第2564号 28.01.04(月)
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常棣(じょうてい)の華、鄂(がく)として韡韡(いい)たらざらんや。『詩経』
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庭桜の花がぱっと開いて、まことに美しい。兄弟仲のよいさまをたとえた詩で、兄弟の情を「棣鄂(ていがく)の情」という。「常棣は庭桜。「鄂」は花のぱっと開く形容。「韡韡」は花の美しい姿。172
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【コメント】こういった家族間の様は今日薄れてきていますが、本来ならば有難く思い、兄弟仲よくありたいものです。これらは戦後風潮が生み出した権利意識から派生したものなのでしょうか。
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労働者の賃上げにしても、会社の金庫の中を見もしないで、要求をするのはよくないでありましょう。その昔、全電通の委員長が演説の中で会社が潰れようが俺たちの知ったこっちゃない、とそういう発言をした際、それを聞いていた私の姉が、東京から電話があり、あの委員長は性質が悪いね、といってきたことがありました。
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それに同調した私が入社した当時の委員長は、昨年悶死しました。お互い、穏やかに話して協力して行きたいものです。死後の世界は、情のある穏やかな人が救われるのだと聞いたことがあります。
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昨日も菅原兵治先生の『農士道』に出てくる言葉、「日の本」精神、没我と奉仕こそが一番強いと私は思います。とにかく、前向きに力いっぱい働き生きて行けば、今の日本では餓死するということはないと思います。私のブログはそういう精神を前提として書いているつもりでございます。若い時は難儀をしてもいいのです。前向きであれば、晩年に華が咲くと私は信じています。だから『南洲翁遺訓』を学ぶのです。
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『臥牛菅実秀』(第102回)
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十二月二十五日払暁、荘内藩の重臣石原倉右エ門のひきいる藩兵一千を主力とする部隊は、薩摩屋敷を包囲攻撃して焼き払ってしまった。薩摩と荘内の戦は、このときすでに始まったのだ。そして、これが翌年の戊辰戦争で、荘内藩に追討令が出た一つの理由ともなった。
また全局的には、この薩摩屋敷の焼打ちが西郷のねらい通りに、鳥羽伏見の戦をへて戊辰戦争の発火点となってしまった。京阪にあった旗本や会津、桑名の藩士は、かねてから薩長の策動に憤激していたが、薩摩屋敷の焼打ちをきっかけとして、ただちに薩長を討つことを主張した。
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『論語』(第493)
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叔孫武叔、仲尼を毀る。子貢曰はく、「以て為すなきなり。仲尼は毀るべからず。他人の賢は丘陵(きゅうりょう)なり。猶踰ゆべし。仲尼は日月なり。得て踰ゆるなし、人自ら絶たんと欲すと雖も、其れ何ぞ日月を傷(そこ)なはんや。多(まさ)に其の量を知らざるを見るなり。」
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叔孫武叔が仲尼を毀った。子貢がみれを諭していうには「仲尼を毀ってはいけません。仲尼は固(もと)より毀ることはできません。他人の賢は譬えて見れば丘陵です。高いといった所でなお踰えることができます。仲尼は日月です。決して踰えることはできません。人が毀って自ら仲尼と絶とうとしても、どうして日月のような高い道徳を損傷することができましょうか。まさに自ら己の分量を知らないことを見(あらわ)すのです。仲尼を毀ってはいけません。」
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『農士道』(第379回)
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なる程、此の村の堆肥を見るとほんとうに単なる「肥料」(こやし)とは思えぬ程美しく積まれてゐるのに驚く。
勿論結果の上からいへば、此人の如きは当然金肥の節約になってゐるであろう。然し其の動機は現在の多くの人々の「金肥節約」一点張りの考えとは其の根本を異にする。
如何にして「土」といふ母親を喜ばせるやうな甘味しいご馳走を作って上げようか-----。
此の純乎たる大地への孝心の存するが故にこそ、利も亦自ずから其処に生じて来るのである。ああ、土への孝行なるかな。-----昭和九年九月記----
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先ほどはブログを書き出して中座しました。実はプリンターが二台ありましたが、昨年末耐用年数が過ぎて故障しました。新しくB5用紙とハガキ専用にしたのですが、新しいプリンターはいろいろ設定が難しくて高齢者の私には使用できませんでした。
従って今までは、すぐハガキの裏表に印刷して年賀状等々は発送致しました。
今回プリンタ使用するために、エディオンの技術者に来ていただき説明をうけましたが、手に負えない次第です。そういうことで、年賀状の返信は、手書きとさせていただきます。それと年末に弟が他界し、義兄も医療器機のお蔭で死を免れている状態です。そういうことで皆様への新春のご挨拶が遅れていますのでご了解賜りたく存じます。
