針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

斉の武将 田単

2024-02-24 17:48:26 | 漢詩・古典・エトセトラ
田 単
田単(でんたん)紀元前3世紀前半頃)は中国戦国時代の斉の武将、燕によって滅亡寸前に追い詰められた斉を優れた知略によって救った。その後際の武将になった。斎の公族の遠縁にあたり敏旺の頃に斉の都の臨淄(りんし)の市場の役人になりました。紀元前284年、燕の将軍の楽毅が率いる5カ国の連合軍によって斉が敗北し臨淄が占領されると、湣王は逃亡し莒(きょ)に立て籠もった。
田単も東の安平へ逃げ込むが、燕の勢いを察知してか一族の者に馬車を補強させた。その後、燕軍によって安平が陥落すると人々は脱出したが、馬車の車軸が折れたりなどして燕軍に捕らえられる者が続出した。そんな中、補強していた田単の一族は無事に即墨(そくぼく)へ逃れることができた。

快進撃を続ける燕軍は70余もある斉の城を次々と落とし、残すは莒と即墨のみとなった。莒では湣王が相国の淖歯(どうしまたはしゃくし)に殺害され、その子の襄王に代替わりする事態に陥っていたものの数年間も城を守り通していたため、攻めあぐねた楽毅は即墨に矛先を向けた。城を守る即墨の大夫はこれを迎撃するが返り討ちにあい敗死してしまう。これを受けて即墨では今後の方針が話し合われ、安平での出来事を知る者達から、その知略を嘱望されて田単が将軍に立てられ、城を守ることになった。

策略の数々

その最中の(紀元前279年)燕の昭王が死去し、太子の恵王が即位したのですが、恵王と楽毅の仲が悪い事を知った田単はこれを好機にと燕へ間者を放ち、「莒と即墨はすぐにでも落とすことが出来る。楽毅がそれをしないのは、自ら斉王になる望みがあるからだ」「斉が恐れているのは、将軍が代わり容赦なく攻められることだ」との噂を流した。恵王はこれを信じて代わりに騎劫(きごう)を派遣し、楽毅には帰国するよう命じた。その結果、強敵の楽毅を亡命に追い込むことに成功し、燕軍は王の処置に憤慨し士気は落ちた。

次に田単は城内の結束を促すよう考え、城内の者に食事のたびに家の庭で祖先を祭らせた。するとその供物を目当てに無数の鳥が集り、誰しも不気味な様子を怪しんだ。これを田単は「神の教えによるもの」と言い、「いずれ神の化身が現れて私の師となるであろう」と布告した。これを聞いたある兵士が「私が師になりましょうか」と冗談を言うと、田単は嘘と承知した上でその者を「神師」として強引に祭り上げ、自分はその指示に従うという姿勢を見せた。そして軍令の度にこの神の名を用いて人々を従わせた。

続いて「捕虜になると鼻そぎの刑に処されると恐れている」「城の中では城の外にある祖先の墓を荒らされないか恐れている」という偽情報を燕軍に流した。敵将・騎劫がその通りにして見せつけると、即墨の人々は燕軍への降伏を恐れ、祖先を辱められたことへの恨みから団結し、士気は大いに上がった。

火牛の計

城内の人々の状況から、いよいよ出撃の時期が訪れたと判断した田単は、まず城兵を慰撫した。

次に兵を隠して城壁を女子供や老人に守らせ、あたかも城内が困窮しているように装い、燕軍へ降伏の使者を派遣。更に即墨の富豪を介して燕の将軍に対し「降伏しても妻や財産などに手を出さないほしい」との安堵の約束と金を渡した。これらのことにより燕軍は勝利を喜び、油断を深めていった。

