針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

李白の蜀道難

2024-09-08 11:03:07 | 漢詩・古典・エトセトラ

テレビで「空旅 中国、英雄がかけた道」という番組があったので早速、録画をしました。諸葛亮孔明が、宿敵曹操を討たんが為に漢中攻略を目的に出兵するのですが、今だから簡単?に「パンダ」なんか見に行けますが、馬と船しか交通の手段しかない三国時代。それも蜀という辺鄙な国から漢中に出て行くのにただでさえ大変なのに森林の中の細い道大剣山。小剣山蜀の桟道を通って行くのによくもまあ軍馬が通れたものだね。本当に此処を通って漢中迄行ったのかね?。

その大変さに後の唐の詩人「李白」が「蜀道難」で詠っています。  

蜀道難 李白 (しょくどうなん) 

噫吁戲危乎高哉  蜀道之難難於上青天  (ああ)危いかな高い哉かな蜀道の難(かた)きは青天(せいてん)に上(のぼ)るよりも難(かた)し
ああ、なんと危ういことよ険しいことよ。蜀道の険しさといったら、晴天に登るよりも大変なほどだ。

蠶叢及魚鳧  開國何茫然  さんそう)と魚鳧(ぎょふ)と国を開くこと 何(なん)ぞ茫然(ぼうぜん)たる
蚕叢(さんそう)と魚鳧(ぎょふ)が開国した頃のことは今では知りようもなく、それ以来四万八千年の月日が流れているが、境を接する秦国と人の行き来はなかった。
爾來四萬八千歲  不與秦塞通人煙 西當太白有鳥道  可以橫絕峨眉巔じらい)四萬八千歳(しまんはっせんさい)(しんさい)と人煙(じんえん)を通(つう)ぜ
西のかた太白(たいはく)に当(あた)りて鳥道(ちょうどう)有(あ)り

西方の太白には鳥の通う道があるが、それも峨眉山の頂には達していない。

地崩山摧壯士死  然後天梯石棧方鉤連 地崩(ちくず)れ山摧(やまくだ)けて壯士死(そうしし)し、然(しか)る後(のち)に天梯(てんてい) 石棧(せきさん) 方(まさ)に鉤連(こうれん)す 
地が崩れて山がくだけ、ここを通る多くの壮士が死んだ。そんなことがあってから天に登る梯子と吊り橋がかけられたのだ。
 
       

                       太白山         

          この細い林道に於いても牛馬が楽に通れるように石畳みになっています。                    

                                            

蜀の兵も行軍が大変だったけど後、魏に平定される時。魏の兵隊もさぞ大変だったろうね。よくもまあ、造ったもんです。

                                             

しかし孔明という人物は当時奇門遁甲に優れ、兵法に優れ、はたや土木にも優れてその時代に名を馳せたのがわかりますね。ただ残念なのは司馬 徽曰く「蛟龍天に昇らんと欲すれども惜しむらくはその時を得ず」です。

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狡兎死して走狗烹らる

2024-05-23 18:42:55 | 漢詩・古典・エトセトラ
「狡兎死して走狗烹らる」。「狡兎死して走狗煮らる」とも言います。『史記・越世家』に「飛鳥尽きて良弓蔵められ、狡兎死して走狗烹らる(鳥がいなくなれば良い弓も捨てられ、兎が死ねば猟犬も煮て食われる)」とあるのに基づきます。

「狡兎」とは、すばしっこい兎。「走狗」とは、猟犬の事です。兎を捕まえる猟犬も、兎が死んでいなくなれば用無しになり、煮て食われることから、価値があるときは大事にされ、なくなれば簡単に捨てられることをいう。事が成って、国が安定しだすと、忠臣が幅を利かせて、勢力が大きくなってくると君主の地位を犯してくると当然不安になってきますね。

そうなってくると、左遷とかの問題ではなくなって、あらぬ罪を着せて楼に入れるとか処刑してしまいます。「敵国が滅びると、軍事に尽くした功臣であっても不要になって殺される」現状を比喩するために用いられた。なお、もともとあった能力がなくなったために、切り捨てられるという意味で使うのは少し意味が違います。

例を挙げると ①「越王勾践を助け、呉王夫差を破った氾践は、自分が伍子胥の二の舞になると悟り、同僚だった大夫の種に手紙を送り、君も越にいては危険だから勾践の元を去ったほうがよいとすすめたときに言った。

②秦の蒙恬(もうてん)が始皇帝の死後李斯と趙高によって謀反人扱いされて一族誅殺(ちゅうさつ)されてしまった。

③ その李斯も暗愚な皇帝「胡亥」に諫言するのを恐れ疎まれて趙高に疑い、でっちあげを仕組まれてこれも一族が殺されてしまいました。

④ これが針外しが一番当てはまっていると思う漢の「国士無双・韓信」です。高祖・劉邦の死後,太后の呂雉(りょち)に韓信の勢力が余りにも大きくなってきたので邪魔になり罪をでっちあげられて「車引き」の刑にされてしまいました。この時、幕僚の かい通(かいとう)が韓信に進言します。「狡兎死して走狗烹らる」と言います。と注意を促すのですが、何故か韓信は聞く耳を持ちませんでした。その後、呂雉(ろち)に殺されてしまいます。

これは日本でもあります。
➄蘇我石川麻呂日本乙巳の変の実行犯であるが、首謀者である天智天皇に叛意ありと称され一族自害

藤原泰衡日本源頼朝に圧迫されて源義経を討伐するも、結局は自身も頼朝に討たれてしまう。

福島正則日本江戸幕府成立後は武家諸法度違反を言いがかりのような形ででっち上げられ改易。

とまあ、話が長くなるのでこの辺りで。忠義もいいですけど、得てして、一生懸命尽くしても結果が悪い方向になることが多いので注意しましょうね。

 
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公孫鞅 衛鞅(えいおう)商 鞅

2024-04-19 22:45:18 | 漢詩・古典・エトセトラ

商 鞅(しょう おう 紀元前390年~紀元前338年)は、中國戦国時代の秦国の治家・将軍・法家であり兵家です

姓は姫、氏は公孫。名は鞅、また、衛の公孫系の為衛鞅(えいおう)とも言います。なお商鞅とは、後に秦の商・於に封じられたため商君鞅という意味の尊称です。法家思想を基に秦の国政改革を進め、後の秦の天下統一の礎を築いたが、性急な改革から自身は周囲の恨みを買い、逃亡・挙兵するも秦軍に攻められ戦死しました。

彼は衛の公族出身で、魏の恵王【在位:紀元前370年~紀元前335年)の宰相・こ公叔座の食客となり、中庶子に任ぜられます。

公叔痤は死去する際に、恵王に後継の宰相として公孫鞅を推挙した。しかし恵王はこれを受け入れず、公叔痤はこれを見て「公孫鞅を用いることをお聞き入れくださらないならば、私はやはり臣下よりも主君を優先せねばならぬから(鞅が他国に行けば強敵となるため)お前を殺すように進言した。お前はすぐに逃げた方がよい」と述べたが、公孫鞅は「私を用いよというあなたの言葉を王が採用出来ないならば、私を殺せというあなたの言葉も王が採用するはずがありません」と述べて、かえって逃亡しなかった。公孫鞅の考えどおり、恵王は公叔痤が耄碌(もうろく)してこんな事を言っているのであろうと思い、これを聴かずに公孫鞅を登用も誅殺もしなかった。

                  

公孫鞅は魏を出て秦に入国し、宦官の景監を頼って秦の若き君主孝公に面会する事が出来た。公孫鞅は自分の弁舌が発揮するのはここぞとばかりに孝公に向かって熱弁した。最初に会った時はまず最高の為政者である帝の道を説いた。しかし、孝公は退屈そうにして途中で居眠りしてしまった。次に会った時は一つ程度を下げて王の道を説いた。しかし、この時の孝公の反応は変わらず、三度目に会った時にさらに程度を下げて覇の道を説いた。そうすると孝公は熱心に聞き入り、無意識の内に公孫鞅ににじり寄るほどにこの話を気に入った。

孝公の信任を受けた公孫鞅は国法を変えようとしたが、孝公は批判を恐れて躊躇した。これに対して公孫鞅は疑行は名なく、疑事は功なしと述べて孝公を励ました。「疑」は確信を欠いたあやふやな気持ちをいう。なにごとであれ、やるからには自信を持って断行しなくてはいけない。あやふやな気持ちでやったのでは、成功もおぼつかなければ名誉も得られないという意味。この言葉は後世にて故事成語となった。

しかしなお甘竜(かんりゅう、かんりょう)・杜摯(とし)といった者たちが「法は慣習となり人民も役人も馴染んでおり、法を変えずとも臣民を従わせるのは徳によってなされるべきです。道具は利が十倍なければ変えぬもの。法ともなれば百倍なければ」と旧制を変えるべきではないと述べたが、公孫鞅はこれを「夏・殷・周はいずれも異なる法で王となり、五覇の法も異なります。古来より賢者が法を定め、愚者はただそれに従うものです。国に利無くば慣習に従う必要はありません。殷の湯王・周の武王は慣習に従わず王者となり、夏の桀・殷の紂王は変えず滅びました。法とは慣習に従うから良い、反するから悪いとするものではありません」と論破し、孝公も公孫鞅の言を由とした。

商鞅変法 墾草の令 、紀元前359年第一次変法  紀元前356年、孝公は公孫鞅を左庶長に任じ、変法(へんぽう)と呼ばれる国政改革を断行する。これは第一次変法と呼ばれる。主な内容は以下の通り。

  • 戸籍を設け、民衆を五戸(伍)、または十戸(什)で一組に分ける。この中で互いに監視、告発する事を義務付け、もし罪を犯した者がいて訴え出ない場合は什伍全てが連座して罰せられる。逆に訴え出た場合は戦争で敵の首を取ったのと同じ功績になる。
  • 一つの家に二人以上の成人男子がいながら分家しない者は、賦税が倍加させられる。
  • 戦争での功績には爵位を以て報いる。私闘をなすものは、その程度に応じて課刑させられる。
  • 男子は農業、女子は紡績などの家庭内手工業に励み、成績がよい者は税が免除される。商業をする者、怠けて貧乏になった者は奴隷の身分に落とす。
  • 遠縁の宗室や貴族といえども、戦功のない者はその爵位を降下する。
  • 法令を社会規範の要点とする。

まず、民衆に法をしっかりと執行することを信用させるために、三丈もの長さの木を都である雍の南門に植え、この木を北門に移せば十金を与えようと布告した。しかし、民衆はこれを怪しんで、木を移そうとしなかった。そこで、賞金を五十金にした。すると、ある人物が木を北門に移したので、公孫鞅は布告通りに、この人物に五十金を与えた。こういったことで、まずは変法への信頼を得ることができた。

しかし、最初は新法も成果が上がらず、民衆からも不満の声が揚がったが公孫鞅は意に介さなかった。公孫鞅は法がきちんと守られていないと考えた。孝公13年(紀元前349年、太子の嬴駟(後の恵文王)の傳である公孫虔(こうそんけん)が法を破ったのでこれを処罰する事を孝公に願い出た。公子虔を鼻削ぎの刑に処し、また教育係の公孫賈を額への黥刑に処し、さらにもう一人の太子侍従の祝權(しゅくけん)を死刑に処した。このために公子虔・公孫賈の両人は恥じて外出しなくなり、公孫鞅を憎悪したという。この後は全ての人が法を守った。

そうすると法の効能が出始め、10年もすると田畑は見事に開墾され、兵士は精強になり、人民の暮らしは豊かになり、道に物が落ちててもこれを自分の物にしようとする者はいなくなった。秦の民衆には、はじめ不満を漏らしていたのに手のひらを返して賞賛の声を揚げる者もあったが、公孫鞅はそのような者も「世を乱す輩」として、容赦なく辺境の地へ流した。これにより、法に口出しする者はいなくなり「変法」は成功を収める。

第二次変法   紀元前354年、元里の戦い紀元前353年の佳陵の戦いで魏が斉に大敗すると、紀元前352年には変法で蓄えられた力を使い秦は魏に侵攻し、城市を奪った(安邑・固陽の戦い)。同年、この功績で公孫鞅は大良造に任命された。

紀元前350年秦は雍から咸陽(かんよう)へ遷都した。この年に公孫鞅はさらに変法を行い、法家思想による君主独裁権の確立を狙った。今回の主な内容は以下の通り。

  • 父子兄弟が一つの家に住むことを禁じる。
  • 全国の集落を県に分け、それぞれに令(長官)、丞(補佐)を置き、中央集権化を徹底する。
  • 井田を廃し田地の区画整理を行う。
  • 度量衡の統一。

