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味園博之のブログ-文武両道「空手道と南洲翁遺訓」他古典から学ぼう

平成の今蘇る、現代版薩摩の郷中教育 
文武両道 「空手道」と『南洲翁遺訓』を紹介するブログ

礼節いろはことば「す」

2010-11-26 14:59:28 | インポート

タイトル----礼節いろはことば「す」 第668号 22.11.26(金)

 「す」 崇高に 生きる努力に 涯はなし---至楽は楽しみ無く、至誉は 『荘子』

 崇高とは、気高く偉大なこと、ということです。『荘子』は、〈至楽は楽しみ無く、至誉(しよ)は〉誉(ほま)れ無し〉、「この上もない楽しみというものは、人々がいう楽しみを超越したところにあり、最高の名誉というものは、人々が考える名誉を超越したところにある」と訓えていますが、そういう域に達したとき、崇高に生きる努力をしていると言えるでしょう。

『淮南子』は、〈疾(と)く呼ぶも百歩に聞こゆるに過ぎざれども、志の在る所は千里を逾(こ)ゆ〉、「大声で叫んでも百歩先くらいまでしか聞こえないが、超然独歩した志は千里を超えて響くし、かつ後々まで語り草となる」というのです。

 人の生涯は禍福いろいろある訳だが、人の行為が教育性、社会性があり、称賛に値することは崇高な生き方だと評価していいと思います。

 今の世相は、政治家、官僚には甘く、一般の人々には過酷極まりない部分もあるようです。そこには、権力者の人々の精神性の問題もあるでしょう。

 安岡正篤師は、《役人の仕組むことはみな虚政である》(『新編経世瑣言』)と言っていますが、事にあたる当事者は、崇高な精神性に立脚して所要の措置をして貰いたいものです。

  


拙著『礼節のすすめ』より「宇都影義社長」の紹介。

2010-06-18 16:37:15 | インポート

タイトル----拙著『礼節のすすめ』より「宇都影義社長」の紹介。第495号 22.06.18(金)

 『礼節のすすめ』を出版したのが平成20年9月でした。初めての出版にしては大変好評をもって迎えられました。ある鹿児島の建設会社の社長様が纏めて300部購入してくださいました。鹿児島だけで1000部程度はけるということはあまり例がないそうです。聞きつけた方々が、内容を若干でもブログに書いて欲しいということがあり、今回紹介することに致しました。

 信念一徹に事業を展開する神戸自動車・宇都影義社長

 志ある者は事竟(ことつい)に成るなり。(『後漢書』(ごかんじょ)

 確固たる信念をもって、大いなる己の描く人生設計書をもとに忠実に建設していく者は、予期せぬ艱難に遭遇しても、遂にはその目標に到達することが出来るものである。

 世の中には数多くの仕事がある訳だが、どのような仕事にしても、人間との関わ合いがあります。これらの仕事を通じて、世の為、人の為に尽くすという精神が貫き通されていれば、水が低きに流れるごとく、人々もまた良心のオアシスを求めて門を叩くでしょう。

 人物論で紹介する人は、昭和十五年生まれ、六十八歳(平成二十年九月当時)の神戸自動車・宇都影義社長です。

 宇都社長の父親はその昔、頴娃(現在南九州市)で鍛冶屋をしていました。子供は九人であり、影義氏は七番目でした。父親は鍛冶屋だけでは経営上も思わしくなかったので、近所の大工と組んで、荷馬車を作ることにしました。事業も順調になった頃、相手の大工が突然辞めたため、兄弟で近くの場所に工場を造り、同じ事業を始めました。

 相棒を失った父は途方に暮れたが気を取り直し、今度は加世田から年配の大工を連れて来ました。ところがその大工はえらい飲兵衛であり、かつ酒癖も悪く、他人が当てにならないと思った父は、息子の影義氏に一緒にやろうと言いました。影義氏は昼は鍛冶屋の仕事をし、夜は大工の技術を習得するため夜中まで働きました。

 そうしている内、時代の波は荷馬車から車へと移行しつつありました。影義氏は田舎で汗にまみれて働いていたが、都会へ行った友達は盆正月にカメラと携帯ラジオを両肩にぶら下げて帰って来ます。このままではお嫁さんを貰う事も出来ないと思った影義氏も都会へ出る事を決意しました。

 丁度、神戸で姉夫婦が自動車の板金工場を経営していたので、そこを頼りました。影義氏は姉の家だと思い、少し居丈高になっていたもののそこには自分より三歳下の従業員が一人前になっていたため、影義氏は仕事をさせてもらえませんでした。影義氏は勝手に車の修理をしたが上手くいかず、その年下の従業員に仕事をしてくれと依頼しました。年下の男は「自分でした仕事は自分で最後まで責任をもってせよ」と協力してくれなかったので、腹が立った影義氏は男を裏へ連れ出しぶん殴りました。男はすぐ社長のところへ行き、会社を辞めると言い出しました。彼は社長に理由を聞かれ、影義氏から殴られた事を話しました。社長は影義氏を呼び付けて厳しく叱り、「そんな奴は出ていけ」と言いました。

