味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

事業文章は、身に随って銷毀すれども、精神は万古に新たなるが如し。

2016-05-21 10:13:02 | ブログ
第2699号 28.05.21(土)
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事業文章は、身に随って銷毀(しょうき)すれども、精神は万古に新たなるが如し。『菜根譚』
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 事業を大きくするとか、あるいははなばなしい仕事を世に明らかにすることは、その身のある間だけは存在するが、永久にというわけにはいかない。その人が死んでしまえば、同時に消えやすいものである。
 しかし、人間の精神は、永遠に新しい。それゆえ、事実を興す以上に精神を残していくことが子孫のためにも自分のためにもなるのだ。570

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 【コメント】上の解説にある〈子孫のためにも自分のためにも〉、そして世の人々のためにも役に立つと思います。連日西郷隆盛を拝読し唸っています。そして、30年前から詩吟教室で習得した西郷隆盛の漢詩を思い出しながら、人格の素晴らしさを堪能しています。
 まさしく西郷隆盛は「皇国の英雄としての精神」を遺してくれています。漢詩と『南洲翁遺訓』です。『南洲翁遺訓』は、菅臥牛翁を中心として文言を練り、西郷隆盛になり切って、皇国・日本の国家社会の今後を思って、世に遺したものです。
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 昨日は超キリキリマイの一日でした。午前中、生協病院に行き耳鼻咽喉の診察を受けました。そして帰宅しブログ書き、其の後ふれあいセンターへ行きました。夕刻は乙女子・中島瑠果嬢を慈眼寺駅までお迎えに行き、本部道場で空手道指導をしました。
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 乙女子は五ケ月位空手道教室を休んでいました。空手道の基本、そして数々の空手道型を演武して貰いました。そして空手道の舞も演じて貰いました。
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 師匠の私は、正面に静坐して久しぶりに拝見しました。現在高校二年の乙女子は体力の向上、そして大人への脱皮が醸し出す精神性の向上と相俟って見事な技を披露してくれました。
 非の打ちどころのない空手の舞でした。手が墜ちたというよりか、寧ろ上っていたところに乙女子の人間としての成長を確認しました。
 願うものなら、歌手・水前寺清子氏にお見せしたいものです。
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 40年前私が花柳流に興じていた頃、名取の皆さんが、空手の舞が素晴らしいとしておけいこしたものです。ところが実際の空手道の突き・蹴り・受けを訓練していないものですから、サマニナラナイのでした。
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 円心会道場の幼児・森永礼弥君も上手いし、城山観光ホテルで演じた池田敬天君も上手いのですが、そこは幼児と青年女子、その差は如何ともしようがない現実です。その見事さは天晴れでした。叶うものなら、来年、2.3月頃開催される発表大会で演じていただくことにしたいと思っています。
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   空手舞 突き蹴り手刀に 満腔の 
         奥義を見たり 乙女子の魂  
 
   久々に 舞と空手の 妙技見て
         日の本の華  大和撫子  博庵

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『臥牛菅実秀』(第235回)
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 政府のある高官が、西郷の東京の住居の余りに粗末なのに驚いて、
「参議ともあろう人が、こんな家にすんでいるとは、ちとひどい。」
といったら、西郷は、あの巨眼をむいて
「日本という家は、もっときたのうごわす。」
といったというが、西郷にとって、日本という家が美しくならないかぎり、一家のために美田を買うなどということはありえないとしていたのであろう。
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 それに落款も、この詩にふさわしく『武邨吉』となっている。『武邨』は武村のことで、西郷は戊辰戦争後、鹿児島に帰ってから、城西の武山の麓、武村に住んでいたからであり『吉』は西郷の通称、吉之助の吉である。維新第一の功労者といわれ、政府参議の要職についても、それらの名声、官位は人が与えたものであり、自分はおくまでも武村の吉であるとする西郷の心事の現われであろう。

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『農士道』(第511回)
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 しかも此の「願」といふは何か、唯々豆を収穫することのみではあるまい。彼の帰耕の生活には、随分の辛さも苦しさもあったろう。その辛さ苦しさの間には、時に素志、素願の挫けさうなこともあったろう。然し自分は飽くまでもこの素願を貫き通すぞといふ----その「願」を違ふこと無からしめんといふのだ。この「願」を味はねばならぬ。とまれ、秋の夕暮れ、葉末の露のしとけき田圃路の帰りなどに口ずさむと、何かしら心の底から懐しまれる詩である。
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微を見て清濁を知る。

