針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

通臂拳 鉄腕 武田 煕 師範

2023-02-22 08:22:05 | 武道・拳法の話

 通背拳(つうはいけん)は中国武術の1つ。別名を通臂拳(つうひけん)ともいう。腕を鞭のように伸ばし、柔らかく素早く遠くへ伸びる打撃を特徴とする。

通背拳の名は、中国の伝説上の猿「通臂猿猴」(つうひえんこう)に由来する。西遊記にも出てきますよね)

 通臂猿猴の左右の腕は1本につながっており、右腕を伸ばせば左腕が短くなり、左腕を伸ばせば右腕が短くなる。通背拳の武術家が打撃を繰り出す際、その腕が予想を超えて遠くまで伸びて相手を攻撃する様子からの命名とされる。

 正確な起源は不明だが、河北省を中心に中国北方に古くから伝わっており、清代より、北京と天津の2都市を中心に、東北地方でも行われている。その伝播にともなって、現在では多くの系統が存在する。祁氏通背、五行通背拳、劈掛通背拳、回族拳法の白猿通背拳、六合通背、両翼通背、少林通背拳、合一通背などである。

通背拳の有名な武術家には、祁信、修剣痴武田 熙氏(たけだ ひろし、日本人。北京大学留学中に賀振芳より通背拳を学んだ。著書に『通背拳法』他。)などがある。現地では鉄腕ウーデン シーと親しまれてこう呼ばれていました。

                                                                     
                     武田 煕 (バンドやってた時の ギターの 石本先生にそっくりだぞ。)


                                                            通背門の歴史

           小架式を中心とした系図(遼寧省大連市)

       一世   二世    三世   四世   五世   六世

       (大架)┌王占春─
      ┌陳 慶─┤
      │    └張 策┬──呉図南─
  祁 信─┤        │                ┌曲維礼
      │        └┐               ├張安福
      └祁太昌──許天和─┼─修剣痴─┬于少亭─┬陳功年─┴王同順
       (小架)    ┌┘     │王耀亭 │常松勝
               │      │薜義恒 │劉延善
          ?─賀振芳┴──武田熙 │韓鵬遥 │孫徳超
                      │成伝鋭 │王桂芸
                      │王之和 │朱恩成
                      │劉伯央 │張朝善
                      │沙国政 │肖国源
                      │高紹先 │田子華
                      │王家瑞 └張雲珊
                      │高鶴令
                      │王九経
                      │趙恵卿
                      │王侠林
                      │薜春普
                      └林道生


通臂」は、架空の動物「通臂猿猴」からの命名と言われている。通臂猿猴とは、左右の腕が一本に繋がった架空の猿の事で、右腕を伸ばせば、左腕が短くなり、左腕を伸ばせば、右腕が短くなると言われている。(一説にはテナガザルではないかとも言われている。通臂門に伝わる独特の身法に習熟した者は、あたかも腕が遠くへ伸びるように見える
 それが、この通臂猿猴のようである事から、通臂門と名乗ったと言われ、通臂、通臂、通背、通備の中では、最も古い表記であると考えられている。また、場所によっては、劈掛拳を通臂拳、通背拳と呼ぶ事もある。『通背』とは「腰背から生じた力を肢体へ通じさせる」の意味である。また、『通臂』とは「臂(腕)から生じた力を肢体へ通じさせる」の意味もある。しかし、『臂』の力も本来は『背』から発するものであるため、『通臂』の意味も含めて『通背』と表記される事が多いようである。通背門(通臂門)は、河北省を中心とした中国北方に古くから伝えられてきた武術で、現在では多くの分派の存在が確認されている.。

 例を上げると、祁氏通背、五行通背、白猿通背、劈掛通背、少林通背、合一通背、六合通背等である。しかし、そのために起源は、はっきりとしない。一般に言われているのは『猴拳(猿拳)』が元になっているのではないかという事である。猿というと日本では、あまり良いイメージはないかもしれないが、中国において猿は神聖な生き物とされ、特に白猿は神の使いとされている。

 


祁氏通背小架式(五行通背拳)について

晩年には研究の成果を「勢」「法」「理」の三部にまとめあげた拳譜も残している。この拳譜は、中国国家が行った民間武術発掘事業の時に、修の関門徒弟 林道生によって国家に提出され、優秀賞に選ばれている。(優秀賞は全国で三つだけであった)

