平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2008年9月14日 小説家小川国夫さんについて

2008年10月01日 23時11分15秒 | Weblog
   小説家小川国夫さんについて

 今年の四月に小説家の小川国夫さんが80歳で亡くなられた。小川さんは私と同じ静岡県の出身で、東大生であった1955年にバイクでイタリアやギリシアを旅行し、その時の体験を基にして書いた『アポロンの島』で日本の文壇に登場された方で、彼の文体の熱烈なファンは多かった。

 旧制静岡高校のときにカトリックの洗礼を受けられており、その作品にはキリスト者としての豊かな感性が至るところに見出される。終始郷里の藤枝に留まって執筆活動をなさったが、『逸民』(1986年)で川端康成文学賞を、『悲しみの港』(1994年)で伊藤整文学賞などを受けられた。亡くなられて一ヵ月後の今年の五月に、遺作随想集『虹よ消えるな』(講談社)が出版されたが、虚飾を削ぎ落とした澄明な文章は平易で読みやすく、私自身が育ったのと共通の風土の描写に満ちていることもあって、一気に読了させていただいた。

 その中では、私が生まれ育ち中学三年生までの日々を過ごした小さな町である浜岡についてもふれられている。浜岡は鳥取に次ぐ大砂丘で有名であるが、小川さんはその砂丘を描くために、1950年前後に友人と何回かそこに足を運ばれた。その時のスケッチを見て、友人は笑いながら、「小川君の描いた空からはキリストが現れそうだな」と言ったが、それに対して小川さんは「海からではないか。ある夜小舟が着いて、キリストがひっそりと上陸しそうな気がするが、と私は言いました」と書いておられる(78頁)。

 1950年前後と言えば私はまだ小学校二、三年生だったが、遠州灘に面したこの砂丘にはよく遊びに行っていたので、まだ町にキリスト教会ひとつなかったその頃に、小川さんのような信仰の大先輩がそこを何回も訪れて、私が泳ぎ戯れた海をキリストと関連づけておられたということに、深い感動を覚えた。西南学院大学のキリスト教強調週間の講師として大学に来てくださったときには、その文章そのままの静謐さを湛えた小川さんの謦咳(けいがい)に接することをゆるされて、私は大変嬉しく光栄に思った。

 小川さんと言えば、私にはもうひとつ別の思い出がある。小川さんが現在多くの教会で使用されるに至っている『新共同訳聖書』の日本語の監修者となるように依頼されたことは広く知られている。しかし新約聖書の多くの部分の日本語は、義理にも優れているとは言えないというのが私の持論である。

 そこで私はかつて『どう読むか、聖書』(朝日選書)を執筆したときに、その原稿に「小川国夫のような方が監修している日本語とはとても思えない」と書いたことがある。しかし朝日選書の編集委員は、「この文章だけはどうしても削ってください」と言って譲らず、それを採用してはくれなかった。それは「小川国夫」という名前のもつ重さのゆえであったことは言うまでもない。

 しかし後になって小川さんの文章からわかったことであるが、小川さんはこの監修の仕事が嫌で嫌でたまらず、聖書協会の翻訳委員が藤枝の自宅を訪れても、裏口からそっと逃げ出してしまうというようなことを繰り返されたそうである。しかし部分的にはどうしてもその仕事をなさざるを得ず、旧約聖書の一部にはしっかりと目を通されたそうである。

 その部分がどこであるのかは公表されてはいないが、その日本語は「さすが」と思わせるものだそうである。皆さん、それがどの部分であるのか、一緒にさがし出してみませんか。


青野師