味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

鵠は日々に浴せずして白し。

2016-05-26 10:57:09 | ブログ
第2704号 28.05.26(木)
.
鵠は日々に浴せずして白し。『荘子』
.
 もともと白い白鳥は、毎日水を浴び洗わなくても白い。天質美なるものは、学ばないでも善良である。
.
 【コメント】大変美しい言葉であります。〈天質美なるものは、学ばないでも善良である〉とありますが、天質美を表現できるようになる前に、それなりの躾・教えがなされたものと思われます。
.
 この天質美は各人の知的の中でも、外見に見えない内面の精神美こそを生涯もち続けたいものです。通常言う頭が良いと言われる前に人間の五体に培わなければならないことだと思います。
.
 このところ全国民に衝撃を与えている首都の、最高責任者の政治資金の使途について、疑義を持たれているにもかかわらず、責任をとろうとしない姿勢を子供たちにどう説明をしたらよいのでしょう。
.
 このままだとその御仁は後々、大きな損失を蒙ることになるでしょう。天風師論によりますと、人々の思いが天と微妙に通じるとあります。
.
 人間は大なり小なり道を踏み誤るものです。それは未知の世界に対して、何もわからないからです。でも、一旦問題化したときに、それがよいことか、悪いことかが分らなければ、頭がよいと言われても何にもならないと私は思います。
.
 例えば最高責任者を択ぶ選挙をすれば50億円の費用が要るとして勿体ないという向きもあります。然し、責任者が悪いとしたら費用の多少にかかわらず、新しい人を選任した方がいいと思うがどうでしょう。
.
 手前みそですが、品性・品行について、円心会で修行していた松田先生から、清廉なのは私と貴方だけだと嬉しい電話がありました。が、円心会の方々は全員清廉だと認識しています。それは日常的に『南洲翁遺訓』を学んでいるし、荘内南洲会の先生方の人格美に魅せられているからだと思います。
.
 拝読している『西郷隆盛』より----
 伊藤博文が大久保に対して、西郷の人物論を聞いた時、西郷は、
〈「珍しい男だ。あの男には私欲も私情もない。大義と名分を何よりも重んじる。皇室と国家と人民を思う至誠は何人にも劣らぬ。あれが好んで書く”敬天愛人”の四字はただの文字ではない。」158
.
 警視総監川路利良は、大久保の了解を得て、多数の密偵を鹿児島に送りこんでいる。〉
.
 二十一巻終盤は「第十一章 西郷暗殺団、第十二章 東獅子狩り、第十三章 火薬庫襲撃」であり、鼓動打ち鳴らしながら、拝読しています。

--------------
『臥牛菅実秀』(第240回)
.
     (五)
.
 明治四年の四月、西郷の上京とともに薩摩・長州・土佐の三藩から一万人の藩兵を提供されて軍事力を強化した政府は、さらに石巻・小倉に明治政府最初の鎮台を設けたが、これは国内の不平分子を弾圧するために配置したものであった。その上で、この年、明治四年の七月に懸案の廃藩置県は断行された。つづいて八月には全国の藩兵を解隊し、城郭と兵器はすべて兵部省の管轄下に置くことを告示した。新政府は、ここで初めて全国の兵権を完全に掌握することになった。
------------
『農士道』(第516回)
.
「菊を東籬の下に採り、悠然として南山を見る」----俺のこの帰耕の生活は世間の人間には解るまい。そして又強いて解って貰はうとも思はない。ただ東離の下の菊と、彼方に聳ゆる南山し、お前達だけは此の心を解って呉れるであろう。然し此の間の事は言語や文字の末では説明出来ぬものがある。「此の裏真意有り、瓣ぜんと欲して已に言を忘る。」-----この忘言!真に田園の自然の裏なる生活の消息を深悟せしむるものがあるではないか。
-----------------

