清戦争から130年にあたる。そこで、広島市内に残る、日清戦争に関するものを紹介していこう」

「日清戦争は、近代日本が初めて経験する、外国との本格的な戦争じゃったね」

「今日は、宇品線跡じゃ」





「今日は、宇品線跡を歩く~広島駅からマツダスタジアムまで、についての話でがんす」





「最初に、宇品線について簡単に説明しておこう。宇品線は、山陽鉄道の広島停車場(今のJR広島駅)と宇品港(うじなこう。今の広島港)を結ぶ、全長約6キロメートルの鉄道として作られた」

「宇品港があったところに、広島まで鉄道が通った。ほいじゃけど、そのふたつを結ぶ輸送手段がなかった」

「日清戦争が始まって間もない1894年8月20日に、仮設ではあるが宇品線が開通した。軍部からの要請もあって、わずか17日間という突貫工事じゃったそうな」

「宇品線は、最初から軍用線として作られたんじゃね」

「戦後、原子爆弾の被害が少なかった宇品線の沿線には、官公庁の施設が置かれたり、学校が作られたこともあって、宇品線は通勤通学の足として使われた」

「広島と宇品は、広島電鉄の路面電車もあるし、戦後はバス路線も充実してきたし、なにより日本が車社会になったしね」

「官公庁も、市内中心部に移転したしの。宇品線は最後、貨物専用線として使われとったんじゃが、今から38年前の1986(昭和61)年9月末をもって廃止となったんじゃの」



「では、宇品線跡を見ていこう」

「宇品線のホームって、広島駅のどこにあったん?」

「今の広島駅の南側に1番ホームがあるじゃろ?」

「1番ホームいうたら、山陽本線の広島から西(宮島・岩国方面)へ行く電車が発着するところじゃね」

「その1番ホームの南東側に、0番ホームがあって、それが宇品線専用のホームじゃった」





「上の写真で見ると、左手にあるのが1番ホームで、右手のフェンスの向こう側に0番ホームがあったんじゃの」

「ありゃ、今はないよなって(=無くなって)しもうとるよ」

「駅の中にはないが、駅からマツダスタジアムまでのカープロードには、宇品線の跡を今でも見ることができるんじゃの」

「カープロードは、JR広島駅とマツダスタジアムを結ぶ、約500メートルの歩道のことじゃね」





「そのカープロードは、JRから土地を取得した広島市が、昨年秋から歩道を広くする工事をすすめとるんじゃの」

「左側の歩道が広くなったところが、かつての宇品線が通っていたところじゃね」





「そうそう。マツダスタジアムの前で、道が右へ曲がっとるよね」





「マツダスタジアムのスロープ前から広島駅側を見ると、ゆるやかじゃが、道がカーブを描いとるのがわかる」





「マツダスタジアムのスロープ前から、上の写真と反対側を見た」





「マツダスタジアムの前を通って…」





「県道164号、広島海田線と交差する球場前(西)交差点を通って、猿候川(えんこうがわ)橋梁(今の平和橋)を渡って、宇品へ続いとったんじゃの」





今昔マップ on the web


「これを地図でおさらいすると、こうなる。左側の白黒の地図が大正15年の広島、右側のカラーの地図が今の広島じゃ」

「なるほど。宇品線跡が、今のカープロードの一部になっとるんじゃね」





↓宇品線跡についての関連記事は、こちら↓

旧宇品線跡を歩く(その1)





【参考文献】

長船友則『宇品線92年の軌跡』ネコ・パブリッシング、2012年





訪問日:2024年7月13日





「今日は、宇品線跡を歩く~広島駅からマツダスタジアムまで、について話をさせてもろうたでがんす」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広島駅の路面電車高架橋(工事中)を間近で見る

2024年07月14日 | 見て歩き
「今年、2024年は、1894(明治27)年に起こった日清戦争から130年にあたる。そこで、広島市内に残る、日清戦争に関するものを紹介していこう」

「日清戦争は、近代日本が初めて経験する、外国との本格的な戦争じゃったね」

「今日は、JR広島駅(開業当時は、山陽鉄道の広島停車場)じゃ」




(「広島駅ビル開業50年のあゆみパネル展」広島駅、2015年)


