味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

虚室に白を生ず。

2016-01-19 09:59:16 | ブログ
第2579号 28.01.19(火)
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居室に白を生ず。『荘子』
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 人のだれもいない部屋にいると、夜の闇の中にも白いものがみえてくる。
 心をむなしくすれば、世の中のことがおのずとわかる。348

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 【コメント】上の言葉で少しくわからないところがありますが、〈世の中のことが〉というところは社会経験を積まなければわからないと思います。
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 その為には、昨日も書きましたが「善い言葉」を覚えることも大事かと思います。

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『臥牛菅実秀』(第117回)
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 そして小栗は、知行地である上州(群馬県)権田村に引きこもってしまったが、それからわずか三ケ月後に、政府軍の手によって『天地間に客(い)るべからざる大罪人』として斬殺されてしまった。年四十ニ歳であった。
 小栗の悲惨な最後をあとで知った実秀は、あたら硬骨の士を失ったことを痛嘆したという。

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   (二)
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 慶応四年二月二十日、荘内藩主酒井忠篤は、精鋭な藩士をもって編成した殺手隊、火器隊を前後にしたがえて、江戸の神田橋藩邸を出発し、まづ上野に向った。そして黒門前に整列した一同は、深くひざまづいて、寛永寺に謹慎する将軍に別れを告げて江戸を去った。
 忠篤は途中、仙台に立ちより、青葉城で藩主伊達慶邦に合った。荘内藩では二月八日に朝廷から『慶喜征討の軍を援(たす)くべし』という勅命を受けていたのであるが、いかに勅命とはいえ、累代の主家に弓を引くことは忍びがたいことなので、東北第一の大藩仙台侯の尽力によって、慶喜追討の辞退を認めてもらうように依頼したのである。

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『教の国 荘内』(第8回)
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   二 教、風、事
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 荘内の事を述ぶるに當って、私は其の序説として「教」とは何ぞやといふことに就いて述べたが、更にこの「教」と「風」と「事」との関係を略述して、教の国荘内を知る伏線としたいと思ふ。
 梅の花が咲いた、もう春だ----と世間多くの人はいふ。然し一体其の梅花を開かしめたものは何か。それは「春」だ。
 不思議なもので、春風が吹き来れば花が開き秋風が吹き来れば紅葉する。努めて強要するのではないが、自然にさうなるのである。眞に自から然るのである。花が開くとか、紅葉するとかいうことは「事」である。事象であり、事実である。而して其の「事」をして自らに然らしむる力が實に「風」なのである。

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『農士道』(第394回)
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   第一項  高天原農神
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 古事記上巻國生みの件(くだり)を誦すれば、次に様に誌してある。
 伊邪那岐、伊邪那美の御両神が、天つの命により此の漂へる國を修理(つくり)固成(かためな)せとの詔により、天瓊矛(あめのめぼこ)を以て海水をこをろこをろに攪きなして引き上げたまふ時に、其の矛のさきより滴る海水が積って淤能碁呂島(おのずからに凝り固れる島の意)となり、ここに天降りまして、天之御柱を立て、八尋殿(発展する殿の意)を立てられた。
 この島で御両神が婚をなされ、愈々国土経営の大事に着手せられるのであるが、まづ淡路島を第一に、四国、隠岐、九州、伊岐、津島、佐渡、本州と次々に大八島の國を生み給うた。而して両神は更に山川草木の数々の諸神を生みまし、凡ぺて二神の共に生みませる島は十四島、は三十五に及ぶ。其中でも最後に生みませる左の諸神は農業に関係する處深きが故に、特に其等の諸神についてその神徳を偲ぶこととしよう。

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五箇條の御誓文
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 一、官武一途庶民に至る迄、各其志を遂げ、人心をして倦ざらしめん事を要す。
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 (文官や武官はいうまでもなく一般の国民も、それぞれ自分の職責を果たし、各自の志すところを達成できるように、人々に希望を失わせないことが肝要です。)

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