味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

善く吏たる者は、徳を樹う。

2016-01-26 18:16:10 | ブログ
第2583号 28.01.26(火)
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善く吏たる者は、徳を樹う。『韓非子』
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 立派な官吏は、なにをおいても徳を立てる。414
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 【コメント】官吏でなくても、多くの人は出来るだけ、徳を立てたいと願っていると思います。折角の人生を意義あらしめるべく生きたい筈だからです。
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『臥牛菅実秀』(第120回)
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 奥羽鎮撫使の底心をさとった荘内藩は、ついに臨戦体制を固めることにふみきった。
 中老松平権十郎(親懐)老公忠発の側用人山口三郎兵衛(将順)藩主忠篤の側用人菅秀三郎(実秀)郡代和田助弥(光観)同じく郡代山岸嘉右エ門(貞文)を軍事掛に任命し、松平甚三郎隊を清川口に、酒井兵部隊を大綱口に、石原倉右エ隊を吹浦口に派遣して藩境を固めさせた。
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 軍事掛となった実秀は、家老職や諸役人を説得し、あるいは励まして、藩一体の結集力を盛りあげることに全力を傾けていた。一方、東北各藩の動静も佐幕に立つのか、政府軍につくのか、予断を許されぬ情勢にあったので、これに対応して緊密な連契体制を作りあげなければならかった。このころの実秀は、ほとんど家に帰るいとまもなく、八方をにらみつけて活躍していた。

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 先の日曜日、NHK「新映像の世紀」が報道されました。過去、米ソの冷戦時代、核軍拡競争は拝見してきましたが、今回も拝見して地球上の人々の運命は、軍事大国の指導者に委ねられているのだと思うことでした。
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 そういう折、日本の選択は、菅原兵治先生の説く「大和の國」の生き方がいいと思うことでした。決して争いを興すことなく、只管生き抜くことが大事だと思います。
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 それにしても世の中、贅沢になり過ぎました。だから私は子供たちに『南洲翁遺訓』を教えているのです。

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自ら師を得るを為す者は王たり、

2016-01-25 14:30:20 | ブログ
第2582号 28.01.25(月)
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自ら師を得るを為す者は王たり、友を得る者は覇たり。『荀子』
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 諸侯で、師を求めうる者は、王道を行なう人であり、自分を助ける友を求める者は、覇道を行う人である。友を得る必要を説き、師を得る必要は更に大きいことを説いたものである。395
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 【コメント】荀子が説いた時とは、時代が大きく異なりますが、要は、師であれ友であれ、自分の利害のみで事を進めると後々行き違いが生じてくると思います。
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 何時も書いていることですが、自分の利害よりか、世の為人の為事を進めた方がいいと思います。人様のためであれば、一時的には負けたように見えても、後々評価される筈です。

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『臥牛菅実秀』(第119回)
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 この讒訴というのは、荘内藩が朝廷から慶喜征討の勅命を受けた二月八日の同じ日に、一方では幕府から村山公領地の寒河江、柴橋七万四千石の上納米の収納を委任されたので、郡奉行大嶋久弥(範古)郡代高橋省助を預り地受領のため派遣したのを、近隣の藩では、荘内藩が勝手に王土を荒し、幕府回復の策源地にする異心があると鎮撫使総督に訴えでたのであった。
 公領地。天領ともいい、幕府の直轄地。
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『教の国 荘内』
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 世間ではよくどんな事を言ふか、どんな事を為すかと、其の言ふ處、行ふ處-----今日の話を以て謂へば、其指導精神と實行要目とを見て彼是いふがそれらは要するに「事」といふものである。
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『農士道』(第386回)
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 古事記所載の記事に因れば須佐之男命が高天原から出雲國に至る時に、此の大宣津比賣より諸々の農作物の種子を得て行ったということになっているが、此事に関しては、後に改めて詳述することとする。
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愛を立つるは惟れ親よりし、敬を立つるは惟れ長よりす。

