針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

物置小屋に電灯を付けます。

2024-04-29 00:23:58 | DIY

お山の夜はそれはもう真っ暗です。夜に作業をする訳ではありませんが、ちょっとした物を取りに行くのに小屋に電気がないととっても不便ですね。昼間作業していて足りない物を夜に作るときに小屋に道具を取りに行くのにも明かりがないと不便でしょうがないね。

で東京でリフォームをしているのにどうしても余ってしまったLEDランプを山に持って行って小屋に付ける事を思いついた次第です。
これ台所の照明で使っていたので光量が足りるか分かりませんが、小屋の中で物を探すの位には十分だと思いますね。

          

 

ただ問題は屋外の電源ソケットがデッキの向かって左にあるのでどうしても長いコードを用意しなければなりません。ログなので一番近い部屋のコンセントを使いたいのですが木に穴を開けるのがどうしても嫌なんです。
上の汚い図のように小屋のデッキの下にコードを沿わして行くのですが距離がある分だけ面倒なのは仕方ありません。

   

 矢印の先に屋外コンセントがあるので、此処からデッキの下に這わせて反対側で線を立ち上げて此処にアイプレートを取り付けてワイヤーを這わせ小屋の中に電線を引き込みます。
ワイヤーを張るのにターンバックルを使います。

     
                                             ターンバックルとアイプレート

LED ソケットの裏側には電線を入れる穴が2セットあるので反対側から他の機会用のソケットを取り付ける事が出来ます。小屋の中での簡単な作業もこれで出来るというもんです。家のリフォームで1年近く山に行けてませんでしたので、早く行って片付けたいものです。

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公孫鞅 衛鞅(えいおう)商 鞅

2024-04-19 22:45:18 | 漢詩・古典・エトセトラ

商 鞅(しょう おう 紀元前390年~紀元前338年)は、中國戦国時代の秦国の治家・将軍・法家であり兵家です

姓は姫、氏は公孫。名は鞅、また、衛の公孫系の為衛鞅(えいおう)とも言います。なお商鞅とは、後に秦の商・於に封じられたため商君鞅という意味の尊称です。法家思想を基に秦の国政改革を進め、後の秦の天下統一の礎を築いたが、性急な改革から自身は周囲の恨みを買い、逃亡・挙兵するも秦軍に攻められ戦死しました。

彼は衛の公族出身で、魏の恵王【在位:紀元前370年~紀元前335年)の宰相・こ公叔座の食客となり、中庶子に任ぜられます。

公叔痤は死去する際に、恵王に後継の宰相として公孫鞅を推挙した。しかし恵王はこれを受け入れず、公叔痤はこれを見て「公孫鞅を用いることをお聞き入れくださらないならば、私はやはり臣下よりも主君を優先せねばならぬから(鞅が他国に行けば強敵となるため)お前を殺すように進言した。お前はすぐに逃げた方がよい」と述べたが、公孫鞅は「私を用いよというあなたの言葉を王が採用出来ないならば、私を殺せというあなたの言葉も王が採用するはずがありません」と述べて、かえって逃亡しなかった。公孫鞅の考えどおり、恵王は公叔痤が耄碌(もうろく)してこんな事を言っているのであろうと思い、これを聴かずに公孫鞅を登用も誅殺もしなかった。

                  

公孫鞅は魏を出て秦に入国し、宦官の景監を頼って秦の若き君主孝公に面会する事が出来た。公孫鞅は自分の弁舌が発揮するのはここぞとばかりに孝公に向かって熱弁した。最初に会った時はまず最高の為政者である帝の道を説いた。しかし、孝公は退屈そうにして途中で居眠りしてしまった。次に会った時は一つ程度を下げて王の道を説いた。しかし、この時の孝公の反応は変わらず、三度目に会った時にさらに程度を下げて覇の道を説いた。そうすると孝公は熱心に聞き入り、無意識の内に公孫鞅ににじり寄るほどにこの話を気に入った。