「広島駅が開業したのは、いつ?」

「開通式が行われたのが、1894年6月10日。もっともそれより少し前から、大陸へ向けて兵士の輸送に協力をしていたそうじゃが」

「広島の宇品港から大陸へ向けて兵士たちを運んだことで、それからの広島は軍都への道を歩んでいったんじゃったね」

「その広島駅では、来年、2025年春の開業を目指して、新しい駅ビルの建設が進められとるんじゃの」




(「新広島駅ビルの完成イメージ」JR西日本)


「おぉ、すごいね。この新しい広島駅が、来年の春にお目見えするんかぁ」

「今回の広島駅の目玉は、上の完成イメージの中央に見えるとおり、広島電鉄の路面電車が広島駅の2階へ直結することじゃ」

「稲荷橋交差点で左に曲がって、駅前大橋を通って広島駅まで一直線で進む、駅前大橋ルートが新しくできるんじゃったね」

「路面電車が広島駅に乗り入れることで、JRとの乗り継ぎがスムーズになるんじゃの」








「今日は、広島駅の路面電車高架橋(工事中)を間近で見る、についての話でがんす」








「というわけで、久しぶりに広島駅南口へ行ってみた」

「おぉ、工事の囲いもだいぶ外しとってじゃし、外観はほぼ完成しとるように見えるね」

「工事の進捗状況は、80パーセントくらいじゃそうな」





「駅前大橋南詰交差点から、広島駅方向をみたところ」

「電車の線路は敷いてあるんじゃね」

「路面電車は、ここまで地上を走る。ここから先、駅前大橋から広島駅の間に高架橋が渡してあるんじゃの」





「その高架橋は、今、3つに分かれとる」

「3つ?」

「手前の高架橋は、駅前大橋の上。赤いクレーンの奥に見える、中央の高架橋は、駅南口前を走る大洲(おおず)通りの上を。ほいで、奥にある高架橋は、広島駅南口に取り付けられてあるんじゃの」

「おぉ、確かに3つ見えるね」





「高架橋は、こうやってバスと比べてみると、大きいねぇ。ところで、この高架橋の幅はどれくらいあるんじゃろ?」

「幅は、約10メートルくらいあるそうじゃ」





「高架橋を、広島駅南口側から見たところ」

「高架橋の内側にある、三角のやつ。ありゃ、なんていうんじゃったっけ?」

「リブ。補強のためにつけられた部材じゃの」

「あのリブが、電車の窓から見える日が、もうすぐ来るんじゃね」





「広島駅南口の2階にとりつけられた高架橋と…」





「…それを支える円柱」

「この円柱、ごっついねぇ」

「見た感じ、直径が2メートルくらいあったかの」





「広島駅2階、路面電車が通るところを支える梁(はり)。いやぁ、こんなむき出しの形見れるとは思わんかった」

「こっちも、ごっついねぇ」

「今はまる見えじゃけど、完成するときには、天井でちゃんと隠してじゃろうがの」





「黄色いクレーンが停まっとるところは、つい最近までバスのりばがあったところじゃね」

「ここで組み立てられた高架橋が、8月末くらいまでに取りつけられて、一体となる。その工事が終わったあとは、ふたたびバスのりばとして整備されるそうじゃ」



↓新しい広島駅ビルについては、こちら↓

「広島駅ビル開発プロジェクト」JR西日本





訪問日:2024年7月13日






「今日は、広島駅の路面電車高架橋(工事中)を間近で見る、について話をさせてもろうたでがんす」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

臨時帝国議会仮議事堂跡

2024年07月10日 | 見て歩き
「今年、2024年は、1894(明治27)年に起こった日清戦争から130年にあたる。そこで、広島市内に残る、日清戦争に関するものを紹介していこう」