2016-01-24 14:50:56 | ブログ
第2581号 28.01.24(日)
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愛を立つるは惟れ親よりし、敬を立つるは惟れ長よりす。『書経』 
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 愛情を世の中に立てようとするならば、まず近い自分の親に対する愛情からはじめ、敬いの教えをたてるには、最も手近な自分の兄からはじめるがよい。
 教えは、常に手近なところからはじめねばならぬ。202

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 【コメント】方法論としては大変よいことだと思います。現在の日本では昔ながらのヨシとしたものが無くなっているからです。
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 世の中よくしようと思うならば、先ずは人様の意見を十分おききしてとりくむべきだと思います。
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 私の家の二階からは、銀世界が一望にひろがっている美しい世界がみえます。

鬼神は人を実に親しむに非ず。

2016-01-23 14:12:00 | ブログ
第2580号 28.01.23(土)
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鬼神は人を実に親しむに非ず。惟だ徳に是れ依る。『左伝』
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 鬼神は決して特定の人に親しむものではない。だれでもよい。ただ道徳を守っている人に、よりいっそう親しむものである。247
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 【コメント】体調悪化で3日間、ブログをお休みさせて戴きました。誠に申し訳なく存じます。子供たちに負けてなるものかとハッスルしすぎたためでしょうか。
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 19日、少し体を休めていたら天井がグルグル廻り始めました。円心会で空手をしている田上さんのお父上様が医学博士であるため、電話をしてみました。病院で点滴を受けてくださいとの指導を戴きました。
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 頭もスッキリ、記憶も万全でしたが、身体がフラフラしましたので、無理をしてはらないとゆっくり休んでいました。思えば人様の何倍も動いてきたと思います、先が長いので、この辺で一休みしなさいとの警告であったのかもしれまぜん。
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 空手道の猛者、岩坪清美八段範士が私と三日つきあえば死んでしまうといったことがありました。昨年自分だけ旅立ちましたが。
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 ブログの更新がないものですから、中澤先生が心配してコメントを寄せてくださいました。誠に有り難う存じました。中澤先生は菅原
先生の農士道を学びたいと申しています。
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 『農士道』をブログでご紹介しながら、こんな素晴らしい論考はないと思っています。地球が崩壊しない以上、天が与えたそれぞれの土地で生きていくしかありません。そうしたとき菅原先生の説く『農士道』は大変参考になりうるものだと思います。
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 荘内南洲会様にある文献を少しでもご紹介致したく存じます。
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 実は荘内南洲会理事長・水野先生にお年賀の返信を出して無かったため、19日返信を認めながら、立てなくなっのでした。水野先生、申し訳なく存じます。

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『臥牛菅実秀』(第118回)
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 そのとき伊達慶邦は、
「弊藩も会津征伐の勅命を受けているが、一体、会津に何の罪があろう。これはまったく奸人が聖明を蔽たものである。」
といった。
 三月に奥羽鎮撫使総督九条道孝、参謀大山格之助(綱良、薩摩藩士)同じく参謀世良修蔵(長州藩士)らが仙台に着いたとき、伊達慶邦は荘内藩の苦衷を伝えて、追討軍辞退を依頼してくれたのであるが、これはただちに却下されただけでなく、逆に天童藩などの讒訴を説取あげて、荘内追討の命を下そうとする形勢となった。

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『教の國 荘内』(第9回)
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 人には其人の「風」がある。之を風格といふ。
 家には其家の「風」がある。之を家風といふ。
 地方には其地方の「風」がある。之を郷土風といふ。
 國には其國の「風」がある。之を「國風」(國がら)といふ。

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『農士道』(第385回)
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 大宣都比賣(おほげつめのかみ)
 宣は食である。この食を放ちていへば「宇氣」といふ。豊宇氣毘賣、保食等の「うけ」が是れである。「おほうけ」が釣(つま)りて「おほけ」となったもの、従って大宣都比賣は「大食津業姫」であり、大いに食料を生産するの意となり、諫言すれば米や麦を豊かに生産する農業ということになる。

