味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

天道は親なし。常に善人に与す。

2016-05-17 09:16:24 | ブログ
第2695号 28.05.17(火)
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天道は親なし。常に善人に与(くみ)す。『老子』
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 天道は、利己的な考えで人を選び親しむというようなものではない。だれであろうと、常に善人に味方していくものである。337
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 【コメント】上の『老子』の言葉はまさしくその通りだと思います。ですから、お互い理解しあい助け合い、二度とない人生を有意義に過ごしたいものです。
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 とにかく『南洲翁遺訓』を学ぶこと、それに尽きると思います。
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 拝読している『西郷隆盛』---〈第四章 久 光 台 風 より〉
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 久光の無言の抵抗にもかかわらず、御巡幸の行事は予定どおりに進行した。
 二十三日の早朝は、行在所の庭に設けられた遥拝所から日向の可愛、吾平、高屋の山稜を拝して幣物を捧げた。-----そして久光が興奮し若い徳大寺卿に西郷と大久保の悪口を発したのであった。
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「----特に西郷吉之助は、今度の御巡幸を通じて、陛下の御信頼をいっそう深めました。このように誠実、このように忠誠な男だとは知らなかった。頼りにできる臣下だ、と陛下はくりかえし申されております」頁89
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 陛下と久光との西郷吉之助に対する評価は、真逆であった。(久光の西郷評価は略します)

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『臥牛菅実秀』(第231回)
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 ある日、西郷は実秀にいった。
「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものだが、この始末に困る人でなくては、艱難をともにして国家の大業を成し得るものではない。」
 これを心に深く聞き入った実秀は、やがて、
「それは、きっと行いえましょう。」
と答えた。
 そのとき西郷は、さもうれしそうに、うなづいたという。-----おそらくこれは大丈夫と大丈夫の黙契ともいうべきものであろう。

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『農士道』(第507回)
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 勿論世間的に見ゆるものは農耕の生活であろうけれども、其の根帯的素養として、豊かなる「廣き裾野」の生活があってよい-----否あらねばならぬ。かくて私は此処に、彼の帰耕の人陶淵明の詩文の幾つかを味って見たいと思う。
 陶淵明は人も知るが如く晉末の人、「吾五斗米の為に小兒輩に腰を折るに忍びんや」とて彭澤県令の職を幣履の如く棄てて田園に帰り、終生仕へずして、山澤に力耕逍遥せし人である。「帰りなんいざ、田園将に蕪れなんとす。胡んぞ帰らざる」といふ有名な帰去来の辞は、実に此の時の心境を述べたものであり、「聊か化に乗じて以て盡くるに帰せん、夫の天命を楽しんで、復た奚ぞ疑はん」といふ悠悠自適の天地に楽しみ得た人で
ある。

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