平和1丁目 ~牧師室より~

福岡市南区平和にあるキリスト教の平尾バプテスト教会の週報に載せている牧師の雑感

2010年6月6日 熱狂主義ではなく霊的な熱心さ

2010年08月06日 18時04分09秒 | Weblog
   熱狂主義ではなく霊的な熱心さ

 私たちは、物事がほんとうにわかったというとき、感動したとか、鳥肌がたったとか、などの表現をする。神様がわかるというのは、それは理屈ではないだろう。神様が一番わかるのは、それは礼拝のときである。共に礼拝を捧げているその場に、神様が共におられるという臨在感を体験する、それ以上のわかるということはない。
 聖霊のお働きがそこにあり、私たちが生き生きと礼拝を捧げているのなら、その場にいる者たちは、神の臨在を感じることになるだろう。そのような礼拝をいつも捧げたいと思う。熱狂主義はどうかと思うが、霊的な熱心さがなければ伝道はできない。
 私たちの中に、いつも誰かを教会に誘いたいという思いがあるかどうか、イエス様を宣べ伝えたいという思いがあるかどうか、自問自答してみるとわかる。霊的な熱心さは、祈りにも表れる。よく言われることは、祈りは時間が長ければいいということでもない。適切な言葉で祈るかでもない。真夜中とか、早朝など、時間帯にもよらない。
 大切なことは、どれだけ真実に熱心に祈るかである。ただし、「霊的な熱心さ」と言っても、それぞれの性格もあり、表現の仕方もあるから、他人が、あの人は霊的に熱心だ、というようなレッテルは貼らないことだ。
 それは、その人がいかに冷静に見えようとも、「霊的に熱心」であるかどうかは、その人自身が一番よくわかっていることなのである。熱狂的なのではなく霊的な熱心さが教会には必要である。


平良師