2016-05-20 11:45:02 | ブログ
第2698号 28.05.20(金)
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 微を見て清濁を知る、『史記』
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 識者は事の微細な点を見て、直ちにその清濁是非を識別する。641
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 【コメント】識者とはどういう人をいうのでしょうか。国際政治学者は識者に入らないでしょうか。絶大な権力を悪用して金を自分の懐に入れたと喧伝されていますが、本当なのでしょうか。
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 最初のご令室であったとされる片山さつき氏がいうように、土下座をして私に全責任がありますとお詫びしなければならないと指摘しましたが、そういう潔さが必要だと思うのですが、それが出来ないのでしょうか。
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 人間には時として過ちはあるものです。しかし罪を犯す前に、これは罪になるかどうかと精査していたというのであれば、何をか況やです。
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 『南洲翁遺訓』を教えることと空手道しか能のない私は、残された日々を斯道に精進したいと思います。

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『臥牛菅実秀』(第234回)
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 これで多くの人々が犠牲の血を流した戊辰戦争は、果して何のためだったのかとする嘆息が、いつも西郷の胸中に、うずまいていたのであって、『南洲翁遺訓』の中の一章は、それを明らかにしている。
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  万民の上に位する者、己れを慎み、品行を正しくし、驕奢を戒め、節倹を勉め、職事に勤労して、人民の標準となり、下民その勤労を気  の毒に思うようならでは、政令は行われ難し。然るに草創の始めに立ちながら、家屋を飾り、衣服を文り、美妾を抱え、蓄財を謀りな   ば、維新の功業は遂げられまじきなり。今となりては、戊辰の義戦も偏に私を営みたる姿に成り行き、天下に対して、戦死者に対して面  目無きぞとて、頻りに涙を催されける。
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 この耐えがたい気持ちを、きわめて謙抑に『美田を買わず』の一詩に洩らしたものと思われる。

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『農士道』(第510回)
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 又、
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   豆を種う南山の下      草盛にして豆苗稀なり
   晨に與きて荒穢を理め    月を帯び鋤を荷うて帰る
   道狭うして草木長じ     夕露我が衣を沾す
   衣の沾ふは惜しむに足らず  但だ願をして違ふこと無からしめん
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「衣の沾ふは惜しむに足らず、但だ願をして違ふこと無からしめん。」-----ほんとうに田園農耕の間から生れた詩である。

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大事を成すは胆に在り。

2016-05-19 10:25:40 | ブログ
第2697号 28.05.19(木)
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大事を成すは胆に在り。『宋名臣言行録』
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 大きな事業を成し遂げることは、われわれの胆力如何にかかっている。628
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 【コメント】何事にしても、当該人間の精神・胆力にかかわっている訳ですが、誰が見ても性質が悪いね、ということはしてはならないと思います。
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 連日、自治体首長の政治資金問題でにぎわっていますが、一般庶民の感情を逆撫でするようなことはしてはならないと思います。一時的には逃げられても、永い人生では損をすることになるでしょう。
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 連日林房雄著『西郷隆盛』を拝読していますが、著者の書き続ける執念・凄さ、鋭敏さに圧倒されています。まだお読みでない方はお読みになられますようお薦め致します。徳川時代から明治維新の移行期は学んだ方がいいように思います。
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 西郷南洲翁のように、『南洲翁遺訓』の教えのように生きることはとてもできませんが、その一端でも真似られればいいのではと思って、子供たちともども『南洲翁遺訓』の勉強に専念致します。私は半世紀近くやり続けているのです。
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 それは荘内南洲会の先生方の生き様に蒙を啓かれたからなのです。荘内南洲会の先生方にお尋ね致します。『南洲翁遺訓』の原文を書きかえるということは、私には犯罪に思えるのです。
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 その犯罪者といってもいい人間を会合に呼んで、新『南洲翁遺訓』を刊行すると発言させることは暴挙としか思えないのです。ですから私は、そういう人種と席を同じくしたくないのです。私の考えが間違っているでしょうか。
. 私がご尊敬申し上げる西郷先生の妻・糸子夫人の末裔にあたる先生も激憤しています。
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 「-----西郷南洲翁と菅臥牛翁の徳の交わりを広める会」は、その犯罪者的人間を糾弾しないと『南洲翁遺訓』を刊行した荘内の先達の皆様に申し訳ないとして、結成されたのでし。呼掛人は元県教育長をされた方でした。

