味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

人生まれて静かなるは、天の性なり。

2016-07-27 10:15:49 | ブログ
第2766号 28.07.27(水)
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人生まれて静かなるは、天の性なり。『礼記』
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 人間本来の性格、性情は静かな、動かないものである。
 それがものに感じて動くのは、そこに欲が働くためである。278

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 【コメント】上の解説にある「欲が働く」とありますが、その欲は悪い欲ばかりでなく、学びたい欲、人に親切にしたい欲、勤労の欲、等々建設的な欲もあると思います。
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 要は何事も人々との協調を図り善処すればいいのではないでしょうか。
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 昨日ショッキングな事件が発生しました。障碍者の人々を19人殺害した事件です。どのような人であれ、人の命を奪うということはよくないと思います。
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 私の空手道教室に入門した方も障碍者の部類に入ると思います。近くの郵便局の夫人がどんな人でも面倒をみてくれていいではありませんか、というのがきっかけでした。
 その方は今年で17年目に入り、32歳になりました。最初は拳を握ることもできず、どうして指導したらいいかと手探りでやってきました。
 今は高齢のため衰えて行く私よりか、きれいな突きをすることがあります。振り返ってみて私でないと他の人は指導はできなかったであろうと思っています。
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 数年前も特別支援学級で勉強している子供(A君)が入門してきました。どんな人でも生きる権利、学ぶ権利はあるのです。それを指導者がゆっくりと年月をかけて導いていかなければならないと考えます。
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 そういう方々は普通の子供と異なり、通常の会話ができません。そこでたまには愛の鞭も必要なのです。これは学校でいう体罰とは違うのです。
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 32歳氏の母親様に、(私も77歳だから)何時までおけいこされますかと一年位前にお尋ねしたことがあります。母親様は先生が倒れるまで預かってくださいと云われました。この青年とは、毎回喧嘩まがいの指導をしているのです。腰を落とさないため私が注意すると、ハゲツルの味園くんというものだから、そこでママゴトの喧嘩をする訳です。
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 上に書いたA君は最初は道場内を走り廻っていましたが、いまは静かに正座が出来る様になりました。A君と一緒に入門したB君は、入会金を払ったままその後おけいこには来ていません。そのB君は小学校でパンツを降ろし、女の先生に抱き付いたということを聞いたことがあります。
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 早い時期に、飴と鞭を使い分け、指導しなければならないと思うのです。テレビに出てくる教育評論家のオジサマがいう論理では子供は正常に育たないと私は思います。
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 昨日事件を引き起こした青年も、速い時期に手を打てば良かったのでしょうが、今はどうすることも出来ません。事件が発生すれば、治安を維持する警察官へ矛先を向けますが、警察の方々は、寝る間もないくらい多忙なのです。尤もたまには不良警官もいますが。これは独り警察官だけでなく、何処の会社にもいるのです。
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 上に飴と鞭と書きましたが、そういう子供にも先生になったつもりで指導をする号令をかけさせることも必要です。その出来栄えは、幼児にも劣りますが、それでもみんなが拍手をして誉めてあげることが必要なのです。
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 空手道を初めて65年、指導して半世紀、どんな子供にも親切に対応して上げたいというのが私の一貫した生き方なのです。
 一番大事なことは、相手のいいなりにならないことなのです。都知事選でも賃金をあげます、要求事項を言ってくださいと連呼しているみたいです。
 昨日は、離島の方々に消費税を皆さんは半額の5パーセントにしますと言ったとかで、大阪の橋下氏が厳しく論難していました。甘やかすということが一番の大敵なのです。
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 私が32歳の時に赴任した時の愛甲局長は、貴方みたいに死にもの狂いで仕事をする人を初めてみた、貴方は金のインチキをしないと私に言ったものです。前任が金を引き出し、飲み食いに使っていたのに辟易していたとのことでした。
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 兎に角、西郷南洲翁、菅臥牛翁に顔向けの出来ないことはしてはならないのです。小野寺先生も私の一挙手一投足を監視してくれているのです。

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『臥牛菅実秀』(第301回)
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 それに酒田県政にも相つぐ法令改正の中で旧慣を脱しきれない点や、官規に不備な点もあった。金井は行政的才能を自負していただけに、そこを鋭く追及していったものらしい。それに政府は酒田県に対して決して好意を持っていないという、彼にしてはきわめて好都合な条件があった。彼はそれを背景にして、執拗な訴訟戦術を展開していったのである。
 さて、開墾士がワッパ一件の鎮圧に出動したことは、なにか開墾団の自己防衛のために介入したような印象を残してしまったが、この騒動は開墾事業を直接の攻撃目標にしたものではなかった。ただ金井一派の訴訟戦術のなかには、開墾費用に充当した種夫食利米が取り上げられていた。

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『農士道』(第577回)
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 然し此処に深く留意すべきことは、如何に統合的経営、大和的経営といへども、そは単なる各部分の機械的寄木細工であってはならふことである。此の點に就いては、儒教の禮の教がよく之を明かにしている。
 「仁は万物を包容し育成してゆく渾然たるはたらきであるが、その仁に包容統一されてゆく各部分と全体との間の諧調を特に禮と謂う。我々の生理で言えば、五臓六腑が能く諧調を保って活動して行く場合、即ち健康は禮である。同様に性理(人格生活の理法)でいへば、諸の肉体的衝動に駆られて盲滅法に活きるのではなく、あらゆる欲求が能く良心に率って諧調を続けてゆく場合、即ち有道が禮である。国家を例に取れば、政府も人民も、資本家も労働者も、総べて各々分を盡し、力を合せて、諧調を實現する場合、即ち泰平が禮である。云々。----安岡正篤先生著東洋倫理概論二〇四頁---」
と。

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