秦では父子兄弟が一つの家に住んでいたが、中原諸国から見るとこれは野蛮な風習とされていた。一番目の法は野蛮な風習を改めると共に、第一次変法で分家を推奨したのと同じく戸数を増やし、旧地にとどまりづらくして未開地を開拓するよう促す意味があったと思われる。二度の変法によって秦はますます強大になった。

紀元前341年の馬陵の戦いで斉の孫臏(そんぴん)(孫子の兵法はこの孫臏だとする説があります。この臏は足切りという意味も。)によって魏の龐涓(ほうけん)が敗死すると、紀元前340年には魏へ侵攻し、自ら兵を率いて討伐した(呉城の戦い)。またかつて親友であった魏の総大将である公子卬(こうしごう)を欺いて招き、これを捕虜にして魏軍を打ち破り黄河以西の土地を奪った。危険を感じた魏は首都を安邑(現在の山西省運城市夏県)から東の大梁(現在の河南省開封市)に遷都し、恵王は「あの時の公叔痤の言葉に従わなかったために、このような事になってしまった…」と大いに悔やんだという。この功績により公孫鞅は商・於という土地の15邑に封ぜられた。これより商鞅と呼ばれることになります。

比類なき功績で得意の絶頂であった商鞅だが、強引に変法を断行した事により太子の傅を初めとして商鞅を恨む人間を大量に作っていた。彼らの多くは旧来の貴族であり、変法によって君主の独裁権が確立されると彼らの権限が削られていくので商鞅を恨んでいた。商鞅の腹心であった趙良は主人の身を案じて「あなた様は今すぐ宰相を辞し、他国に赴くことをお勧めします」と厳重に忠告した。だが商鞅は「趙良よ、私の身を案じるのは有難いが、私はまだまだやることがたくさんあるのだ」とこれを退けたという。これを聞いた趙良は禍を恐れて他国に逃亡したという。

紀元前338年、孝公が死去し、太子駟が即位し、恵文王(この時点では恵文君)となった。この時にかねてより商鞅に恨みを持つ新王の後見役の公子虔・公孫賈ら反商鞅派は讒訴し、商鞅に謀反の罪を着せようとした。恵文王も太子時代に自分を罰しようとした商鞅に恨みを持っていたので、危機を悟った商鞅は慌てて都から逃亡し、途中で宿に泊まろうとしたが、宿の亭主は商鞅である事を知らず、「商鞅さまの厳命により、旅券を持たないお方はお泊めてしてはいけない法律という事になっております」とあっさり断られた。商鞅は「法を為すの弊、一にここに至るか」(ああ、法律を作り徹底させた弊害が、こんな結果をもたらすとは…)と長嘆息し、いったん魏に逃げるが、公子卬を騙した事を忘れていない魏は、軍を発し即座に国内から追放した。仕方なく商鞅は封地の商で兵を集めたが、秦の討伐軍に攻められて戦死した。恵文王の厳命でその遺骸はで見せしめとして車裂きの刑(くるまさき)に処せられ、身体は引き裂かれて曝しものとなった。

秦はそれまでは内陸奥地の起源を持ち、中国中央とはやや異なった風習でもあり、野蛮国と見なされてきた。しかし彼によってそういった面は改革され、さらに魏に勝ったことで強国として一目置かれることとなった。

また、恵文王以降の秦の歴代君主は商鞅が死んだ後も商鞅の法を残した。商鞅より半世紀前、呉起(ごき・孫氏、呉氏の兵法もとしてゆうめいですね)商鞅のように厳しい法を残したが、そちらは呉起の死後に廃止されている。このため王と法の元にひとまとまりとなった秦は、門閥の影響が強く纏まっていなかった楚などを着実に破っていく。最終的に秦が戦国時代を統一できたのは、商鞅の法があったためと言っても過言ではない。商鞅の言の通り「旧習に従わず王者となり、変えなかったものは滅んだ」のである。

現代では政治家および法律学者(法家)としての評価が高いが、戦国時代には稀代の将軍・軍事思想家(兵家)としても敬服されていた。『荀子』「議兵篇」において、荀子は、戦国時代の名将として商鞅(原文では衛鞅)を田単ら他二人と共に上げている(ただし、荀子自身は商鞅等四人を小手先の兵法に通じた者として批判し、春秋時代の覇者や、古代の王者よりは下としている)。商鞅の軍事思想を記録したものとして、『漢書』「芸文志」は『公孫鞅』二十七篇を記載しているが、後に散逸した。

なお、伝説的ではあるが、蘇秦(そしん)はその弁舌を生かす活動を始めた際、まず周を訪れたが相手にされず、次に秦を訪れた。彼は恵王に「軍事教練を強化すれば、帝と称することが出来るようになる」と説いたという。しかし王はこれを拒否した。その理由の一つが商鞅を処刑した後であり、弁舌の士を嫌ったのだという。蘇秦はその後合従(がっしょう)の連盟を作ることに成功し、そのため蘇秦は15年にわたって国外に出られなかった。

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戦国、趙の丞相 郭開

2024-04-05 12:10:03 | 漢詩・古典・エトセトラ

 紀元前229年、秦王政(後の始皇帝)は天下統一のため、趙に対して王翦(おうせん)を将とした軍を送った。趙の幽繆王(ゆうみょうおう)は当時の趙の名将であった李牧司馬尚(司馬印の父)に防衛させた。秦軍は李牧のために何度も敗れており、今回も李牧の善戦のために苦しんだ。

秦は李牧と司馬尚を排除するため、郭開に大金を送って幽繆王との離間を依頼した。郭開は王に「李牧らは謀反を企んでいる」と讒言する。王も実は先代から功名の高い李牧を恐れていたため、この讒言を真に受けて李牧らを更迭しようとした。しかし、李牧は王命に応じず、司馬尚は身の危険を感じて逃亡して、解任された。王は李牧を捕らえて、これを処刑して葬り去った。

翌年、趙は秦に邯鄲を攻められて滅亡し、幽繆王は捕らえられた。郭開の末路は史書に記載がなく不明である。郭開という奸臣によって廉頗と李牧という名将が葬り去られた結果、趙は滅亡の道を歩んだと言える訳ですね。

郭 開は趙が秦に併合された後、秦王、政に功績を主張して除名を嘆願したが、私腹を肥やしていた事が秦王にばれていて、釜茹での刑に処せられたとなっています。
始皇帝は最初から郭 開を相手にしていなくて、葬り去ろうとしていたという事です。良くに目が眩むとろくな事がありませんね。

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趙高

2024-03-30 21:29:37 | 漢詩・古典・エトセトラ

趙高

趙 高(ちょう こう)、(? - 紀元前207年)は、秦の政治家。弟に趙成。趙高は隣国の趙の遠縁の公族として生まれるも、幼少時に母親が罪を犯した。この時、趙高が宮刑(腐刑)に処されており、のち秦に宦官として仕えたという説が知られるが、これには疑問が残されています。実際に趙高が始皇帝にいつから仕えたのかは、『史記』秦始皇本紀に一切記されておらず、不明である。勤勉で法律に詳しいことから、始皇帝の末子の胡亥のお守役を拝命した。その後は晩年期の始皇帝にその才能を寵愛されることになり、始皇帝の身辺の雑務を全てこなした。これが後になって秦を滅ぼす原因になったのを誰として予想出来なかったですね。

皇帝の操り手

始皇帝の五度目の行幸にも参加するが、始皇帝が行幸中に病死すると、丞相の李斯を強引に抱き込み、その遺言を書き換えて、太子の扶蘇を自決に追い詰め、末子の胡亥を即位させる。沙丘の変と言います。

この時、遺言には扶蘇が葬儀を取り仕切るよう記されていた。すなわち実質上の後継指名である。これもあり、即位することを胡亥は躊躇ったが、その説得の際に趙高が放った口癖の決まり文句

断じて行えば鬼神もこれを避く」である。

そして、自ら郎中令(九卿の一つ)。宮門をつかさどる)に就任し、胡亥を丸め込み、宮中に籠らせて贅沢三昧の生活をさせ、自らは代わって政務を取り仕切って実権を握った。胡亥の傀儡(かいらい)ぶりは著しく、丞相李斯ですら趙高の仲介なくしては胡亥に奏上も適わなかった。

政策は基本的には始皇帝の方針を引き継いだが、皇帝の権威、即ち自らの権威を高めることに腐心し、阿房宮の大規模な増築を進め、人民に過重な労役を課す。

また、蒙恬(もうてん)と秦の公子将閭(しょうりょ)や2人の弟たち・公子高など有力者や敵対者を悉く冤罪で処刑した。これにより悪臣などが増え、政治に対する不平不満は増大、始皇帝在位時は豊富であった人材も枯渇することとなり、恐怖政治を敷いたことと合わせて趙高は大いに人民から恨みを買うことになった。

秦帝国の滅亡と趙高の最期

天下に満ちた怨嗟は、陳勝・呉広の乱の挙兵をきっかけに、枯野へ火を放ったように一気に全土での反乱として現れた。事態を憂慮し、対策と改革が必要と考えた李斯と、現状保持に拘る趙高は対立を深め、ついに趙高は胡亥に讒言して、李斯を腰斬で処刑させ、自分が後任の丞相となった。その間にも反乱は広がり、主力軍でもある名将,章邯(しょうかん)が項羽に敗れた際も、趙高は増援を送るどころか敗戦の責任をなすりつけようとしたため、章邯は項羽率いる楚に20万の兵と共に降伏し、秦帝国の崩壊は決定的となった。しかし、項羽の群には兵糧が乏しく結果、二十余万の兵を谷底に駐屯させて一気に穴埋めにしてしまった。以前,章邯も同じような事をしたのでその報いを受けてしまったんですね。

その間も胡亥は何も知らされていなかったが、都である咸陽(かんよう)のすぐ近くにまで劉邦の軍勢が迫ると趙高はさすがに隠し切れぬと思い、胡亥を弑する計画を練った。この際に群臣が自分のいうことを聞くかどうかで、ある事を試みた。

趙高が宮中に「珍しい馬がおります」と鹿を連れてきた。 胡亥は「丞相はどうかしたのか、これは鹿ではないか」と言ったが、「これは馬です。君らはどう思うか?」と黙り込む群臣に聞いた。趙高の権勢を恐れる者は馬と言い、屈しない者は鹿と言った。趙高はその場はちょっとした余興ということで納めたが、後日、鹿だと答えた官吏を、軒並み捕らえて処刑した。

このエピソードが「鹿」の由来の一説である故事成語『指鹿為馬・鹿を指して馬となす』である。

二世3年(紀元前207年)8月、趙高は反対者を粛清したのち、謀反して胡亥を弑逆した。これを望夷宮の変と言います。趙高は胡亥の死体から玉璽を奪って身に帯びて、秦の帝位(もしくは王位)につこうとしたが、側近や宮中百官は趙高に従わなかった。趙高は殿上に登ろうとしたが、宮殿は三度も崩壊しようとした。趙高は天が自分に味方せず、自分が支配者になることを秦の群臣が許さないことを理解した。この時、劉邦軍と密かに内通を画策していたが、劉邦からは全く相手にされていなかった。どこまで汚い奴なんだ。

同年9月、胡亥の後継として、人望の厚い子嬰(しえい)に玉璽を授けて秦王として即位させ、全てを胡亥のせいにすることで自身への非難をかわそうとする。だが、趙高は彼を憎悪する子嬰と韓談(かんだん)らによって、子嬰の屋敷に呼び出されて殺害され、一族も皆殺しにされた。

趙高の死より、秦国内は大いに士気が高まったが、時既に遅く、既に関中へ劉邦軍が入っており、咸陽の目前に迫っていた。子嬰は観念して降伏し、ついに秦は滅亡した。始皇帝も全国統一を成し遂げたのは良かったが、一番かわいがっていた胡亥が大馬鹿ときていて趙高は自分の懐ばかり肥やしてばかり。こんなんじゃ滅亡は最初から決まっていたようなものだ。

始皇帝が苦労して築き上げた秦の国家でしたが、皮肉にも一番目を掛けていた胡亥に台無しにされたしまった訳です。

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胡亥

2024-03-28 15:43:48 | 漢詩・古典・エトセトラ

胡亥(こがい)は、秦朝の第2代皇帝。帝号は二世皇帝。現代中国語では秦二世とも称され、姓は(えい)、氏は(ちょう)。始皇帝の末子であり、始皇帝から寵愛を受けていた。胡亥の年齢は、『史記』始皇本紀では、二世元年(紀元前209年)の皇帝即位の年に21歳であり、始皇17年(紀元前230年)生とするが、『史記』始皇本紀に附された『秦記』では同年12歳であり、始皇26年(紀元前221年)生とされています。