        五行通臂拳と日本

五行通臂拳の実践者として日本人である武田 熈氏が有名である。

五行通臂拳を日本において最初に紹介したのは、当時の天津武術館所属の鄧洪藻(とうこうそう)であり、鄧は13歳の時に著名な武術家張策、張喆に師事している。

1952年、天津で開催された武術大会において、鄧洪藻は第3位に入賞している。現在鄧洪藻の弟子達が活躍しているが、その1人「楊建生」が一度来日している。

拳法を日本人には教えるな」という風潮の中よく伝授された。これは武田 煕氏の人間性が優れていたんだろうね。

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陳家太極拳

2023-02-19 18:38:50 | 武道・拳法の話

陳家太極拳

張三丰からの流れで陳家溝に伝承された拳法です。(そうだっけ?)陳家溝の人間しか教えを乞う事が禁じられて、用人にやっとなれた楊露禅くらいしかいません。確かに燕青拳(迷踪芸)とかと同じ様に武術として使うとなるとなかなか難しい拳法ですね。

陳家太極拳
(ちんかたいきょくけん、陳氏太極拳陳式太極拳)は、中国河南省温県、陳家溝在住の陳氏一族を中心に伝承されている中国武術です。20年も昔、どっかのテレビ局の女子アナ(中国・元祖太極拳村に・・高野志穂が出会った。この記事は無くなりました。)がこの陳家溝を訪れて,推手を教えて貰ってたのを覚えています。

  陳家太極拳は現在分派した全ての太極拳の源流であり、その動作は剛柔相済、快慢兼備を理想とし、太極拳に特徴的な柔軟さや緩やかな動作だけではなく、跳躍動作や震脚(全身を沈め、大地を強く足で踏む動作)など激しく剛猛な動作をも含んでいる。

 発勁(中国武術でいう全身を協調一致させて威力を発する技術)は太極拳の得意とする暗勁(大きな動作を伴わない発勁法)ばかりではなく、明勁(大きな動作を伴う発勁法)をも得意とし、纏絲勁(てんしけい)・らせん状の捻りを伴った勁)によって全身の勁力を統一的に運用することが他派の太極拳に比べ特異です。
                        
                            
                                     陳 王廷老師                 陳 発科老師

                
                      陳 小旺老師


                                                             

                  
                   

                 楊 露禅老師                      楊 兆甫 老師

一般的な太極拳のイメージからすると豪快な印象を持たれやすいが、慢練(型をゆっくりと練習すること)や、高齢の達人の拳風は剛柔が相済され、和(か)式太極拳や楊家太極拳を連想させるかのように柔らかく緩やかである。楊式太極拳の祖、楊露禅は陳長興(陳氏十四世)に陳家太極拳を学び、陳発科、杜毓沢、陳延(陳氏十六世)に学んだとされる。また松田隆智氏は杜毓沢氏の弟子の戴志哲氏より陳家太極拳を伝授されたとあります。

異説はあるが20世紀に入り、陳発科が北京で大架式系統を教授してから、一般に普及しはじめたといわれる。因みに陳発科が金剛搗捶をやると石畳が割れてしまったとあります。                                                                             
                                                                   
                                NHKの中国語」講座でお馴染みだった楊 名時師範(楊家の直系なんですよ)


拳架(陳式套路の各種スタイル)

起源については現在も議論がある。武術史研究家唐豪以来の通説は、元朝に加担したため明の太祖・洪武帝による「犬の子一匹、生きて残すな」という殺戮によって無人地帯と化していた中国河南省温県常陽村(現・陳家溝村)に1374年、一族の長老、陳ト(これを陳氏初世とする)に率いられ強制移住させられた陳氏一族に家伝として伝えられていた武術が起源であるとされる。その制定者についても諸説ある。陳氏九世の諸家の武術を参考に創始したとする説が有力である。

陳氏十九世陳小旺によると、陳王廷が制定した套路は、洪砲捶百八拳、五套捶、陳式長拳、十五洪、十五砲の五種。

陳氏十四世、陳長興は煩雑な套路を整理し、一路(洪砲捶百八拳、五套捶)、二路(陳式長拳、十五洪、十五砲。これを砲捶とも呼ぶ)を制定した。これを老架式と称する。

さらに陳氏十四世陳有本、有恒兄弟が(世代は同じであるが年代的には少し下がる)これを小架式に改変し、以後、陳長興が制定したものを老架式、陳有本、有恒が制定したものを新架式と呼んで区別していた。その後、陳氏十七世、陳王廷1600年頃 - 1680年頃 明末の文痒生、清初の武痒生)が家伝の武術(陳氏一族が温県に強制移住を命じられるまで住んでいた山西省臨分市洪洞県に今も伝わる通背県?)や、戚継光の『紀效新書』、、陳発(陳氏中興の祖と称される)が新たに新架式(大架式)を制定するに及び、以後、陳有本が制定した新架式を小架式と称するようになった。但し、正式な制定が中華人民共和国成立後のため、今も台湾では小架式を新架式と呼んでいる。そのため日本では呼称に混乱がみられる。

