第3047号 29.05.04(木)
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自ら勝つ者は強し。『老子』
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人に勝つ者は、その者より強いという程度にすぎない。しかし、自分の欲望に勝つ者は最も強い者だ。326
【コメント】昨日は渡邊五郎三郎先生のご著書より転載させて頂きました。渡邊先生は大正8年、齢99歳でございます。こういう先生をして「自ら勝つ者は強し」というのだろうと思います。
元陸軍士官学校の隊長をされた方だと伺ったことがあります。その昔、20年位前のことです。いきなり味園道場をご訪問してくださったことがございます。
その時、道場での稽古風景を御覧いただきそして、知覧の特攻記念館へ行ったことがありました。それから鹿児島へ引返し甲突川湖畔の料亭で歓迎会をしたのでした。
その時は南洲神社の宮司・鶴田先生もお見えになりました。錦江台から知覧、そして鹿児島への道のりを書いた時間表を作成した処、1分も狂わず、予定どおり到着したことを記憶しています。
そういう事がございましたので、その後、福島の勉強会に仲間の大坪伸一郎先生と伺ったことがあるのです。
今日は昨日に引き続きご著書より転載させて戴きます。昨日は『人としての生き方』を拝読して感銘しました。渡邊先生がご紹介している本は私も殆ど保管しているのですが、先生は何回も何回も読み、渉猟していることに深く感銘した次第でした。私も残された人生を渡邊先生同様、読みたいと思った次第です。
実は元日本航空に勤務していた松田勝美先生は、渡邊先生は私の師匠なんですよ、と言われたことがあります。人が人を呼ぶという言葉がございますが、誠に吃驚仰天したことを覚えてます。
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『人としての生き方』
わたくしは昭和14年に、朝鮮の竜山(現在のソウル)で、第二十師団歩兵第七十八連隊に入営しましたが、この師団に動員令が下りまして、ニューギニアに派遣されることになりました。当時わたくしは大隊乙副官でありまして、部下と一緒に死のうと誓い合ったところに、教育総監から豊橋陸軍予備士官学校の教官として赴任するよう命令がきました。「とんでもない、替えないでくれ」と連隊長に直訴しましたが、どうにもなりません。泣く泣く部下と別れて赴任しました。
ニューギニアに派遣された第二十師団は大変興奮して、私の大隊は感状(戦功を称える書状)を二度も拝受したほどでした。しかし、戦闘が長期化し、連隊五千人のうち帰国できたのは二百五十人、僅か五パーセントに過ぎませんでした。
昭和三十七年にひと月の間、ヨーロッパ・アジアの旅に出ました。これはベルリン問題協議会視察団の一員として、その後はヨーロッパ研修団体の一員、また、アジアでは各地青年団体との連絡を兼ねた勉強に参加するための一人旅でした。
次に挙げる七首の歌は、正式に歌を習ったことも無い私が、旅の途に抱いた旅愁を詠んだものです。
はじめの二首は、吹雪の中、ベルリンの壁を訪れた際に詠んだものです。一九六一年にこの壁が造られてから、どれ程の人たちがこの壁を越え逃れんとして生命を落としたのであろうか。この壁によって東西ドイツは分断され、一九八九年の破壊により、東西ドイツの統一、そしてその後のソ連の崩壊へと進むことになったわけです。
犠牲者の 花輪に雪は 積りいて ベルリンの壁に 唯声もなく
風も哭け 灰色の壁に 生命かけて 幾同胞(はらから)の 散りゆきし跡
カルカッタからバンコクへの航路は、多くの予備士の頃の友人や教え子の戦死の地、ビルマ・泰緬国境の空である。物凄い勢いで流れゆく雲がとても印象的でした。
見はるかす ビルマの山よ 川よ森よ 戦友を偲べば 雲流れ行く
越えゆくは 泰緬国境の 山なるや 流るる雲に 戦友の面影
シンガポールでは、昭和二十年七月八日の、弟・小五郎戦死の地を求め、公報にあるカンメー地区を訪ねましたが、残念ながら判明しませんでした。弟への想いと、せめてもの鎮魂に、次の歌を捧げました。
たまたまに 慰霊碑ありぬ 弟の 御霊も此所に 鎮まるというか
この空に 弟散りて 二十年の 昔偲びて 時過さむや
たまたまに この地に憩う 時を得ぬ 弟よ来て いざ語らんや
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『臥牛先生行状』(第8回)
此の頃豊山公御齢傾かせ給ひ三男忠篤公未た幼年にやはせしかは末弟忠寛公を世子に立てらる(安政六己未の年)夫子其の御用達を命せられ江戸へ赴き給ふ(世子の近習頭取を用達と称す)然るに忠寛公御相続の後わつか三年にたに満たすして文久二戌年逝去せられ翌三年忠篤公御家督の後郡奉行に転任せられぬ。