「日清戦争は、近代日本が初めて経験する、本格的な外国との戦争じゃったね」

「今日は、臨時帝国議会仮議事堂跡じゃ」











「今日は、臨時帝国議会仮議事堂跡についての話でがんす」







臨時帝国議会仮議事堂跡

明治27年(1894年)日清戦争のとき、宇品港が兵站(へいたん)基地となった関係もあって、明治天皇は広島に大本営を進められることとなった。
広島城内の第五師団司令部の庁舎を行在所(あんざいしょ)と定めて、同年9月15日ここにおうつりになった。それにともなって政府の高官や要職が来広した。その後、翌28年4月戦争が終結して、天皇が帰京されるまでの約7か月余、広島市は事実上日本の首都となった。
この間、同年10月18日から7日間の会期で臨時帝国議会第七議会が広島に招集された。そのため貴族院、衆議院の仮議事堂がこの当たりに仮設された。

(説明板より)



「日清戦争があった1894年の広島には、宇品港(うじなこう。今の広島港)が1889(明治22)年に竣工、山陽鉄道の糸崎-広島間が1894年6月に開通しとった」

「鉄道を使えば、本州の北端、青森から広島まで、そして船に乗れば、宇品港から大陸へ向けて兵士を運ぶことができたんじゃね」

「第1師団・東京、第2師団・仙台、第3師団・名古屋、第4師団・大阪が、鉄道を使って広島へ移動することができた」

「第5師団は、広島にあったね」

「第6師団は九州の熊本にあるんじゃが、これも鉄道を使えば、関門海峡のある福岡・小倉まで移動することができたんじゃの」

「軍事的に便利な場所にあって、戦地にも近い広島へ大本営が移されることになって、明治天皇も9月15日に広島へ来られたと」

「明治天皇が広島に来られたことで、帝国議会も広島で開かれることになった」

「帝国議会って、今でいう国会のことじゃろ?」

「ほうじゃの」

「それを広島で?」

「このとき開かれた第7回帝国議会は、戦前戦後を通じて、東京以外の場所で開かれた、唯一の国会じゃそうな」

「ほぉ」

「で、貴族院・衆議院あわせて500人以上の議員のほとんどが、広島に来られたそうじゃ」

「明治天皇が広島に来られるだけでも大変じゃろうに、それだけよぉけ(=たくさん)の議員さんが来られたら、そりゃ大変な騒ぎじゃったじゃろう」

「広島県は、議員が泊まる場所の確保に奔走したといわれとる」

「ところで、戦争をやっとるこんな時期に、なんで議会を開かにゃいけんかったんじゃろ?」

「この年の9月に衆議院議員の選挙があっての」

「ほぉ、選挙があったん」

「このときの帝国議会では、1億5000万円という臨時軍事予算案や、戦争関連法案が取り上げられた。戦時中ということもあって、提出された議案のほとんどが、全会一致で可決されたそうじゃ」





「以下、余談」


「そういや、大本営は第五師団の司令部を借りとっちゃったけど、議会の議事堂は仮設のを建てられたんじゃね」

「9月30日から工事に着工して、10月14日に竣工、翌15日に議会を召集する詔勅(しょうちょく)が公布されたんじゃの」

「文字どおり、突貫工事じゃった」

「最初は50人の職人で始めた工事が、最後のころには1,000人近い職人で工事をしよったいうけぇの」

「ほぉ。で、広さはどれくらいあったん?」

「敷地面積が約25,200平方メートルで、建築面積が約2,350平方メートル。洋風の木造平屋建てで、建設費は約32,000円かかったそうじゃ」

「そのころ、国会議事堂ってあったん?」

「今の国会議事堂が竣工したのが、1936(昭和11)年。ちなみに、第1回の帝国議会が開かれたときの仮議事堂は、1890(明治23)年に竣工。建築面積が約8,469平方メートル、建築費が約233,868円かかったそうじゃ」

「こっちも平屋建て?」

「洋風の木造2階建てじゃったそうな」

「そういや、仮議事堂が広島城の外にあるのは、城内に場所がなかったけぇかね?」

「確かに、今は広島城の外、中国電力の基町ビルの一角に仮議事堂跡碑が建てられとる。が、この場所も江戸時代の広島城の敷地内で、戦前まで旧陸軍の第五師団が西練兵場として使いよった場所なんじゃの」