孝公の信任を受けた公孫鞅は国法を変えようとしたが、孝公は批判を恐れて躊躇した。これに対して公孫鞅は疑行は名なく、疑事は功なしと述べて孝公を励ました。「疑」は確信を欠いたあやふやな気持ちをいう。なにごとであれ、やるからには自信を持って断行しなくてはいけない。あやふやな気持ちでやったのでは、成功もおぼつかなければ名誉も得られないという意味。この言葉は後世にて故事成語となった。

しかしなお甘竜(かんりゅう、かんりょう)・杜摯(とし)といった者たちが「法は慣習となり人民も役人も馴染んでおり、法を変えずとも臣民を従わせるのは徳によってなされるべきです。道具は利が十倍なければ変えぬもの。法ともなれば百倍なければ」と旧制を変えるべきではないと述べたが、公孫鞅はこれを「夏・殷・周はいずれも異なる法で王となり、五覇の法も異なります。古来より賢者が法を定め、愚者はただそれに従うものです。国に利無くば慣習に従う必要はありません。殷の湯王・周の武王は慣習に従わず王者となり、夏の桀・殷の紂王は変えず滅びました。法とは慣習に従うから良い、反するから悪いとするものではありません」と論破し、孝公も公孫鞅の言を由とした。

商鞅変法 墾草の令 、紀元前359年第一次変法  紀元前356年、孝公は公孫鞅を左庶長に任じ、変法(へんぽう)と呼ばれる国政改革を断行する。これは第一次変法と呼ばれる。主な内容は以下の通り。

  • 戸籍を設け、民衆を五戸(伍)、または十戸(什)で一組に分ける。この中で互いに監視、告発する事を義務付け、もし罪を犯した者がいて訴え出ない場合は什伍全てが連座して罰せられる。逆に訴え出た場合は戦争で敵の首を取ったのと同じ功績になる。
  • 一つの家に二人以上の成人男子がいながら分家しない者は、賦税が倍加させられる。
  • 戦争での功績には爵位を以て報いる。私闘をなすものは、その程度に応じて課刑させられる。
  • 男子は農業、女子は紡績などの家庭内手工業に励み、成績がよい者は税が免除される。商業をする者、怠けて貧乏になった者は奴隷の身分に落とす。
  • 遠縁の宗室や貴族といえども、戦功のない者はその爵位を降下する。
  • 法令を社会規範の要点とする。

まず、民衆に法をしっかりと執行することを信用させるために、三丈もの長さの木を都である雍の南門に植え、この木を北門に移せば十金を与えようと布告した。しかし、民衆はこれを怪しんで、木を移そうとしなかった。そこで、賞金を五十金にした。すると、ある人物が木を北門に移したので、公孫鞅は布告通りに、この人物に五十金を与えた。こういったことで、まずは変法への信頼を得ることができた。

しかし、最初は新法も成果が上がらず、民衆からも不満の声が揚がったが公孫鞅は意に介さなかった。公孫鞅は法がきちんと守られていないと考えた。孝公13年(紀元前349年、太子の嬴駟(後の恵文王)の傳である公孫虔(こうそんけん)が法を破ったのでこれを処罰する事を孝公に願い出た。公子虔を鼻削ぎの刑に処し、また教育係の公孫賈を額への黥刑に処し、さらにもう一人の太子侍従の祝權(しゅくけん)を死刑に処した。このために公子虔・公孫賈の両人は恥じて外出しなくなり、公孫鞅を憎悪したという。この後は全ての人が法を守った。

そうすると法の効能が出始め、10年もすると田畑は見事に開墾され、兵士は精強になり、人民の暮らしは豊かになり、道に物が落ちててもこれを自分の物にしようとする者はいなくなった。秦の民衆には、はじめ不満を漏らしていたのに手のひらを返して賞賛の声を揚げる者もあったが、公孫鞅はそのような者も「世を乱す輩」として、容赦なく辺境の地へ流した。これにより、法に口出しする者はいなくなり「変法」は成功を収める。