君子の道は、端めを夫婦に造して、其の至れるに及びては、

2016-05-25 10:37:01 | ブログ
第2703号 28.05.25(水)
.
君子の道は、端(はじ)めを夫婦に造(な)して、其の至れるに及びては、天地に察(あき)らかなり。『中庸』
.
 君子の道は日常夫婦などの間から始まるが、その道を至極まできわめると、天地全体に明らかに広がっていく偉大の力をもつ。156
.
 【コメント】一般的には結婚して一人前と言われるように、家族を構成して信頼の和も広がって行くものと思います。世界が狭くなって、日々が目まぐるしく動いています。
.
 私共が生きてきた概念が大きく変化し、様変わりするのかなと思うこともありますが、地球が存在するかぎり今までの経過と変化なくいって貰いたいものです。
.
 ブログでご紹介している『農士道』の訓戒が日本には適していると思われます。
.
 『西郷隆盛』は「庄内藩の人々」(55)でした。大変興味深く拝読しました。
.
〈西郷吉之助と菅実秀の縁は、明治元年庄内藩降伏の時から始まる。-----
.
 明治三年十一月、菅の発議により、藩主酒井忠篤と藩士七十余名を鹿児島に送り、西郷の門下生として親しく教えを受けさせることにした。庄内藩士の西郷への傾倒がいかに強かったかが想像できる。59-------
.
 菅は藩邸に帰って側近に語った。
「まことに聞きしにまさる大人物であった。王佐の大器とはこの人のことであろう。史上の英雄が権謀術数をもって一世を圧倒したのとは全くちがう。この人を信じて、その言葉に耳をかたむければ、堯舜孔子の道が何ものであるかをうかがい知ることができよう」60
 吉之助も菅の誠実と識見を高く評価して、交友は日々に深まった。
 ある日、吉之助は深川の旗亭に、菅をはじめ庄内藩士の重だった者を招待した。薩摩側からは黒田清隆、西郷従道、川村純義などが出席し、にぎやかな宴会になった。席上、吉之助は乞われるままに揮毫した。
.
   幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し
   丈夫は玉砕、甎全を愧ず
   我家の遺事、人知るや否や
   児孫のために美田を買わず
.
 そして、つけ加えた。
「わたしがもしこのこの言に違ったならば、言と行が相反したとお見かぎりください。」-----
 ------そもそも学問の本旨は、和漢洋でそれぞれ異なるものでありましょうか」
「わたしは学者ではないが、学問の本旨は東洋でも西洋でも同じだと思っている。天の理を知り、人のふみ行う道をきわめることであろう」〉
.
 この辺りは私が半世紀近く、ノートに書きつづけてきたことでもあります。
.
 昨夜は松田先生、池田先生ほか数人の方々と語りました。人と約束した事を守らない団体とは席を同じくしないと私より先に言いました。いい加減な妥協をしたら後々、取り返しがつかなくなります。
 高木先生、私共がおかしいですか。小野寺先生は、『南洲翁遺訓』を改竄するとした男の鎮静化のために、忙殺されて早死にしたのです。
.
 『南洲翁遺訓』を改竄するという人間を仲間に引き込んで、そして俺についてこいというのは南洲精神に反するのです。
.
 松田先生は、西郷隆盛18巻は書斎にあるそうです。その後の本は巷にないものですから、国立国会図書館にある8巻を一日で読んだといいました。禅の世界の奥義を窮めた先生なのです。

--------------------
『臥牛菅実秀』(第239回)
.
 この『愛国心に富める』人というのは、一国一郷に対する責任感の旺盛なことと、そこから発する不屈の気力をいったものであろう。赤沢経言は、実秀に対する西郷の、この『鑑識を信じ、此の行状を記するに臨み、一篇の骨子とせしなり。』と『臥牛先生行状』の中に書いている。
-----------------
『農士道』(第515回)
.
 「遥々たり沮溺の心、千載乃ち相関る」と。孔子が周公を夢み、乃木将軍が山鹿素行及吉田松陰私淑せしが如く、淵明は長沮傑溺や、荷條の翁(矢張り論語微子篇に出て来る帰耕の翁)等の事に想到して、自らの昏襄せんとする心に鞭励を加えたのであらう。かくて世間往々にして「詩を作るよりも、田を作れ」といふが、真箇に詩の生命に徹することは、實は田を作る力を養うことになるのである。
 更に次の詩の如きは、古来淵明の詩として最も人口に膾炙せられたものである。
   廬を結んで人境に在り   而も車馬の喧無し
   君に問う何ぞ能く爾るや  心遠く地自ら偏すればなり
   菊を東籬の下に採り    悠然として南山を見る
   三気 日夕佳にして    飛鳥 相與に還る
   此の中真意有り      瓣ぜんと欲して已に言を忘る

