タイトル----拙著『礼節のすすめ』より「宇都影義社長」の紹介。第495号 22.06.18(金)
『礼節のすすめ』を出版したのが平成20年9月でした。初めての出版にしては大変好評をもって迎えられました。ある鹿児島の建設会社の社長様が纏めて300部購入してくださいました。鹿児島だけで1000部程度はけるということはあまり例がないそうです。聞きつけた方々が、内容を若干でもブログに書いて欲しいということがあり、今回紹介することに致しました。
信念一徹に事業を展開する神戸自動車・宇都影義社長
志ある者は事竟(ことつい)に成るなり。(『後漢書』(ごかんじょ))
確固たる信念をもって、大いなる己の描く人生設計書をもとに忠実に建設していく者は、予期せぬ艱難に遭遇しても、遂にはその目標に到達することが出来るものである。
世の中には数多くの仕事がある訳だが、どのような仕事にしても、人間との関わ合いがあります。これらの仕事を通じて、世の為、人の為に尽くすという精神が貫き通されていれば、水が低きに流れるごとく、人々もまた良心のオアシスを求めて門を叩くでしょう。
人物論で紹介する人は、昭和十五年生まれ、六十八歳(平成二十年九月当時)の神戸自動車・宇都影義社長です。
宇都社長の父親はその昔、頴娃(現在南九州市)で鍛冶屋をしていました。子供は九人であり、影義氏は七番目でした。父親は鍛冶屋だけでは経営上も思わしくなかったので、近所の大工と組んで、荷馬車を作ることにしました。事業も順調になった頃、相手の大工が突然辞めたため、兄弟で近くの場所に工場を造り、同じ事業を始めました。
相棒を失った父は途方に暮れたが気を取り直し、今度は加世田から年配の大工を連れて来ました。ところがその大工はえらい飲兵衛であり、かつ酒癖も悪く、他人が当てにならないと思った父は、息子の影義氏に一緒にやろうと言いました。影義氏は昼は鍛冶屋の仕事をし、夜は大工の技術を習得するため夜中まで働きました。
そうしている内、時代の波は荷馬車から車へと移行しつつありました。影義氏は田舎で汗にまみれて働いていたが、都会へ行った友達は盆正月にカメラと携帯ラジオを両肩にぶら下げて帰って来ます。このままではお嫁さんを貰う事も出来ないと思った影義氏も都会へ出る事を決意しました。
丁度、神戸で姉夫婦が自動車の板金工場を経営していたので、そこを頼りました。影義氏は姉の家だと思い、少し居丈高になっていたもののそこには自分より三歳下の従業員が一人前になっていたため、影義氏は仕事をさせてもらえませんでした。影義氏は勝手に車の修理をしたが上手くいかず、その年下の従業員に仕事をしてくれと依頼しました。年下の男は「自分でした仕事は自分で最後まで責任をもってせよ」と協力してくれなかったので、腹が立った影義氏は男を裏へ連れ出しぶん殴りました。男はすぐ社長のところへ行き、会社を辞めると言い出しました。彼は社長に理由を聞かれ、影義氏から殴られた事を話しました。社長は影義氏を呼び付けて厳しく叱り、「そんな奴は出ていけ」と言いました。
影義氏が姉夫婦の家を出て、アパ-トでブラブラしている時友達が来ました。その時、友達から、「お前は学歴もないし、技術もないではないか」と、こてんぱんにやられた影義氏はむかついたが、喧嘩しても相手は大きいし勝てる見込みはないと思ってグッとして堪え、口答えもせず、無抵抗を演じました。
そこで姉の家に「また使って欲しい」とお願いに行き、社長にも懇願しました。社長は以前の事件に言及し謝れと言ったので、ぶん殴った男にも土下座して謝りました。それからは歯を食いしばって頑張り、仕事が終わってからも技術の研鑽に精出しました。その後、父の勧めもあり兄弟で仕事をするようになりましたが、お互い独身の内は良いけれど、所帯を持つと何かと上手くいかないこともあり、兄弟とは仲違いしてしまいました。
その後、鹿児島に帰って来ましたが、父に言うと心配するといけないと思い黙っていました。知人が近くで板金の仕事をしており、都会から中古車を買ってきて手を加えて販売するということもしていました。その知人が影義氏に何をしていたのかと聞いたので、車の塗装をしていたと答えたら「それなら丁度良い、一緒に連携してやろう」という事で、城南町にある小屋を貸してくれました。
新しくつくった会社では影義氏の父が社長を務めることになりました。或る日、父と営業に行き、お客様の家でお茶を戴きました。父は両手を合わせてお茶を戴き、そこの夫人が出した味噌漬けを両手で戴いてから、「おいしい、これは誰がつくったのですか」と聞きました。そして、「もう少しください」と催促もしたのです。
当時の味噌漬けは不衛生極まりないもので、漬物の中には虫も入っていたが、それを承知の上で父は催促したのです。相手の心を捉える営業活動でした。影義氏は父の営業姿勢を初めて見たのです。
彼は社長である父にいろいろ聞いてみました。父は、「俺は、お前が主人で、俺は手伝いだと思っているのだ」と言い、今度は影義氏に質問しました。
「これからの社会は、どんな人が頼りになると思うか」、 「若い人だと思います」影義氏は答えました。
「その若い人の、どんなところが信頼されると思うか」と聞かれた影義氏は答えることが出来ませんでした。
「貧しさに耐えて、諦めずに誠実に仕事をし、お客様を大事にすると同時に、良い品物を提供する人だと思う」社長である父は、このように答えたのです。
以上は、現在の神戸自動車・宇都影義社長の回顧談です。---次回に続きます。