第二次変法   紀元前354年、元里の戦い紀元前353年の佳陵の戦いで魏が斉に大敗すると、紀元前352年には変法で蓄えられた力を使い秦は魏に侵攻し、城市を奪った(安邑・固陽の戦い)。同年、この功績で公孫鞅は大良造に任命された。

紀元前350年秦は雍から咸陽(かんよう)へ遷都した。この年に公孫鞅はさらに変法を行い、法家思想による君主独裁権の確立を狙った。今回の主な内容は以下の通り。

  • 父子兄弟が一つの家に住むことを禁じる。
  • 全国の集落を県に分け、それぞれに令(長官)、丞(補佐)を置き、中央集権化を徹底する。
  • 井田を廃し田地の区画整理を行う。
  • 度量衡の統一。

秦では父子兄弟が一つの家に住んでいたが、中原諸国から見るとこれは野蛮な風習とされていた。一番目の法は野蛮な風習を改めると共に、第一次変法で分家を推奨したのと同じく戸数を増やし、旧地にとどまりづらくして未開地を開拓するよう促す意味があったと思われる。二度の変法によって秦はますます強大になった。

紀元前341年の馬陵の戦いで斉の孫臏(そんぴん)(孫子の兵法はこの孫臏だとする説があります。この臏は足切りという意味も。)によって魏の龐涓(ほうけん)が敗死すると、紀元前340年には魏へ侵攻し、自ら兵を率いて討伐した(呉城の戦い)。またかつて親友であった魏の総大将である公子卬(こうしごう)を欺いて招き、これを捕虜にして魏軍を打ち破り黄河以西の土地を奪った。危険を感じた魏は首都を安邑(現在の山西省運城市夏県)から東の大梁(現在の河南省開封市)に遷都し、恵王は「あの時の公叔痤の言葉に従わなかったために、このような事になってしまった…」と大いに悔やんだという。この功績により公孫鞅は商・於という土地の15邑に封ぜられた。これより商鞅と呼ばれることになります。

比類なき功績で得意の絶頂であった商鞅だが、強引に変法を断行した事により太子の傅を初めとして商鞅を恨む人間を大量に作っていた。彼らの多くは旧来の貴族であり、変法によって君主の独裁権が確立されると彼らの権限が削られていくので商鞅を恨んでいた。商鞅の腹心であった趙良は主人の身を案じて「あなた様は今すぐ宰相を辞し、他国に赴くことをお勧めします」と厳重に忠告した。だが商鞅は「趙良よ、私の身を案じるのは有難いが、私はまだまだやることがたくさんあるのだ」とこれを退けたという。これを聞いた趙良は禍を恐れて他国に逃亡したという。

紀元前338年、孝公が死去し、太子駟が即位し、恵文王(この時点では恵文君)となった。この時にかねてより商鞅に恨みを持つ新王の後見役の公子虔・公孫賈ら反商鞅派は讒訴し、商鞅に謀反の罪を着せようとした。恵文王も太子時代に自分を罰しようとした商鞅に恨みを持っていたので、危機を悟った商鞅は慌てて都から逃亡し、途中で宿に泊まろうとしたが、宿の亭主は商鞅である事を知らず、「商鞅さまの厳命により、旅券を持たないお方はお泊めてしてはいけない法律という事になっております」とあっさり断られた。商鞅は「法を為すの弊、一にここに至るか」(ああ、法律を作り徹底させた弊害が、こんな結果をもたらすとは…)と長嘆息し、いったん魏に逃げるが、公子卬を騙した事を忘れていない魏は、軍を発し即座に国内から追放した。仕方なく商鞅は封地の商で兵を集めたが、秦の討伐軍に攻められて戦死した。恵文王の厳命でその遺骸はで見せしめとして車裂きの刑(くるまさき)に処せられ、身体は引き裂かれて曝しものとなった。