 影義氏が姉夫婦の家を出て、アパ-トでブラブラしている時友達が来ました。その時、友達から、「お前は学歴もないし、技術もないではないか」と、こてんぱんにやられた影義氏はむかついたが、喧嘩しても相手は大きいし勝てる見込みはないと思ってグッとして堪え、口答えもせず、無抵抗を演じました。

 そこで姉の家に「また使って欲しい」とお願いに行き、社長にも懇願しました。社長は以前の事件に言及し謝れと言ったので、ぶん殴った男にも土下座して謝りました。それからは歯を食いしばって頑張り、仕事が終わってからも技術の研鑽に精出しました。その後、父の勧めもあり兄弟で仕事をするようになりましたが、お互い独身の内は良いけれど、所帯を持つと何かと上手くいかないこともあり、兄弟とは仲違いしてしまいました。

 その後、鹿児島に帰って来ましたが、父に言うと心配するといけないと思い黙っていました。知人が近くで板金の仕事をしており、都会から中古車を買ってきて手を加えて販売するということもしていました。その知人が影義氏に何をしていたのかと聞いたので、車の塗装をしていたと答えたら「それなら丁度良い、一緒に連携してやろう」という事で、城南町にある小屋を貸してくれました。

 新しくつくった会社では影義氏の父が社長を務めることになりました。或る日、父と営業に行き、お客様の家でお茶を戴きました。父は両手を合わせてお茶を戴き、そこの夫人が出した味噌漬けを両手で戴いてから、「おいしい、これは誰がつくったのですか」と聞きました。そして、「もう少しください」と催促もしたのです。

 当時の味噌漬けは不衛生極まりないもので、漬物の中には虫も入っていたが、それを承知の上で父は催促したのです。相手の心を捉える営業活動でした。影義氏は父の営業姿勢を初めて見たのです。

 彼は社長である父にいろいろ聞いてみました。父は、「俺は、お前が主人で、俺は手伝いだと思っているのだ」と言い、今度は影義氏に質問しました。

「これからの社会は、どんな人が頼りになると思うか」、 「若い人だと思います」影義氏は答えました。

「その若い人の、どんなところが信頼されると思うか」と聞かれた影義氏は答えることが出来ませんでした。

「貧しさに耐えて、諦めずに誠実に仕事をし、お客様を大事にすると同時に、良い品物を提供する人だと思う」社長である父は、このように答えたのです。

 以上は、現在の神戸自動車・宇都影義社長の回顧談です。---次回に続きます。 


積極的な徳を行い、操正しくあるならば万事は上手くいく。『易経』

2009-12-09 16:37:16 | インポート

タイトル----積極的な徳を行い、操正しくあるならば万事はうまく行く。『易経』 第306号 21.12.9(水)

 『易経』は、「五経」の一に数えられる経典である。易はもと卜筮(ぼくぜい)に用いられたものだが、『易経』という典籍になってからは、卜筮のほか、人間処生上の指針教訓として見られるに至った。時代によって解釈にいろいろ変化はあるが、宋の程伊川(ていいせん)の易伝と朱子の本義を合した伝義本などは、その傾向が特につよい。以下、略(諸橋轍次著『中国古典名言辞典』講談社)

〈乾(けん)は、元(おお)いに亨(とお)る、貞(ただ)しきに利(よ)ろし。〉(新釈漢文大系・今井宇三郎『易経』明治書院)

 通訳「積極的に徳を積むことに努め、しかも操正しくあるならば、万事は上手く行くであろう。「乾」とは天のことであり、男であり、健であり、積極的の徳である。その徳をもっていれば、どこに行っても万事がうまくいく。すなわち「元いに亨る」のである。ただし、それには「貞」、すなわち正しい操を守ることが必要である。それが「貞しきに利ろし」である。(前掲書)参照。

〈潜竜(せんりょう)、用うる勿れ。〉(前掲書)

 通訳「将来に向けて大成をはかる人は、かねがね修身に努めるべきである。その場合、過信して急がないことである。」(前掲書)参照。

〈見竜けんりょう)田(でん)に在り、大人(たいじん)を見るに利(よ)ろし。〉(前掲書)

 通訳「学んで才能が大分備わって来たときは、自分を推薦する大人、君徳ある人に会うのがよい。」(前掲書)参照。

〈終日乾乾として、夕べに 惕若(てきじゃく)たれば、危うけれども咎なし。〉(前掲書)参照。

 通訳「一日中誠実に勤めを果たし、夕べにいたるまで、恐れ慎むだけの心があれば、たとえその地位は安全ではないにしても、落ち度でとがめられることはないであろう。」(前掲書)参照。