そこで田単は千頭の雄牛を用意し、鮮やかな装飾を施した布を被せ、角には刀剣、尻尾には松明をそれぞれ括り付け、夜中に城壁に開けておいた穴からこれを引き連れた。そして、たいまつに火をつけ尻を焼かれ怒り狂う牛を敵陣に放った。燕軍はその奇怪な姿の牛の突進に驚き、角の剣でことごとく刺し殺された。また、5千の兵もこれに続いて無言のまま猛攻をかけ、更に民衆も銅鑼や鐘などで天地を鳴動させるかのように打ち鳴らし、混乱を煽った。そのため、燕軍は大混乱に陥り、騎劫も討ち取られた。

これって木曽の義仲とか源 義経だったかな?。この火牛の計が最初だと思って知恵があるんだなあ!」なんて感心していたらなんだ、もっと昔に田単がやっていたんだね。

田単はこの勢いに乗じ、70余城全てを奪回した。こうして都の臨淄に戻ることができた斉の襄王は、田単の功績を認めて、安平君に封じた。

安平君への封爵との前後は不明なんですが、復興後の田単は斉の宰相の就任したが、民衆に施しを行うなど善政を敷き、ある時道中に寒さに凍えていた老人に自身の着物を貸し与えた事があった。これを知った襄王は、田単が人心を得て斉の王位を簒奪しようとしているのではないかと疑い、田単を誅そうとしたが、配下の諫めによって思い留まった

しかし襄王の側近たちは田単を疎み、田単と親交のあった貂勃を罠に嵌め、連座で田単をも失脚させようと試みた。これを受けた襄王は、田単に対し威圧的な態度で事を問い質した。しかしその後当の貂勃が自ら襄王に掛け合い、田単が燕を打ち破った功績や、その際王族という立場を以て自らが王を名乗る事もできたにも拘わらず、それを行わずして襄王を迎え入れた忠誠心を訴えたため、襄王は田単を讒言した側近たちを処刑し、田単へは加増を行なわれたと言います。

その後の田単は、趙の軍勢を率いて、燕の中陽県を攻めて、これを占領した。さらに韓の注人県を攻めてこれを占領した。後に趙の宰相になった(趙世家)。また、同時代史料では『呂氏春秋』や『荀子』にも彼が優れた軍略を持っている旨の記述が間接的にあるが、それ以上の言及はなされていません。

司馬遷も『孫子』の『始めは処女の如く敵に戸を開けさせ、後は脱兎の如く守る暇を与えない』とは、田単のことを言っているのだろう」と評しています、『史記』に単独で列伝を立てていることからも、かなり高く評価していることが窺えますね。

しかし、一つの国でさえ、忠臣、功臣がいて国が助けられているのにも関わらず、讒言があり、佞臣がいて、間違った方向に向かってしまう事が多いですね。かの老子,荘子の門派や隠棲の士は国の行政に出る事をしなかったのはこういう事が、多かったからなんですね。

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近くのジュウタン屋さんのイランの方がCMに

2024-02-21 20:35:23 | 日記

と言って吉高由里子さんの事ではありません。う~ん残念!。(笑)とその話は置いといて、

最近我が家の愛犬のシェルティーのレオ君がお年を召しまして、あまり遠くへは歩けなくなりまして近場の商店街を一周するのですが、その途中の、ペルシャ絨毯屋さんの人とも仲良くなりまして(お祭りもからめてね)、ちょくちょく寄るんですがそこの従業員のお爺さんといつもぺちゃくちゃと話し込むんですが、最近テレビのコマーシャルを見ていて、よく似た人が。「どうもそうらしい」という訳で、散歩の途中によって聞いてみると、「よくわかったね」だって。

        

「良く分かったって」「そりゃ分かるわさ」この人お顔を見れば分かるようにお人柄がとてもいいんですね。だからついついお邪魔したりするんですね。何でも日本人の奥様がいるらしいんですね。

                 

しかしコマーシャルなんかに登録するだろうけど、まさか出ているとは最初分からなかったね

                 