秦はそれまでは内陸奥地の起源を持ち、中国中央とはやや異なった風習でもあり、野蛮国と見なされてきた。しかし彼によってそういった面は改革され、さらに魏に勝ったことで強国として一目置かれることとなった。

また、恵文王以降の秦の歴代君主は商鞅が死んだ後も商鞅の法を残した。商鞅より半世紀前、呉起(ごき・孫氏、呉氏の兵法もとしてゆうめいですね)商鞅のように厳しい法を残したが、そちらは呉起の死後に廃止されている。このため王と法の元にひとまとまりとなった秦は、門閥の影響が強く纏まっていなかった楚などを着実に破っていく。最終的に秦が戦国時代を統一できたのは、商鞅の法があったためと言っても過言ではない。商鞅の言の通り「旧習に従わず王者となり、変えなかったものは滅んだ」のである。

現代では政治家および法律学者(法家)としての評価が高いが、戦国時代には稀代の将軍・軍事思想家(兵家)としても敬服されていた。『荀子』「議兵篇」において、荀子は、戦国時代の名将として商鞅(原文では衛鞅)を田単ら他二人と共に上げている(ただし、荀子自身は商鞅等四人を小手先の兵法に通じた者として批判し、春秋時代の覇者や、古代の王者よりは下としている)。商鞅の軍事思想を記録したものとして、『漢書』「芸文志」は『公孫鞅』二十七篇を記載しているが、後に散逸した。

なお、伝説的ではあるが、蘇秦(そしん)はその弁舌を生かす活動を始めた際、まず周を訪れたが相手にされず、次に秦を訪れた。彼は恵王に「軍事教練を強化すれば、帝と称することが出来るようになる」と説いたという。しかし王はこれを拒否した。その理由の一つが商鞅を処刑した後であり、弁舌の士を嫌ったのだという。蘇秦はその後合従(がっしょう)の連盟を作ることに成功し、そのため蘇秦は15年にわたって国外に出られなかった。

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中国のお酒(種類)

2024-04-14 20:42:21 | お酒
中国酒の種類について
中国酒とは中国で製造されている酒。多種の穀類といろいろな薬料を配合し作られた麹が独特の香りを出しています。主な中国酒は黄酒、白酒。文化大革命後は節約の一環で果酒の生産が奨められた。現在、生産量が多いのはビールで生産量は世界一である醸造法、原料によって蒸留酒、醸造酒、果酒、薬酒に分けられます。

 

【醸 造 酒】 原料はもち米、うるち米、きびなど。歴史が古く四千年以上ある世界で最も古い酒。色が黄色い。度数は12度~18度。老酒…長期間熟成させた黄酒
(代表的な酒)(黄酒)
紹興加飯酒、恵泉酒、醇香酒、丹陽封缸酒、九江封缸酒、寿生酒、沈缸酒、福建老酒、連江元紅、苜莉青、珍珠紅、即墨老酒、大連黄酒、杏花黄酒、汾州黄酒、丁坊酒 

            
よく、中国の小説を読むと、女の子が生まれると。酒を(老酒が多い)仕込んで、嫁入りの時に出して皆にふるまいます。因みに中国の嫁入りは9歳から11歳・11歳は遅い位。なんでそんなに早いかというと、大人になるまで嫁ぎ先の家風に馴染ませ、仕来りを教え込まれる訳で、お金で買われます。これが結納金な訳です。富裕層ではこれがお嫁さんの持参金、になります。大概は今までの生活に掛かった費用を支払う訳ですね。

三侠五義に出てくる錦毛鼠(きんもうそ)の白玉堂がとある村の酒屋に入って酒を注文するとその店の主人が「当家の勧盤」で御座います」と言って出されたのを「駄目だ、駄目だお前には娘がいるだろう。その仕込んだ酒を甕(かめ)ごと持ってこい」と言うくだりがあります。