始皇帝には二十数人男子がいたとされるが、また、姚氏は隠士が遺した章邯(しょうかん)の書物にある「李斯は17人の兄を廃(殺して)して、(胡亥)を二世皇帝として、今の王として擁立した」とする記録があるから、始皇帝の18番目の男子であると推測します。

始皇37年(紀元前210年)10月、父の始皇帝が5回目の巡幸に出た際、左丞相の李斯は始皇帝がお供となり、右丞相の馮去疾(ひょうきょしつ)が留守を任された時、胡亥は巡幸のお供となることを願い、始皇帝に許され、巡幸に同行することになった。

巡幸中に始皇帝は発病し、ますます病は重くなった(始皇帝は長寿の薬として水銀を服用していた)。そこで、胡亥の長兄にあたる公子の扶蘇へ、皇帝の印を捺した「(始皇帝の)喪を(秦の都である)咸陽(かんよう)で迎えて、葬儀を行え」という内容の文書を作り、与えることにした。皇帝の印が捺された文書は封印がされ、中車府の令(長官)であり、符璽(皇帝の印)を扱う事務を行う趙高のところにあり、まだ、使者には授けられていなかった。

同年7月、始皇帝は巡幸中に、沙丘の平台宮で崩御した。左丞相の李斯はこの知らせを秘密裏にし、すぐには発表しなかった。同時に宦官の趙高は胡亥にこの事を伝え「扶蘇様が即位すれば、他の公子にはわずかな土地も与えられません」と告げた。胡亥は「父が決めた事に、私が何を口を挟むことがあろうか」と答えたが、趙高はさらに帝位の簒奪(さんだつ)を促し、「殷の湯王や周の文王は主(夏の桀王(けつおう)・殷の紂王(ちゅうおう)を誅し、天下の人々は殷の湯王や周の文王の義を称えました。小事に拘って大事を蔑ろにすれば、後に害が及ぶものです。ためらえば必ず後悔することになります」と述べた 。度重なる訴えについに胡亥は趙高の謀略に同意し、その後趙高は宰相の李斯をも説得し、謀略に引き入れた。3人は始皇帝の詔を偽って胡亥自身は皇太子に即位し、長男の扶蘇と将軍の蒙恬には使者を送り、始皇帝の筆と偽って多数の罪状を記した書状を渡して、両名に死を賜った。

書状を受け取った扶蘇はすぐに自殺したが、蒙恬はこれを疑って再度の勅命を要求した。胡亥は蒙恬を許すことを望んだが、趙高はかつて蒙恬の弟である蒙毅が、自身を法に基づいて死罪にしようとしていたことを恨んでいたため「先帝(始皇帝)は長らく優れていた胡亥様をこそ、太子に立てようと望んでおられました。しかしこれに蒙毅が反対していたため、実現に至らなかったのです。これは不忠にして、主君を惑わすものです。誅殺するに越したことはありません」と唆した。胡亥はこれを聞くと蒙恬・蒙毅を投獄した。胡亥が咸陽に着くと、始皇帝の死を発表し、太子である胡亥は即位し、二世皇帝となった。

蒙恬・蒙毅の処刑

同年9月、始皇帝を驪山(りざん)に葬った。胡亥は始皇帝の後宮の女官らを、全て始皇帝に殉死させた。また始皇帝の棺をすでに埋めた後で、「工匠たちは(始皇帝の墓の)機械をつくったので、全員が埋蔵されたものを知っています。埋蔵されたものは貴重であり、埋蔵したものが外に漏れたら、大ごとになります」という進言を受けて、墓の中門と外門を閉めて、埋蔵に従事した工匠たちを全て閉じ込めて、二度と出られないようにした。さらに、墓の上に草や木を植え、山のように見せかけた。

胡亥は趙高を側近として信任した。趙高は、蒙恬兄弟を中傷して、その罪過を探し、弾劾した。胡亥の兄 である子嬰(しえい)は、蒙恬兄弟をいたずらに処罰することを諫めたが、胡亥は聞き入れなかった。

また、時期は不明ながらこの頃、胡亥は趙高を召して「私は耳目に心地よいものや心から楽しいと思うものを全て極めつくした上で、宗廟を安んじて、天下万人を楽にして、長く天下を保ち、天寿を終えたいと望んでいる。このようなことを可能にする手立てはあろうか?」と尋ねた。趙高は「法を厳しく、刑罰を過酷にして、一族を連座させ、大臣を滅ぼし、(胡亥の)親族を遠ざけて、陛下(胡亥)が新しく取り立てたものをお側に置けば、枕を高くして楽しみを得らえるでしょう」と答えた。胡亥は同意して、法律を改めて、群臣や公子に罪あるものがいれば、趙高に引き渡して、糾問させた

胡亥は蒙毅に使者を遣わして「先主(始皇帝)は、(胡亥を)太子に立てようとしたのに、卿は反対した。丞相(李斯)は、卿が不忠であるとみなしている。罪は、宗族に及ぶほどであるが、朕(胡亥)は忍びないので、卿に死を賜う(自殺すれば、罪は宗族に及ばないという意味)」と言い渡した。蒙毅は弁明の機会を要求したが、使者はこの言葉に耳を傾けず蒙毅を殺害した。続いて、胡亥は蒙毅の兄の蒙恬にも使者を遣わし、蒙毅の罪を糾弾した。蒙恬は胡亥への諫言の後に罰を受ける事を要請したが、使者は「私は詔を受けて、法を将軍に執行しようとしているだけです。将軍の言葉を上(胡亥)にお伝えすることはできません」と答えた。蒙恬は毒薬を飲んで自決した。

公子らの粛清

胡亥は法令の作成の職務を趙高に依頼しており、ある時「大臣は私に服しておらず、官吏はなお力を持っている。諸々の公子に及んでは、必ず私と争う気でいる。どうすればよいのか?」と尋ねた。趙高は「群臣に相談せずに大いに武力を振るってください」と促し、胡亥はこれを受けて大臣や諸々の公子の粛清を実行した。公子12人は咸陽の市場で処刑され、公主10人は杜(地名)において車裂の刑に処された上に市場で晒し者とされ、財産は朝廷に没収された公子の一人であった高などは逃亡しようとしたが、一族が連座するのを恐れ、自ら始皇帝への殉死を訴え出た

同年4月、胡亥は始皇帝の開始した阿房宮の工事の再開を命じ、「今、阿房宮が完成しないままに放置したら、先帝の行いを過ちであったと咎める所業である」と述べた。また郡県に物資や食料の上納を命じ、豆や穀物、まぐさを徴発して咸陽に運ばせたため、咸陽の周囲300里は収穫した穀物を食べることすらできなくなったという。また、法令や誅罰は日々厳しさを増していき、道路の工事や租税の取り立てがますます重くなり、兵役や労役は止むことがなかった

陳勝・呉広の乱

同年7月、秦の朝廷への大規模な農民反乱である陳勝・呉広の乱が、南方の楚にて勃発します。反乱を起こした陳勝たちは陳を制して長楚の王を名乗り、また国内各地に武将を派遣して秦の官軍の攻略を命じ、反乱には数え切れないほどの農民が参加した。

胡亥は使者から反乱の事実を伝えられたが、これに怒って使者を獄に繋いだ。その上で諸々の学者や博士を召して「楚の守備兵(陳勝・呉広たち)が蘄を攻略し、陳に侵入したようだ。君たちはどう見るか」と尋ねた。多くの者は「これは反乱ですので、すぐに軍を出して討伐してください」と答えたが、学者の一人であった叔孫通(しゅくそんつう)は「ただの盗賊や泥棒ですので、郡の守尉がすぐに捕らえるでしょう。心配に及びません」と回答した。胡亥は叔孫通の言葉に同意し、全ての学者に対して改めて「反乱と捉えるか、盗賊と捉えるか」と答えさせた。胡亥は「反乱である」と答えた学者を取り調べさせ、「言うべきではないことを言った」との理由で投獄した。胡亥は、叔孫通に絹20匹と衣一組を賜い、博士に昇進させた。官舎に帰った叔孫通は、「危うく虎口を脱しそこねるところだった」と話して、すぐに朝廷から逃亡したという

この頃から、丞相の李斯はしばしば胡亥を諫めようとしていたが、胡亥は李斯が諫めることを許さず、逆に「私には私の考えがある。古代の聖人君子であった堯・禹らは、衣食住を質素とし、捕虜よりも重いほどの労役を自ら行ったが、これは愚か者の行為であり、賢君の行為ではない。賢君とは天下を己の思い通りに治めるものであり、自分を満足させることさえできないのに、天下を治めることができるだろうか」と反論した。李斯は保身のために忖度して「堯や禹のやり方は間違っていました。君主が独断専行を行い、厳しい刑罰を実行すれば、天下の人々は罪を犯す事はないでしょう。賢君は嫌う臣下を廃し、好きな臣下を取り立てるものです。仁義の人、諫言を行う臣、節に死ぬ烈士を遠ざけるべきです。臣下への統制が厳格なものとなれば、天下は富み、君主の快楽はさらに豊かなものになるでしょう」と上書したので、胡亥はこれに喜んだという以降、胡亥は臣下への圧迫・刑罰がますます厳しくなり、民から重い税を取り立てるものが優秀な役人とされた。また民衆の中にあっても刑罰に処されたものは国民の半数にも達し、処刑されたものは日々市に積み上げられたという

丞相・李斯の刑死

この頃、胡亥は、趙高から「陛下は若くして皇帝に即位されたばかりであるため、陛下に過ちがあれば、群臣たちに短所を示すことになります。天子が『朕』と称するのは、「きざし」という意味ですから、群臣に声も聞かせないことです」という進言を受ける。これ以降胡亥は常に禁中にこもり、大臣たちは趙高を介してしか対面できなくなった

丞相の李斯はこの措置に不満を持ったが、趙高は表向き李斯に「胡亥を諫めてほしい」と伝え、胡亥が酒宴を行っている時に限って李斯に上殿を要請したため、胡亥は李斯が酒宴の時に限って訪ねてくることに憤りを漏らした。すると趙高は「李斯は故郷の近しい陳勝たちと内通し、君主位の簒奪を狙っています」と讒言した。これを聞いた胡亥は、李斯への取り調べを開始した李斯は上書して「趙高には謀反の志があります」と訴えたが、胡亥は「趙高は忠義によって昇進し、信義によって今の地位にあるのだ。趙高の人柄は清廉で忍耐力があり、下々の人情に通じている。朕は趙高をすぐれた人物と思っている。君も彼を疑ってはいけない」と趙高を擁護した。李斯はなおも「そうではありません。趙高は元々、賤しい出身であり、道理を知らず、欲望は飽くことは無く、利益を求めて止みません。その勢いは主君(胡亥)に次ぎ、その欲望はどこまでも求めていくでしょう。ですから、私が危険であると見なしているのです」と処断を求めたが、胡亥は李斯が趙高を殺すことに恐れを抱き、趙高にこの頃を告げた。趙高は「私が死ねば、丞相は秦を乗っ取るでしょう」と答え、胡亥は李斯の身柄を趙高に引き渡すよう命じた

胡亥は、趙高に、李斯の罪状を糾明して裁判することを命じ、李由の謀反にかかる罪状について、糾問させた。李斯の宗族や賓客は全て捕らえられた。胡亥は使者を派遣して、李斯の罪状を調べさせたところ、李斯は趙高の配下による拷問に耐えられず、罪状を認めてしまった。胡亥は、判決文の上奏を見て、喜んで言った。「趙君(趙高)がいなければ、丞相(李斯)にあざむかれるところであった」。胡亥が取り調べようとしていた三川郡守の李由は、使者が着いた時には、項梁配下であった項羽と劉邦と戦い、戦死した後であった。趙高は李斯の謀反にかかる供述をでっちあげた。