陳式太極拳が広く外部に伝わったのは中華民国初年、第十八世、陳照丕が北京(当時は北平)に出てからだと言われる。照丕が当時の首都、南京中央国術館に呼ばれ、代わりに北平に赴いたのが陳発科である。そういった関係で陳家溝以外では新架式が専ら行われているが、南京付近では老架式も普及している。

この他の陳氏のスタイルとしては陳有本の甥で、陳家溝の隣村の趙堡鎮に婿入りした陳清萍の拳架である趙堡架式と、陳清萍の弟子の李景炎によって考案された忽雷架式がある。

陳式の学習者の間では大架式に対し小架式、趙堡架式、忽雷架式は、形的には非常に似ていて同一視され易い傾向にあるが、動作的にはどれも特徴ある表演(演武)スタイルをとる拳架である。

陳式太極拳の理論書としては、陳鑫(陳品三)の陳氏太極拳図説(陳氏小架式の拳譜)などがある。また、戚継光の『紀效新書』が編纂した『紀效新書』の本文十八巻の一つである拳経には、陳式太極拳と共通する技法が見られる。

伝承者

17代目  陳発科(ちん はっか、陳 發科、1887年 - 1957年)達人。
陳氏太極拳正宗の家系で、陳長興の曾孫。清国河南省温県陳家溝の出身。
1928年に、請われて北平(北京)に出向き陳家溝の武術(陳氏太極拳の大架系統)を指導する。
18代目 陳照旭(ちん・しょうきょく、(1909年~念1960年
父は陳発科。息子は陳小旺。清国河南省温県陳家溝の出身。の出身。最後の第五層功夫と言われる。

 我が家には息子さんの陳小旺「陳氏38勢」のDVDがありますがやはり実際にやられているのを見て真似てからやらないとむりだね。
松田隆智師範の本見てからDVD見たほうがいいね。
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張三丰太極拳の祖

2023-02-15 08:46:07 | 武道・拳法の話

                                              張 三丰

張 三丰(張三豊)(ちょう さんぽう、簡体字:张三丰 (1247年- ?)は、南宋、元、明代に生きた遼陽府、懿州出身の道士・仙人・字は君宝。幼名は全一。日本においては張 三豊とも表記される。伝説的な人物で、存在したかどうかは定かでないね。

武当山太极张三丰.JPG

 しかし、諸事の根拠を明示して論証する学問的態度である考証学の祖である黄宗羲が記した『王征南墓誌名』に張三丰のことを記録しており、その中で内家拳の祖であるなどを記していることから、伝説は多いが内家拳の祖として確かに実在したとする説もある。

ある時(宋の時代であるとも、元の時代であるとも、明の時代であるともいわれています)、武当山で修行をし、陰陽太極の理を究めた張三峯が、カササギと蛇(または孔雀と蛇、あるいは鶴と蛇)が争っているのを目撃し、インスピレーションを得、太極拳をあみ出したというものです。

伝説では、少林寺で修行した後、武当山(湖北省十堰市で)武当派をつくり、太極拳を創設したとされる。

 登場する歴史資料は『明 志』『三丰全集』『広陽雑記』『諸真宗派総簿』『三迤随筆』『淮城夜語・張玄素入点蒼』等。幼少の頃より、才知が抜群で経典・歴史に精通しており、一度目に通したものはすぐ暗唱できた。体や耳が大きく、ひげが矛のようだった。最初に碧落宮白雲長老に師事し、人格を磨き修養を積んでから、全真教の道士、長春子(丘 処機)の教えを学んだ。丘 処機は後に成吉思汗より招聘されて不老長寿の道を問われたが「養生」こそ肝要と問われてその道のない事を説いた。

                                                  ます

    1314年(延祐元年)、67歳になったとき、火龍真人に道教を学び不老長寿の術を得ます。(長春子が不老長寿の道は無いといっているのに之は変だね。)

それから、宝鶏金台観で道教を研究し「三丰道人」と称します。

1324年(泰定元年)77歳になった張三丰は武当山に到達。玉虚台で太極剣を研究し、さらに剛と柔の「両儀四象」で太極拳の三功(内丹太極剣三百八十四招、両儀太極拳三百八十四拳、陰陽拳)を創造した。この成功により仙人となる。仙人になった張三丰は、130歳のときに一度息を引き取るが、埋葬される段階でまた生き返る。

張三丰の名声は朝廷に伝わり、1384年(洪武17年)、明の洪武帝(朱元璋)は137歳になった張三丰を招聘するも辞退される。さらに1416年(永楽14年)に、永楽帝が169歳の張三丰を招聘するがまたも辞退された。