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自ら勝つ者は強し。『老子』
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人に勝つ者は、その者より強いという程度にすぎない。しかし、自分の欲望に勝つ者は最も強い者だ。326
【コメント】昨日は渡邊五郎三郎先生のご著書より転載させて頂きました。渡邊先生は大正8年、齢99歳でございます。こういう先生をして「自ら勝つ者は強し」というのだろうと思います。
元陸軍士官学校の隊長をされた方だと伺ったことがあります。その昔、20年位前のことです。いきなり味園道場をご訪問してくださったことがございます。
その時、道場での稽古風景を御覧いただきそして、知覧の特攻記念館へ行ったことがありました。それから鹿児島へ引返し甲突川湖畔の料亭で歓迎会をしたのでした。
その時は南洲神社の宮司・鶴田先生もお見えになりました。錦江台から知覧、そして鹿児島への道のりを書いた時間表を作成した処、1分も狂わず、予定どおり到着したことを記憶しています。
そういう事がございましたので、その後、福島の勉強会に仲間の大坪伸一郎先生と伺ったことがあるのです。
今日は昨日に引き続きご著書より転載させて戴きます。昨日は『人としての生き方』を拝読して感銘しました。渡邊先生がご紹介している本は私も殆ど保管しているのですが、先生は何回も何回も読み、渉猟していることに深く感銘した次第でした。私も残された人生を渡邊先生同様、読みたいと思った次第です。
実は元日本航空に勤務していた松田勝美先生は、渡邊先生は私の師匠なんですよ、と言われたことがあります。人が人を呼ぶという言葉がございますが、誠に吃驚仰天したことを覚えてます。
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『人としての生き方』
わたくしは昭和14年に、朝鮮の竜山(現在のソウル)で、第二十師団歩兵第七十八連隊に入営しましたが、この師団に動員令が下りまして、ニューギニアに派遣されることになりました。当時わたくしは大隊乙副官でありまして、部下と一緒に死のうと誓い合ったところに、教育総監から豊橋陸軍予備士官学校の教官として赴任するよう命令がきました。「とんでもない、替えないでくれ」と連隊長に直訴しましたが、どうにもなりません。泣く泣く部下と別れて赴任しました。
ニューギニアに派遣された第二十師団は大変興奮して、私の大隊は感状(戦功を称える書状)を二度も拝受したほどでした。しかし、戦闘が長期化し、連隊五千人のうち帰国できたのは二百五十人、僅か五パーセントに過ぎませんでした。
昭和三十七年にひと月の間、ヨーロッパ・アジアの旅に出ました。これはベルリン問題協議会視察団の一員として、その後はヨーロッパ研修団体の一員、また、アジアでは各地青年団体との連絡を兼ねた勉強に参加するための一人旅でした。
次に挙げる七首の歌は、正式に歌を習ったことも無い私が、旅の途に抱いた旅愁を詠んだものです。
はじめの二首は、吹雪の中、ベルリンの壁を訪れた際に詠んだものです。一九六一年にこの壁が造られてから、どれ程の人たちがこの壁を越え逃れんとして生命を落としたのであろうか。この壁によって東西ドイツは分断され、一九八九年の破壊により、東西ドイツの統一、そしてその後のソ連の崩壊へと進むことになったわけです。
犠牲者の 花輪に雪は 積りいて ベルリンの壁に 唯声もなく
風も哭け 灰色の壁に 生命かけて 幾同胞(はらから)の 散りゆきし跡
カルカッタからバンコクへの航路は、多くの予備士の頃の友人や教え子の戦死の地、ビルマ・泰緬国境の空である。物凄い勢いで流れゆく雲がとても印象的でした。
見はるかす ビルマの山よ 川よ森よ 戦友を偲べば 雲流れ行く
越えゆくは 泰緬国境の 山なるや 流るる雲に 戦友の面影
シンガポールでは、昭和二十年七月八日の、弟・小五郎戦死の地を求め、公報にあるカンメー地区を訪ねましたが、残念ながら判明しませんでした。弟への想いと、せめてもの鎮魂に、次の歌を捧げました。
たまたまに 慰霊碑ありぬ 弟の 御霊も此所に 鎮まるというか
この空に 弟散りて 二十年の 昔偲びて 時過さむや
たまたまに この地に憩う 時を得ぬ 弟よ来て いざ語らんや
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『臥牛先生行状』(第8回)
此の頃豊山公御齢傾かせ給ひ三男忠篤公未た幼年にやはせしかは末弟忠寛公を世子に立てらる(安政六己未の年)夫子其の御用達を命せられ江戸へ赴き給ふ(世子の近習頭取を用達と称す)然るに忠寛公御相続の後わつか三年にたに満たすして文久二戌年逝去せられ翌三年忠篤公御家督の後郡奉行に転任せられぬ。
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