李斯に五刑 を加え、咸陽の市場で腰斬(ようざん)するように判決が行われた。李斯の三族も皆殺しとなった

この頃、王離(おうり)に命じて、趙を討伐させる。王離は趙歇(ちょうけつ)・張耳(ちょうじ)らの籠る鉅鹿(きょろく)を包囲した。

鹿を謂いて馬となす

二世三年(紀元前207年)胡亥は李斯に代わって趙高を中丞相に任命し、諸事は大小に関わらず全て趙高が決裁することとなったこの頃、秦の将軍の章邯は、朝廷に背いて王を名乗った趙歇の居城・鉅鹿の包囲に向かっていたが、同年12月、楚軍を率いる項羽が趙を救援し、鉅鹿を囲む秦軍を大破して秦軍の包囲を解いた。魏・趙・斉・燕の諸侯の軍は項羽に属することになった(鉅鹿の戦い)。翌年1月には楚軍の項羽率いる諸侯連合軍により、秦の将軍で王翦(おうせん)(始皇帝の中華統一に貢献し、項羽の祖父の項燕を戦死させた)の孫の王離が捕らえられ、さらに同年3月には同じく楚軍の劉邦が秦将の趙賁(ちょうふん)・楊熊(ようたい)らを破った。楊熊は滎陽へ敗走したが、胡亥は使者を派遣し、楊熊を処刑して見せしめとした

同年4月、項羽率いる楚軍は章邯を攻め、章邯はしばしば退却を取ったため、胡亥は使者を派遣して章邯を叱責した。章邯は副将の司馬欣を首都咸陽に派遣して援軍を要請しようとしたが、司馬欣は趙高に捕縛され処刑されそうになったため、司馬欣は咸陽から逃げ出した。そのため最終的に、章邯は司馬欣の勧めもあって楚軍に降伏し、項羽によって章邯は雍王に封じられた(鉅鹿の戦い)。

この頃から、趙高は胡亥の弑殺を企むようになり、その前段階として群臣たちの思惑を問い質そうとした。そこで趙高は鹿を用意し、「馬です」と称して胡亥に献上した。胡亥は「鹿の事を馬だと言うとは、丞相は何を間違えたのだ」と笑って答えたが、胡亥が左右の群臣たちに問うと、ある者は沈黙し、ある者は趙高に阿り従って「馬です」と言い、ある者はその通りに「鹿です」と言った。趙高は「鹿です」と答えた諸々の者たちを、密かに処罰したとされる。これが、いわゆる「指鹿為馬」(鹿を指して馬となす)」の故事となる出来事であった。

望夷宮の変とその後

この頃胡亥は、1匹の白虎が自分の馬車を轢く左の馬を食い殺してしまう、という夢を見て不安を感じ、夢占いの博士と相談した後に、咸陽宮から涇水周辺にある望夷宮へと移った。その後も趙高による謀反の計画は進行しそしてついに同年の某日趙高の娘婿の閻楽(えんらく)が「宮中に賊が入った」と称して兵士たちを率いて宮中に押し入り、胡亥の寝所にまで押し寄せ、胡亥の罪状を数え上げて「あなたは無道な君主であり、天下の者は皆あなたに背いている。あなたは自裁するべきである」と言い渡した。

胡亥は「丞相(趙高)に会うことはできないのか」と尋ねたものの聞き入れられず、さらに「(位を退くから、せめて)郡王にしてくれないか」と求めたが、閻楽は同意しなかった。胡亥はなおも「(それならさらにせめて)万戸侯(ばんここう)にしてくれないか」と臨んだが、閻楽はこれにも同意しなかった。そして最後に胡亥は、「妻子ともども、平民百姓としてでも良いから生かしてほしい」と懇願した。しかし閻楽は「私は丞相の命を受け、天下の百姓(ひゃくせい)に代わってあなたを死刑に処す。あなたは多くを話したが、敢えて丞相に報告することはない」と語った。胡亥は生き延びられない事を知り、自害させられた。これが『史記』始皇本紀に記された、胡亥の死の顛末であります。(望夷宮の変)。

趙高は胡亥から皇帝の玉璽を奪い取ったが、百官が従わなかったため、胡亥の兄 である子嬰に玉璽を渡し、同年9月、子嬰は正式に秦王に即位する。胡亥は庶民の礼式のみを以て、杜南の宜春苑の中に葬られた。悪政をすればその報いがあるし、無能で傍に付いていた趙高も悪い力量ばかりで自分の保身と欲ばかりだから秦が滅びるのは当然の結果でしたね。

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李斯。

2024-03-07 07:08:37 | 漢詩・古典・エトセトラ

李斯

李斯(り し)(?~紀元前208年は、中国秦代の宰相。字は通古、子供は李由、李執がいる。法家を思想的基盤において度量衡の統一、焚書などを行い、、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後に宦官の趙高との権力争いに敗れて処刑されてしまった。

李斯はもと楚の北部にある上蔡(現在の河南省駐馬店市上蔡県)の人である。若くして地元で小役人になった。その頃、李斯は役所の便所に住むネズミを見た。便所のネズミは常に人や犬におびえ、汚物を食らっている。また彼は、兵糧庫のネズミを見た。兵糧庫のネズミは粟をたらふく食べ、人や犬を心配せず暮らしている。彼は「人の才不才などネズミと同じで、居場所が全てだ」と嘆息した。そして役所を辞めると、儒家の荀子の門を叩いた。学を修めたのちは秦に入って呂不葦の食客となり、才能を評価され、推薦を受けて秦王政(後の始皇帝)に仕える近侍になった。さらに政の命令で他国に潜入し、各国の王族と将軍の間の離間を行い功績を立て、客卿(他国出身の大臣)となりました。

紀元前237年順調に出世していた李斯だが、この嫪毒

という他国出身者が反乱を起こしたために、秦の国内で他国出身者の評判が悪化し、やがて他国人の追放令((遂客令)が出た。事態に苦慮した李斯は、政に嘆願書を出して追放令の撤回を求めた。この『諌遂客書』は実に理路整然とした名文で、後世の『文選』にも収録されているほどである。政もこの名文に感じ入り、追放令の撤回を決めた。

実力者の呂不韋が自決した後、政は一層李斯を信頼するようになる。しかし、かつて共に荀子から学んだ同門である韓非が秦に迎えられ、その著作である『韓非子』を読んだ政は感心し「この作者と親しくできるのなら、死んでも悔いはない」と言うほどに韓非に傾倒していく。韓非が登用されれば自分の地位は危うくなると考えた李斯は、政に韓非の讒言を吹き込んで投獄させ、さらに獄中の韓非に毒を渡し、有無を言わせず自殺させた。こうして競争相手を抹殺した李斯は、秦の富国強兵策を積極的に推進し、その策で紀元前221年に遂に秦は中国を統一し、政は始皇帝となった。

                                                                           

始皇帝、天下統一のDVDでは,韓非が間者として捕らえられ始皇帝に毒酒を当てられるが李斯が命乞いをして李斯も」一緒に毒酒を飲むが後李斯だけが生き返ったとあります。今の中国政府による改竄が見え透いていますね。中国共産党はろくでもない事をするもんだ。

秦の統一後、丞相の王綰,御史太夫の馮劫(ひょうごう)ら重臣は始皇帝に、周の制度である封建制を採り入れ、始皇帝の公子達を各地の王として封じるようにと進言した。だが、李斯はそれに猛反対して、周が何故滅んだかの理由を具体的に述べた上、一層強い集権統治である郡県制への移行を説いた。また、自らの法家思想と対立する学問に対し、大規模な思想弾圧を実施し、儒学を含めた思想書を集めて焼却させた(焚書)。この際に、多くの貴重な歴史的史料が失われた。また奉仕の盧生の逃亡から始まる告発により、罪を犯した学者を数百人規模で逮捕し、生き埋めにして殺害した。この中には多くの割合で儒者が含まれていたとされる(坑儒)。

紀元前210年秋7月に、始皇帝が巡幸の道中で崩御した。始皇帝の遺勅は「太子の扶蘇に後を継がせる」というものだったが、李斯は宦官の趙高と共に偽詔を作成し、始皇帝の末子で暗愚な胡亥を二世皇帝として即位させ扶蘇を自決に追い込んだ(一説では李斯は趙高に恫喝されて、胡亥の帝位をしぶしぶ認めたといわれる)。

 始皇帝の死で基盤が揺らいだ秦帝国だが、苛斂誅求の弊は改まらなかった。翌年から陳勝・呉広の乱を初めとして反乱が続発し、国内は大混乱になった。しかし暗愚な二世皇帝は遊び呆けて、宮廷の外の状況を知らない有様だった。李斯は右丞相、馬去疾や将軍馮劫と共に、阿房宮の造営などの政策を止めるよう諫言したがかえりみられず、馮去疾と馮劫は結局、自害した。

それでも李斯は諫言を重ねたが、かえって皇帝の不興を買い、さらに趙高の讒言で疎まれ、追い詰められていった。紀元前208年、ついに李斯は捕らえられる凄惨な拷問に耐えられず趙高が捏造した容疑(楚の項梁の軍勢に討ち取られた李斯の長男で三川群守の李由が生前楚軍と内通していたという罪)を認め、市中で五刑(鼻・耳・舌・足を切り落とし、鞭で打つこと)の末に腰斬(ようざん)(胴斬り。受刑者を腹部で両断し、即死させず苦しんで死なせる重刑)に処され、生涯を終えた。その時に李斯は並んで刑場に引っ立てられた次男の李執に対して「私は故郷の上蔡で、猟犬を連れ、お前と兎狩りによく出かけた。また狩りに出かける夢は、もう適わないのだな」と無念そうに述べたという。李斯の息子は始皇帝の皇女を娶り、彼の娘は始皇帝の公子に嫁いでいたと伝わるが、一族は全て誅殺され、李斯一族は根絶やしとなった。

李斯は法家理論の完成者の韓非に対して、法家の実務の完成者とされる。李斯は韓非を謀殺した事や偽詔で扶蘇を殺した事、他にも儒者を徹底的に弾圧した焚書坑儒に深く関わったため、後世の評判は非常に悪いが、秦の中国統一において最も大きな役割を果たしていた。

司馬遷も、李斯が道を誤らなければその功績は周公旦・召公奭(しょうこうせき)に比肩したであろうとしている。

 

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長平の戦い

2024-03-01 15:09:31 | 漢詩・古典・エトセトラ
 長平の戦い(ちょうへいのたたかい):長平之戰、Chángpíng zhī zhàn)は、中国戦国時代の紀元前262年~紀元前260年にわたって秦と趙が長平(現在の山西省高平市の付近)で激突した戦い。秦の勝利に終わり、戦後に秦の白起将軍により趙兵の捕虜40万が生き埋めにされ、趙の国力が一気に衰える原因となった。しかしこの人数は誇張されているとも言われており、実際、この戦いの翌年には趙は軍を立て直しており、秦の邯鄲攻撃を阻止している。

                

当時、秦は商鞅、(衛鞅とも言います)。の改革によって強盛を誇るようになり、戦国七雄の中でも圧倒的な強国となっていた。その力を背景に他の六国、特に国境を接する韓・魏・趙・楚へ何度も侵攻していた。

紀元前262年、秦は白起軍を派遣し、韓の野王(現在の河南省泌陽市)を落とした。このことにより、韓の北方の領土である上党は飛び地になってしまい孤立してしまった。韓の桓恵王は上党を秦に割譲して和議を結ぼうと、上党の守りである靳黈に同地から引き上げる様に命ずるも、靳黈がこれを拒否。そこで靳黈を罷免して新たに上党の守として馮亭を派遣したものの、秦の支配下に入る事を恐れた上党の民衆は不安を募らせ馮亭に対し、秦には降らぬ様訴え、吏民は謀議を重ねて秦に遮断された韓との経路を打開すべく、趙に同地を献じて趙韓が協働して秦に挑める様に策を講じた。馮亭が着任して30日目、上党郡の十七の城邑は同地を趙へ献上する旨の使者を趙に派遣した

趙の孝成王はその当時の趙の実力者である平原君とその弟の平陽君に意見を求めた。平陽君は「秦と戦争となるのは明白であり、献上を拒否するべきです」と意見を述べ、平原君は「ひとりの血も流さず、一粒の金も捨てずに領地が得られるのに、なぜ悩むのか?早く献上を了承したほうがよい」と意見を述べた。孝成王は悩んだ末、平原君の献上を了承する方針を可とし、兵を送って上党を接収した。

秦の昭襄王はこれに怒り、紀元前260年に王齕を将軍とした遠征軍を趙に差し向け、上党を占領した。上党の人々は趙の長平に逃げ込み、王齕軍はこれを追ってそのまま趙に攻め入った。これに対し孝成王は老将廉頗(れんぴ)を総大将に任命し、長平城の塁壁を補強し、物資を運び込み防衛体制を整えさせた。

対峙

長平に到着した秦軍と趙軍の間で三度、小競り合いが発生したが趙軍は全て敗れた。廉頗(れんぴ)は数で劣るものの精強を誇る秦軍との直接対決を避け、守りを固めて篭城を徹底し秦軍の疲労を待った。二年の歳月が過ぎた頃には廉頗の目論見通り、秦軍には持久戦の疲れと焦りが出始めた。范雎は状況を打開すべく趙の国内に多数の間者(スパイ)を送り、「秦は趙括(ちょうかつ)が趙軍の指揮を取ることを恐れている。老人の廉頗であれば対処しやすい」という偽情報を流した。