  そんなに生きられたのかよ!?。

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有名な槍の李書文

2023-02-01 16:42:39 | 武道・拳法の話

李書文(り しょぶん、(1864年ー1934年)は河北省滄州市塩山県出身の武術家。字は同臣。八極拳の生みの親。

                                                       
                          李 書文

                                 

  武術の郷と名高い滄州の貧しい農民の家に生まれた。生活苦のため劇団に入ったが、足に重傷を負い家に帰されることになった。故郷に戻った李書文少年は、武術を学ぶことを決心し、黄四海、張景星、金殿臣(蘇昱彰の教則ビデオでは金殿陞 )より八極拳を、黄林彪より劈掛掌を学んだ。昼夜を問わず練習に没頭し、急速に実力をつけた李書文は、師や兄弟子からも一目置かれるようになっていった。ただ、練習の際、誰に対しても容赦がなく、常に対戦相手に怪我をさせ、殺傷してしまうこともあったため、李狠子とあだ名された。

                                       

滄県志の八極拳の記述は、1933年の韓化臣の口述によるもので、

その時、李書文と劉雲樵は山東省の友人の所を訪ねていて、滄県志の制作に関与出来なかった。

韓化臣は羅疃村の人間で、話す内容は主に羅疃村の事であり、八極拳発生の地、孟村に関する情報は少なく、誤りもある。

以下、劉雲樵の考察を記す。

李書文が黄四海の弟子だというのは、韓化臣の誤った情報であり、

李書文は金殿陞の弟子である。

劇団をクビになる程の脚の怪我を負った李書文が、(下肢の強大な功夫を必要とする)武術を修める事が出来たのは、

金殿陞が医術に堪能であり、金殿陞に脚を治してもらった為であり、それこそが金殿陞に弟子入りして八極拳を習う事になったきっかけであった。

そして彼は京劇などの軽業を一生の間最も忌み嫌い、学生達は彼の目の前で軽業をやらない様に警戒していなければならなかった。

しかし彼が機嫌の良く興が乗った時などは、椅子の上で回転して見せたりなど、軽業を演じて見せる事があった。

幼少期に李書文が負った脚の傷の痛みは、彼の生涯の性格を決定づけ、同時に近代の八極拳の歴史の中で最も突出した人物を生み出した事になる。

小柄で痩身だったが、その体格・外見に似合わぬ怪力の持ち主だったと言われる。燕京一の力自慢が李書文に力比べを申し込んだ際、李は長さ三尺の鉄棒を石壁に突き刺しこれを抜くよう言ったところ、男は半日にかけて棒と格闘するも終に抜く事は出来なかったという。また得意技・猛虎硬爬山の鍛錬においては、重さ100kg以上もある石製のローラーを、2m余りの段差がある畑の上階へ投げ上げていたと伝えられる

袁世凱が天津で兵站訓練を行った際、近隣の著名な武術家を教師として招いたが、師の黄四海は老齢を理由に弟子の李書文を推薦した。李書文は師の代わりに天津に赴き、兵士を教練するかたわら、他の武術家と交流を持った。

この時、会長に李瑞東(太極拳)、副会長に馬鳳図(通備拳)を据えて設立された武術家の団体中華武士会に、李書文も八極拳の実力派として参加した。(この時の李瑞東との交流により少林拳の金剛八式が八極拳に採用されたと言う説があり、李瑞東伝の太極拳には金剛八式が伝わっている)

李書文と交流を持った他武術家としては、張占魁(形意拳)張景星(八極拳)、郝恩光(形意拳)、強瑞清(八極拳)、馬英図(劈掛拳・八極拳)などがいる。

実子のなかった李書文は、甥を養子としてもらい育て(李萼堂は甥ではなく実子であると李萼堂の息子、李志成は証言している)武術を教えた。(軍事力の必要性が高まる時勢の中、地方軍閥の将軍に高く評価されていた李書文は、軍事・武術教練として各地に招聘された。1925年には李景林将軍に招かれ、弟子の霍殿閣と共に部隊の武術教官に赴任し、1926年には沈鴻烈に招かれて、息子の李萼堂や魏鴻恩らを伴って山東省へ赴くなどした。

中国各地でその高い実力を知られるようになると、滄州の一流派でしかなかった八極拳は、李書文の名声と共に有名になっていった。

数々の武勇伝(一部後述)に示されるように非常に気性の激しい人間として知られ、晩年は「凶拳李」と呼ばれ恐れられたという。また劉雲樵も李書文の弟子であった頃、(李書文の気性の激しさから)殺されるかと思ったことが何度もあったと述べている

