針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

サクラを見る会とか

2020-12-28 19:59:55 | 針の政治談議

 弁護士会が安倍晋三に対して「桜を見る会」の収支について告訴をしたのですが、東京地検が任意で事情聴取したとありましたが、立件しない方針で調整しているそうだ。前にも大阪地検が森友や加計の件で同じように告訴されたのに全くといってうごかなかったんですが、今回も流してしまおうという魂胆なのでがっかりというかやっぱりでしたね。

 針外しが此処でワイワイ言っても何の足しにもなりませんが、もっと社会的に上の人達が動かないのは何故なんだろうね。安倍とか菅は昔の言い方だと「国賊」なのに、全然と言って意見を言わないのは裏で物凄い圧力が掛かっているのかしら。

 一寸前に新井将敬(こんな字だったか)とか農水大臣で「何とか還元水」で熊本出身の松岡利勝が自殺に追い込まれたが、実は自殺ではなくて、自殺に見せかけた他殺ではなかったのか?。ドアノブにネクタイで首吊り自殺したような姿で発見された。下手な事を云うと何されるか分からこない。だから実は真実を述べようとする機運がしぼんでしまっているのかも。前から感じていたんですが、怖い話だが、何か裏の組織があるような気がしてならないね。

 前にも書いたのだが、針の小学校からの同級生で検事になったのがいましたが、オームの担当になったりしてテレビにも映ってましたが、ある時上から、証拠の改ざんを指示されて検事を辞めてしまった。(後日クラス会を下時に『お前を見直したぞ』と言ってあげました。

 でもね、検事を辞めると弁護士になると知っていましたか?。裁判所で判決を出す時に、地検の人間と弁護士は裏表。裁判長は「やくざの手打ち」じゃないけど量刑(を決める時)の折半を平気でやります。殺人事件でも2,3人殺さないと死刑判決は出ない。検察が死刑を求刑しても弁護士が情状酌量を訴えると、10年とか15年とかに落ち着いてしまう。裁判官が両方の顔を立てている証拠だ。

 こうなると、司法もへったくれもありゃしない。歴代の自民党の党首の中にはまともな人はいますが、最近の者に中にはすこぶる金に塗れた者が増えて来たね。以前金丸と云う者が佐川急便から段ボールの箱に札束詰めたのを10箱とか受け取った事があった。(1箱1000万はいっていた)(むかしの話なので数間違っていたらお許しを)
今回の安倍を始め、今の議員は裏で何しているか分からないね。

 議員とか国家公務員をしょっぴいて刑罰を食らわせると、国に対する忠誠が損なわれるというんですかね?だから穏便に済まそうとする意図が見え見えだ。

 今、菅が総理大臣になっていますが、何でも空手部だったらしく、目付きが悪い。平気で恫喝する感じがある。安倍の時代に、官房長をやっていた菅が裏ですべて画策していたんだろうね。官僚もかなり脅かされていたのかも。

  今コロナの感染が大問題と、なっていますが、森友、加計 桜で金を使わなければ、PCR検査だって容易に出来たし中国みたいに「プレハブの病棟」を建てて、簡単に感染者を隔離出来ていたはずだ。
  要請、勧告を無視した店には「罰則」を設けるなんて言っていますが、8人で会食した菅、6人で酔っぱらった橋本聖子、鶏卵生産会社「アキタフーズ」の元代表から、大臣室などで合わせて現金500万円を受け取った吉川元農水大臣、等、そいつらは罰を受けないのかね?。

 語り出したら沢山有り過ぎる。安倍がこんなだから、他の奴等も右へ倣えだね。コロナにしても経済経済とかそっちばかり向いている。その経済という言葉に騙されてはいけないね。それは飲食店の影響ばかり言ってますが、実は経団連とか大企業からの献金を受けているので、そっちからの、批判を避けるのが根本にありますね。