              
                        甕というのはこの位の大きさです。


【蒸 留 酒】(白)
原料は高粱、トウモロコシ、芋類 麦 黍。(色が透明)現在、中国でゃ黄酒より多く生産されています。口当たりがまろやかで甘く強い香りがあります。世界三大蒸留酒の一つとされています。
(代表的な酒)
茅台酒、汾酒、瀘州老窖特曲酒、西鳳酒、五粮液、六曲香、剣南春、瀘州老窖特曲、全興大曲酒、郎酒、董酒、坊子白酒、景陽春、滄州薯干白酒、叢台酒、迎春酒、燕潮酩、古井貢酒、口子酒、宝豊酒、特制黄鶴楼酒、白雲辺、武陵酒、徳山大曲酒、全州湘山酒、桂林三花酒、洋河大曲、双溝大曲、長楽焼、竜浜酒、哈爾浜高粱糠白酒、金州特曲、

凌川白酒、関帝聖酒、天津高粱酒、千山白酒、孔府家酒、板橋宴酒、賖店老酒、湘泉酒、酒鬼酒、寧城老窖、宋河糧液、沱牌曲酒、二鍋頭酒
   (白酒十大銘酒) 貴州茅台酒(評価が高い酒)、汾酒、西鳳酒、五粮液、剣南春、董酒、古井貢酒、洋河大曲、濾州特曲、郎酒、

      
【果 酒】(醸造酒)
原料は果物(葡萄、リンゴなど)。白酒に果汁を混ぜて作った酒。最も醸造が早く始まった酒。度数12~16度。味わいが濃厚で甘口。
(代表的な酒)

玫瑰香紅葡萄酒、味美思、煙台紅葡萄酒、民権紅葡萄酒、民権干紅葡萄酒、中国紅葡萄酒、青島白葡萄酒、沙城白葡萄酒、民権白葡萄酒、豊県白葡萄酒、北京干白葡萄酒、
貴人香、長白山葡萄酒、化葡萄酒、通化人参葡萄酒、渠県紅桔酒、渠県広柑酒、紫梅酒、香梅酒、長白山五味子酒、熊岳苹果酒、瀋陽山楂酒、北京桂花陳酒、茘枝酒、
杏露酒、楊梅酒、桂花陳酒(金木犀を漬けた清朝宮廷の秘酒)

            
       杏露酒、桂花陳酒はシンガポールなんかに行くと」必ずといって良いほど女性に勧められる。

【薬 酒】
原料は薬草や動物のエキスを混ぜたもの。黄酒、白酒、果酒に薬草や動物のエキスなどを漬け込んだ滋養強壮の酒。漢方薬。
(代表的な酒)

北京蓮花白酒、杏花村竹葉青酒、広州五加皮酒、霊芝酒、玫瑰露酒、菊花酒

酒に関しては説明いらないね。実際、飲んでみないと分かりません。大体日本で手に入るか分からないですからね、『三侠五義』とか『聊斎志異』、読みながらまたは『李白』、『杜甫,』『杜牧』を読みながらお酒をたしなべば、味わいがより一層深くなるのは間違いないないね。

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小野道風

2024-04-08 22:07:35 | 御先祖様

小野道風

    名前は良く知っていますが所謂どういうお方は全くと言って知りませんね。花札の柳の下で蛙が一生懸命、葉に飛びつこうとしているのを見て悟り書の大家になったと記憶していますがその他は全くしりません。(とうふう・みちかぜ)とも言われています)平安時代の前期~中期の人物で894年(寛平6年)に生まれて967年2月9日(康保3年12月27日に亡くなりました。貴族・能書家で参議篁(小野篁殿)の孫です。大宰大弐、小野葛絃の三男、官位は正四位・内蔵頭です。