しかし家族は「あまり怖いと思ったことはなかった」と述べており、家族や身内に対しては優しい人物であったと推察されている。大変迷信深い一面もあり、写真などその容姿を直接的に示す資料は一切残されていないとされているが、実孫に当たる李志成がパソコンで作らせた書文とされる写真が存在している(蘇昱彰(台湾)が大陸に残っていた古老に確認を取ったところほぼ正しいらしいと八極螳螂のHPに書いている。劉老師が生きているうちに確認出来なかったのは残念だと述べている)

晩年の李書文は子供好きで、子供たちに武術を教えた。近所の子供たちからは「把式爺爺(武術のお爺さん)」とあだ名されていた。

弟子には、開門弟子たる霍殿閣、後に、 愛新覚羅のボディガードとなる)を始め、長男・東堂、次男・萼堂、三男・義堂の三人の息子、娘婿の孟顕忠、台湾総統府侍衛隊の武術教官であった劉雲樵(関門弟子)張驤五、張立堂らがいます。

武術としては、生涯にわたって槍術(六合大槍)を重視し、拳術や他の武器術を軽視する傾向があった。毎朝起きると必ず槍を練習した。実戦主義であり、動作の大きい見た目だけの技法は、花法套子(華やかだが実戦に使えない技・型)として認めず、招法に重きをおいて、套路を重視しなかった。このため、李書文の八極拳は質実剛健な風格で実戦的として知られた。

八極拳の伝承について、霍殿閣には書文が師から受け継いだものをありのまま伝え、劉雲樵には書文の長年の経験により纏めたものを伝えたとされる。李書文の八極拳は、李氏八極拳と呼ばれ、直系としては孫の李志成に引き継がれている。一番弟子の霍殿閣の八極拳は、現在では霍氏八極拳と呼ばれ、一流を成している。

武勇伝

真剣勝負に於いては負け知らずであったと言われ、その強さに関する様々なエピソードが残されている。山東省で「鉄頭王」と呼ばれた武術家との果し合いにおいては、「あなたは私を三回打って良い、その後に私が一度だけ打つ」と言い放ち、怒った鉄頭王が渾身の力で書文を三度打つもびくともせず、その後に書文が脳天に掌打を打ち込むと、相手の頭は胴に沈み即死したという。また北京にて行われたある武術家との試合では、決め技の前の牽制の突きだけで相手を打ち殺してしまい、逮捕されぬよう慌てて滄州へ帰ったと言われている(劉雲樵のインタビューでは、仲良くなった武術家と武術談議に花が咲き、技を説明しようとごく軽く牽制の一撃を入れたら相手が即死してしまったと話している。)

このように、殆どの対戦相手を牽制の一撃のみで倒したことから「二の打ち要らず、一つあれば事足りる」と謳われた。弟子にも「千招有るを怖れず、一招熟するを怖れよ(多くの技を身に付けるより、ひとつの優れた技を極めよ)」と説いている。八極拳の槍術・六合大槍も得意とし、燕景にて槍術の名人をことごとく倒し「神槍」とよばれ、壁に止まっていた蠅を壁を傷つけることなく全て槍で突き落としたという逸話も残されている。

最期

1934年6月、天津にて逝去、享年70。

死因に関しては、「試合に負けた武術家の遺族に毒殺された」という説と、「病を患ったまま鍛錬を行い、その後椅子に座ったままの姿勢で死亡した」という説が挙げられている

弟子の劉雲樵は毒殺されたと確信し犯人を探して回ったが、結局犯人は見つからなかった。家族は、その死因は病死(脳溢血)だったと述べている

武壇内部の噂として、劉雲樵が李書文の死が毒殺だったと確信したのは、国民党軍の特殊工作員の情報網を駆使した為と言われている。

末裔(家族)に関する諸説

 2006年に出版された書籍『達人 第一巻』 及び『達人 第参巻』 において中国の天津へ李書文の末裔を尋ねた記事がある。しかしながら、李書文が晩年を過ごしたという家屋や墓や練習場そして槍や刀剣など、溥儀のボディーガードを育て、軍の客人と扱われた人物の遺したものとするにはあまりにも(正式な弟子である)劉雲樵らの伝えるものとはかけ離れている。末裔たちの証言も証言者によって辻褄が合わない部分が散見されるが、取材した本人も文中にそれをもらしている。また、証言者によって没年月日すら一致しない。

(武壇内部の噂として、中国共産党に毒殺である事を口止めされているのではないか、とも言われています。)

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形意拳系図

2022-02-11 08:43:26 | 武道・拳法の話

 前回、形意拳の名人、郭雲深師の話をしましたが、「それじゃー」という事で歴代の尊師の写真でも掲載しようと、「麻布暇人友の会」の針外しは考えましたぞ。(もう、いいよって!)そんな事言わずに。