そのくせ店ばかりに責任を負わせてばかり。大企業への義理立てを店の責任にすり替えている。

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調度いいね。

2020-12-23 15:36:51 | 針でも出来る簡単料理・食い物の話し。

「ヒロシ」の「ボッチキャンプ」が流行語に選ばれる程、今キャンプが再び流行ってきました。なんか、「男のロマン」を感じさせられるのかね?。火を点けるにもメタルマッチをわざわざ使うし。不便さを楽しむのに生き甲斐を感じるんだね。

針外しはそんな根性を持ち合わせてはいませんのでお山の家で「ぬくぬく」しているのですが、先に単独で山に行く事が多くなってきたんで、一人料理が増えて、ヒロシがキャンプで使っていた一人用の「鉄鍋」に目を付けた訳です。

 鍋は「土鍋」アルミ鍋」とか色々出ているんですが、Lodgeの鉄鍋にいいのが有りましたんで、早速購入です。これ小型のダッチオーブンだね。鉄の蓋なので多少圧力が掛かるし、蓋の裏の突起があるので美味さがこのイボによって具材に還元されます。言うなれば、キッチンのダッチオーブンの小型版です。蓋を取って煮ればうどんだろうがホウトウだろうが何でもござれだね。油をひいて肉も焼ける。直ぐに、短時間で温まるし、なかなか冷めないしね。

          

 で、試しにホウトウ鍋を作りました。料理にはとてつもなく縁が無い針外しなので最初に作るのはこんなもんだ。レシピを見ながら何とか作ったね。レシピ通りなので美味しいのは当たり前なのですが、どんぶり替わりに鍋からそのまま食べられるし、とてもいいね。

              

次に、野菜の詰め合わせがあったので、「クッパ」をつくりました。
   
            
             美味そうだったんで、写真撮らないで先に食べちゃった。


         

こんなん出来れば鍋焼きだろうが、湯豆腐だろうがすき焼きもつ煮等何でもござれだ。ナベノ素も沢山出ているし。コノ「鍋の素」かって、それに具材を合わせてもいい。

         

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落鳳坡

2020-12-20 17:25:03 | 漢詩・古典・エトセトラ

 小説『三国志演義』においては、龐統の兄弟が諸葛亮の妹を娶り、義兄弟となっている。赤壁の戦いでは周瑜に対して曹操を破るための献策を行なう。周瑜は曹操軍の軍船を火攻めにしようと考えていたが、一隻に火をつけても他の船は逃げてしまい、燃え広がらないということが問題となる。そこで龐統は連環の計と呼ばれる策を周瑜に勧める。つまり、船という船を鎖で留めてしまい、これによって曹操の軍船は「大地を進むが如し」。揺れがぴたりと止まり、船酔い等心配が無くなったので曹操、大いに喜んだとあります。

龐統自身が周瑜の陣営に偵察にやって来た蒋幹をうまく欺き、曹操の軍営に潜り込み曹操と面会しこのことにより、火がついても曹操軍の軍船が逃げられないようになり、劉備・孫権の連合軍による火攻めで曹操軍は大敗したということになっている。また、曹操の臣下となっていた親友の徐庶が火計に巻き込まれないように、別方面へ派遣されるようにし向ける策を授けている。

その後、周瑜の葬儀に参列した諸葛亮に対面し、劉備に仕えるよう誘われる。彼の才を惜しんだ魯粛によって孫権に引見されるが、醜い風貌と、孫権の問いかけにきちんと答えなかったことから疎まれてしまう。

 次に龐統は劉備に面会するが、劉備がその風貌を見て諸葛亮が推挙する龐統かどうかが判らず、閑職の地方県令を宛がってしまう。すると龐統は1か月の間酒ばかり飲んで職務を怠け、村人から訴えられることになる。しかし、劉備が派遣した張飛に詰問されたところ、溜まっていた1か月分の仕事を半日で全て片付けてしまう。これによって、龐統がその才能を劉備に認められることになり、さらに劉備は自身の行為を戒めることになっている。諸葛亮が正で龐統が副。絶えず孔明が目立っていたのか龐統は日陰の身っぽくなって、いつも『自分の死に場所』を探していたとされています。