東京タワーの真下の街ですから、スカウトマンなんかもウロチョロしているのかも知れません。      

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楚の公子、昌平君。

2024-02-20 13:45:26 | 漢詩・古典・エトセトラ

昌平君(しょうへいくん)(紀元前271年-紀元前223年)は中国戦国時代の楚の公子。姓は(ビ)氏、字は熊。緯は啓。楚の考列王と秦の昭襄王の娘の間に生まれた。昭襄王36年(紀元前271年)、前年に春申君と共に人質として秦に入っていた楚の太子・完(後の考列王)と昭襄王の娘の間に生まれた。という事なんですが、各国同士で政略結婚が頻繁に行われていたので、事が起きれば即人質は生贄になってしまう傾向にありますね。人質になって他国に行くという事は、死と直結しているという事ですね。

                

姓は(ビ)氏という事は、嬴 異人の実母の夏太后の姓も羋氏ですね。も楚から嫁いできて、実子の嬴 異人も趙に人質として出されていました。嬴 異人は後の荘襄王(そうじょうおう)となる訳です。日本だったら普通、皆親戚同士の人質交換みたいなもので、お互い隙あれば相手を滅ぼすなんてことはないと思います。

昭襄王44年(紀元前263年)、春申君が太子完を楚に逃がすと、華陽婦人(秦の孝文王正室、楚の公女)に養育された。後の子楚(しそ)が呂不葦と仲の良い李皓鑭を譲ってもらいその時腹の中に後の始皇帝・政がいた訳ですが、政が横暴なところがあり夏太后がとても忌み嫌ったとありますね。とこの話は置いておいて

(紀元前249年)、秦の朝廷に出仕。秦王政元年(紀元前246年)、秦王 政の時代に御史大夫となり呂不葦を補佐。秦王政9年(紀元前238年)、嫪毐が背くと叔父の昌文君(公子顛)と共に鎮圧した。秦王政10年(紀元前237年)、呂不韋が相国を罷免された後は、嫪の反乱を鎮圧した功績が評され右丞相となった。

秦王政21年(紀元前226年)、楚攻略に必要な兵数をめぐっての議論で王翦(おうせん)が将軍を罷免された際に、秦王政を諌めたため怒りを買って昌平君も丞相を罷免された。

また、秦は秦王政17年(紀元前230年)に滅ぼした韓の旧都新鄭(現在の河南省鄭州市新鄭市)で韓の旧臣による反乱が起きたため、鎮圧すると韓 王安を処刑してこれを完全に滅ぼした。このために楚の旧都郢陳(現在の河南省周口市淮陽区)の民が動揺したため、楚の公子でもある昌平君が当地へ送られ、楚の民を安撫するように命じられた

秦王政22年(紀元前225年)、李信と蒙恬(もうてん)率いる20万の秦軍が楚の首都、郢(えい)(寿春、現在の安徽省淮南市寿県)へ向け侵攻。

秦軍が寿春に迫ったとき昌平がいる郢陳(えいちん)で反乱が起き、李信の軍がこれを討ちに向かったところを楚の将軍、項燕(こうえん)の奇襲により秦軍は壊滅的打撃を受けた。秦王政24年(紀元前223年)、異母兄弟の楚王、負芻(ふすう)が秦に捕らえられ楚が滅亡すると、項燕により淮南で楚王に立てられ秦に背いたが、王翦・蒙武に敗れて戦死した。

因みにこの項燕は項羽の一族です。項 燕こう えん、Xiàng Yān、生年不詳 - (紀元前223年)は、中国の戦国時代末期の楚の大将軍。下相(現在の江蘇省宿遷市宿城区)の人。楚の将軍項彬(こうひん)の子。西楚の覇王、項羽とそのいとこ項荘(こうそう)の祖父にして、項梁(こうりょう)・項伯(こうはく)の父。項伯は項羽と叔父甥の仲。


