阪神淡路大震災から12年
平成7年1月17日・・
出勤するや兄の自宅(西宮)へ何度も電話をかけ続けたが、
まったくつながらない。
刻一刻と甚大な被災状況が明らかになるにつれ、
連絡がとれない不安な時間だけが過ぎてゆく。
夕方になって、やっと兄の無事を知ったが、
まわりの家屋が倒壊しているなかで、生と死の分かれ目はどこにあったのだろうか。
東京の義兄はすぐに食料や飲料水を持って西宮へ向ったが、
札幌ではどうすることもできない。
そのときのじりじりした気持ちはいまでもよく憶えている。
昨年の秋、神戸を訪ねたが、
被災のつめ跡は感じられなかった。
それは犠牲になられた方の魂が、
復興の礎になったからである。
「手稲山の晩鐘」
晩鐘とは夕方につく鐘、老いとは人生の夕方、人生の晩鐘である
平成7年1月17日・・
出勤するや兄の自宅(西宮)へ何度も電話をかけ続けたが、
まったくつながらない。
刻一刻と甚大な被災状況が明らかになるにつれ、
連絡がとれない不安な時間だけが過ぎてゆく。
夕方になって、やっと兄の無事を知ったが、
まわりの家屋が倒壊しているなかで、生と死の分かれ目はどこにあったのだろうか。
東京の義兄はすぐに食料や飲料水を持って西宮へ向ったが、
札幌ではどうすることもできない。
そのときのじりじりした気持ちはいまでもよく憶えている。
昨年の秋、神戸を訪ねたが、
被災のつめ跡は感じられなかった。
それは犠牲になられた方の魂が、
復興の礎になったからである。
「手稲山の晩鐘」
晩鐘とは夕方につく鐘、老いとは人生の夕方、人生の晩鐘である