〈亢竜(こうりょう)悔いあり。〉(前掲書)

 通訳「最高の地位、権力に達した場合、人はしばしば敗亡の憂き目に遭遇することがある。退くことを忘れ、慎み畏れるからである。」(前掲書)参照。

 こういうことについて、『菜根譚』は言う。〈事を謝するは当に正盛の時に謝すべし。〉「地位を去る、辞める時は全盛の時にすべきである。」と。

 全盛の時に辞する、これ程難しいことはないようです。そこに人間の「欲」が介在するからです。真摯に学問を修め、修行し、自らを客観的に観察・分析し、正常な判断・対応が出来るようになりたいものです。これらは、我々庶民にも通用する、処世の要諦でもあります。

 四書五経は永年読んで来ました。『易経』の卦は難解です。大学を卒業した娘も『易経』に挑んだが、難しいと言って、途中で挫折しました。ここで紹介した文言は、過去、筆写したりして来たので、意味は理解出来るのです。ところが、『易経』の卦はわからない。分からないから面白いのです。分からないということは負けた、ということである。でも、分からなくても、損失はないから楽しく面白いのです。これがパチンコだと、負けたら損失に繋がります。そしてカリカリ来ます。さて、バチンコと難解な漢文を読むのとどちらがいいでしょう。

 意味が理解出来るようになるまで、倒れるまで学び続けたいと思っています。


学びて、真心と思いやりの道を行おう。『孟子』

2009-11-21 13:58:10 | インポート

タイトル----学びて、真心と思いやりの道を行おう。『孟子』 第261号 21.11.21(土)

〈万物皆我に備わる。身に反りて誠あらば、楽(たのしみ)、焉(これ)大なるは莫(な)し。恕を強(勉・つと)めて行う、仁を求むること焉より近きは莫し、と。〉(新釈漢文大系・内野熊一郎著『孟子』明治書院)参照。

 通訳「天地間の理法は、生まれながらに自分の本性の中に備わっている。だから、わが身を反省してみて、偽りもなく真心に欠けるところがないような境地になれば、人生これより大きな楽しみはない。また、そこまで到達していない人でも、大いに努力して思いやり(忠恕)の真心を他人に及ぼしてゆけば、やがて私心は消え公平になり、道理も弁え、仁の徳は完成されて行くものである。」(前掲書)参照。

 この章を紹介するにあたって、私ごときがと、至らぬ身を叱咤しながら書いている。思いやり(忠恕)という言葉と同時に脳裏に浮かぶのが、住友生命保険会社・新井正明元名誉会長のお顔である。

 新井元名誉会長のことは、拙著『礼節のすすめ』でも紹介した。存じ上げたのは、『古郷、心を照らす』を拝読した感想文をお送りしたのがきっかけであった。拙著で紹介している部分から引いてみよう。

〈私が、新井正明・元名誉会長へ手紙を出したのは、平成六年八月十六日でした。永年、購読していた月刊誌『致知』で紹介された新井元名誉会長が執筆された『古教、心を照らす』を購入し、拝読した後、感想文を送付したのがきっかけでした。

 それまで新井元名誉会長のことは『致知』で時折紹介されていたので、若干のことは承知していたが、著書を拝見し、その人物に魅了されたのでした。新井元名誉会長は世にノモンハン事件として知られる日本軍とソ連軍との衝突で、砲弾破片を全身に受け、右足を切断しました。事件の勃発は昭和十四年八月十一日のことでした。

 生命保険会社と言えば、お客さん獲得のため、見ず知らずの家を一軒一軒訪ね、業界用語で「飛び込み」という保険セ-ルスをしなければならない商売です。新井元名誉会長は不自由な片足にも拘わらず、同僚の自転車の荷台に乗り、飛び込みをしたとのこと。役職についてからも飛び込みを続けたという事を知り、職務に忠実な人間の心意気に感動の念を禁じ得ませんでした。そして『孟子』を年に五回読み通したという事を知った時も、蒙を啓かれた思いでした。〉(拙著『礼節のすすめ』)

 その後お会いして一流人の素晴らしさに心を打たれたのであった。伺うお話の中で、「忠恕と勇気」、「倦むことなかれ」という言葉を何回かお聞きしたのであった。

 稚拙な通訳で書いたように「やがて私心は消え公平になり、道理も弁え、仁の徳は完成されて行」ったのが新井元名誉会長の如きお方なのであろうと、お導き戴いた昔日が彷彿としてくるのである。

 人は、どいう書物と出会うか、どういう人物と出会うかが大変大事であるとは安岡正篤先生も著書に書いている。学びたいという意思があるならば、誰憚ることがあろう、勇気を持って前進することだろう、と思うのである。だがそこには、人の道としての「礼と節」の謙虚さがなければならないと思う次第である。