 また、その死については、劉備の白馬を貸して欲しいとねだり、しぶしぶ劉備が貸し与えた白馬に乗って、劉備の代わりに危険な間道を進んだため、「落鳳坡」という場所で劉備と間違えられて、張任配下の伏兵に射殺されたという描写になっている。

なお落鳳坡という地名は実在し(現在の四川省徳陽市です。)、落鳳坡の石碑付近には龐統墓がある。

   

   
龐統が劉備の愛馬の白馬に乗って落鳳派に向かったであろう道と落鳳坡。

  

 周瑜に命によって「矢」を集めた孔明と船を鎖でつないだ龐統は常人では考えられない英知の持ち主ですが、その二人を得た劉備でさえ漢の天下を取り戻す事は出来なかった。司馬徽(水鏡先生)曰く、「伏龍、天に昇らんと欲すると雖もその時を得ず」ですね。

いくら大天才でも、「天の時」「地の利」「人の和」が揃わないと目的を掴み取る事が出来ないんですね。


  

因みに落鳳坡をグーグルアースで見ると左下の黄色印の処となっていますが、前述した徳陽県は右上の処。成都の西と見るより徳陽県の方が地理的にみても適していますね。

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随分と芽が出てきました。

2020-12-17 10:30:42 | サボテン・植木・花

 購入した木瓜に今年伸びた新枝が出てそれがだらしなくなっていたので、剪定と挿し木を試したいので、切って植えました。植えたのは11月の1日です。

切った枝をまず、水に漬けて「水揚げ」「この字で良かったのかなあ)水上げが適しているかもね。」をします。私は、水の中に「メネデール」を極少量入れました。目安は1日です。その後、苗床を用意して。「ルートンの粉」を根元に付けて用土に割りばしで穴を開けて、植えて行きます。

前から新芽を出そうとしている芽は赤っぽい色だし、茎の途中から突然、黄緑色の新芽が出たりします。こういう芽が出るとすごく嬉しいですね。

        
木瓜は日本の古来からある自生種である、「草木瓜」と中国から渡来した「真木瓜」と「木瓜」の3種類がありますが、大変強い種なので、案外初心者でも簡単に芽吹きさせる事が出来ます。

        

これに気を良くして前回山に行った時に、「姫コブシ」のヒコバエを数本切って挿し木にしてみましたら、木瓜より早く芽を出してくれました。この状態では山に直植えは出来ません。雪が積もっての越冬は不可能ですからね。此処から新しい枝が出て翌々年位に個別に鉢植えして、更に大きくなったら山に持って行けるかもです。

こんな感じで簡単に芽吹きが出来ると図に乗って、公園に植わっている月桂樹(ローリエ)をちょっと拝借して、植えてみたら、これまた新芽が出ました。ローリエは針外し特製(?)の燻製ベーコンの匂い付けに大変重宝で、頻繁に使いますので、ネンガラネンジュウ切って持ってくる訳にいきません。坊主になってしまいます。また買ってきても1パック400円くらいしますので一寸無駄に経費が掛かってしまいますね。

        

ま、挿し木はこの位にして置かないと。狭いベランダがいっぱいになってしまいます。「ローズマリー」も4鉢ありますしね。

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木瓜の剪定

2020-12-15 10:35:13 | 立科・信州の話。

木瓜とかの樹形を整えるのに剪定はかかせませんが、下手糞がやると、花芽を落としてしまい。翌年花が咲かなくなってしまったなんてあります。で、新梢の上から2/3から1/2を切ると花芽に影響なく切る事が出来るそうなんだが、木瓜の場合はちょっと違ってきます。それは翌年の花付きに影響があるのではなく、翌々年の花付きに影響があるらしいのです。バラでの剪定が有ったのでこれを参考にします。第3図にある2/3の高さにするというのは、枝の上の1/3は花芽が付かないという事です。結果、背丈が2/3になるという事です。また。切り落とす時外に向いている葉芽の上で切る事を心掛けます。