「以下、さらに余談」


「帝国議会初日の10月18日には、明治天皇が出席されて、会期が始まった。その休憩所として仮議事堂内に建てられたのが、御便殿(ごべんでん)」

「御便殿といえば、比治山(ひじやま)に御便殿跡があるよ」

「御便殿は、日清戦争の終わった1895(明治28)年、広島市に払い下げられた。広島市はこれを比治山公園内に移築し、市民に開放したんじゃの」

「御便殿は、広島に投下された原子爆弾で倒壊して、今はないんよね」

「仮議事堂の方は、1931(昭和6)年に解体されるまで、広島陸軍予備病院第四分院や第五師団司令部庁舎、広島陸軍地方幼年学校仮校舎など、いろいろと使われたそうじゃ」





【参考文献】

財団法人広島市文化財団 広島城『日清戦争と広島城』2009年、31ページ

財団法人広島市文化財団 広島城『広島城の近代』2008年、24ページ

竹内正浩『鉄道と日本軍』ちくま新書、2010年、116ページ





訪問日:2024年7月6日






「今日は、臨時帝国議会仮議事堂跡について話をさせてもろうたでがんす」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

広島大本営跡

2024年07月07日 | 見て歩き
「今年、2024年は、1894(明治27)年に起こった日清戦争から130年にあたる。そこで、広島市内に残る、日清戦争に関するものを紹介していこう」

「日清戦争は、近代日本が初めて経験する、本格的な外国との戦争じゃったね」

「今日は、広島城の本丸上段にある、広島大本営跡じゃ」

「画面奥には、天守閣の屋根が見えるよ」









「今日は、広島大本営跡についての話でがんす」





広島大本営跡

明治27年(1894)8月に日清両国に戦端が開かれたのち、それまでに山陽鉄道が開通していたことや宇品港を擁するといった諸条件により、同年9月広島市に大本営が移されることとなり、広島城内にあった第五師団司令部の建物が明治天皇の行在所(あんざいしょ)とされ、ここに大本営が設けられた。
明治天皇の広島滞在は、同年9月15日から翌年の4月27日までの7か月あまりに及んだ。その後、建物は広島大本営跡として保存されたが、原爆により倒壊し、今は基礎石のみ残されている。

(案内板より)



「そもそも、大本営ってなんじゃろ?」

「大本営は、戦前の日本において、天皇のもとで戦争を指導した最高統帥機関。つまり、軍部の最高決定機関じゃの。この大本営が、日清戦争のときは、1894(明治27)年6月5日に設置された」

「6月? 案内板には、8月に戦端が開かれた(=戦争が始まった)って書いてあったけど?」

「日清戦争について、少し説明しとくと…。この年の2月、朝鮮で東学の乱が起こった。これを抑えることができなかった朝鮮王朝は、宗主国の清(しん。今の中国)に兵を出してくれるように頼み、これを受けて日本も朝鮮へ兵を出すことにした」

「なんで日本が兵を出すん?」

「1885年、日本と清との間で結ばれた天津条約というのがある。その条約の中に、どちらかの国が朝鮮に兵を出すときは、相手の国に連絡をするという一文があったんじゃの」

「ほぉ」

「日本政府は6月2日、日本人居留民の保護を目的に朝鮮へ兵を送ることを決め、5日に大本営を設置した。戦闘は7月ころから始まっていたんが、宣戦布告が行われたのは、8月1日じゃったというわけ」