----------------------

其の身に楽しみあらんよりは、其の心に憂いなきに孰若ぞ。

2016-05-24 10:38:15 | ブログ
第2702号 28.05.24(火)
.
其の身に楽しみあらんよりは、其の心に憂いなきに孰若(いずれ)ぞ。(「韓文公『送李愿帰盤谷序』文章軌範)
.
 からだに楽しみがあるのがよいか、心に憂いのないほうがよいか。むしろ、心に憂いのないほうがよい。516
.
 【コメント】原文に云う楽しみは数々あるでしょうが、今の私は『南洲翁遺訓』を書きつづけるか、漢籍を書きつづけるかが、一番没頭できることでありますので、無心になれていいと考えています。凡ての憂いが吹っ飛ぶのです。
.
 大した人間でもない私が、大したことが出来る筈はありませんので、子供たちに只管『南洲翁遺訓』等々を教えることのみが私の使命だと考えています。
.
 昨日は、神戸自動車・宇都影義会長様が、腰の手術(狭窄症)をしたので、日赤病院へお見舞いに行ってきました。半年の長きにわたり、痛い痛いを繰り返しており、手術に踏み切ったとのことでした。
.
 術後の経過はよく、背すじを伸ばして歩いていたため、お慶びを伝えてきました。仲間の中島先生もお連れしたかったのですが、仕事の関係で私一人だけにしました。指宿の先生にも伝えたかったのですが、遠いため遠慮しました。
.
 『西郷隆盛』より、-----
.
〈-----久光の復古策二十個条に対して、
「久光、これを実行したからと言って、日本のためになるわけではなかろう」
「いえ、ぜひとも実行していただかねば、日本は滅亡いたします」
「わたしは、そうは思わぬ」-----そして陛下は徳大寺宮内卿に、
「もう、あの男には会いたくない」(第21巻 23頁)----と記されています。〉
.
 一八七五年十月二十七日、左大臣島津久光、参議板垣退助は依願免官となった。-----岩倉の背後に大久保利通がいたことは言うまでもない。---------
 翌九年三月、木戸孝允もまた参議を辞して内閣顧問の閑職につき、後藤象二郎も元老院副議長をを辞して野に下った。
「内閣の権力は再び逆転して大久保の掌裏に帰し、ますます寡人専制の風を馴致し、中央集権の勢を助長するを見る」
 大久保は好むと好まざるとにかかわらず、独裁専制への道を歩かざるを得なかった。36-----
.
 僧月照は吉之助の胸に生きている。明治七年の十一月、月照と相抱いて真冬の薩摩潟に身を投じた時から数えて十七年目であった。その時の詩である。
.
  相約して淵に投ず先後なし
  豈はからんや波上再生の緑
  頭を回らせば十有余年の夢
  空しく幽明をへだてて墓前に哭す。

---------------------
『臥牛菅実秀』(第238回)
.
 その実秀は西郷を、
「南洲翁は偉大な徳量と卓越した力倆を兼ね備えた賢人であって、権力や謀略をもって一世を圧倒する豪傑とは本質を異にする人である。」
といった。そして、
「この人を信じてこそ、堯・舜・孔子によって明かにされた道徳も窺い知ることができるであろう。」
と洪嘆している。
 西郷もまた、
「荘内の菅殿の愛国心に富めることは、世に見るところもまれである。」
と、弟の従道にいったという。

-----------------
『農士道』(第514回)
.
 桀溺は更に語を次いで、
  「孔子はあの人も與に為すに足らん、この人も輿に為すに足らんと言って人を毛嫌いしては諸国を周り歩いているようだが、どうだね、   そんなに人を避けて歩きまはる人に従うよりは、いっそのこと、世の中をすっぽりと避けて自然を相手にして大地に耕す吾々に従った   方がよいではないか。」 
.
   津の事など教えようともせずに、黙々としてたねまきをしている------。
   之に対して孔子が「この乱世に、苟も人間と生れた以上は、どうしても世道人心の改革に従はねばならぬ」ことを子路に説いている。   勿論孔子の態度は尊い一つの行き方であると同時に、長沮傑溺の態度も亦一つの行き方である。(殊に支那の国体に於いては然るものが   ある。)