とまあ、こんな流れでした。

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戦国四君 孟嘗君

2024-02-13 22:18:57 | 漢詩・古典・エトセトラ

戦国四君は、孟嘗君(斉)・平原君(趙)・信陵君(魏)・春申君(楚)を指し、中国戦国時代末期に、戦国七雄の国々に現れた政治家で、それぞれの国を超えて活躍しました。

この○○君という名前の中にある「君」は何を意味するかというと、一つは王族であること、もう一つは有力な武将や宰相であることです。

孟嘗君・平原君・信陵君は王族であり、春申君は将軍であり宰相でもありました。

彼らは要するに高貴な人であったわけですが、面白いことに遊侠の親分という側面もありました。大勢の食客・つまり居候を抱え、いざという時は彼らの知恵や力を借りたのです。数千人という食客の中には柄の悪い人物もいましたが、そうした人物も含めてこれら食客は四君に対していわゆる任侠的な信義を捧げ、一方四君の方は玉石混交の何千人もの人々を己の屋敷で養うという、並みではない太っ腹・包容力がありました。

彼らの生年はみな未詳ですが、没年はそれぞれ、孟嘗君(~B.C.279?)・平原君(~B.C.251)・信陵君(~B.C.244)・春申君(~B.C.238)で、秦の始皇帝による統一(B.C.221)に先立つこと20~60年ということになります。

孟嘗君 戦国四君の中では最も有名で、いくつも話が残っています。

彼の父親は斉の王家出身で、息子が40人以上いました。孟嘗君の生母は身分が低かった上に、彼は5月5日生まれでした。斉には5月5日生まれの子供は背丈が門の扉の高さになると親をあやめるという俗信があったので、赤子のうちにあやうく命を奪われるところでした。ある日父が、母がこっそりと育てた孟嘗君の姿を目にして立腹しますが、孟嘗君は「人の命は天から授かるのですか、それとも門の扉から授かるのですか」と問いかけて父親を絶句させました。孟嘗君はやがてその賢さが周囲に知れるようになり、父親もついには彼を後継ぎにしました。

聡明で人心掌握にたけた孟嘗君の元には大勢の食客が押し寄せ、中には元泥棒とか動物の鳴きまねが特技だとかいう者までいました。

秦の昭襄王(始皇帝の曽祖父)は孟嘗君の名声を聞いて関心を持ち、ある時孟嘗君が斉の使者として秦を訪れると、彼を宰相に抜擢しようとしました。王の側近が「彼は有能ですが、結局は斉の人間です。秦のためには危険でしょう」と諫めると、それもそうだと命を奪うことにします。それを察知した孟嘗君は、王の寵姫に助けを求め、寵姫が「王への贈り物の毛皮を私にもくれるなら」というので、かの泥棒に贈り物を盗ませて寵姫に渡し、彼女の助けで秦から一目散に逃げ出しました。

秦から逃げるには、函谷関を突破しなければなりません。函谷関は一番鶏が鳴かないと門を開けない決まりでした。そこで鳴きまねのうまい食客が登場して、無事秦から脱出することができました。

前に人間万事塞翁が馬と言うのをアップしましたが、先行き何処で何が起こるか分からないしこういう食客も、誰に助けられるか分かりませんね。

孟嘗君は秦から戻ると斉の宰相になります。やがて孟嘗君の存在がけむったくなった斉王は彼を排除しようとし、これを察知した孟嘗君は魏に亡命します。魏では彼を宰相とし、秦・趙・燕とともに斉を攻撃し、斉王は逃亡先で命を失いました。
斉では新しい王が立ち、再び盛り返してきましたが、孟嘗君は元々の領地・薛(せつ)に戻って中立の立場を取り、斉との関係も改善しました。

孟嘗君の時代から200年ほど後に、『史記』を書いた歴史家・司馬遷は薛を訪れ、この地の気風の荒々しさを感じ取りました。司馬遷はその理由として、かつて孟嘗君がここにおおぜいの食客を養い、その中には侠客など荒くれ者も多かったから、その影響が残っているのだろうと書いています。

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平原君、趙勝

2024-02-04 20:30:16 | 漢詩・古典・エトセトラ

平原君・趙勝

ある時、平原君のは、食客の一人が跛行を引いていたのを大笑いした。嘲笑を受けた食客は大いに怒り、平原君に対して「あの妾を殺してその首を私にください」と言い、平原君はこれを受け入れた。しかしそれは表面だけのことで、平原君はこの食客のことを身の程知らずだと笑っていた。