これを聞きつけた孝成王は優勢な兵力を擁しながら積極策をとらない廉頗に不満を持っていたこともあり、廉頗を解任して趙括を総大将に任命する。経験が乏しい趙括の起用を群臣は危ぶみ、重臣の蘭相如(らんそうじょ)も廉頗の解任を思い止まる様、孝成王を諌めたが聴き容れられなかった。趙括は趙の名将、趙奢(ちょうしゃ)の子で自他ともに認める兵法の大家だったが、実際には実戦経験のない机上の兵法家で兵法書を丸暗記しているというだけの人物であった。父親である趙奢は趙括の能力の低さを見抜いており、生前妻に「王が括に大任を任されたときには、辞退するように」と遺言していた。そのため、趙括が総大将に選ばれた時、趙奢の妻は参内し、孝成王に趙括を総大将として派遣しないようにと嘆願した。だが孝成王は趙括を総大将として派遣させることは変更しないと断ったため、趙奢の妻は「では括が敗北しても、一族に罪が及ばないようお願いします」と懇願し、これを孝成王に約束させた。一方、秦は趙軍の総大将の交代を知ると、密かに白起を長平に派遣して総大将に任じ、王齕を彼の副将とした。

【超軍の大敗北】

着任した趙括は趙軍が大軍であることを恃みに数に劣る秦軍を一気に叩き伏せようと考え、廉頗の戦法を支持する指揮官を全員更迭し秦軍に対して攻勢に転じた。
白起は囮の部隊で退却すると見せかけて趙軍を誘い出し、主力部隊で迎え撃つ間に予め伏せておいた2万5千の兵で趙軍の退路を遮断、更に5千の騎兵で分断するという作戦をとった。趙括率いる主力が秦軍を深追いしたために指揮系統が寸断され大混乱に陥った趙軍は、秦軍の猛攻により甚大な被害を受け長平城まで退却したが、白起はこれを包囲した。この報を受けた昭襄王は国内の壮丁男子を総動員して白起に援軍を送り、自らも前線まで赴いて将兵を励ました。完全に包囲された趙軍は46日間も兵糧が届かず、飢えた兵士たちは互いに殺し合ってその肉を食らい、飢えを凌ぐ有様であった。焦った趙括は僅かに残った健常な手勢を率いて秦軍へ突撃を敢行したが、全身に矢を射られあえなく戦死する。趙括の死によって残る趙兵20万は降伏した。

大勝利した秦軍だったが国内の総力をほぼ費やしたため、膨大な捕虜を養うだけの兵糧もなく、秦に連行するだけの余裕もなかった。また白起はこのまま戦果を拡大し、趙の都を衝いて、趙を亡ぼすことを狙っていた。このような状況で、死線を彷徨い生き延びた趙兵達をこのまま趙に帰せば、秦に恨みを抱いた彼等が将来の禍根となるのではないかと白起は恐れ、少年兵240名ほどを除いて趙兵を全て生き埋めにし処刑した。この戦いでの趙の戦死者・被処刑者は45万に上るという。実際に、1995年5月の発掘調査では大量の人骨が出土しているが、永禄第一尸骨坑の発掘レポートによれば発掘済第一坑の屍体数は130人程度、ほかに18坑を発見、調査がつつけられ、2002年と2020年にも多量の人骨の埋葬穴が発見された。これらの人骨には、武器によると思われる損傷も多々見られたため、生き埋めで死んだものではないとみられるが、捕虜の虐殺によるものか、普通の戦死者の集団墓地なのかははっきりしない。

【戦 後】
 白起と不仲だった秦の宰相の范雎(はんしょん)は、趙攻略の大功を立てた際の白起の影響力が自分の地位を脅かしかねないと危惧するようになり、昭襄王を巧みに説いて秦軍の進撃を中止させるようにした。この不本意な停戦は、戦死した秦兵のみならず、趙の早期攻略のためにあえて生き埋めにした趙兵たちの多大な犠牲をも無駄にする決定だったので、激怒した白起は病気と称して以後の出仕を拒むようになった。

少し休戦した翌年、昭襄王は改めて王陵を将軍にした侵攻軍を興して趙の首都、邯鄲を包囲させた。しかし40万人を亡き者にされた恨みに燃える趙の軍民の激しい抵抗に遭って城攻めは難航した。加えて援軍に駆け付けてきた魏の信陵君と楚の春申君にも反撃されて苦戦を強いられた秦軍は敗退を重ねるようになり、王陵と交代した王齕(おうこつ)や鄭安平(ていあんぺい)もまた敗北した。業を煮やした昭襄王は繰り返し白起に出仕を求めて軍の指揮を取るよう要請したが、白起は病を理由に拒み続けて屋敷から出ようとしなかった。白起の頑なな拒絶に対する昭襄王の不満はやがて憎悪へと変わり、使者に命じて自決用の剣を白起の屋敷に届けさせた。白起は昭襄王からの剣を黙って受け取ると、秦のために戦った自分にこの仕置きは不本意だとしながらも、趙兵数十万を生き埋めにした後悔の念を語り、これは天が昭襄王の口を借りて自分に下した裁きであろうと答えてそのまま自刎した。「私は死ぬべきなのだ。私は数十万の軍卒を生き埋めにした。私は天に対して罪を犯したのだ。
後の項羽の時に秦卒,二十余万人を穴埋めにされてしまった。( 鴻門之会(史記)歴史は繰り返されますね。

子供頃は、戦争ごっこをして、敵の首を落とした蜀の寿亭侯・関羽なって英雄に憧れたもんだけど、白起将軍のように自責の念にかられるとさぞ辛いんだろうね。

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斉の武将 田単

2024-02-24 17:48:26 | 漢詩・古典・エトセトラ
田 単
田単(でんたん)紀元前3世紀前半頃)は中国戦国時代の斉の武将、燕によって滅亡寸前に追い詰められた斉を優れた知略によって救った。その後際の武将になった。斎の公族の遠縁にあたり敏旺の頃に斉の都の臨淄(りんし)の市場の役人になりました。紀元前284年、燕の将軍の楽毅が率いる5カ国の連合軍によって斉が敗北し臨淄が占領されると、湣王は逃亡し莒(きょ)に立て籠もった。
田単も東の安平へ逃げ込むが、燕の勢いを察知してか一族の者に馬車を補強させた。その後、燕軍によって安平が陥落すると人々は脱出したが、馬車の車軸が折れたりなどして燕軍に捕らえられる者が続出した。そんな中、補強していた田単の一族は無事に即墨(そくぼく)へ逃れることができた。

快進撃を続ける燕軍は70余もある斉の城を次々と落とし、残すは莒と即墨のみとなった。莒では湣王が相国の淖歯(どうしまたはしゃくし)に殺害され、その子の襄王に代替わりする事態に陥っていたものの数年間も城を守り通していたため、攻めあぐねた楽毅は即墨に矛先を向けた。城を守る即墨の大夫はこれを迎撃するが返り討ちにあい敗死してしまう。これを受けて即墨では今後の方針が話し合われ、安平での出来事を知る者達から、その知略を嘱望されて田単が将軍に立てられ、城を守ることになった。

策略の数々

その最中の(紀元前279年)燕の昭王が死去し、太子の恵王が即位したのですが、恵王と楽毅の仲が悪い事を知った田単はこれを好機にと燕へ間者を放ち、「莒と即墨はすぐにでも落とすことが出来る。楽毅がそれをしないのは、自ら斉王になる望みがあるからだ」「斉が恐れているのは、将軍が代わり容赦なく攻められることだ」との噂を流した。恵王はこれを信じて代わりに騎劫(きごう)を派遣し、楽毅には帰国するよう命じた。その結果、強敵の楽毅を亡命に追い込むことに成功し、燕軍は王の処置に憤慨し士気は落ちた。

次に田単は城内の結束を促すよう考え、城内の者に食事のたびに家の庭で祖先を祭らせた。するとその供物を目当てに無数の鳥が集り、誰しも不気味な様子を怪しんだ。これを田単は「神の教えによるもの」と言い、「いずれ神の化身が現れて私の師となるであろう」と布告した。これを聞いたある兵士が「私が師になりましょうか」と冗談を言うと、田単は嘘と承知した上でその者を「神師」として強引に祭り上げ、自分はその指示に従うという姿勢を見せた。そして軍令の度にこの神の名を用いて人々を従わせた。

続いて「捕虜になると鼻そぎの刑に処されると恐れている」「城の中では城の外にある祖先の墓を荒らされないか恐れている」という偽情報を燕軍に流した。敵将・騎劫がその通りにして見せつけると、即墨の人々は燕軍への降伏を恐れ、祖先を辱められたことへの恨みから団結し、士気は大いに上がった。

火牛の計

城内の人々の状況から、いよいよ出撃の時期が訪れたと判断した田単は、まず城兵を慰撫した。

次に兵を隠して城壁を女子供や老人に守らせ、あたかも城内が困窮しているように装い、燕軍へ降伏の使者を派遣。更に即墨の富豪を介して燕の将軍に対し「降伏しても妻や財産などに手を出さないほしい」との安堵の約束と金を渡した。これらのことにより燕軍は勝利を喜び、油断を深めていった。

そこで田単は千頭の雄牛を用意し、鮮やかな装飾を施した布を被せ、角には刀剣、尻尾には松明をそれぞれ括り付け、夜中に城壁に開けておいた穴からこれを引き連れた。そして、たいまつに火をつけ尻を焼かれ怒り狂う牛を敵陣に放った。燕軍はその奇怪な姿の牛の突進に驚き、角の剣でことごとく刺し殺された。また、5千の兵もこれに続いて無言のまま猛攻をかけ、更に民衆も銅鑼や鐘などで天地を鳴動させるかのように打ち鳴らし、混乱を煽った。そのため、燕軍は大混乱に陥り、騎劫も討ち取られた。

これって木曽の義仲とか源 義経だったかな?。この火牛の計が最初だと思って知恵があるんだなあ!」なんて感心していたらなんだ、もっと昔に田単がやっていたんだね。

田単はこの勢いに乗じ、70余城全てを奪回した。こうして都の臨淄に戻ることができた斉の襄王は、田単の功績を認めて、安平君に封じた。

安平君への封爵との前後は不明なんですが、復興後の田単は斉の宰相の就任したが、民衆に施しを行うなど善政を敷き、ある時道中に寒さに凍えていた老人に自身の着物を貸し与えた事があった。これを知った襄王は、田単が人心を得て斉の王位を簒奪しようとしているのではないかと疑い、田単を誅そうとしたが、配下の諫めによって思い留まった

しかし襄王の側近たちは田単を疎み、田単と親交のあった貂勃を罠に嵌め、連座で田単をも失脚させようと試みた。これを受けた襄王は、田単に対し威圧的な態度で事を問い質した。しかしその後当の貂勃が自ら襄王に掛け合い、田単が燕を打ち破った功績や、その際王族という立場を以て自らが王を名乗る事もできたにも拘わらず、それを行わずして襄王を迎え入れた忠誠心を訴えたため、襄王は田単を讒言した側近たちを処刑し、田単へは加増を行なわれたと言います。

その後の田単は、趙の軍勢を率いて、燕の中陽県を攻めて、これを占領した。さらに韓の注人県を攻めてこれを占領した。後に趙の宰相になった(趙世家)。また、同時代史料では『呂氏春秋』や『荀子』にも彼が優れた軍略を持っている旨の記述が間接的にあるが、それ以上の言及はなされていません。

司馬遷も『孫子』の『始めは処女の如く敵に戸を開けさせ、後は脱兎の如く守る暇を与えない』とは、田単のことを言っているのだろう」と評しています、『史記』に単独で列伝を立てていることからも、かなり高く評価していることが窺えますね。

しかし、一つの国でさえ、忠臣、功臣がいて国が助けられているのにも関わらず、讒言があり、佞臣がいて、間違った方向に向かってしまう事が多いですね。かの老子,荘子の門派や隠棲の士は国の行政に出る事をしなかったのはこういう事が、多かったからなんですね。