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常棣(じょうてい)の華、鄂(がく)として韡韡(いい)たらざらんや。『詩経』
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庭桜の花がぱっと開いて、まことに美しい。兄弟仲のよいさまをたとえた詩で、兄弟の情を「棣鄂(ていがく)の情」という。「常棣は庭桜。「鄂」は花のぱっと開く形容。「韡韡」は花の美しい姿。172
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【コメント】こういった家族間の様は今日薄れてきていますが、本来ならば有難く思い、兄弟仲よくありたいものです。これらは戦後風潮が生み出した権利意識から派生したものなのでしょうか。
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労働者の賃上げにしても、会社の金庫の中を見もしないで、要求をするのはよくないでありましょう。その昔、全電通の委員長が演説の中で会社が潰れようが俺たちの知ったこっちゃない、とそういう発言をした際、それを聞いていた私の姉が、東京から電話があり、あの委員長は性質が悪いね、といってきたことがありました。
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それに同調した私が入社した当時の委員長は、昨年悶死しました。お互い、穏やかに話して協力して行きたいものです。死後の世界は、情のある穏やかな人が救われるのだと聞いたことがあります。
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昨日も菅原兵治先生の『農士道』に出てくる言葉、「日の本」精神、没我と奉仕こそが一番強いと私は思います。とにかく、前向きに力いっぱい働き生きて行けば、今の日本では餓死するということはないと思います。私のブログはそういう精神を前提として書いているつもりでございます。若い時は難儀をしてもいいのです。前向きであれば、晩年に華が咲くと私は信じています。だから『南洲翁遺訓』を学ぶのです。
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『臥牛菅実秀』(第102回)
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十二月二十五日払暁、荘内藩の重臣石原倉右エ門のひきいる藩兵一千を主力とする部隊は、薩摩屋敷を包囲攻撃して焼き払ってしまった。薩摩と荘内の戦は、このときすでに始まったのだ。そして、これが翌年の戊辰戦争で、荘内藩に追討令が出た一つの理由ともなった。
また全局的には、この薩摩屋敷の焼打ちが西郷のねらい通りに、鳥羽伏見の戦をへて戊辰戦争の発火点となってしまった。京阪にあった旗本や会津、桑名の藩士は、かねてから薩長の策動に憤激していたが、薩摩屋敷の焼打ちをきっかけとして、ただちに薩長を討つことを主張した。
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『論語』(第493)
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叔孫武叔、仲尼を毀る。子貢曰はく、「以て為すなきなり。仲尼は毀るべからず。他人の賢は丘陵(きゅうりょう)なり。猶踰ゆべし。仲尼は日月なり。得て踰ゆるなし、人自ら絶たんと欲すと雖も、其れ何ぞ日月を傷(そこ)なはんや。多(まさ)に其の量を知らざるを見るなり。」
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叔孫武叔が仲尼を毀った。子貢がみれを諭していうには「仲尼を毀ってはいけません。仲尼は固(もと)より毀ることはできません。他人の賢は譬えて見れば丘陵です。高いといった所でなお踰えることができます。仲尼は日月です。決して踰えることはできません。人が毀って自ら仲尼と絶とうとしても、どうして日月のような高い道徳を損傷することができましょうか。まさに自ら己の分量を知らないことを見(あらわ)すのです。仲尼を毀ってはいけません。」
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『農士道』(第379回)
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なる程、此の村の堆肥を見るとほんとうに単なる「肥料」(こやし)とは思えぬ程美しく積まれてゐるのに驚く。
勿論結果の上からいへば、此人の如きは当然金肥の節約になってゐるであろう。然し其の動機は現在の多くの人々の「金肥節約」一点張りの考えとは其の根本を異にする。
如何にして「土」といふ母親を喜ばせるやうな甘味しいご馳走を作って上げようか-----。
此の純乎たる大地への孝心の存するが故にこそ、利も亦自ずから其処に生じて来るのである。ああ、土への孝行なるかな。-----昭和九年九月記----
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先ほどはブログを書き出して中座しました。実はプリンターが二台ありましたが、昨年末耐用年数が過ぎて故障しました。新しくB5用紙とハガキ専用にしたのですが、新しいプリンターはいろいろ設定が難しくて高齢者の私には使用できませんでした。
従って今までは、すぐハガキの裏表に印刷して年賀状等々は発送致しました。
今回プリンタ使用するために、エディオンの技術者に来ていただき説明をうけましたが、手に負えない次第です。そういうことで、年賀状の返信は、手書きとさせていただきます。それと年末に弟が他界し、義兄も医療器機のお蔭で死を免れている状態です。そういうことで皆様への新春のご挨拶が遅れていますのでご了解賜りたく存じます。
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