 源流を辿れば、宋末期の「岳飛」になります。兎角、拳法界を始めとして、色々な門派が師祖として崇めています。三国志で有名な関羽とかね。フリガナはこの系図をwebで取ってきましたんでフレマセン。曹 継武以降、図の左側ね。形意拳門派とすれば始祖、岳飛→姫隆武→曹 継武→載 龍邦→李 洛能→郭 雲深ときます。郭老師の兄弟弟子には車 毅斉師、宋 世栄師師、劉奇蘭師がいます。その後、李 存義師、張 占魁師→傳 剣秋師、尚 雲祥師また別の流れで孫 禄堂師がいます。

 

            
                 師祖 岳  飛

                                     
       郭雲深      車 毅斉           宋世栄    李存義             張 占魁

                  
       傳 剣秋            尚 雲祥    李 洛能   孫 禄堂 

各、老師が丸い帽子を被っていますが、辮髪であり時代が清朝である事を示しています。形意拳の派には河北派と山西派がありまして、ちょっとずつ違いがありますね。って針外しが知っているのはこの位ね。

空手とか南派外家拳みたいな拳ではなく、「蜾絲拳」(らしけん)と「跟歩」(こんぽ)。空手の拳は表から破壊して外部を破壊するのに、形意拳の蜾絲拳は錐のように入って内部を破壊します。また跟歩は発勁を生み出す歩法だという事です。(へん!、知ったかぶりめ)

という事であまり喋ると「ボロ」が出るのでここで打ち切りです。(中途半端だなあ)

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半歩崩拳遍く天下を撃つ。郭雲深 (2)

2022-02-06 08:34:50 | 武道・拳法の話

 毎度毎度、皆様を中国古典の世界に引っ張り込んでしまい、さぞ、退屈されていると思い、此処で一寸、気分転換で拳法の話をします。もしかして、以前に取り上げたかも知れませんが、厚かましくも再度?とり上げようと思いますね。

郭 雲深(かく うんしん・Guo Yunshen、推定1820年~1901年頃)は、中国の武術家。形意拳の達人。諱(いみな)は峪生、字を雲深。

                       
                                  郭雲深
河北省・馬荘の人。一説によれば、貧しい鋳物鍛冶の子として生まれたといい、若年から好んで拳術を学んだが、数年学んだものの、何ら得るところが無かったという。後に李能然に遭遇し、語り合ったところ、形意拳は形式が極めて簡素ながら、その道の奥深いことを知り、郭雲深は形意拳に憧れを抱くようになったという。こうして李能然は郭雲深に真誠の心があると見て、その門下に収め、自ら親しく教授することとなる。 郭雲深は李能然の教えを受けても自ら悟ることがあり、いよいよ練功に励みて、数十年の間、朝夕欠かさず修練を続けたという。

 李能然が郭雲深に教えた手法とは、たとえば2人で対練した時など、一瞬の間に二丈の外に投げ飛ばされてしまう、だが、そこには苦痛は無く、あたかも手を軽々と一振りするだけかのようであるのに、身体が浮かされてしまうのである。その後郭雲深は何を学んでもその極意に達しないものは無かったといわれ、南北各地の同道の士と交流すること広く、体験することも多かったという。郭雲深の練った道理とは、つまるところ腹は実を極め、心は虚を極めることにあったと知られ、また兵書を好んで熟読し、奇門遁甲にすぐれていた。

奇門遁甲の創始伝説によると黄帝が蚩尤(しゆう)と戦っていた時に天帝から授けられたとされる。奇門遁甲を解説した詩賦である煙波釣叟悔賦では周の(太公望)や前漢、の張良、(劉邦の軍師)によって作盤方法の整理が行われたとされる。三国時代の蜀の諸葛亮なども用いたとされるが、これは伝説の域を出ない。紀昀(きいん)の『閲微草堂筆記』によれば、奇門遁甲の真伝は単なる占術ではなく呪術の要素も含んでいたようである。

 郭雲深の生涯は波瀾と数多くの伝説に彩られ、敵に半歩進んで五行拳の一つ、崩拳(ポンチェン)の一打を発すると敵は皆倒れた為、人々は「半歩崩拳、あまねく天下を打つ」と賞賛を惜しまなかったという。

       
          崩 拳(空手で言う中段突き)両腕の交差によって突きがよく見えなかったらしい。

 また郭雲深は人を殺め、3年間を獄で過ごしてはいるが、これは義憤に駆られた郭雲深が、ある土地で民衆を苦しめる匪賊の首領の館に害意をもって招かれ、彼にピストルで襲われた際に、愛用の月牙剣(鹿角刀)をもってこれを殺傷して、人々の賞賛を浴びたからであり、また獄での郭雲深は、彼に同情的な官警の者たちの配慮と、彼の義挙に感銘を受けた人々からの多額な献金により、獄での3年間を何不自由なく過ごしたという。