その後、平原君の下から次々と人が去り、ついには半分になった。どうしてこうなったかを残っていた食客に聞くと、「跛行を引いていた食客が望んだ首を渡さなかったからです。女色に迷い士を守らない人だと失望されても当然でしょう」と言われた。平原君はすぐに妾を殺し、その首を持って跛行を引いた食客に謝った。その後は再び人が集まってくるようになりました。

平原君の家の者が訴訟を起こされ、代官9人が処刑された。平原君は領地に代官を置いていたが、代官達はその税を国に収めていなかったので、徴税官が法に照らし処罰したのである。これに激怒した平原君は徴税官を殺そうとしたが、理路整然と反論されたため、その徴税官の知力と胆力を認めて恵文王に推挙した。この徴税官が趙奢(ちょうしゃ)である。
趙奢は公平に税をかけたため、趙は国庫も国民も豊かになり、更に将軍としても秦の侵攻を退けるなど戦功を挙げた。以降、平原君蘭相如(らんそうじょ)廉頗(れんは)と名将名臣が揃った趙には、各国を侵していた秦も手出しをしなかった。

紀元前266年、魏の宰相魏斉が平原君に保護を求めてきた。魏斉は秦の宰相の范雎(はんしょん)に敵(仇)と狙われており、そのために魏から逃げ出してきたのである。平原君はこれを受け入れて秦から魏斉をかばった。秦の昭襄王は范雎に仇を取らせてやりたいと思い、平原君を秦に招いて「魏斉を殺してほしい。でなければ秦から出さない」と脅した

が、「私が友を殺す男に見えますか」と即座に断られた。次いで昭襄王は平原君を軟禁したまま趙へ使いを出し、孝成王を脅した。孝成王は恐れて魏斉を捕らえる兵を差し向けたが、魏斉は趙の宰相の虞卿と共に夜のうちに逃げ出していた。そして信陵君を頼るべく魏へ戻ったが、信陵君が面会をためらったと聞いて自刎した。信陵君はこの首を趙へ送り、趙は秦に送った。これにより平原君は帰国することができたわけです

紀元前263年、韓は秦に攻められて領土を奪われ、韓の北の領土である上党が孤立するようになってしまっていた。韓は上党を秦に割譲して和睦を結ぼうとしたが、上党の民は反発し守りの馮亭(ひょうてい)と70の城邑が趙へ帰属したいと申し出たため孝成王はどうするかを下問し、弟の平陽君は「帰属を認めれば秦と戦争になるだけである」と取り合わなかったが、平原君は「非常な大利です」と積極的に賛成したので孝成王は上党を趙の領土とした。しかしこのことで秦の怒りを買い、紀元前260年に秦の白起将軍に攻められる(長平の戦い)。この戦いで趙は45万という大量の兵を失い、一気に弱体化した

紀元前259年、秦軍は更に趙の首都のを包囲した。窮地に陥った趙王に命じられ、救援を求めるために平原君が楚へ派遣されることになった。平原君は連れて行く食客二十人を選んでいたが、難事であるため厳選したこともあって、もうひとりが決まらない。この時に食客の一人の毛遂(もうつい)という者が同行したいと名乗り出てきた。平原君は「賢人というものは錐を嚢中(袋の中)に入れておくようなもので、すぐに袋を破って先を出してくるものです。先生が私の所へ来てから3年になるが、評判を聞いていません。お留まり下さい」と断った。毛遂はこれに「私は今日こそ嚢中に入りたいと思います。私を早くから嚢中に入れておけば、先どころか柄まで出ていましたよ」と答え、この返答が気に入った平原君は毛遂を連れて行くことにした。これが「嚢中の錐」の原典である

嚢中の錐 
(のうちゅうのきり)とは袋の中に入れた錐の先が外に突き抜けて現れるように、才能のある人はかくれていても頭角を現す。すぐれた人物は、衆人の中にいても、            その才能によって目立つことのたとえ。