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『臥牛菅実秀』(第233回)
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 西郷は揮毫の途中で筆をおくと、端然としていった。
「西郷がもしこの詩とちがったことをしたら、言行相反したる男だと、それきり見限っていただきたい。」
 そして再び雄勁な筆力をもって、つづきの誌句を書きあげたのであった。
 西郷が特にこの詩を書き、そのうえ『この詩とちがったことをしたら見限ってほしい』といった、その心中には深い慨嘆があったのだ。
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 幕末のかつての志士たちは、ひとたび新政府の大官になると、たちまち志士時代の苦難を忘れて(私は捨てさりとしたい)、昔の大名も及ばない豪奢な生活を送っていることを西郷はひどく慨嘆していたのである。
 西郷にとって維新は、欧米列強の圧力を前にして小さく貧しく揺れ動く日本を、万国に対峙し得る強国に育てあげる第一歩に過ぎなかった。
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 ところが、新政府で大官となり功臣となった、かつての同志たちは、維新の意外にすみやかな成功に満足して、すでに停滞と腐敗が始っていた。ことに西郷を失望させたのは、同藩の盟友大久保が、この悪風になじんで、四、五十人の召使いをかかえて尊大にかまえている、その生活態度であった。(『南洲翁遺訓』第四章はそういうことを指しているのだと思います。)

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『農士道』(第509回)
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 「復た自然に返ることを得たり。」----如何に立身しようと、出世しようと、人間は畢竟自然に返るべきものである。南洲翁も歌っているではないか。
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   我が家の松籟 塵縁を洗ふ
   満耳の清風 身仙ならんと欲す
   誤まって作る 京華名利の客
   此聲聴かざること 已に三年
と。終生、此の境地を発見し得ずして、人間の名利の世界のみに齷齪している輩は、むしろ憐むべきである。

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『西郷隆盛』より、
〈大久保はそれが聞きたくてやって来たのかもしれぬ。吉之助は答えた。
「まだ征韓というところまではいっておらぬ」
「そうかな、板垣退助あたりから出兵論が出たそうではないか」
「出兵には、おれが反対した。板垣も納得してくれた」
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 大久保は眉をよせて、
「やっぱり、おまえ自身が韓国に行くつもりなのだな」
「ほかに行ってくれる人があるか」
「そりゃあ、いくらもある」
「兵をひきいて打ちこわしに行くのではないぞ。まるはだかで話をまとめに行くのだ。他に人があるか。おまえが行ってくれるというのなら話は別だが」
「おれはごめんだ。(大久保)-----。」〉204

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天爵を脩めて、人爵は之れに従う。

2016-05-18 10:39:50 | ブログ
第2696号 28.05.18(水)
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 天爵なる者あり、人爵なる者あり。仁義忠臣にして、善を楽しんで倦まざるは、此れ天爵なり。
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 仁義忠臣にして、善を楽しんであくことを知らないのは天爵を修めたものであるが、この天爵を修めていれば、人爵は自然に与えられるものである。すなわち、それが古人の生き方である。128
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 【コメント】上の解説で〈古人の生き方〉とありますが、儒教道徳で身を修めた人々の生き方という事でしょう。
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 今自治体首長の政治資金流用でメディアの喧伝も喧しいですが、元はといえば本人の精神が廉潔であるか否かということだと思います。
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 その御仁は国際政治学者とのことらしいですが、権力を玩び自分たち家族に都合のいいようにしてきたとのことです。今朝のテレビ報道でこれらは精査して罪にならないようにしているとのことです。
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 元大阪知事の橋下氏が後任になったとしたら、莫大な金が浮くであろうと思います。私自身も性格的には橋下氏と似ているのですが、こちらは能力がございません。町内会長位がいいとこです。
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 5年位前町内会長に就任した時は、一円の不正もしない、全国で一番働く町内会長になってみせると自分に誓い、それこそ寝る暇もない位働きました。後期高齢者でもあることだし、二度とやりたくないと思っています。
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 私の天職は『南洲翁遺訓』を子供たちに教える事だと思っています。
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 拝読している『西郷隆盛』第十九巻の帯封に紹介されている識者の感想をご紹介します。
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 小林秀雄氏----歴史の外的な、図式的な理解が流行しているとき、林房雄君はいち早く西郷という歴史上の巨岩を覗こうとした。近頃、維新史を見直そうという気運があるようだが、林君の力作が出たことはまことに嬉しい。
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 河盛好蔵氏----林房雄君が西郷隆盛の作者として第一人者に目されているのは、当代の小説家のなかで林君ほど男性的で、いさぎよい人物は少ないからだ。林君は「西郷隆盛」を書きあげるまでは死ねないという。私もそれを心から期待する。
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 三島由紀夫氏----西郷隆盛は林氏の壮年以後の全精力を注ぎこんだ大作であり、日本の代表的英雄の物語である。これは小説というよりも、”日本人とは何か”を考える人の必読の書なのである。
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 筆者----渦中の政治学者氏も読んで欲しいものである。尤も南洲翁とは性が異なるのだけれど。『南洲翁遺訓』を刊行した菅臥牛翁を中心とする人々は件の本を刊行して良かったと総括していることでしょう。糸夫人の末裔にあたられる松玄様も同じだと思います。
 こうして見た時、西郷隆盛の人格を表象したとされる『南洲翁遺訓』の刊行程意義あるものはないでありましょう。『南洲翁遺訓』を口にする団体は『南洲翁遺訓』の教えを順守しなければならないのです。