       

*ただ盆栽の場合は花後の剪定と同様、花芽を2~3個残すように3cmほどの長さで枝を切るのが基本です。

木瓜の剪定は何時良いのか?。夏に行える剪定の仕方

木瓜は11月になると花芽を確認出来る。木瓜は萌芽力が旺盛な木なので枝葉が伸びて鬱陶しくなった頃に剪定をする人が多い。花芽はぜんねんの年に伸びた枝に付き、今年伸びた枝には付かないので、バッサリと切っても影響はないかも知れないが 問題はその次の年に関して影響がある。

 夏になるとグングンと枝葉びる。でも伸びた分をすっかりと切ってしまうと来年に花芽を付ける枝が無くなってしまう事になる。
なので今年枝が伸びたとしてもバッサリと切るような事をせず、今年伸びた枝を半分残すとか、適度に短くする事を推奨する。
木瓜は落葉樹なので本来は葉が落ちる冬に行うのが普通。その方が花芽も確認出来るし、樹勢にも影響が出る事は無い。切った後でボウボウに伸びる事も無い

11月~2月の剪定時期に行うと良い点は、葉が無いので内部の込み入った処まで確認しながら、混んでいる枝を切り取る・
新しく伸びた枝には花芽が付かず、次の年に花芽が形成される。という事を念頭に置いて「咲き終わってから伸びている枝を適当に短く剪定する事を推奨する。」

要は枝にどの位花を咲かせたいか、残す枝の長さを決めて切るという事になる。

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唐の玄奘三蔵

2020-12-13 19:29:32 | 漢詩・古典・エトセトラ

          
最も、本人らしいの肖像画です。              旅の途中では、かなり苦難があったんだろう。最後の銅像は地蔵菩薩を思わせる。

 玄奘は、仏典の研究には原典に拠るべきであると考え、また、仏跡の巡礼を志し、貞観3年(629年)、隋王朝に変わって新しく成立した唐王朝に出国の許可を求めた。しかし、当時は唐王朝が成立して間もない時期で、国内の情勢が不安定だった事情から出国の許可が下りなかったため、玄奘は国禁を犯して密かに出国、役人の監視を逃れながら河西回廊を経て高昌へと着た。

 高昌王である麴 文泰は熱心な仏教徒であったため、当初は高昌国の国師として留めおこうとしたが、玄奘のインドへの強い思いを知り、金銭と人員の両面で援助するとともに、通過予定の国王たちに対しての保護・援助を求める高昌王名の文書を持たせてくれた。玄奘は西域の商人らに混じって天山南路の途中から峠を越えて天山北路へと渡るルートを辿って中央アジアの旅を続け、ヒンドゥークシュ山脈を越えて印度に入ります。

ナーランダ大学では戒賢(シーラバドラ)に師事して唯識を学び、また各地の仏跡を巡拝した。ヴァルダナ朝の王、ハルシャ、ヴァルダナの保護を受け、ハルシャ王へ教えを広めています。

 こうして学問を修めた後、西域南道を経て帰国の途につき、出国から16年を経た貞観19年1月(645年)に、657部の経典を長安に持ち帰った。幸い、玄奘が帰国した時には唐の情勢は大きく変わっており、時の皇帝・太宗(李世民)も玄奘の業績を高く評価したので、16年前の密出国の件について玄奘が罪を問われることはなかった。

 太宗(李世民)が玄奘の密出国を咎めなかった別の理由として、玄奘が西域で学んできた情報を政治に利用したい太宗の思惑があったとする見方もある。事実、玄奘は帰国後、太宗の側近となって国政に参加するよう求められたが、彼は国外から持ち帰った経典の翻訳を第一の使命と考えていたため太宗の要請を断り、太宗もこれを了承した。その代わりに太宗は、西域で見聞した諸々の情報を詳細にまとめて提出することを玄奘に命じており、これに応ずる形で後に編纂された報告書が『大唐西域記』であります。