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楚の公子、昌平君。

2024-02-20 13:45:26 | 漢詩・古典・エトセトラ

昌平君(しょうへいくん)(紀元前271年-紀元前223年)は中国戦国時代の楚の公子。姓は(ビ)氏、字は熊。緯は啓。楚の考列王と秦の昭襄王の娘の間に生まれた。昭襄王36年(紀元前271年)、前年に春申君と共に人質として秦に入っていた楚の太子・完(後の考列王)と昭襄王の娘の間に生まれた。という事なんですが、各国同士で政略結婚が頻繁に行われていたので、事が起きれば即人質は生贄になってしまう傾向にありますね。人質になって他国に行くという事は、死と直結しているという事ですね。

                

姓は(ビ)氏という事は、嬴 異人の実母の夏太后の姓も羋氏ですね。も楚から嫁いできて、実子の嬴 異人も趙に人質として出されていました。嬴 異人は後の荘襄王(そうじょうおう)となる訳です。日本だったら普通、皆親戚同士の人質交換みたいなもので、お互い隙あれば相手を滅ぼすなんてことはないと思います。

昭襄王44年(紀元前263年)、春申君が太子完を楚に逃がすと、華陽婦人(秦の孝文王正室、楚の公女)に養育された。後の子楚(しそ)が呂不葦と仲の良い李皓鑭を譲ってもらいその時腹の中に後の始皇帝・政がいた訳ですが、政が横暴なところがあり夏太后がとても忌み嫌ったとありますね。とこの話は置いておいて

(紀元前249年)、秦の朝廷に出仕。秦王政元年(紀元前246年)、秦王 政の時代に御史大夫となり呂不葦を補佐。秦王政9年(紀元前238年)、嫪毐が背くと叔父の昌文君(公子顛)と共に鎮圧した。秦王政10年(紀元前237年)、呂不韋が相国を罷免された後は、嫪の反乱を鎮圧した功績が評され右丞相となった。

秦王政21年(紀元前226年)、楚攻略に必要な兵数をめぐっての議論で王翦(おうせん)が将軍を罷免された際に、秦王政を諌めたため怒りを買って昌平君も丞相を罷免された。

また、秦は秦王政17年(紀元前230年)に滅ぼした韓の旧都新鄭(現在の河南省鄭州市新鄭市)で韓の旧臣による反乱が起きたため、鎮圧すると韓 王安を処刑してこれを完全に滅ぼした。このために楚の旧都郢陳(現在の河南省周口市淮陽区)の民が動揺したため、楚の公子でもある昌平君が当地へ送られ、楚の民を安撫するように命じられた

秦王政22年(紀元前225年)、李信と蒙恬(もうてん)率いる20万の秦軍が楚の首都、郢(えい)(寿春、現在の安徽省淮南市寿県)へ向け侵攻。

秦軍が寿春に迫ったとき昌平がいる郢陳(えいちん)で反乱が起き、李信の軍がこれを討ちに向かったところを楚の将軍、項燕(こうえん)の奇襲により秦軍は壊滅的打撃を受けた。秦王政24年(紀元前223年)、異母兄弟の楚王、負芻(ふすう)が秦に捕らえられ楚が滅亡すると、項燕により淮南で楚王に立てられ秦に背いたが、王翦・蒙武に敗れて戦死した。

因みにこの項燕は項羽の一族です。項 燕こう えん、Xiàng Yān、生年不詳 - (紀元前223年)は、中国の戦国時代末期の楚の大将軍。下相(現在の江蘇省宿遷市宿城区)の人。楚の将軍項彬(こうひん)の子。西楚の覇王、項羽とそのいとこ項荘(こうそう)の祖父にして、項梁(こうりょう)・項伯(こうはく)の父。項伯は項羽と叔父甥の仲。


とまあ、こんな流れでした。

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戦国四君 孟嘗君

2024-02-13 22:18:57 | 漢詩・古典・エトセトラ

戦国四君は、孟嘗君(斉)・平原君(趙)・信陵君(魏)・春申君(楚)を指し、中国戦国時代末期に、戦国七雄の国々に現れた政治家で、それぞれの国を超えて活躍しました。

この○○君という名前の中にある「君」は何を意味するかというと、一つは王族であること、もう一つは有力な武将や宰相であることです。

孟嘗君・平原君・信陵君は王族であり、春申君は将軍であり宰相でもありました。

彼らは要するに高貴な人であったわけですが、面白いことに遊侠の親分という側面もありました。大勢の食客・つまり居候を抱え、いざという時は彼らの知恵や力を借りたのです。数千人という食客の中には柄の悪い人物もいましたが、そうした人物も含めてこれら食客は四君に対していわゆる任侠的な信義を捧げ、一方四君の方は玉石混交の何千人もの人々を己の屋敷で養うという、並みではない太っ腹・包容力がありました。

彼らの生年はみな未詳ですが、没年はそれぞれ、孟嘗君(~B.C.279?)・平原君(~B.C.251)・信陵君(~B.C.244)・春申君(~B.C.238)で、秦の始皇帝による統一(B.C.221)に先立つこと20~60年ということになります。

孟嘗君 戦国四君の中では最も有名で、いくつも話が残っています。

彼の父親は斉の王家出身で、息子が40人以上いました。孟嘗君の生母は身分が低かった上に、彼は5月5日生まれでした。斉には5月5日生まれの子供は背丈が門の扉の高さになると親をあやめるという俗信があったので、赤子のうちにあやうく命を奪われるところでした。ある日父が、母がこっそりと育てた孟嘗君の姿を目にして立腹しますが、孟嘗君は「人の命は天から授かるのですか、それとも門の扉から授かるのですか」と問いかけて父親を絶句させました。孟嘗君はやがてその賢さが周囲に知れるようになり、父親もついには彼を後継ぎにしました。

聡明で人心掌握にたけた孟嘗君の元には大勢の食客が押し寄せ、中には元泥棒とか動物の鳴きまねが特技だとかいう者までいました。

秦の昭襄王(始皇帝の曽祖父)は孟嘗君の名声を聞いて関心を持ち、ある時孟嘗君が斉の使者として秦を訪れると、彼を宰相に抜擢しようとしました。王の側近が「彼は有能ですが、結局は斉の人間です。秦のためには危険でしょう」と諫めると、それもそうだと命を奪うことにします。それを察知した孟嘗君は、王の寵姫に助けを求め、寵姫が「王への贈り物の毛皮を私にもくれるなら」というので、かの泥棒に贈り物を盗ませて寵姫に渡し、彼女の助けで秦から一目散に逃げ出しました。

秦から逃げるには、函谷関を突破しなければなりません。函谷関は一番鶏が鳴かないと門を開けない決まりでした。そこで鳴きまねのうまい食客が登場して、無事秦から脱出することができました。

前に人間万事塞翁が馬と言うのをアップしましたが、先行き何処で何が起こるか分からないしこういう食客も、誰に助けられるか分かりませんね。

孟嘗君は秦から戻ると斉の宰相になります。やがて孟嘗君の存在がけむったくなった斉王は彼を排除しようとし、これを察知した孟嘗君は魏に亡命します。魏では彼を宰相とし、秦・趙・燕とともに斉を攻撃し、斉王は逃亡先で命を失いました。
斉では新しい王が立ち、再び盛り返してきましたが、孟嘗君は元々の領地・薛(せつ)に戻って中立の立場を取り、斉との関係も改善しました。

孟嘗君の時代から200年ほど後に、『史記』を書いた歴史家・司馬遷は薛を訪れ、この地の気風の荒々しさを感じ取りました。司馬遷はその理由として、かつて孟嘗君がここにおおぜいの食客を養い、その中には侠客など荒くれ者も多かったから、その影響が残っているのだろうと書いています。

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平原君、趙勝

2024-02-04 20:30:16 | 漢詩・古典・エトセトラ

平原君・趙勝

ある時、平原君のは、食客の一人が跛行を引いていたのを大笑いした。嘲笑を受けた食客は大いに怒り、平原君に対して「あの妾を殺してその首を私にください」と言い、平原君はこれを受け入れた。しかしそれは表面だけのことで、平原君はこの食客のことを身の程知らずだと笑っていた。

その後、平原君の下から次々と人が去り、ついには半分になった。どうしてこうなったかを残っていた食客に聞くと、「跛行を引いていた食客が望んだ首を渡さなかったからです。女色に迷い士を守らない人だと失望されても当然でしょう」と言われた。平原君はすぐに妾を殺し、その首を持って跛行を引いた食客に謝った。その後は再び人が集まってくるようになりました。

平原君の家の者が訴訟を起こされ、代官9人が処刑された。平原君は領地に代官を置いていたが、代官達はその税を国に収めていなかったので、徴税官が法に照らし処罰したのである。これに激怒した平原君は徴税官を殺そうとしたが、理路整然と反論されたため、その徴税官の知力と胆力を認めて恵文王に推挙した。この徴税官が趙奢(ちょうしゃ)である。
趙奢は公平に税をかけたため、趙は国庫も国民も豊かになり、更に将軍としても秦の侵攻を退けるなど戦功を挙げた。以降、平原君蘭相如(らんそうじょ)廉頗(れんは)と名将名臣が揃った趙には、各国を侵していた秦も手出しをしなかった。

紀元前266年、魏の宰相魏斉が平原君に保護を求めてきた。魏斉は秦の宰相の范雎(はんしょん)に敵(仇)と狙われており、そのために魏から逃げ出してきたのである。平原君はこれを受け入れて秦から魏斉をかばった。秦の昭襄王は范雎に仇を取らせてやりたいと思い、平原君を秦に招いて「魏斉を殺してほしい。でなければ秦から出さない」と脅した

が、「私が友を殺す男に見えますか」と即座に断られた。次いで昭襄王は平原君を軟禁したまま趙へ使いを出し、孝成王を脅した。孝成王は恐れて魏斉を捕らえる兵を差し向けたが、魏斉は趙の宰相の虞卿と共に夜のうちに逃げ出していた。そして信陵君を頼るべく魏へ戻ったが、信陵君が面会をためらったと聞いて自刎した。信陵君はこの首を趙へ送り、趙は秦に送った。これにより平原君は帰国することができたわけです

紀元前263年、韓は秦に攻められて領土を奪われ、韓の北の領土である上党が孤立するようになってしまっていた。韓は上党を秦に割譲して和睦を結ぼうとしたが、上党の民は反発し守りの馮亭(ひょうてい)と70の城邑が趙へ帰属したいと申し出たため孝成王はどうするかを下問し、弟の平陽君は「帰属を認めれば秦と戦争になるだけである」と取り合わなかったが、平原君は「非常な大利です」と積極的に賛成したので孝成王は上党を趙の領土とした。しかしこのことで秦の怒りを買い、紀元前260年に秦の白起将軍に攻められる(長平の戦い)。この戦いで趙は45万という大量の兵を失い、一気に弱体化した

紀元前259年、秦軍は更に趙の首都のを包囲した。窮地に陥った趙王に命じられ、救援を求めるために平原君が楚へ派遣されることになった。平原君は連れて行く食客二十人を選んでいたが、難事であるため厳選したこともあって、もうひとりが決まらない。この時に食客の一人の毛遂(もうつい)という者が同行したいと名乗り出てきた。平原君は「賢人というものは錐を嚢中(袋の中)に入れておくようなもので、すぐに袋を破って先を出してくるものです。先生が私の所へ来てから3年になるが、評判を聞いていません。お留まり下さい」と断った。毛遂はこれに「私は今日こそ嚢中に入りたいと思います。私を早くから嚢中に入れておけば、先どころか柄まで出ていましたよ」と答え、この返答が気に入った平原君は毛遂を連れて行くことにした。これが「嚢中の錐」の原典である

嚢中の錐 
(のうちゅうのきり)とは袋の中に入れた錐の先が外に突き抜けて現れるように、才能のある人はかくれていても頭角を現す。すぐれた人物は、衆人の中にいても、            その才能によって目立つことのたとえ。

平原君は楚に入り、楚の合従(がっしょう)を説いたが、楚は前に秦に侵攻され、なんとか講和できたこともあって脅威に思い、中々まとまらない。毛遂は剣を握って考烈王の前に立ち「楚と趙が結べば有利。結ばなければ不利。これほど簡単なことが、なぜまだ決まらないのですか」と聞いた。考烈王はその無礼さに激怒したが、毛遂は「楚王様が私に強く言えるのは、腕利きの兵が側にいるからでしょうが、ここからでは届きませんぞ」と返し、「さて我が君の前で私を辱めた理由を聞かせて頂きたい。楚は四千里四方を有し、秦に対抗できるのは楚しかありますまい。

それなのに白起が軍を率いただけで都を奪われ、祖廟を焼かれました。それを恥と思わないのですか。合従は趙のためではない、楚のためである」と説き、考烈王はこれを受け入れた。これに喜んだ平原君は帰国後に毛遂を上客とし、毛遂先生の弁舌は百万の兵に勝る。これほどの人物を見極められない私など、もう人を論じるまい」と言った