--------------

国家の急を先にして、私讐を後にす。

2016-05-23 10:57:24 | ブログ
第2701号 28.05.23(月)
.
国家の急を先にして、私讐を後にす。『十八史略』
.
 国家の危急を救うことを先ず考え、私事のうらみなどあとまわしにするのだ。591
.
 【コメント】現在拝読している『西郷隆盛』もこのよう申しています。曰はく、
.
〈「----ロシアの皇帝は全くの専制君主で、まるで幕末の日本に似ている」204
 村田が言った。
「今の大久保政権と同じじゃないか」
      ※
 大山巌は首をふって、
「日本の天皇陛下は、ヨーロッパのキングやエンベロールとはちがう。ロシアのツァールともアメリカのプレジデントともちがう。易姓革命を常態とする支那の帝王ともちがうから、皇位をうかがい、天皇に危害を加える革命党なるものは生れぬ」
「その点は安心だが、しかし-----」
「しかし、大臣参議は狙われていると言いたいのだな」
「現に右大臣岩倉公は襲われた。次は大久保だ。あいつが一番あぶないあの男の冷酷無残な権謀術数は全国の有志の怨恨の的だ。佐賀の江藤一党の処刑は、人間の心を持っている者にはできぬ!」
 灰吹きがピシリと鳴り、吉之助が大声を出した。
「やめぬか、新八!------}〉頁205
.
 これに類した言葉もありますが、南洲翁は、どこまでも善意に解釈するよう弟子たちを説得しているのです。これは人間の心の豊かさからくるものであると思います。
.
 それでも『南洲翁遺訓』を改竄しようとする男がいたとするならば、第三者であれば、一言詰問するでしょう。それは「菅臥牛翁を中心とする人々が命に代えて出版したものであるからです。正義感旺盛な子供たちに『南洲翁遺訓』を教えている私としては、首を傾げざるを得ない団体へは行きたくないのです。
.
 西郷南洲翁の偉い所は、利に執着しなかったことであろうと思います。それに比較して、都民の為にと連発している一番偉い学者様の論理はどうしても理解不可能です。今からでも遅くないから、潔さを見せてほしいものです。

--------------
『臥牛菅実秀』(第237回)
.
 その後、足達を訪ねていったとき、さだめし足達から鑑定眼の上達をほめられるものと思っていたら、案に相違して足達は実秀の先日の態度を烈しく非難した。
「刀の鑑定というものは、あんなものではない。刀匠が精神をこらし、齊戒淋浴して神仏に祈願して鍛えあげた刀ではないか。自分は、その刀を研ぐのに、刀匠がこめた精神を磨きあらわして、その人に遺憾のないようにと心懸けているのだ。鑑定もそれと同じで、その作品にこめられた作者の精神、気韻に目を注ぐことが肝腎だ。それを抜きにして、ただ刀匠の名を言いあてたからといっても、名工であればあるほど決して喜びはしないはずだ。」
 この一言に実秀は深く感得するところがあった。
 それ以来、この足達によって目を覚まされた刀を見る上の要点を人を見る上にも推し及ぼし、人を見る眼目として心懸けるようになったと実秀はいっている。

--------------
『農士道』(第513回)
.
  註 沮溺---長沮・傑溺の事をいふ。
.
  長沮・桀溺に就いては論語微子篇に次の物語がある。
   長沮・桀溺--この二人共楚の隠者であるが、並んで耕していた。そこを孔子が通って、子路をして津を問はしめた。長沮がいふには、
長「あの與に乗っているのは誰かい。」
 子路が答えた。
子「孔丘です。」
長「魯の孔丘かね。」
沮「さうです。」
長「それなら津を知っているだろうが----。」
 教えて呉れそうもないので、今度は傑溺に聴いた。すると傑溺が゜、
桀「君はどなたかね。」
子「仲由(子路の名)です。」
桀「それじゃ、魯の孔丘の門人ですか。」
子「そうです。」
桀「滔滔として天下皆この有様ぢゃないか。一体君等は誰と與に之を改革しようとするのか。」