 そして、これが清の時代になると、作者は長春真人、丘処機と信じられており、ティモシー・リチャード による初の英訳本(上海・1919年刊行)においても作者名は丘長春とされていた。丘処機と言えば全真教、全真七子の一人だ。(これは前にも書いてあります。)晩年、成吉思汗に招かれ「不老不死」について述べられて、「養生の道」を説きます。

 呉承恩作者説は、魯迅(阿Q正伝や駱駝車子が有名ですね)。『中国小説史略』(1924年、訳書は平凡社東洋文庫全2巻)や「中国小説的歴史的変遷」などで提唱したもので、比較的新しい説である。それ以降、呉承恩が作者として扱われることが多いが、証拠はない。

で、正史はこんな感じですが、あっしらが知っている西遊記はというと唐僧・三蔵法師が白馬・玉龍(白馬)に乗って三神仙(神通力を持った仙人)、孫悟空、猪八戒、沙悟浄、を供に従え、幾多の苦難を乗り越え天竺へ取経を目指す物語、全100回。(108回完結じゃなかったっけ)。西遊記は三国志演義、金瓶梅、水滸伝、、とともに中国四大奇書と呼ばれています。

三蔵法師 俗名は陳江流。三蔵法師は尊称、法名は玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)。この人物には実在のモデルがいるが、劇中の内容は史実とは全く異なる。生まれる前に父を殺され、母を奪われて、生まれてすぐに川に流されるが、金山寺で拾われずっとそこで育てられる。観音菩薩の命を受けて天竺へと取経の旅へ遣わされる。その際、太宗皇帝と義兄弟となった。前世で天界にいた時は釈迦の第二の弟子、「金蝉子」(こんぜんし)であったが、仏法を軽んじたため下界に落とされた。西域より帰還の後、未来に旃檀功徳仏(せんだんくどくぶつ)という仏に成る記別を釈迦如来より与えられる。

孫悟空そん ごくう
 “悟空”は仙術の師匠・須菩提祖師からもらった法号であるため、「実名敬避俗」に準じ“孫行者”と呼ばれる。孫悟空の孫は猿の昔の呼び方である「猢猻」から来ている(“猢”は縁起が悪いため、子と系で釣り合いの良い“猻”の獣偏を取った“孫”を名前に取り入れ、悟空は十番目の弟子だった為“穎悟円覚”の悟の字から取り入れた)。36通りと72通りの変化のどちらかを選ぶのだが、猿の性で朝三暮四じゃないけど数の多い方を選んだ。はじめの通称は水蓮洞にいた頃「美猴王」(びこうおう)、天界時の自称は「斉天大聖」(せいてんたいせい)。天界の乗っ取りを目論み下界の妖怪を引き連れて反乱を起こすが、釈迦如来の策で五行山に五百年間拘束される。罪を償うべく三蔵の弟子として同行し、妖魔を下して取経の旅を支えた。西域より帰還の後、未来世成仏して闘戦勝仏となることを釈迦如来より約束される。


猪八戒 
八戒”は「実名敬避俗」に準じた通称であり、観音菩薩からもらっれた際、雌豚の胎内に入ってしまったため、容姿が豚となってしまう。天界時の官職は天蓬元帥。転生後は福梁山で悪事を重ね、高老荘で翠蘭という人間の女と結婚していたが、先んじて三蔵た法号は「猪悟能」(ちょ ごのう)。天界から地上へと落とさに同行していた悟空と一騎打ちをしたのち旅に加わった。西域より帰還の後、未来世に「浄壇使者」(じょうだんししゃ)となることを釈迦如来より約束される。



沙悟浄  悟浄”は観音菩薩からもらった法号であるため、「実名敬避俗」に準じ“沙和尚”と呼ばれる。悟空と八戒との間を取り持つ役。天界から流沙河に追放され、そこで人を襲う妖怪となり、赤い髪に青黒い肌となった。川に住む妖怪から、そんなんで日本では河童の姿で表現される。中国の本家では河童の概念が有りません。天界時の官職は捲簾大将けんれんたいしょう。西域より帰還の後、未来世に金身羅漢こんしんらかんとなることを釈迦如来より約束され、天界の池に住まうことを許される。