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『臥牛菅実秀』(第232回)
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     (四)
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 ある日、実秀をはじめ在京の荘内の人たちが、西郷から深川の米問屋、越後屋喜左エ門の家を会場として招待を受けた。
 これは鹿児島の人々も加わった懇親の宴であった。酒を酌んで心おきない歓談に数刻を過ごしたとき、西郷はその席に筆硯を取りよせて、自作の詩を揮毫した。
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  幾たびか辛酸を歴て志始めて堅し
  丈夫玉砕するも甎全を愧づ
  一家の遺事 人知るや否や
  児孫の為めに美田を買わず
 
  ※甎全。甎は瓦と同じ、「大丈夫むしろ玉となって砕くべし、瓦となって全きこと能わず」という古語がある。

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『農士道』(第508回)
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 試みに彼の「帰園田」中の両三首を味わうて見よう。
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 少うして俗韻に適するなく 性 本 丘山を愛す
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  誤って塵網の中に落ち  一去 三十年
  羈鳥 舊林を戀ひ    池魚 故淵を思ふ
  荒を開く南野の際    拙を守って園田に帰る
  方宅十余畝       草屋八九間
  楡柳は後園を蔭ひ    桃李は堂前に羅る
  瞹々たり 遠人の村   依々たり 壚里の煙
  狗は吠ゆ 深巷の中   雉は鳴く 桑樹の峯
  戸庭 塵雑無く     虚室余閑あり
  久し樊籠の裏に在り   復た自然に返ることを得たり

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天道は親なし。常に善人に与す。

2016-05-17 09:16:24 | ブログ
第2695号 28.05.17(火)
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天道は親なし。常に善人に与(くみ)す。『老子』
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 天道は、利己的な考えで人を選び親しむというようなものではない。だれであろうと、常に善人に味方していくものである。337
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 【コメント】上の『老子』の言葉はまさしくその通りだと思います。ですから、お互い理解しあい助け合い、二度とない人生を有意義に過ごしたいものです。
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 とにかく『南洲翁遺訓』を学ぶこと、それに尽きると思います。
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 拝読している『西郷隆盛』---〈第四章 久 光 台 風 より〉
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 久光の無言の抵抗にもかかわらず、御巡幸の行事は予定どおりに進行した。
 二十三日の早朝は、行在所の庭に設けられた遥拝所から日向の可愛、吾平、高屋の山稜を拝して幣物を捧げた。-----そして久光が興奮し若い徳大寺卿に西郷と大久保の悪口を発したのであった。
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「----特に西郷吉之助は、今度の御巡幸を通じて、陛下の御信頼をいっそう深めました。このように誠実、このように忠誠な男だとは知らなかった。頼りにできる臣下だ、と陛下はくりかえし申されております」頁89
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 陛下と久光との西郷吉之助に対する評価は、真逆であった。(久光の西郷評価は略します)

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『臥牛菅実秀』(第231回)
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 ある日、西郷は実秀にいった。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものだが、この始末に困る人でなくては、艱難をともにして国家の大業を成し得るものではない。」
 これを心に深く聞き入った実秀は、やがて、
「それは、きっと行いえましょう。」
と答えた。
 そのとき西郷は、さもうれしそうに、うなづいたという。-----おそらくこれは大丈夫と大丈夫の黙契ともいうべきものであろう。

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『農士道』(第507回)
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 勿論世間的に見ゆるものは農耕の生活であろうけれども、其の根帯的素養として、豊かなる「廣き裾野」の生活があってよい-----否あらねばならぬ。かくて私は此処に、彼の帰耕の人陶淵明の詩文の幾つかを味って見たいと思う。
 陶淵明は人も知るが如く晉末の人、「吾五斗米の為に小兒輩に腰を折るに忍びんや」とて彭澤県令の職を幣履の如く棄てて田園に帰り、終生仕へずして、山澤に力耕逍遥せし人である。「帰りなんいざ、田園将に蕪れなんとす。胡んぞ帰らざる」といふ有名な帰去来の辞は、実に此の時の心境を述べたものであり、「聊か化に乗じて以て盡くるに帰せん、夫の天命を楽しんで、復た奚ぞ疑はん」といふ悠悠自適の天地に楽しみ得た人で
ある。

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