-----------------

重厚にして文少なし。

2016-05-22 14:02:39 | ブログ
第2700号 28.05.22(日)
.
重厚にして文少なし。『十八史略』
.
 人情が厚く軽薄でない。しかもかざりのない人間である。600
.
 【コメント】この文言を見て荘内南洲会前理事長・小野寺先生を思いだしました。上の解説にある通りのご人格であったと思います。周囲の先生方もそういう気質の先生方ばかりだと私共何時も話しています。
.
 それは荘内に根付いている漢籍を中心として学問が華咲いた結果なのでしょうか。私共も荘内の先生方をお手本にして、ささやかながら精進したいと思います。.
.
 昨夜の空手道教室も賑わいました。昨夜は、交通事故に遭わないための訓練を徹底しました。相手が子供ですから、どこまで身についたかわかりませんが、やらないよりかいいと思います。
.
 実はしっかり受け答えする子供が、道場から外へ出る時、車が来るか確認もせず、外に出る姿を見たものですから、安全を徹底すべく実施しました。
.
 どんなに知的に優れていても、健康であっても、空手道の型がうまくても、組手が強くても、走ってくる車に跳ね飛ばされたら、大けがをするからです。
.
 全員起立させて、右ヨシ、左ヨシ、と指差し確認のおけいこをして貰いました。このブログを御覧になった方々も、各自、ご自宅でそういう訓練をして貰いたいものです。俺には関係ないとタカをくくったら大変な事故に遭遇します。
.
 特に私の家の北側の道路は、仕事に出勤する方々が、午前6時頃から猛スピードで走って来るのです。万一そういう車が人を撥ね飛ばしたら、死亡事故につながると思います。
.
 事故が起こってからではどうすることも出来ないのです。電電で安全担当の仕事をした私から見たら、危険極まりないことだらけです。現在地に家を立て住んでから40年になりますが、4件の大事故が起りました。
.
 昨晩のテレビ報道で、テレビが世に出てからは、世の中が大変悪くなったとのことを放映しました。特にロシアとウクライナとの関係等々も詳細に解説しました。
.
 連日、終日、読書をしている私から見たら、俗悪番組ばかりだと思います。これでは世の中良くなる筈がないと思います。企業からの広告を宣伝するための商売魂だけが先行しているように思われるのです。
.
 私がテレビ番組を録画しだした30年位前は、それはそれは素晴らしいでした。現在も私の書斎に保管されています。
.
 『西郷隆盛』より、-----
〈鰻池温泉に治療方々きている西郷隆盛のところに、海軍士官の制服を来た山本権兵衛らが訪ねて来た。------------その時西郷隆盛は、
 「まず世界をまわって来い。その土産話の方をおれは待っている。----気が屈した時には、「人を相手にせず、天を相手にせよ」と自分に言い聞かせるがよい。天を相手にして己れをつくし、人をとがめず、わが誠の足らざるところを己れにたずねるのだ。道はおのずから開ける」〉と諭した。第二十巻 140頁

------------------
『臥牛菅実秀』(第236回)
.
 この詩と、そして、この詩を書いたときの西郷の言葉は、招かれた荘内の人々の肺腑に、ある大きな感動を刻みつけたようである。
 当時、西郷の赫赫たる勲業や名声だけに目を奪われずに、西郷その人の真髄に迫り、そこに打込んでいった人は、きわめて少なかったと思われるが、実秀はその数すくない人の一人であった。
 実秀には、こういう経験があった。それは江戸在勤時代のことである。刀剣の好きな実秀は、研師の足達某をはじめ、目利きの人たちと集って、刀の鑑定書を開くことにした。実秀は職務のためにおくれて出席すると、席には前から集っていた人たちが鑑定を終えた十振り余りの刀が銘を覆うて並べてあった。実秀は壮年の血気にまかせて、つぎつぎに銘をいうと、それは十中、七八は的中したので、内心すこぶる自負するところがあった。

------------
『農士道』(第512回)
.
 淵明にもこの苦しみと、この願とのありしかと思へば----。
又「庚戌の歳九月、西田に早稲を穫る」の詩に、

 人生は有道に帰す      衣食は固より其の端なり
 孰か是れ都べて營まずして  而も以て自ら安きことを求めん
 開春より常業を理むれば   歳功聊か観るべし
 晨に出でて微勤を肆にし   日入りて耒を負うて還る
 山中霜露おほく       風気も亦先づ寒し
 田家豈苦しまざらんや    此の難を辞することを獲ず
 四體誠に乃ち疲るるとも   庶はくは異患の干すこと無きを
 盥濯してえん下に息ひ    斗酒 襟顔を散ず
 遥々たり沮溺が心      千載乃ち相関る
  但だ願はくは長しへに此くの如くならんを 躬耕は歎ずる所に非ず。
---------------