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虚室に白を生ず。

2016-01-19 09:59:16 | ブログ
第2579号 28.01.19(火)
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居室に白を生ず。『荘子』
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 人のだれもいない部屋にいると、夜の闇の中にも白いものがみえてくる。
 心をむなしくすれば、世の中のことがおのずとわかる。348

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 【コメント】上の言葉で少しくわからないところがありますが、〈世の中のことが〉というところは社会経験を積まなければわからないと思います。
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 その為には、昨日も書きましたが「善い言葉」を覚えることも大事かと思います。

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『臥牛菅実秀』(第117回)
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 そして小栗は、知行地である上州(群馬県)権田村に引きこもってしまったが、それからわずか三ケ月後に、政府軍の手によって『天地間に客(い)るべからざる大罪人』として斬殺されてしまった。年四十ニ歳であった。
 小栗の悲惨な最後をあとで知った実秀は、あたら硬骨の士を失ったことを痛嘆したという。

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   (二)
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 慶応四年二月二十日、荘内藩主酒井忠篤は、精鋭な藩士をもって編成した殺手隊、火器隊を前後にしたがえて、江戸の神田橋藩邸を出発し、まづ上野に向った。そして黒門前に整列した一同は、深くひざまづいて、寛永寺に謹慎する将軍に別れを告げて江戸を去った。
 忠篤は途中、仙台に立ちより、青葉城で藩主伊達慶邦に合った。荘内藩では二月八日に朝廷から『慶喜征討の軍を援(たす)くべし』という勅命を受けていたのであるが、いかに勅命とはいえ、累代の主家に弓を引くことは忍びがたいことなので、東北第一の大藩仙台侯の尽力によって、慶喜追討の辞退を認めてもらうように依頼したのである。

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『教の国 荘内』(第8回)
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   二 教、風、事
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 荘内の事を述ぶるに當って、私は其の序説として「教」とは何ぞやといふことに就いて述べたが、更にこの「教」と「風」と「事」との関係を略述して、教の国荘内を知る伏線としたいと思ふ。
 梅の花が咲いた、もう春だ----と世間多くの人はいふ。然し一体其の梅花を開かしめたものは何か。それは「春」だ。
 不思議なもので、春風が吹き来れば花が開き秋風が吹き来れば紅葉する。努めて強要するのではないが、自然にさうなるのである。眞に自から然るのである。花が開くとか、紅葉するとかいうことは「事」である。事象であり、事実である。而して其の「事」をして自らに然らしむる力が實に「風」なのである。

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『農士道』(第394回)
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   第一項  高天原農神
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 古事記上巻國生みの件(くだり)を誦すれば、次に様に誌してある。
 伊邪那岐、伊邪那美の御両神が、天つの命により此の漂へる國を修理(つくり)固成(かためな)せとの詔により、天瓊矛(あめのめぼこ)を以て海水をこをろこをろに攪きなして引き上げたまふ時に、其の矛のさきより滴る海水が積って淤能碁呂島(おのずからに凝り固れる島の意)となり、ここに天降りまして、天之御柱を立て、八尋殿(発展する殿の意)を立てられた。
 この島で御両神が婚をなされ、愈々国土経営の大事に着手せられるのであるが、まづ淡路島を第一に、四国、隠岐、九州、伊岐、津島、佐渡、本州と次々に大八島の國を生み給うた。而して両神は更に山川草木の数々の諸神を生みまし、凡ぺて二神の共に生みませる島は十四島、は三十五に及ぶ。其中でも最後に生みませる左の諸神は農業に関係する處深きが故に、特に其等の諸神についてその神徳を偲ぶこととしよう。

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五箇條の御誓文
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 一、官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦ざらしめん事を要す。
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 (文官や武官はいうまでもなく一般の国民も、それぞれ自分の職責を果たし、各自の志すところを達成できるように、人々に希望を失わせないことが肝要です。)

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