玉龍  西海龍王敖閏の第3太子であり三蔵が乗っている馬に化身している。西域より帰還の後、未来世に「八部天竜」(はちぶてんりゅう)、またの名を天龍八部衆になると釈迦如来より約束され取経のお供となります。

 しかし日本で、西遊記をやるとなると、何で三蔵法師が女の子になっちゃうんだろうね?。一枚目は夏目雅子さん、2枚目は柏木由紀さん(らしい)今は亡き夏目雅子さん、弟の同級生で、当時は大変噂になっていたんだって。

    

八戒役の俳優さん、変てこな帽子被っているし、何回も読んでいる針外しとすると、道化師然としているので、少々おこざめは否めないね。  

   

時代が過ぎて、海を渡るとこうも変わってしまうんだね。

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いよいよ剪定の季節だ。もみじ編

2020-12-06 19:26:31 | 立科・信州の話。

  次回、山の仕事は「羽団扇カエデ」の剪定です。もみじは勢いの良い季節に剪定しますと、切り口から水が出て下手をすれば枯れてしまうのだと。(やった事はありませんが)まあ、危険な事、やってはいけない事は忠告通りにやらないに限るね。「もみじ編」なんておこがましいね。
で、コナさんの「コナの雑記帳」をいつも通り見てみると葉が皆、落ちてしまったね。

         

脚立を出して少しばかり剪定します。忌枝からね。それが終わってから葉がある時の写真を見て混んでいる処を、少し切ってみます。一気にやろうだなんて無謀な事はしません。大切な大事な木ですからね。失敗したら元も子もない。紅葉が綺麗なんで、すっからかんに剪定は出来ません。

         

もうちょっと背丈を伸ばしたいので天芽は切らないでおこうと思ってます。このもみじは春先の「春もみじ」もとても綺麗なんです。新葉がとても綺麗!。また。赤い花が咲くと(うんと小さいですけどね)それもいい調和をなします。

              

少し、剪定を試みましたが、写真を撮ったんですが、山のPCに切り取り保存してしまったので、持ってくるの忘れました。1眼に入れて残っているはずだったんですがね。ま、尤もその写真を見ても、何処を切ったのか判別しにくいと思いますがね。

何はともあれ、いい感じの樹形にしたいもんだ。

 

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周瑜と魯粛

2020-12-02 07:26:30 | 漢詩・古典・エトセトラ

 赤壁の戦い後、孫権は江陵に目をつけます。曹仁の守りは堅かったが、周瑜は甘寧を夷陵に進撃させ、曹仁と徐晃の部隊を分断した。曹仁が夷陵に軍を送り包囲すると、呂蒙の計略を採用し、凌統だけを守備に残して軍のほとんどを甘寧の救援に引き連れ、曹仁の包囲を打ち破り甘寧を救援した。

江陵県(こうりょう-けん)は荊州に位置する県。県人民政府のある郝穴鎮は長江に面した港であり、荊州市の中心部からは東南(下流)にあたる。
             

そのまま長江の北岸に陣を据えて江陵攻撃を続行したが、この時、正面決戦の末に、周瑜は右のわき腹に流れ矢を受けて傷を負った周瑜は重傷のまま戦に臨み、将兵が周瑜に激励されるのでした。曹仁側には大量の犠牲者が続出し、曹仁を敗退させた。周瑜は偏将軍に任命され、南郡太守の職務にあたった。その功により、孫権は周瑜を都亭侯に任じた。さらに奉邑として下雋・漢昌・劉陽・州陵を与えられ、江陵に軍を駐屯させた。