小野小町とは従兄(いとこ)に当たりますそれまでの中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いた人物と評されています。後に、藤原佐理と藤原行成と合わせて「三跡」と称され、その書跡は野跡と呼ばれています。醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇、冷泉天皇に仕えました。兄弟には兄の好古がいます。子には奉時、長範、奉忠、奉明、公時がいます。


         

小野葛紘が尾張国春日井郡、上条(現在の愛知県春日井市松河戸)に滞在中、里女を母に葛紘の三男として生まれたとされる。史実としては確認できない、あくまで伝承の類でありますが、江戸時代の18世紀には既にこの説が広まっていたとあります(本当かよ。)

                              
                     これは道風の書ではありません。こんなに下手ではありませんね。(そう針外しが書いたんだ)
                しかし、よく恥ずかしくもなく、出したもんだ。(習ってないからしょうがねーだろ)

醍醐朝の延喜5年(905年)には弱冠12歳にして大嘗会(だいしょうえ)の屏風の色紙形を書く。延喜20年(920年)能書の撰により非蔵人に補されると、翌延喜21年(921年右兵衛少尉に任ぜられる。延長3年(925年〉少内記となるが、同年に勧修寺(かんしゅうじ)で行われた醍醐天皇の生母である贈皇太后(なんと読むか分かりません)・藤原胤子’(たねこ?)の法要において、道風は供養願文の法華経の清書役に抜擢されました。

以後道風の宮廷内における能書活動が活発になっていく。延長4年(926年)興福寺の寛健が入唐するにあたって、当時の日本の文士文筆を唐に対して誇示するために、菅原道真らの漢詩とともに、道風の書いた行書・草書各一巻を携行しており、既に日本を代表する能書家になっていた様子が窺われます。のち、醍醐朝では書家として以下の活動があります。

  • 延長5年 (927年)2月、大納言・藤原清貫の60歳の賀にあたり、小野忠則とともに金銀泥下絵の色紙に『法華経『薬師経』などを書いています。
  • 延長5年(927年)12月、円珍に智証大師の諡号が贈られた際、諡号の勅書を浄書(智証大師諡号勅書)
  • 延長6年 (928年)6月、清涼殿、南廂の白壁に漢唐の名君賢君の徳行を揮毫
  • 延長6年(928年)12月、内裏の屏風六帖に、大江朝綱の漢詩を浄書。なお、この下書が『屏風土代』であります。
  • 延長6年(928年)醍醐寺の西大門、東大門の額を揮毫。南大門にも道風の草書があげられたが、得意の草書を選定した醍醐天皇の鑑識眼に対して、道風は「あな、賢王や」と感激している。
  • 延長7年 (929年)9月、紫宸殿の障子の賢臣像の銘を書き改める

朱雀朝では従五位下に叙勲され、内蔵権や右衛門佐(うえもんのすけ)
を務めた。朱雀朝での活動には以下がある。

  • 承平2年(932年)11月、大嘗祭において屏風の色紙型を揮毫
  • 承平3年(933年)8月、康子内親王の裳着(しょうちゃく)で屏風の色紙形を揮毫
  • 天慶2年(939年)11月、『慈覚大師伝』を書写
  • 天慶5年(942年) 4月、醍醐寺釈迦堂の門額を揮毫

村上朝に入ると、天慶9年(946年)右衛門府の官人が職務を怠り会昌門を開かなかったとして処罰され、右衛門佐であった道風は贖銅(しょくどう)2斤の刑に処される。さらに、翌、天暦(てんれき)元年(947年)には障りの由を伝えないまま荷前使の差遣に参加しなかったため解官の憂き目に遭った。その後は以下の活動を行っている。

