タイトル----偉人の紹介「山岡鉄舟」。 第591号 22.09.17(金)
生死顧みるに足らず、唯誓うところは天の道に違わざるのみ。
幕臣。名は高歩、通称鉄太郎、天保七年生。剣客として聞こえ、無刀流の流祖となる。幕府瓦解当時、徳川家の面目をたて、維新後は侍從として側近に奉仕す。明治二十一年没す。
鳥羽伏見の戦いに敗れた徳川慶喜は、江戸へ引き上げるといち早く上野寛永寺にこもってしまった。慶喜討伐の為、東下の官軍をひきいて、西郷吉之助はもう駿河まで進撃して来た。一時も早く救解の手入れをせぬと、江戸は兵火の巷となる土壇場であった。将軍は、突然、山岡鉄太郎を呼び出した。
『其方を召し出したのは餘の儀でない、至急総督府にまかり出て、慶喜の為、恭順謹慎の実を傳えて貰いたい。この使者は其方より外にはつとまらぬ、くれぐれも頼み入るぞよ』胸中を打ち割って、将軍自身から懇ろな依頼があった。
『よろしゅうございます。拙者のある間は、枕を高うして、お休み下されませ。必ず官軍の参謀に乞うて、無事に取り計らうて参じます』
万策を胸一つにたたんで、将軍の面前を引き下がると、そのまま勝海舟の許へひょっこりと尋ねて行った。それ迄、勝海舟とのつきあいはなかった。海舟の方では、あの剣術遣いに、何が出来るものかと見くびっていたらしい。
これこれだと、重大使命を帯びて来た一条を打ち明けると、勝は、『途中には、敵が一杯詰めかけて居るんだよ』と、冷ややかに云った。
『心得てござる』
『その間を切り抜けて、総督府まで行こうというのは、大抵なこっちゃない。お前さん、何か、目算でもあるかな』
『目算を立ててみたところで、どうにもなりますまい。素より生死をかへりみる時ではない、ただ誓うところは、天の道に違わざるのみ。先生、どうですな』と鉄舟は云った。
『む、それなら好い、では、行きなさい』と、薩人益満休之助をつけて、敵地の中へ出立させたのである。
彼には此の如き信念があったので、単身、虎口に突入することが出来たのみならず、慶喜の意中を官軍へ傳え、同時に兵火から救い出す事が出来たのである。
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この偉人の紹介は、昭和七年十二月三日 大日本雄弁会講談社発行の『偉人は斯く教える』を参考に紹介しています。
今回の山岡鉄舟の紹介は、いろいろ疑問を抱きながら書きました。というのは山本兼一著『命もいらず名もいらず』を、つい最近読んだばかりだったからです。ブログをご覧になられた方で詳しく知りたいという時は是非購入して読んで見て戴きたいと思います。
これは山岡鉄太郎の生涯を知ることによって、人間の生き方が学べると思います。特にお子様をお持ちの方は購読されますようお勧め致します。
今日、大変便利な世の中ですが、人間の「精神失調」といもいうべき事態が散見されています。
先の民主党代表選の両氏の演説を聞いた感想が、田中秀征氏の政権ウォッチに紹介されています。いみじくも私の見解と符合しました。家内に話したと同様の内容でした。
田中氏曰く、
《大会での両氏の決意表明は、明らかに小沢氏に軍配を挙げざるを得ない。断固として決意が示され、政見も骨太で、良し悪しはともかく、真実味があった。
一方の菅氏は、情緒的、感傷的な話が多く、不快な気持ちも生じさせた。国会議員の職業を羅列するくだりは、特に、出席者にこびを売るような印象で好感が持てなかった》
私と全く同様の評価であった。ところがテレビで識者と言われる人々の評価は逆だった。識者と言われる人々に、どうしてなの、と聞いてみたいものだ。