      

 その弟子には、李魁元、錢硯堂、閉門弟子で意拳を創始した王郷斎、孫式太極拳の孫禄堂、「半歩崩拳」の呼び名を継承した尚雲祥などがいる。
また、董 海川(とう かいせん)と皇族(名前忘れた)の御前で手合わせをしたが勝負が付かなく、後に原理が同じであった事から、郭の門派は董の門派(八家掌)を学び、董の門派は郭の門派(形意拳)を学ぶ事にしたとあります。

                                       

                                                                       董 海川

董 海川(とう かいせん、1797年? - 1882年)は、清時代の武術家。宦官・八卦掌の創始者。原名は「海」後に「海川」に改名。 河北省文安県朱家塢村人。家は貧しかったが、武術を好んだ。安徽、九華山にて、「雲盤老祖」(別説では華澄霞(紅蓮長老))に出あい、その武術を伝授される。その後、日々練習を重ね、独自の工夫を加えて八卦掌を創造した。その後、北京に出向き、清朝の王族に認められ、絶技的武林大師と呼ばれる。 有名な弟子には、程廷華と尹福がいます。

最近?、の映画で「グランドマスター」に形意拳とか八卦掌が出てきますね。

         
      葉問(イップ マン)の詠春拳とチャンツイ―,宮若梅(ゴン・ルオメイ)の八卦掌

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蟷螂臂を怒らせて以って車轍に当たる。

2021-12-29 09:21:44 | 武道・拳法の話

「蟷螂のひじいからしてって車軼しゃてつたるがごとし」

一般的には「蟷螂の斧」と言う言葉で皆さんご存知。


   

猶螳螂之怒臂以当車軼ー   荘子 外篇 の中に収められています
(荘子:三十三篇。戦国中期の道家荘周とその一門の思想を記したもの。
原文
猶螳螂之怒臂、以当車軼则必不適任矣。

{書き下し文}
螳螂とうろうひじいからしてって車軼しゃてつたるがごとし。すなわかなら不適任ふてきにんなり。螳螂の臂を怒らして以って車軼に当たるが如し

意解
螳螂かまきりかまを振り上げて 車の車輪に立ち向かっていくことで、無謀むぼうなことのたとえとして引かれている。

風車ふうしゃに立ち向かうドン・キホーテ」 ぞういどあり も同意に使われている。
「猶お蟷螂の臂を怒らして、 以て車轍に当るがごとき、
即ち必ずにんしょうえざるなり。」蟷螂かまきり獲物えものねらうときに前の両足を頭上にかざす姿が、おのるうのにている。虫の世界ではその斧は大きな脅威きょういともなろうが、いくら蟷螂かまきりの向う気が強くとも、これしきの斧では、 小虫以外の、大きな相手に対してはまったく威力いりょくはない。

 即ち、「蟷螂とうろうおの」とは、弱者が自分の分や力をわきまえないで、ただ意気がって大敵に当ったり、 猪突猛進ととつもうしんしたりすることをいうのである。三国志、曹操軍そうそうぐん劣弱れつじゃくさまふうして「蟷螂とうろうおのもっ隆車りゅうしゃ(大車)のすい(轍)をふせがんとほつす。」自分の力量をわきまえる
一、相手の力を知る
彼を知り己を知れば、百戦して百戦、殆うからず」(孫子)を忘れるべきではない。私たちは、日々、何をするにしても大なり小なり、身贔屓、過信によって決断(選択)をしている。その折々に思い出し、より善い選択(決断)ができるよう、在りたいですね。

蟷螂と言えば、蟷螂拳が有名ね。蟷螂拳の伝承者に広く知られる伝説に拠れば蟷螂拳は、清代初期に山東省出身の「王朗」という人物によって創始されたとされている。別説によれば古代より伝わるとしており、古代の兵法書「六韜」に「蟷螂武士」の名があることから、蟷螂拳のルーツと関係があると見る説もある。

蟷螂拳の創始伝説によると、蟷螂拳を創始する以前の王朗は、数多くの門派(流派)の拳を学んで中国全土を巡り、武者修行の途上、各地の優れた武術家と立ち合ってこれをことごとく撃破した。しかし、ついに武術の総本山ともいえる嵩山少林寺に立ち寄った際に、どうしてもある一人の技量の優れた僧侶に勝てず、悶々として悩んだという。王朗がその少林僧を打ち破るべく修行を重ねていたある日、カマキリが蝉を捕らえる瞬間を目撃し、王朗はこれに強いインスピレーションを得て、蟷螂拳を編み出した。

           

王朗は再び少林寺を訪れたが、かつて王朗を打ち破った僧侶も彼に敵わなかった。少林寺を離れた王朗はその後、故郷の山東省に帰り、螳螂拳を澇山の道士に伝えたとされています。