  • 天暦3年(949年)11月、屏風の色紙形に『坤元録』の屏風詩20首を書く
  • 天暦7年(953年)8月、朱雀院御周忌の一切供養に際して『目録之外廿六巻』を分担執筆
  • 天暦8年(954年)8月、文章博士・橘 直幹の民部大輔を兼任を請う申文を清書
  • 天徳元年(957年)右大臣・藤原師輔の大饗において屏風の色紙形を書く

天徳2年(958年)正月に道風は山城守への任官、あるいは近江権守の兼帯を請う奏状を村上天皇に奉じる。その願いは叶わなかった一方で、その文章は平安時代の代表的な詩文集を集めた『本朝文粋』に収められている。同年3月に新たに乾元大宝(硬貨)が鋳造されることになったが、眼病(老人性白内障)の進行により細字を書くことが困難になっていたため、銭文の土代(字様)を書くことができなかった。しかし、第一の能書としての評判は変わらず、翌天徳3年(959年)5月に藻壁門の額字を揮毫。さらに、8月に清涼殿で行われた詩合において、慣例であれば左右の各10首の清書は別人が書くべきところ、村上天皇は両方の清書を道風が行うことを望む。

そこで、左方は勅令により道風が清書し、右方は右兵衛督・源 延光
の邸宅に強引に連れ込まれて酒でもてなされたあげく道風が清書させられている。しかしこの時の清書も「能書之妙」「義之再生」と絶賛された。康保3年(966年)12月27日卒去。享年73。最終官位は正四位下行内蔵権頭。
とまあ、履歴はこの位にして

能書としての道風の名声は生存当時から高く、当時の宮廷や貴族の間では「王義之の再来」ともてはやされた。『源氏物語』では、道風の書を評して「今風で美しく目にまばゆく見える」(意訳)と言っている。没後、その評価はますます高まり、『書道の神』として祀られるに至っている。

晩年は健康を壊して随分と苦しんだ。痛風に苦しんでいたらしく、65歳ぐらいの頃から目が悪くなり、67歳ぐらいの頃には言語までが不自由になったという。その頃からの道風の文字はのびのびした線ではなくなり、後世ではこれを「道風のふるい筆」といっている。

勅撰歌人として『後撰和歌集』に5首の和歌作品が採録されている

道風の作品は、雄渾豊麗、温雅で優れ、草書は爽快で絶妙を極め、その筆跡を「野跡」という。醍醐天皇は深くその書を愛好され、醍醐寺の榜や行草法帖各一巻を書かせた。

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戦国、趙の丞相 郭開

2024-04-05 12:10:03 | 漢詩・古典・エトセトラ

 紀元前229年、秦王政(後の始皇帝)は天下統一のため、趙に対して王翦(おうせん)を将とした軍を送った。趙の幽繆王(ゆうみょうおう)は当時の趙の名将であった李牧司馬尚(司馬印の父)に防衛させた。秦軍は李牧のために何度も敗れており、今回も李牧の善戦のために苦しんだ。

秦は李牧と司馬尚を排除するため、郭開に大金を送って幽繆王との離間を依頼した。郭開は王に「李牧らは謀反を企んでいる」と讒言する。王も実は先代から功名の高い李牧を恐れていたため、この讒言を真に受けて李牧らを更迭しようとした。しかし、李牧は王命に応じず、司馬尚は身の危険を感じて逃亡して、解任された。王は李牧を捕らえて、これを処刑して葬り去った。

翌年、趙は秦に邯鄲を攻められて滅亡し、幽繆王は捕らえられた。郭開の末路は史書に記載がなく不明である。郭開という奸臣によって廉頗と李牧という名将が葬り去られた結果、趙は滅亡の道を歩んだと言える訳ですね。

郭 開は趙が秦に併合された後、秦王、政に功績を主張して除名を嘆願したが、私腹を肥やしていた事が秦王にばれていて、釜茹での刑に処せられたとなっています。
始皇帝は最初から郭 開を相手にしていなくて、葬り去ろうとしていたという事です。良くに目が眩むとろくな事がありませんね。

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