晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

風呂地名の謎(4) 11/3

2016-11-03 | 地名・山名考

2016.11.3(木・祝)曇り 風呂地名の謎(3)は2016.10.24 

 風呂の語源は室(むろ)だとされている。風呂地名について意見の分かれる学者たちの間でもこれだけは意見が一致している。石風呂にしても窯風呂にしても元は室といえば誰も異は唱えないだろう。神社の森が風呂だとしている事例には事欠かないのだが、なぜそうなのかと言う説は、柳田圀男氏の例の不可解な文章しか見当たらない。この「風呂の起源」全文を読んではいないので判断のしようがないのだが、柳田氏がいったい何を言わんとしているのか計り知れないものがある。
  「神の森のフロと浴場のフロは無関係ではなかろう・・・・。荒神の独占に任せて常人の侵入を厳禁していた点からこれをフロと名付けたので唯の樹林地ではなかった。」
 ・・・・の部分をよく調べてみると次の文章のようだ。(前文は「全国地名語彙辞典・下」、後文は「風呂と日本人」による。)
「然らば神の森のフロは此(この)風呂と如何なる関係があるかと言うと、是も亦(また)荒神の独占に任せて云々」
 此のフロとは浴場のフロ(石風呂や竃風呂など初期の風呂)のことと思われる。神の森が常人の侵入を厳禁としていたのは理解できるが、石風呂や竃風呂が常人の侵入を厳禁していたというのは素直に受け取れない。「風呂と日本人」筒井功著の中でも「いまひとつ文意が明確でない。」と記しておられる。
 先程紹介した柳田國男氏の文では荒神信仰に因んで常人の侵入を厳禁していた森をフロと名付けたとしている。しかしこれでは森=風呂の説明にはならない。筒井氏は荒神は竈(かまど)の神だから窯(カマ)=風呂と主張されている。長崎県五島、宮崎県東諸県郡、鹿児島県肝属郡などでは竈のことをフロと呼んでいたそうだ。
 語源大辞典(東京堂出版)の風呂の項で、「風呂に入る習慣は、もとは仏教で、僧侶が垢を落とし、心を清めるのに始めた作法である」という一文がある。このことなら先ほどの常人の厳禁を云々という柳田氏の文も理解できる。
 しかし地名というのはその多くは庶民が必要に応じて作ったものであろうから、遠回りしてこじつけたものの信憑性は低い。
 ~袋(ふくろ)という地形地名がある。袋状の小地形をいうのだが、一方だけが開いていて三方がふさがっているいわゆる袋状のところである。池袋や沼袋も元は袋地形だそうだ。この袋は風呂に転訛するのではないかと思っている。袋棚を風呂棚と呼ぶところがいくつかある。
 神社も元は社など無く、木々に囲まれた空間であっただろうと言われている。フボー御嶽も出入り口を残して周囲を木々で囲まれている。

奥上林の神社の森は南方系の木々が多い、モリの文化の影響があるようだ。
天神社(神塚)あたりが南限か。
あるところでは石で囲まれていたり、洞であったり室であったり、さらには木で社を作ってきたのではないか。どの神社に行っても木造の社の中にさらに神を祀る社があるものだ。


拝殿は社の二重構造になっている。(木祖殿神社・綾部市)

この外側の部分が元々木であったり石であったりと考えたらどうだろう。つまり森も室も洞も社も石風呂も、竃風呂も一方だけが開かれていて三方が囲われている形状なのである。そしてそれらが円になっていれば袋である。こういう形状をフロと呼んだのではないかと密かに思っているのだが、確かなことは神社のあるところ、近隣に風呂地名が存在することである。おわり   

 

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続・市志から養老山(2) 11/1

2016-11-01 | 山・峠

2016.11.1(火)雨
 訂正峠名
 今回の山行記録を書きながら妙に違和感を感じていたことがある。「この峠与保呂峠と言ったかなあ?」ということである。ガイドブックにも地図にも与保呂峠とは記されていない、ネタを明かせば、ネット上の「あやべの峠一覧」から安易にこの峠名を使用してしまった。あらためて調べてみると、このブログでも何度も使っている峠名がある。八代峠であり、その根拠は寛政11年の丹波国大絵図である。いったい八代とはなんぞやと言うことになるのだが、与保呂の小字に矢城というのがある。峠名というのは越えていってその先にある土地の名前を付けるものである。市茅野から若狭に向かう峠が坪坂峠と言うがごときである。さすれば与保呂峠というのも間違いではなく、実際に使われていた峠名なのかもしれないが、由緒正しい八代峠をわたしは使いたい。といっても八代峠は上林側の呼び名で、与保呂側では上林峠、市志峠などと呼んでいたに違いない。 
 さて八代峠を養老山に向かって歩き始める。養老山と言うのはおそらく与保呂山の訛化 だろう。尾根道はきれいで迷うことは無い。注意するのは送電線の鉄塔をくぐるときぐらいだ。ところが途中から与保呂側にどんどん下っていくところがある。気持ちとしては稜線を忠実に辿っていると思っているので、不気味な感じがする。それでも地図を見ることもなく進んで行く。するとあるところで稜線に戻った、何かのピークを捲いたのだと思われるが、下手をするとそれが養老山かもしれない。もしそうだとするとやがて胡麻峠に飛び出すはずだ。それはそれでいいかと歩いていると養老山の標識のあるピークに辿りついた。

捲いたのは632mのピークだった。小休止の後下山にかかる。航空写真で見ると、養老山の直下に届いている林道がある。これを下れば市志から八代峠、養老山を巡る半にコースのいいルートが完成する。少し胡麻峠方面にゆくと何面すぐのところに林道が見える。ところがそこへ下る道が見つからない。やむなく矢代峠方面に少し戻ったあたりから、南に下りている切り開きを下ってみる。うまくすれば林道に出会うかなと思ったのだが、林道はそこまで来ていなかったようだ。来た道を登り返して、八代峠から下るかこの尾根をとことん下ってみるかの二つだ。工忠くんに聞くともちろん尾根を下ってみたいとのこと。幸い伐採道は続いていそうだし、地図を見れば最悪右手の沢に下りればルートがありそうだ。この尾根は養老山から南に下っている尾根で、道は登山道でもなく作業道でもなく、境界確認のために造られた切り開きのようである。そのうち緩くなると思いつつ下っていくがいつまでたっても急峻で、滑って転びながら下りていく。境界杭があり迷うことはないが、登る気はしない尾根だしエスケープルートとしても余計危険なルートである。上林トレールとしては採用しないルートと決定、案内テープは付けていない。いやと言うほど下って林道木和田(きわだ)支線に飛び出た。

これが尾根の末端だが、下ってこなければわからない。

本線とはすぐのところで、林道を20分ほど歩いてスイセンの広場に出、遅い昼食をとる。駐車場までは15分、2時までに帰宅できたので、綾部温泉で汗を流す。おわり

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