Wikipediaからの引用です。
岳飛は国を身を挺して守ったとして英雄として祀られています。武林(武術界)でも多くの門派で始祖として崇められています。古の武術家を始祖としているのに、兵法家、孫臏の孫臏拳、秘宗拳の三国志の浪子の燕青、槍の李書文で有名な八極拳の岳飛等々あります。
127年、岳飛は25歳の時、開封流守の下で北宋の首都開封を金軍から守ることを命じられていた。流守は金に降伏するが、岳飛の戦いは評価され、1130年朝廷より通州と泰州(江蘇省長江北岸の地)を鎮撫する正式な官に任じられた。
折りしも同年11月、秦檜は金の軍から脱走し、宋に戻った。この時既に、北宋は首都を臨安(杭州)に移し、南宋となっていたが、和平派と抗戦派の争いは激しくなっていた。抗戦派は「秦檜は金の和平論者ダランとの内々の約束の下で帰国を許された」と非難していた。これが、後世に秦檜が金と密通していたと言われる原因となった。
将軍たちが国内各地の混乱を治めていた時、秦檜は1131年宰相に任命された。一方、岳飛は、1134年古来中国の南と北を結ぶ交通の要衝である湖北の襄陽(じょうよう)を奪還し、高宗は岳飛の戦いを賞賛した。
同年、彼は節度使を授けられた。32歳の若さであった。さらに、スピード出世したため、他の武将から嫉妬の眼を差し向けられるようになった。また、学問も出来、他の将軍とそりが合わなかった。
1139年正月、宰相秦檜は宋金和平交渉をまとめ、河南と陝西地方が南宋に返還され、その代わりに南宋は金に歳幣として銀25万両、絹25万匹を贈ることになった。ところが、金朝内で政変が起こり和平派のダランが殺され、和平は破綻した。
さらに、岳飛は「願わくは謀を立てて全勝を期し、黄河以北の地を収め、手に唾して燕雲(北京と山西)を回復し、仇を報じて国に報いん」と上奏し、秦檜の憎悪を買った。
和議が破れると、金軍が一斉に南下して洛陽や開封を占拠すると、南宋もまた抗戦派の将軍が応戦した。
岳飛は岳家軍を率いて北上し、洛陽を回復、開封郊外にまで及んだが、和平を模索する秦檜は南宋軍に引き上げを命じ、岳飛も1140年、武昌に引き返した。その時、岳飛は「我が10年の努力は1日にして廃された」と嘆いた。
秦檜は和平を実現するために抗戦派の力を削がねばならないと考え、節度使の軍事力を削減させる策をとることにした。つまり、将軍を高官に転任される交換として、彼らの私兵を国家に没収していった。しぶる将軍に対しては、賄賂を使った買収もあった。清廉な岳飛が買収に利かないとみると、秦檜は岳飛と息子の岳雲に根拠のない罪を着せ、投獄した。そして、妻の進言に従い、1141年12月に処刑してしまう。岳飛は39歳で、岳雲は23歳であった。そして、翌年、金との第二次の和議が成立したのだった。
その後、岳飛の冤罪が証明され。杭州の西湖のほとりには岳王廟が建立された。岳王廟の岳飛と岳雲父子の墓の前には、彼らを陥れた秦檜夫婦が縄でつながれた形で正座させられ、頭を垂れている石像が並べられている。中国人観光客には、その石像に向かって唾をかける者もいる。国賊というわけである。
その岳飛で有名なのは背に母親によって彫られたとされる黥(入れ墨)「尽(精)忠報国」の4文字があったという。
いくら英雄が孤軍奮闘しても周りが「馬鹿」「私欲の徒」だと国を亡ぼす原因になりますね。今の日本は安倍からして馬鹿ですけど。いつか英雄が出ないですかね?。
因みに前回射鵰英雄伝の「郭靖」を「郭青」としましたが「郭靖」の間違えでした。「靖康の恥を忘れるな」から全真教の丘処機が字を取って命名したものでした。慎んでお詫び申し上げます。
金は徽宗・欽宗以下の皇族と官僚など、数千人を捕らえて北方へ連行した(この出来事を「二帝北行」という)。彼らはそこで悲惨な自活の虜囚生活を送り、異郷の地に骨を埋めることとなったのである。熱い鉄板の上を歩かされ飛び跳ねたという話もあります。靖康というのは南宋のその時の年号です。飛んだり跳ねたりするのを金の者たちが腹を抱えて笑ったとあります。
また、同じくこの事件で宋室の皇女たち(4歳から28歳)全員が連行され、金の皇帝・皇族・将兵らの妻妾にされるか、官設、妓楼「洗衣院」に入れられて娼婦にさせられた。今では考えられない事ですね。
秦檜は頭が良かったのかも知れないが、兎角「箱物」から出ないで政治を語ると、とんでもない結果が待ち受けるということです。
南宋はチンギスカンに滅ぼされ、モンゴル族の支配に下ることになる。元の時代に、岳飛は異民族の金と戦ったとして語り継がれ、歴史上の英雄と呼ばれるようになる。