平原君は楚に入り、楚の合従(がっしょう)を説いたが、楚は前に秦に侵攻され、なんとか講和できたこともあって脅威に思い、中々まとまらない。毛遂は剣を握って考烈王の前に立ち「楚と趙が結べば有利。結ばなければ不利。これほど簡単なことが、なぜまだ決まらないのですか」と聞いた。考烈王はその無礼さに激怒したが、毛遂は「楚王様が私に強く言えるのは、腕利きの兵が側にいるからでしょうが、ここからでは届きませんぞ」と返し、「さて我が君の前で私を辱めた理由を聞かせて頂きたい。楚は四千里四方を有し、秦に対抗できるのは楚しかありますまい。

それなのに白起が軍を率いただけで都を奪われ、祖廟を焼かれました。それを恥と思わないのですか。合従は趙のためではない、楚のためである」と説き、考烈王はこれを受け入れた。これに喜んだ平原君は帰国後に毛遂を上客とし、毛遂先生の弁舌は百万の兵に勝る。これほどの人物を見極められない私など、もう人を論じるまい」と言った

 紀元前258年、は趙へ対して援軍を出していたものの、秦から恫喝されたこともあり途中で留まらせて情勢を観察していた。平原君は魏の信陵君の姉を妻としていたので、信陵君に「姉を見捨てるのか」との手紙を出した。信陵君はこれに応え、魏の将軍を殺して軍を奪い、趙へ援軍に出る。また楚からも盟約に従い援軍が出る。しかしその邯鄲は、援軍が来る見込みはあったが、長らくの包囲により武器も木を削った槍程度しかなく、城内の趙の国民は餓死寸前で、子供を交換して殺して食料とせざるを得ないほどの危機的状況だった。

そんな中、兵士のひとりである李同が平原君に「貴方にとって、趙の窮状は他人事ですか」と聞いた。平原君は「そんなことは無い。趙が滅びれば私も滅ぶ」といったが、李同は「今、民は衣類も食料も無く飢えに苦しみ、兵は武器が尽きている。なのに貴方や婦人達は麗美な服を着て、豪華な食事を満腹になるほど食べています。だから他人事と言ったのです。何卒婦人達に仕事をさせ、物資を放出してください。そうなれば民は貴方に感動し士気も上がるでしょう」と進言する。これに平原君は答え、屋敷の門を開け放ち「すべての私財を好きに持っていって良い」と言い、婦人達には炊き出しなどの労働を行わせた。

これに城内の士気が上がり生気が戻ったところで、李同は援軍が来るまでの時間を稼ぐ決死隊を募り自ら率いることを提案し、平原君も承認する。決死隊の募集を始めると、先の平原君の施しもあって3千の兵が志願してきた。李同はこの兵を率いて城外の秦軍へ攻撃を仕掛けた。死ぬ気の兵は一歩も引かず、日に何度も突撃した。この決死の猛攻に嫌気した秦軍が後退したところで信陵君率いる援軍が到着し、秦軍を撤退させることに成功した。決死隊を指揮した李同は討ち死したが、戦後に戦功が評価されて李同の父が李侯となった

信陵君はその後、魏へ帰れないので趙に留まっていた。信陵君がある時に博徒味噌屋の二人を招いて歓談した(信陵君にて書いてあります)。この話を聞いた平原君は「信陵君は博徒と味噌屋のような者を相手にするのか」と馬鹿にした。このことを聞いた信陵君は怒って「私は彼らが賢明であると前から聞いており、このような交わりを恥とするあなたは外面だけを取り繕ったものであるようだ」と言って出て行こうとした。平原君は信陵君が居るからこそ趙は秦に攻められていないこともあり、慌てて冠を脱いでまで引き止めた。
この話が伝わり、以後は平原君の元を去って信陵君の元に行く客が増えたといいます。
食客は結構小さい事にも敏感ですね。だから党首は気を巡らせて注意しないといけません。

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