「8月に戦端が開かれたってのは、そういう意味か。で、そのころの広島には、山陽鉄道が開通して、宇品港(うじなこう。今の広島港)もできとったと」

「宇品港は、5年前の1889(明治22)年に竣工して、山陽鉄道の糸崎-広島間は、1894年の6月に開通した」

「ほぉ、広島駅(当時は広島停車場)は、今から130年にできたんじゃね」

「鉄道を使えば、本州の北端の青森から広島まで、そして船に乗れば、宇品港から大陸へ向けて兵士を運ぶことができたんじゃの」

「9月、その大本営が広島に移された」

「大本営が設置された東京は戦地から遠いので、情報が伝わるのに時間がかかる。そこで、できるだけ戦地に近い広島に移されることになった」

「なるほど」

「で、9月13日に大本営が広島に移され、2日後の15日、明治天皇も広島に入られたんじゃの」

「明治天皇も、鉄道を使われた?」

「9月13日の午前7時に新橋停車場を出発、名古屋・神戸にそれぞれ1泊したあと、15日の午後5時に広島停車場に到着されたそうじゃ」

「おぉ、東京から広島まで、2泊3日の旅じゃったんじゃね。広島の大本営は、明治天皇が来られることが決まってから、仮設で作られたもの?」

「広島城には旧陸軍の第五師団があって、1877(明治10)年に木造洋館2階建ての建物が建てられた。日清戦争のころは司令部として使われていたものを、大本営として使ったんじゃの」

「ほいじゃったら、追い出された第五師団の司令部は?」

「大本営として使われた建物は、1896(明治29)年に永久保存されることが決まった。そこで、この年の6月、司令部の建物が本丸下段に作られたそうじゃ」

「大本営が永久保存されたということは、広島へ原子爆弾が投下されるまであった?」

「1945(昭和20)年8月6日、広島への原子爆弾投下の際は、その爆風によって建物が倒壊したそうじゃ。ちなみに、爆心地からの距離は、約900メートル」




正面:
聖蹟 明治二十七八年戦役廣島大本営




左側:
昭和十年三月建設 文部省



「「聖蹟(せいせき)」「文部省」の文字は、セメントかなんかで埋めて、読めんようにしてあるけど?」

「戦前、明治天皇の行幸先やゆかりの施設などは、聖蹟として文部省から指定された。聖蹟に指定された大本営跡は、広島城とともに観光名所になったそうじゃ」

「ということは、戦後になって反発を受けてから、文字を埋めちゃったんかね?」

「戦後の1948(昭和23年)、連合国軍総司令部(GHQ)の指示を受けた文部省が、聖蹟の指定を解除したことから、文字を埋めちゃったんじゃろうの」





「以下、余談」


「確認のために聞いてみるんじゃけど、明治二十七八年戦役って、日清戦争のことよね?」

「ほうじゃの。そのころの日本では、明治二十七八年戦役と呼んどったようじゃ」

「日本ではということは、中国ではなんて呼んどっちゃったん?」

「甲午(こうご)中日戦争と呼んでいたそうじゃ」

「甲午?」

「甲午は干支(えと)のひとつで、「きのえうま」とも呼ぶんじゃの」

「あぁ、干支の名前を戦争の名前につけとってんじゃね」

「60年でひとまわりする干支の、その最初が甲子(こうし、きのえね)。甲子から、60年の半分の30年後に回ってくるのが甲午。甲午の年の1894(明治27)年から30年後、1924(大正13)年に、兵庫県西宮市に作られた野球場といえば?」

「甲子園球場!」

「正解じゃ」

「あぁ、甲子園という名前は、干支の名前からつけとってんじゃね」

「日清戦争のことを甲午中日戦争と呼んだように、この戦争のきっかけとなった東学の乱も、甲午農民戦争と呼ばれるそうじゃ」





「以下、さらに余談」




安彦良和『王道の狗 第6巻』講談社、2000年、133ページ


「これは、広島城の本丸下段、今の広島護国神社あたりから、広島城の天守閣方向を撮影した写真を模写したもの」

「確かに、左手奥に天守閣が見えるね。で、手前にある建物のうちの、どれが大本営なんじゃろ?」

「右手にある2階建ての建物が、大本営、もと第五師団司令部。中央が、野戦監督長官部及び同衛生長官部事務所。左が事務所で、これはのちに昭憲皇太后御座所(しょうけんこうたいごうござしょ)として使われるんじゃの」

「昭憲皇太后?」

「昭憲皇太后は、明治天皇の皇后」

「その御座所ってことは、皇后も天皇と一緒に広島に来られたん?」

「日清戦争も終わりのころ、1895(明治28)年の3月19日から4月27日まで、広島に来られたそうじゃ」







↓広島城については、こちら↓

広島城





【参考文献】

財団法人広島市文化財団 広島城『広島城の近代』2008年、20ページ

財団法人広島市文化財団 広島城『日清戦争と広島城』2009年、24ページ

竹内正浩『鉄道と日本軍』ちくま新書、2010年、112ページ





訪問日:2024年7月6日






「今日は、広島大本営跡について話をさせてもろうたでがんす」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治天皇の御用井戸跡