 紀元前258年、は趙へ対して援軍を出していたものの、秦から恫喝されたこともあり途中で留まらせて情勢を観察していた。平原君は魏の信陵君の姉を妻としていたので、信陵君に「姉を見捨てるのか」との手紙を出した。信陵君はこれに応え、魏の将軍を殺して軍を奪い、趙へ援軍に出る。また楚からも盟約に従い援軍が出る。しかしその邯鄲は、援軍が来る見込みはあったが、長らくの包囲により武器も木を削った槍程度しかなく、城内の趙の国民は餓死寸前で、子供を交換して殺して食料とせざるを得ないほどの危機的状況だった。

そんな中、兵士のひとりである李同が平原君に「貴方にとって、趙の窮状は他人事ですか」と聞いた。平原君は「そんなことは無い。趙が滅びれば私も滅ぶ」といったが、李同は「今、民は衣類も食料も無く飢えに苦しみ、兵は武器が尽きている。なのに貴方や婦人達は麗美な服を着て、豪華な食事を満腹になるほど食べています。だから他人事と言ったのです。何卒婦人達に仕事をさせ、物資を放出してください。そうなれば民は貴方に感動し士気も上がるでしょう」と進言する。これに平原君は答え、屋敷の門を開け放ち「すべての私財を好きに持っていって良い」と言い、婦人達には炊き出しなどの労働を行わせた。

これに城内の士気が上がり生気が戻ったところで、李同は援軍が来るまでの時間を稼ぐ決死隊を募り自ら率いることを提案し、平原君も承認する。決死隊の募集を始めると、先の平原君の施しもあって3千の兵が志願してきた。李同はこの兵を率いて城外の秦軍へ攻撃を仕掛けた。死ぬ気の兵は一歩も引かず、日に何度も突撃した。この決死の猛攻に嫌気した秦軍が後退したところで信陵君率いる援軍が到着し、秦軍を撤退させることに成功した。決死隊を指揮した李同は討ち死したが、戦後に戦功が評価されて李同の父が李侯となった

信陵君はその後、魏へ帰れないので趙に留まっていた。信陵君がある時に博徒味噌屋の二人を招いて歓談した(信陵君にて書いてあります)。この話を聞いた平原君は「信陵君は博徒と味噌屋のような者を相手にするのか」と馬鹿にした。このことを聞いた信陵君は怒って「私は彼らが賢明であると前から聞いており、このような交わりを恥とするあなたは外面だけを取り繕ったものであるようだ」と言って出て行こうとした。平原君は信陵君が居るからこそ趙は秦に攻められていないこともあり、慌てて冠を脱いでまで引き止めた。
この話が伝わり、以後は平原君の元を去って信陵君の元に行く客が増えたといいます。
食客は結構小さい事にも敏感ですね。だから党首は気を巡らせて注意しないといけません。

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戦国四君 春申君

2024-01-19 09:00:08 | 漢詩・古典・エトセトラ
春申君(しゅんしんくん)楚の春申君

 中国戦国時代の楚の政治家。本名
黄歇(こうあつ)と言います。戦国四君の一人に数えられる辣腕政治家ですちなみに彼だけが戦国四君の中で唯一王族ではありません。史書に初めて登場するのは韓。魏と結託して楚を攻めようとしていた秦の昭襄王(始皇帝の曾祖父)を説得する使者になった時であり、昭襄王を説得し国難を回避することに成功しました。

その後秦への人質として出された公子完の侍従として秦の国へ赴いたが、楚の頃襄王が危篤となると危険を顧みず昭襄王へ届け出無しに勝手に完を楚に帰国させた。当然昭襄王は怒り黄歇を殺そうとしたが、秦の名宰相・范雎に庇われて取りなしを得た。

 公子完は帰国後楚の王位を継いで考烈王となり、黄歇はその功績を認められて令尹(楚の国における宰相の地位)に任じられ、春申君と呼ばれるようになった。

政治家として辣腕を振るい、傾いていた楚を立て直すことに成功した。彼の元には優れた人材が食客として3千人も集まり、中には思想家として名高い荀子も参列していた。

その後は趙の首都・邯鄲が秦に攻められた時に魏の信陵君と共に救援に赴き救援を成功させている。

信陵君の死後、覇道を進む秦を打倒すべく連合軍を率いて侵攻するも、結果的に失敗したため考烈王からは疎んじられるようになった。

見た目は端正で非常に若々しく見えるが、活躍してきた年代を考えると中年の域に入っているとみて間違いない。見た目に似合わず歯に衣着せない荒っぽい言動の人物で、性格も意外と感情の起伏が激しい。楚を攻める白起に対し、「オレの武器は舌だ」と白起に対して殺戮をやめるよう弁舌する。が、白起は楚の王陵(王の墓)を焼いてしまい、気落ちした春申君は楚王へ和睦交渉をすることになる。

                                                       

それ以前、考烈王に子が生まれなかったことを気にもんでいた春申君は世継ぎを誕生させることに腐心していた。春申君の食客の一人に李園という者がおり、その妹は美人で春申君の愛人であった。

やがてこの妹が身ごもると春申君と李園はこの子供を楚の王位に就けようと暗躍する。春申君は李園の妹を考烈王に差し出し、生まれた子供は考烈王の子として王位を約束されることとなった。こうして春申君は楚を影から支配できる立場となったが、共犯者である李園から危険視される。食客の中には李園を始末する進言もあったが、春申君は李園を軽んじていたためにその進言を取り入れなかった。その後暗殺され一族も悉く討たれてしまった。ちなみにその春申君の子が楚の幽王となった。戦国四君最後の生き残りとして名をはせた宰相の最後としてはあまりにあっけないものであった。このため司馬遷からは「春申君、老いたり」と評されてしまった。

楚の宰相。中国全土に知られるやり手の政治家で、楚の君主考烈王の右腕として活躍していて合従軍参加者の中で最も大物とされており、李牧楚の総大将に推挙された。合従軍の敗戦後は、責任を負って左遷された。最期は食客の李園に暗殺された。

何処にも低いレベルの人間がいるものですが、そういう人間に限って、人を陥れる、暗殺する等、そういう行動に出るんですね。反対に、高い意志を持っている人は自分に照らし合わせてしまって他人も同等の人間と思い込んでしまって、悪さをしないと判断してしまうので、いとも簡単に陥れられてしまうんですね。

どっちにしても、始皇帝により国家は併合されて一つの群になってしまったわけですけど。

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戦国四君 信陵君(魏弟)

2024-01-16 20:29:21 | 漢詩・古典・エトセトラ

「是の時に當り、魏に信陵君有り、楚に春申君有り、趙に平原君有り、斉に孟嘗君有り」という言葉があります。信陵君は戦国四君の一人です。

信陵君(しんりょうくん)紀元前244年、中国戦国時代の魏の公子であり、政治家でもあり軍人でもあります。昭王の子。姓は、氏は諱(いみな)は無忌

 大国秦によって圧迫を受けた魏を支え、諸国をまとめ上げ秦を攻めるも、異母兄の安釐王(あんりおう)に疑われ憂死(ゆうし)した。前漢の魏無知の祖父と伝わ。異母兄の兄が安釐王として立つと、封ぜられて信陵君と名乗る。信陵君は多種多様な客を多数集めて自分の手元においており、その数は三千人を超えたと言われています。

魏の公子と食客

 ある時、安釐王と六博を打っていた所、趙との国境から烽火(のろし)が上がり、安釐王は趙の侵攻かと思い慌てたが、信陵君は落ち着いて「趙王が狩をしているだけ」と言った。安釐王が確かめさせると果たしてその通りであった。信陵君は食客を通じて趙国内にも情報網を張り巡らしていたので、趙の侵攻ではないと判断したのだが、これ以後の安釐王は信陵君の手柄・力を恐れて、国政に関わらせようとはしなくなった。普通の君主と軍師・丞相とかの関係なら普通に上手くいくのに、兄弟だからですかね?。


             
                六 博」を打っている

そうしているある日、信陵君は門番をしている侯嬴が賢人と聞き、食客になって貰おうと自ら出向き贈り物をした。しかし侯嬴は老齢を理由に断った。信陵君は後日予定の宴席に招待し、それは侯嬴も承諾した。予定通り信陵君は宴席を設けたが、侯嬴が居なかったため、自ら招くべく馬車に乗って街へと出向いた。侯嬴は自分が行っても信陵君の恥になると一度断った後、信陵君に勧められ馬車に乗ったが、上席に断りもなく座った。

 そして途中で止めて欲しいと言って馬車を降り、肉屋である
朱亥(後に侯嬴は自分が高齢なのでこの肉屋の朱亥を信陵君の従者として贈った)と世間話を始めた。その間、信陵君は嫌な顔をひとつもせず待っていた。こうした様子を見ていた群衆は噂し合った。そして宴席で信陵君は侯嬴を再び、上席へと座らせた。

 他の大臣などの客は、汚らしい老人を信陵君自ら招きいれ、しかも上席に座らせたことに驚いた。そして侯嬴に朱亥と世間話をした理由を聞いた。侯嬴は「信陵君への恩返しである」と答えた。全く訳が解らなかった客が再び問うと、皆が信陵君をどうでもいい用事で待たせる失礼な爺だと侯嬴を蔑すむ一方で、待った信陵君の器量を賞賛する。これは噂となり、国中どころか他国にも伝わり、信陵君の名声が大いに高まるであろうと答えた。客らは納得し、宴席も大いに盛り上がった。
          
              

 趙への援軍安釐王19年(紀元前258年)長平の戦いにて趙軍を大破した秦軍が、趙の首都の邯鄲(かんたん)を包囲した。安釐王は趙の救援要請に対して、晋鄙(しんひ)を将軍に任じ援軍を出すことは出したが、そこで秦から「趙の滅亡は時間の問題であり、援軍を送れば次は魏を攻める」と脅されたため、援軍を国境に留めおいて実際に戦わせようとはしなかった。

 信陵君の姉は趙の平原君の妻になっていたので、信陵君に対して姉を見殺しにするのかとの詰問が何度も来た。信陵君はこれと、趙が敗れれば魏も遠からず敗れることを察していたため、安釐王に対して趙を救援するように言ったが受け入れられず、しかし見捨てることも出来ぬと信陵君は自分の食客による戦車百乗を率いて自ら救援に行こうとした。この時、侯嬴は見送りの群衆の中に居たが、素っ気なかった。信陵君は自分が死地に向かうのに何だろうか、と態度が気になり、一人引返した

 ここで侯嬴は「戻ってこられると思っていました」と信陵君に策を授ける。「信陵君の手勢だけでは少数すぎて犬死となるだけであり、国軍を動かすべきです。国軍に命令を下すための(わりふ)は王の寝室にあるとのこと。これを王が寵愛する如姫に盗ませなされ[2]。如姫は信陵君のためなら何でも行うでしょう(恩義があった)」と言い、これに従って割符を得た。続いて侯嬴は「割符を持っても将軍の晋鄙が疑ったならば、朱亥(しゅがい)に将軍を殺させ軍の指揮権を奪いなされ」と説いた。これを聞いた信陵君は涙した。「晋鄙将軍は歴戦の猛将。割符を見ても指揮権を渡さないだろうから、殺さざるをえない」と悲しんだためである。しかし断じて朱亥の所へ行った。朱亥は「貴方は一介の肉屋に過ぎない私を度々遇されましが、礼を言いませんでした。小さな礼は答えにならないと思っていたからです。今、貴方の窮地に命をもって救わせて頂きます」と答えた。信陵君が出立する際、侯嬴は「この老体では役に立てませんので、この生命(自分の命)を手向けとさせて頂きます」といった。

 そうして信陵君は国境の城に出向き、軍を率いていた晋鄙将軍に割符を見せて交代するよう言ったが、晋鄙はやはり確認のための伝令を出すと言った。このためやむなくが40斤の金槌で晋鄙を命令違反として撲殺し、丁重に埋葬した。なおこれに前後して侯嬴は、約束を守り信陵君がいる方向へ向かって自刎した。

 信陵君はまず、兵が魏に戻れないことも考え、親子で従軍している兵は親を、兄弟で従軍している兵は兄を帰し、また一人っ子の兵も孝行させるために帰した。そうして残った兵を率いて戦い、秦軍を退けた。勝利したものの勝手に軍を動かしたことで安釐王の大きな怒りを買うと解っていたので、兵は自分の命令に従っただけで罪はないとして魏に帰し、自分と食客は趙に留まった。趙は救国の士として信陵君を歓待し、5城を献上しようとした。最初は信陵君もそれに応じようとしたが、食客に諭され、以後固辞した。

