味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

伊尹、嘗て五たび湯に就き、五たび桀に就く。

2016-07-29 10:05:30 | ブログ
第2768号 28.07.29(金)
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伊尹、嘗て五たび湯に就き、五たび桀に就く。『宋名臣言行録』
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 むかしの賢人といわれた伊尹は、五たび殷の湯王のごとき明君につき、また五たび夏の桀王のごとき悪王にも仕えた。仕えるにそれぞれ守った道はその間において少しの変化もなかった。
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 【コメント】〈伊尹、五たび、湯と桀に就く〉という人間の精神性を考えさせられます。要は明君であれ悪王であれ、世の中を悪くしようとは思っていない筈です。仕える人も陰ひなたなく、世の為人の為という精神で臨めば、上手く行くと思います。
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 組織・団体の方向・目的が上手く行くためには、そこに真実・謙虚さがなければならないでしょう。過去、荘内南洲会の皆様をお迎えして飛び入り団体も交えて交流会を開催致しました。
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 ところが、飛び入り団体は、さも自分たちが企画・運営したかのような総括をしていました。それを見た円心会の師範たちが、二度とそういう団体とは交流しないという覚悟を私に申しました。
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 飛び入り団体の責任者らしき男は、俺が言えば云う事を聞く筈だ、と思い上がっていると見ました。円心会の責任者の私は、半世紀に亘り青少年教育をしているのです。中味は異なるが、まがい物団体も10件位、私を誘いにきました。私はテコでも動かなかったのです。
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 それらは動きを通じて自分の存在価値を認めさせようとしているのです。見栄を張るのです。本当はそうではいけないのです。動きを通じて、これからの人、頼ってくる人の将来のためにしなければならないのです。
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 障碍者を19人殺害した人の事件にも昨日も言及しました。どんな障碍者の人であれ、幸せになる権利を有しているのです。だから、時間はかかるが誠心誠意対応してあげなければならないのです。必ず成果は現れるのです。
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 昨夜も32歳青年氏と対応し指導しました。凡そ1時間の内に、『南洲翁遺訓』第25章、第4章、第7章、第17章と、漢詩・外甥政直に示す、子弟に示す、を一緒に拝誦しました。そして空手道型は、四方展開1番、2番、基本型1番、アーナンクーの型、セイサンの型を指導しました。
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 相手に尊厳の気持ちを抱き、名誉を与え、誠心誠意対応すれば必ず、心と心が通じるのです。そしてこういう人たちは人を怨むということをしないのです。
 19人の人を殺害した男の考え方は間違いです。人間も熟さない内に、吃驚するような刺青をいれる、そしてヒトラーの思想の云々というのは、誇大妄想です。被害者の方々がお気の毒でなりません。19人の人に与えた苦しみを加害者にも味わってほしいものです。
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 荘内南洲会の小野寺先生は、学歴能力ない私の真面目さ純粋さを買ってくださったと理解しています。従ってインチキ団体がどういう論理で来ようとも私はグラツクことはありません。まがい物は必ず自然消滅して行くのです。天が許さないからです。
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 昨晩は4歳児・カナコサマたちが見得ました。宗一郎君、礼弥君に3本組手の2番を教えました。そして枕崎の港祭りで演武をする予定の稽古を徹底して指導しました。要は上手下手の問題ではなく、如何に真剣にするかということなのです。
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 昨日の読売新聞に、大竜小学校にある西郷隆盛の銅像が掲載されました。そして子供たちに西郷さんの遺徳を教えているとのことでした。ただ、残念に思ったのは、『南洲翁遺訓』の文言がなかったことです。
 味園空手道教室では、4歳児。カナコ様をはじめ『南洲翁遺訓』第一章から暗記させているのです。長い人生では『南洲翁遺訓』を覚えさせることがより大事なのです。半世紀青少年に指導している人間としてです。

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『臥牛菅実秀』(第303回)
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 (1)金四四、二一九円五七銭一厘 県庁より御下げ米金
     米一、九四〇石斗六升
    (2)金二三、五三四円二四銭二厘 酒井忠宝手元金より指出金
    (3)金一〇、五ニ〇円 本間光美(外衛)始め有志の者の指出金
 この中の(1)が問題となった種夫食利米金である。
 金井らはこの種夫食利米を士族の開墾費に流用すべきものではなく、農民のものであるから農民に分配すべきだとして、酒田県失政に対する訴訟十四ケ条の一ケ条に取り上げたのである。

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『農士道』(第579回)
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如何に優れたる各部分----譬えばソクラテスの頭、釈迦の胸、孔子の腹、それに蘇信張儀の口舌、孫子吴子の手足と最高級部品を集めた處で、畢竟それは生きた人間とはなり得ない。それよりは部分々々一つ一つを取って之を他に比べて見れば見劣りはしても、生命の根源たる一箇の生殖細胞より自然に分化し発展して、頭となり胴体となり手となり脚となって一箇の人間になって行ったそれには生命の血が通っている。前者は部分として見れば或は優れてゐる點が多いやうに見ゆるかも知れぬが、生命力が無い。随って生長力が無い。近来奨励の多角的農業経営が若しも、全体的観念の上に立たずして、全部的観念の上に立てる可成多くの部分を集めた経営の奨励といふことに過ぎないならば、それは決して「本」の原理に立てる大和的経営とは謂い得ないものたることを反省せねばならぬであろう。
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