この時、周瑜は孫権に上疏し、劉備を篭絡して劉備と関羽・張飛を分断し、両将を自ら率いると献策したが、孫権は今は曹操に対抗するため、一人でも多くの英雄が必要な時期と考え、また劉備を制約させることはできないだろうと判断し、周瑜の提案は却下された。また魯粛は曹操という大敵に対抗するためには劉備に力を与えておくべきと考え、孫権に進言した。

周瑜は、曹操が赤壁での疲弊から軍事行動を起こせないと判断した。その間に劉璋の支配が動揺していた益州を占領し、益州は孫瑜に任せた上で、関中の馬超と同盟を結び、自らは襄陽から曹操を攻めるという計画を立て、孫権の元に出向き、その同意を取り付けた。しかし、その遠征の途上に巴丘にて急逝した。36歳であった。

 「姿質風流,儀容秀麗」に美男子として描かれている。孫策の挙兵にかけつけ、江東制覇に協力し、孫策の死後も孫権に仕え、張昭と並ぶ重臣となった。赤壁の戦いでは史実と同様、主戦派の重鎮として登場するが、劉備と孫夫人(呉妹君)の結婚を提案する。劉備の使者として呉に滞在していた孔明にその出会いのときから翻弄され続ける損な役回りを負わされている。自らの策を全て見透かす諸葛亮を危険視し暗殺を企むも果たせず、終始ライバル視しながらも遂に敵わず病に倒れる。

孔明にうらをかかれて臨終の際にも諸葛亮からの挑発的な書状を読み、天を仰いで「既に周瑜を生みながら、何故諸葛亮をも生んだのだ!(既生瑜、何生亮)」と血を吐いて憤死するという最期となっている。

 曹操だか、曹植だか忘れてしまったが、銅雀台で詠んだ大喬・小喬は正史では「大橋」とされ、橋公の娘で孫策の妻としか記述されていない。三国志周瑜伝によれば、199年12月、大喬は妹の小喬と共に皖城を占領した孫策軍の捕虜となり、孫策の妻妾の一人に加えられた。裴注の『江表伝』には、孫策が小橋を娶った周瑜に「橋公のふたりの娘は故郷を失うことになったわけだが、われわれを婿どのにすることができたのだから満足だろうよ」と言ったという。しかしその後、四カ月足らずで孫策が死亡、所生の子供の記録もない。孫策の妾にされた直後、袁術・劉勲の妻子らと共に呉へ送致された後の消息は一切不明である。ましてや、レッドクリフで曹操の元に行くなんて話は全く以てインチキですね。

野史『庸庵筆記』では、複数の魅力を併せ持つ女性の一人として名が挙がる。なお、夫の死後の数カ月後に殉死したと伝承される。

生まれてすぐ父が死去し、祖母と生活した。裕福な豪族の家に産まれたが、施しを盛んにし、やがて家業を放り出し、財産を投げ打ってまで困っている人を助け、地方の名士と交わりを結んだ。

 片や魯粛はというと魯粛の体躯は雄々しく立派で、若いころから壮士の節義を持ち、奇計を考えることを好んだ。天下が乱れんとしていたので、乱世が深まると撃剣・騎射などを習った。また私兵を集め狩猟を行ない、兵法の習得や軍事の訓練に力をいれていた。このようなことから、郷里の人々には理解されず、村の長老には「魯家に、気違いの子が生まれた」とまで言われていたそうです。
            

            
 魯粛は名声が高まると、袁術に請われ配下となり、東城県長に任命された。しかし魯粛は、袁術の支離滅裂な行状に見切りをつけ、一族や若い 遊侠達を多く含んだ郎党を引き連れて、居巣の周瑜を頼った。やがて、周瑜とともに長江を渡り、曲阿に家族を住まわせた。このとき、魯粛は私兵を引き連れて、渡河を阻止しようとする役人達を弁舌と武力で説得し、長江を強引に渡った。孫策に目通りし、孫策からもまた非凡さを認められ尊重されたという
後に「外においては周瑜、うちに向かっては魯粛に問え」と言わしめる程になりました。

周瑜に付いては此処で述べるには書く事が山のようにありますので、色々調べるといいですね。

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