 趙に滞在中、信陵君は博徒の間に隠れていた毛公と味噌屋に身を隠していた薛公に、会って話がしたいと使者を出したが断られた。すると自ら徒歩で彼らのもとへ趣き、両者と語り合って大いに満足した。しかし平原君はこの事を聞いて「信陵君は名声高いと聞くが、そのような者たちと交わるのか」と馬鹿にした。姉である平原君の妻が信陵君を訪れると、出立の準備をしていた。信陵君は「私は賢人と話をしたいと思ったが、毛公と薛公が居なかったため出向いた。お二方は趙にいた頃から賢人と聞いており、会ってもらえないかもと思っていたほどの人。平原君が賢人と思ったから魏王に背いてまで私は趙を救ったが、その語らいを恥と言う外面だけを気にする方のようだもはや平原君と関わりたくない」と国外へ去ろうとした。これを聞いた平原君は、信陵君が居るからこそ趙は秦に攻められていないこともあり、去られては大変と冠を脱いで謝罪した。これを聞いた平原君の食客達の半数が、身分に関係なく才を処遇する信陵君下に集まったと言います。

 安釐王29年(紀元前248年)、信陵君のいない魏は連年のように秦に攻められ、窮した安釐王は信陵君に帰国するように手紙を出した。信陵君は疑って帰ろうとせず、度重なる使者に対して食客達に「使者を通した者は斬る」と指示したため、誰も諌められなかった。そうしているある日、毛公と薛公が屋敷に訪れてきた。

 毛公と薛公は信陵君に「貴方は祖国の窮地を見てみぬ振りをされているが、今があるのは祖国あってこそであり、魏の祖廟が破壊されたら何をもって天下に顔を向けられますか」と諌められ、信陵君はこれを全て聞く間も無く魏へ向け出立した。翌年、安釐王と信陵君はお互いに涙して再会した。信陵君は魏の上将軍に就任し、諸国にそれを知らせると、諸国は一斉に魏へ援軍を送った。そして五カ国の軍をまとめて秦の蒙鷔(もうごう)を破った。趙・魏はもとより他の国も指揮権を委ねた辺り、信陵君の手腕と名声に他国からも信頼が厚かったことが窺える。そして連合軍はついに函谷関に攻め寄せて秦の兵を抑えた。

 これにより信陵君の威名は天下に知れ渡った。客が信陵君に献上した兵法は『魏公子兵法』と呼ばれた。函谷関にまで攻め寄せられた秦は窮地に陥り、また信陵君がいる限りは魏を攻められないと考え、信陵君に殺された晋鄙将軍の下にいた食客を集め、信陵君が王位を奪おうとしているとの噂を流させた。

これにより安釐王は再び信陵君を疑って遠ざけるようになり、鬱々とした信陵君は酒びたりになり、安釐王33年(紀元前244年)に過度の飲酒のために死去した。異母兄の安釐王がもっと明君だったなら、信陵君がもっと活躍できただろう。人間いくら力量があっても処を得ないと封じ込められてしまうんですね

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呂氏春秋を買ってきた。

2024-01-09 09:09:53 | 漢詩・古典・エトセトラ

こうして色々文献を見ていて以前から「呂氏春秋」という本があったのは知っていますが呂不葦の書き示した書だと知って見て見たくなりました。

 書名の由来は、1年12カ月を天人相関説(時令説)をもとに春夏秋冬に分けた十二紀から『呂氏春秋』八覧から『呂覧』とする。呂不韋は完成後に一般公開し、一字でも添削ができれば千金を与えると公言した、これが「一字千金」の由来とされています。 呂不韋は「奇貨居くべし」と言う言葉が残っていてそれが商才が優れているという意味と思われるかもしれませんが一寸違いますね。
 呂不韋については、『史記』の呂不韋傳と『戦国策』の秦策五とに見える。両書の記述には若干の相違があるが、呂不韋傳を主として、その人物像を紹介しています。
呂不韋は陽翟の大賈人なり。往来して賤(値段が安いこと)に販(買う)い貴(値段が高いこと)に賈(あきな)り、家に千金を累(かさ)ぬ。(積み重ねるの意)
諸国を往来して商売をし、巨万の富を築いた豪商である。

 趙の国に行った時、秦の太子である安國君の子供で人質として趙に住んでいた嬴異人(後の子楚)に出会った。呂不韋傳は記す、呂不韋、邯鄲に賈(商用で赴く)しに、見て之を憐れみ、曰く。「此れ奇貨なり居く可し。」と。これが有名な「奇貨居く可し」の出所です。

 子楚に投資して、安國君の太子にさせ、将来王位につければ、巨額の富を得られると読んで、資金をつぎ込み、それを実現させた。秦の宰相となり、富と権力を手に入れた。しかし秦王政、後の始皇帝が長ずるにつれて、疎んぜられて遂に嫪毒の亂に連座して罪を得て服毒自殺をする。十二紀・八覧・六論から構成され、26巻160篇。その思想は儒家・道家を中心としながらも名家・法家・墨家・農家・陰陽家等、諸学派の説が幅広く採用され、雑家の代表的書物とされる。天文暦学や音楽理論・農学理論など自然科学的な論説が多く見られ、自然科学史においても重要な書物とされる。また「刻舟求剣」などの寓話や説話も収録されています。

                                             
 
 呂不韋も食客を3000人集める。呂不韋は丞相となり10万戸を授けられて権力を握ると、戦国四君である孟嘗君、平原君(趙の趙勝)、信陵君(魏王の弟),春申君(楚)にならったのか食客を3000人集めたとされています。
孟嘗君などは3000人の食客がいても、泥棒もいたり物まね名人がいたり玉石混交状態でした。しかし、呂不韋の場合は質にかなり拘ったようで食客たちも一流の文化人だったり学者だったりと、クオリティが非常に高かったようです。

 これらの食客たちと作り上げたのが呂氏春秋であり市場で1字でも添削することが出来れば1000金を与えると宣伝しました。呂不韋は余程、自信があったのでしょう。尚、呂氏春秋は初の百科事典ともいえる様な内容です。
呂氏春秋は徳についてのお話しも多い
 私も呂氏春秋を読んでみましたが、様々な事が書かれています。夏・殷・周の王様がどのように考えて政治を行ったなども多く書かれているわけです。周の文王が病に掛かった時に、災いを払うために臣下は宮殿の増設を提案しましたが、周の文王は許しませんでした。代わりに、生活を質素にして徳を積む事に努めた話もあります。 これを繰り返したところ周の文王は病が全開したとあります。他にも、甯(ねいえつ)という人物はたゆまぬ努力を行った事で30年で成し遂げる事を15年で出来たなどの努力する事を大事だとする話も掲載されていました。現代人がみても役立つ感じの自己啓発系のネタもかなりあります。
天下は一人の天下に非ず
 呂氏春秋は百科事典のような内容なので、様々な事が書かれているわけです。歴史作家の宮城谷昌光さんは戦国名臣列伝の呂不韋の部分で「天下は一人の天下に非ず」という言葉に注目しています。キングダムの呂不韋は武力による統一ではなく貨幣による秦中心の国家を理想としていました。しかし、呂氏春秋の天下は一人の天下に非ずという言葉を解釈すれば、民主主義を提唱している」というわけです。

秦王・政は史実では、自分に権力が集中するように、中央集権化を進める政策をしています。ここが呂不韋と始皇帝が相いれない部分となるでしょう。もしかすると、嬴政は仲父とする呂不葦を尊敬する一方で呂不葦を疎ましかったか、それの反動だったのかも知れませんね。呂不葦の唱える処は諸子百家が根本であるのでそれに抗するように焚書坑儒になったとも言えます。李斯は荀子の元で韓非と共に学んだが嬴政には何一つ言えなかったのかも知れません。しかし書籍だけでなく儒家を始めとする思想家を生き埋めにしてしまうなどやはり嬴政は残虐だったと言えます。ちなみに、始皇帝は自分一人の独裁国家にしようとした為に、統一後わずか15年で滅んだとも考えられるわけです。

 史実だと秦には王翦(おうせん)、王賁(おうふん)蒙恬(もうてん)李信(りしん)などの名将もいましたし、政治を行う大臣も昌平君、昌文君、李斯などがいたわけですが、秦王政に諫言する臣下はいなかったようです。

 ここが秦が短命国家に終わった原因だとされています。呂不韋が秦の相国を務めた状態で、秦が天下統一を成し遂げていたら、趙高の暴政や扶蘇の廃位と胡亥の擁立なども無かったのかも知れません。陳勝呉広の乱などが発生しても、章邯や王離らは秦の中央政府と協力し、もっと楽に戦えた可能性もあります。トップに権限が集中しやすい体質だった為に、秦は滅んだ可能性もあるでしょう。
呂氏春秋の中身の抜粋【勇気の行き着く所?】
呂氏春秋は奇妙な普通ではありえない様な話も掲載されています。
斉の国の東と西に勇者気取りの男がいたそうです。東と西の勇者気取りの男が道であってしまいました。

この二人は一杯飲む事になったのですが、「肉が食べたい」と言い出します。そして、醤油だけを用意して、お互いの肉を刻みあい食べたと言うのです。もちろん、交互に食べ合い結局は二人とも死んでしまったそうです。呂氏春秋では「このような勇気なら、ない方がマシだ」と述べています。こういう滑稽な話が載せられているのも呂氏春秋の特徴です。
【盗賊に助けられた男】
呂氏春秋にあるこれは正しいのか?と考えてしまうような話も紹介しておきます。ある所に潔癖な男がいて旅に出たそうです。この潔癖な男は道で飢えてしまいました。

たまたま通りかかった盗賊が潔癖な男に食べ物を与えて飢えから回復しました。潔癖な男が名を聞いた時に、盗賊だと言うと、潔癖な男は悪事に手を染めた男から食べ物の援助をもらうわけには行かない。そう言うと食べたものを全て吐き出してしまいます。その結果、潔癖な男は飢えて死んでしまいました盗賊の食べ物を受け取る事は正義なのか?という事を考えさせられる内容です。私なら「もしかして盗賊は改心したに違いない」と勝手に判断して食料を貰ってしまう可能性もあります。しかし、道徳の授業でも使えそうな内容も含まれているのが呂氏春秋です。日本では、孫子や史記などに比べると知名度は落ちますが、考えさせられる内容も多いです。

呂不韋の思考は呂氏春秋を通じて、未だに輝き続けていると言えます。始皇帝や李斯の焚書坑儒からも残った不滅の書でもあります。呂氏春秋』(りょししゅんじゅう)。秦の始皇8年(紀元前239年)に完成した。
 先に述べたように『呂氏春秋』は秦の荘襄王から始皇帝の初期のころまで宰相を務めた呂不韋が、その権力と財力とを総動員して全国から集めた学者たちに著作編纂させたものである。その構成は、十二紀・八覧・六論の三部に分かれ、全二十六巻百六十篇からなっており、内容は多岐にわたり、一種の百科全書的な書であり、同じ性格の書として前漢に編纂された有名な『淮南子』の先駆けとなったものである。この書の成立事情について、『史記』の呂不韋傳は次のように記している。
  呂不韋の家僮万人あり。是の時に當り、魏に信陵君有り、楚に春申君有り、趙に平原君有り、斉に孟嘗君有り。皆士に下り賓客を喜み、以て相い傾く(傾注、熱中すること)、呂不韋、秦の強きを以て、如かざるを羞じ、亦た士を招致し、厚く之を遇し、食客三千人に至る。是の時諸侯に弁士多く、荀卿の徒の如きは、書を著し天下に布く。呂不韋乃ち其の客をして人人の聞く所を著さしめ、集論(編集)し以て八覧・六論・十二紀の二十餘万言を為る。以為らく、天地の万物・古今の事を備う、と。号して呂氏春秋と曰う。
この書の編纂について、呂不韋は相当な自信を持っていたようである。之も有名な話であるが、呂不韋傳に以下の如く記されている。
   咸陽の市門に布き、千金を其の上に懸け、諸侯の游子・賓客を延き(招きよせる)、能く一字を増損する者有らば、千金を予えん、
この様に自信を持って世に送り出した書であったが、歴代中国における評価は低いもので、清朝になってやっと見直されるようになったのである。

成程ね、始皇帝が李斯と共に「焚書坑儒」をしたのに反して 呂不韋は諸子百家が提唱する「徳」が基本だったんだね。しかし相容れないと言っても何でこんなに毛嫌いしたんだろう。

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