2024年07月03日 | 見て歩き
「今年、2024年は、1894(明治27)年に起こった日清戦争から130年にあたる。そこで、広島市内に残る、日清戦争に関するものを紹介していこう」

「日清戦争は、近代日本が初めて経験する、本格的な外国との戦争じゃったね」

「今日は、広島市中央図書館北側の歩道にある、明治天皇の御用井戸跡じゃ」



北西方向から見る



南東方向から見る





「今日は、明治天皇の御用井戸跡についての話でがんす」







「説明文を読むと、明治天皇だけじゃのうて、歴代の広島藩主も、この井戸の水を飲んどってんじゃね」

「ほうじゃの」

「で、この井戸は広島城の三の丸屋敷内にあったって書いてあるけど、ここは今、広島城の外よね」

「ほうなんよ。ここから南にある、そごう広島店・旧広島市民球場跡の南側までが、江戸時代の広島城じゃった」

「ほぉ、広島城はそんなに広かったん?」

「今の広島城の周りにある堀が内堀で、広島電鉄の市内電車の線路が走っているあたりが外堀。で、明治天皇の御用井戸があったすぐ南側に、内堀と外堀の間にある中堀があったんじゃの」



(「今昔マップ on the web」より)

「えーと、この今昔マップは、どうやって見りゃええんかいね?」

「向かって左側が1894(明治27)年ころの広島で、右側が現在の広島」

「お城の周りが真っ白じゃけど?」

「このころ、広島城周辺には旧陸軍の第五師団と、その関連施設があったんじゃの」

「確かに、御用井戸は中堀の内側にあるように見えるね」







「次は、この碑について見ていこう」


正面:
聖蹟
明治天皇日清戦役ノ際
広島御駐輦中ノ御用井

正面左:
勅喩拝受五十年記念ノ為メ之ヲ建ツ

正面右:
聖蹟此處ニ在リ朝夕之ヲ仰グ
聖徳敬慕ノ懐愈々深ク
聖諭奉禮ノ念益々切也

裏:
昭和七年 野砲兵第五聨隊
将校同相當官
準士官下士官兵
一同



「「広島御駐輦ノ御用井…」の「駐輦」は、なんて読むん?」

「「駐輦」は「ちゅうれん」と読んで、天皇が行幸先に滞在することをいう。ちなみに、「輦(れん)」は天皇の乗る車をいうそうじゃ」

「「勅喩拝受五十年記念…」の「勅喩」って、なに?」

「「勅喩」は「軍人勅諭(ぐんじんちょくゆ)」のことで、1882(明治15)年、明治天皇が陸海軍軍人に下賜されたものじゃ」

「勅喩の拝受から50年を記念して、昭和7年にこの碑を建てた、って刻んであったね」

「昭和7年は、西暦でいうと1932年。軍人勅諭が下された1882年から、ちょうど50年にあたる年なんじゃの」





「以下、余談」




「おおっ、碑の奥(北西方向)に見えるのは、エディオンピースウイング広島じゃん!」

「ほうじゃの。エディオンピースウイング広島は、サッカーJリーグ・サンフレッチェ広島の新しい本拠地となるサッカースタジアムじゃ」

「開業が今年2月で、グランドオープンは8月1日じゃったね」

「8月1日にグランドオープンするのは、ひろしまスタジアムパーク。ひろしまスタジアムパークは、エディオンピースウイング広島とその周辺にある広場から構成されとるんじゃの」



↓ひろしまスタジアムパークについては、こちら↓

ひろしまスタジアムパーク|HIROSHIMA STADIUM PARK

HIROSHIMAスタジアムパークPROJECT|サンフレッチェ広島





訪問日:2024年6月29日






「今日は、明治天皇の御用井戸跡について話をさせてもろうたでがんす」

「ほいじゃあ、またの」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする