第3087号 29.06.13(火)
王は監を啓(み)て、厥れ民を亂為(らんか)す。曰く、『胥虐げぐる無く、敬寡に至り、屬婦に至るまで、用ふるに合(あた)っては容を以てす』と。『書経』
〔通釈〕王は戒めの鑑を視て、それにより人民を教化するのである。その鑑というのは、『お互いを傷つけてはいけない、お互いにしいたげてはいけない、身よりのない者に至るまで、賤しい女に至るまで、かれらを使用するにあたっては寛容をもってする』ということである。(梓材214)
【コメント】これを書きながら西郷南洲翁のことを想像しています。菅先生に『書経・詩経』を学ぶべしと勧めた南洲翁でありましたので、私学校をはじめ多くの子弟に対する細かい愛情が感ぜられるのです。
ただ漢籍を学んだからといってその通りには行かないでありましょう。人間の大きさからくる学びと懐ろの深さの問題でもあると思います。至らない私は、『南洲翁遺訓』との出会いのお蔭で、多くの事を学ばせて戴きました。
半世紀に亘り購入してきた古典・教養書等々を繙いて学問の良さに酔いしれています。昨日もテレビの報道内容に言及しましたが、くだらない報道を観るより古典・『南洲翁遺訓』等々を学んだ方が、長い人生では、より有益だと思います。
幾ら大学を出たからといって、真剣に学んでいる人は少ないようです。そういう姿を現認した私の息子は大学を中退したのでした。
人間、人生を閉じるまではいろいろあると思います。78年間生きてきていろいろさまざまな事がありました。失礼ながら今の私みたいに真面目に勉強し続けるという人はいませんでした。
私の場合は兄弟が勉強に関心があり、導かれた一面もあります。そして人格者揃いの荘内の皆様との交流も大きな要因だと思っています。
そして学問の良さと楽しみがそこにあるということが分かったことです。ですから、私の空手道教室に来る子供たちに学びの喜びと生き甲斐を教えて上げたいと思っています。
それらを子供たちも読めるよう漢籍の名称と出てくる言葉、そして簡単な意訳をつづり、子供たちと大きな声で拝誦するのです。知的に優秀さを求めることも大事ですが、長い人生では通常言う勉強より大事なこと、いわゆる人生を生き抜く精神面の練成こそが大切だと思います。
大事なことは勉強しようと思ったことを途中であきらめ投げ出さないことです。やり続ければそれなりの成果は出てくるのです。人生というのは二度とないということです。
そしてやがて、思いが叶って成長することができたら、本件ブログの最初に紹介した王のように、人々に善意で対応して上げたいものです。
ひと月前に十八史略を読んでいたら、論語の主人公・孔子の叔父にあたる方のことに言及していました。地位と位が上るごとに、人々に対する姿勢がおだやかになり、丁寧になり、と書かれています。我々凡人も、人様に対してかくありたいものだと思います。
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『人としての生き方』(第41回)
道元禅師は、たとえ悟りを得たとしても、修行においては絶対に怠ってはいけないと言っています。
学道の人、若し悟りを得ても、今は至極と思うて行道を罷むこと勿れ。
道は無窮なり。悟りても猶、行道すべし。
これでもう良いと思って、修行をやめてはいけない。道は無窮、修行とは一生のことなんだということです。悟ったらなお修行に励めということです。絶えず未熟未熟と思って努力をすることが人間として尊い生き方であり、これこそが儒教の根本精神ではないかと思うわけです。
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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第33回)
これからの菅の大活躍は、この事件をバネにした心理的大転換、どうせ一度は死んだ身、自己を放擲した姿勢によるところが大きかったと思われます。
西郷の体験とも類似しているようです。
また、王陽明が罪をえて、死に等しい謫地に赴く途中に物した有名な「海に浮ぶ」の詩を思いだします。
険夷原胸中に滞らず
何ぞ異ならん、浮雲の大空を過ぐるに
夜 静かなり 海濤三万里
月明、錫を飛ばして天風を下る
これからの自分は生か死か、そんなことは大空を風のまにまにただよう雲のように自然にまかせ、いま月明の海上に船をだしていると、錫杖を振り翳して天から飛び降りるような気持ちだといって、すべてを脱却し、止揚した心境をうたっています。
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王は監を啓(み)て、厥れ民を亂為(らんか)す。曰く、『胥虐げぐる無く、敬寡に至り、屬婦に至るまで、用ふるに合(あた)っては容を以てす』と。『書経』
〔通釈〕王は戒めの鑑を視て、それにより人民を教化するのである。その鑑というのは、『お互いを傷つけてはいけない、お互いにしいたげてはいけない、身よりのない者に至るまで、賤しい女に至るまで、かれらを使用するにあたっては寛容をもってする』ということである。(梓材214)
【コメント】これを書きながら西郷南洲翁のことを想像しています。菅先生に『書経・詩経』を学ぶべしと勧めた南洲翁でありましたので、私学校をはじめ多くの子弟に対する細かい愛情が感ぜられるのです。
ただ漢籍を学んだからといってその通りには行かないでありましょう。人間の大きさからくる学びと懐ろの深さの問題でもあると思います。至らない私は、『南洲翁遺訓』との出会いのお蔭で、多くの事を学ばせて戴きました。
半世紀に亘り購入してきた古典・教養書等々を繙いて学問の良さに酔いしれています。昨日もテレビの報道内容に言及しましたが、くだらない報道を観るより古典・『南洲翁遺訓』等々を学んだ方が、長い人生では、より有益だと思います。
幾ら大学を出たからといって、真剣に学んでいる人は少ないようです。そういう姿を現認した私の息子は大学を中退したのでした。
人間、人生を閉じるまではいろいろあると思います。78年間生きてきていろいろさまざまな事がありました。失礼ながら今の私みたいに真面目に勉強し続けるという人はいませんでした。
私の場合は兄弟が勉強に関心があり、導かれた一面もあります。そして人格者揃いの荘内の皆様との交流も大きな要因だと思っています。
そして学問の良さと楽しみがそこにあるということが分かったことです。ですから、私の空手道教室に来る子供たちに学びの喜びと生き甲斐を教えて上げたいと思っています。
それらを子供たちも読めるよう漢籍の名称と出てくる言葉、そして簡単な意訳をつづり、子供たちと大きな声で拝誦するのです。知的に優秀さを求めることも大事ですが、長い人生では通常言う勉強より大事なこと、いわゆる人生を生き抜く精神面の練成こそが大切だと思います。
大事なことは勉強しようと思ったことを途中であきらめ投げ出さないことです。やり続ければそれなりの成果は出てくるのです。人生というのは二度とないということです。
そしてやがて、思いが叶って成長することができたら、本件ブログの最初に紹介した王のように、人々に善意で対応して上げたいものです。
ひと月前に十八史略を読んでいたら、論語の主人公・孔子の叔父にあたる方のことに言及していました。地位と位が上るごとに、人々に対する姿勢がおだやかになり、丁寧になり、と書かれています。我々凡人も、人様に対してかくありたいものだと思います。
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『人としての生き方』(第41回)
道元禅師は、たとえ悟りを得たとしても、修行においては絶対に怠ってはいけないと言っています。
学道の人、若し悟りを得ても、今は至極と思うて行道を罷むこと勿れ。
道は無窮なり。悟りても猶、行道すべし。
これでもう良いと思って、修行をやめてはいけない。道は無窮、修行とは一生のことなんだということです。悟ったらなお修行に励めということです。絶えず未熟未熟と思って努力をすることが人間として尊い生き方であり、これこそが儒教の根本精神ではないかと思うわけです。
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「死に代えた『南洲翁遺訓』」(第33回)
これからの菅の大活躍は、この事件をバネにした心理的大転換、どうせ一度は死んだ身、自己を放擲した姿勢によるところが大きかったと思われます。
西郷の体験とも類似しているようです。
また、王陽明が罪をえて、死に等しい謫地に赴く途中に物した有名な「海に浮ぶ」の詩を思いだします。
険夷原胸中に滞らず
何ぞ異ならん、浮雲の大空を過ぐるに
夜 静かなり 海濤三万里
月明、錫を飛ばして天風を下る
これからの自分は生か死か、そんなことは大空を風のまにまにただよう雲のように自然にまかせ、いま月明の海上に船をだしていると、錫杖を振り翳して天から飛び降りるような気持ちだといって、すべてを脱却し、止揚した心境をうたっています。
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