と言う訳で、皆様におかれまして、今年一年、針外しの拙いブログにお付き合い頂きまして感謝に耐えません。年明けは酔っぱらって「グダグダ」していなければ、また早々に立ち上げたいと思っています。また来年も暇ならお立ち寄りくださいませ。それでは皆様良いお年をお迎えくださいますよう。

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名前が混同して

2021-03-08 09:24:48 | 武道・拳法の話

 少林寺の功夫で、名前が飛び交って同一人物かどうか判別がつかないね。特に少林寺四侠女は良く分からない。

例えば厳永春方永春方七娘がどうも判別しない。とWEb検索してみたらある程度の事が分かりました。

方 七娘

 ある日、白蓮寺に顔起誕と曽四という拳士が訪れた。七娘と顔たちは拳法を巡る口論の末、七娘と顔が試合をすることになった。しかし顔の技量は七娘に及ばす、敗れた顔の遺言により曽四は七娘の門下生となったという。後に七娘と曽四は夫婦となり、10数年後に曽四は白鶴拳の全伝を得て、全国に白鶴拳を広めるための旅に出た。その後、清朝によって白蓮寺を追われた七娘と曽四は再会を果たし、福建省東北部の詠春で白鶴拳を広めたという。ただ、方慧石は還俗していないなら娘がいたというのは少し信じられないですよね。

厳  詠春
詠春拳という名称については、厳詠春という女性の名から取ったとされている。彼女は中国武術史上、最も強い女性拳法家「少林四侠女」と呼ばれ詠春。色々と謂れが多くてどれが本当かはわかりません。厳詠春の父、厳二はある事件によってタイやミャンマー国境に程近い四川省の大涼山まで逃亡をし、そこで豆腐を売って生活をしていた。厳二は地元の少数民族から四川梅花拳(五枚尼姑伝の拳法)などの南派少林拳を学ぶ。厳詠春はそれらを父から学び改良したという。また厳詠春が鶴と蛇の闘争を元に創案にしたとする説もある。

 蛇鶴双形拳法は洪拳(はんけん)の洪熙官(ハンシークアン)との合作だという説も有名です。(傍ら、厳詠春という名は当時の武侠小説に登場する主人公の名前であったという実在の人物を疑う意見もあるうえに諸説も存在する。たとえば古伝の永春拳の創始者の一人と伝わる五枚(五梅)尼姑が、四川省の大涼山に隠れそこで詠春拳を作ったという伝承や、至善禅師が南少林寺の「永春殿」で練習していたためという説など)。

五枚尼姑=方 七娘
 彼女をルーツとする拳法で、もっとも有名なのは永春拳。厳永春という尼僧が五枚師姑の弟子で、彼女の拳法を簡化させて防身術として永春拳を編み出したという説もあります。 これは父親の羅漢拳から娘の方七娘が永春白鶴拳を編み出し、その簡化として永春拳が分派したという説とは若干差異がありますが、いずれにせよ仮託でありましょうからそのように語られたエピソードの向こうに真相はあるのでしょう。あるいは方家の七番目の娘というのが還俗前の五枚師姑を現していたとしてもおかしくはない。いずれにせよ、永春白鶴拳の女性開祖説武術の祖とされているのが五枚師姑です。白鶴拳(はっかくけん)とは、白鶴門拳法の総称。鶴拳。福建省とその対岸の台湾で大流行し、台湾では非常に有名な拳法である。実戦的で修練に即効性があるとされ、修する者は多い。技の豊富さではなく、深めていくメソッドに武術としての凄みを主眼においている。

 白鶴門に伝わる開祖伝説によると、清朝康煕年間(1662年 - 1722年)に生まれた福建少林寺の僧で少林十八羅漢拳の使い手である方慧石(方種とも)の娘、方七娘によって創作されたとされる。方七娘は16歳の折、鶴(白鶴仙人とも)の動きに触発され、父親から習得した少林十八羅漢拳に鶴の形意、姑娘歩(クーニャンホと言われる歩法。纏足の女性が歩くような歩法)を合わせて白鶴拳を編み出したといわれる(沖縄に伝わった白鶴拳の古文書「沖縄伝武備志」によれば「三年にして学成る」とある。)。その後方七娘は、白蓮寺を教練所として白鶴拳の普及を始めたとあります。

方 永春

 永春白鶴拳と詠春拳の両派の創始期に、五枚大師が関与しているとの逸話が伝えられている。一説では五枚大師が永春白鶴拳と詠春拳の原型を弟子に伝え、それらが独立し永春と詠春となったという伝説もある。
技術的には福州鶴拳、他白鶴門、他福建南拳などと同系列にある。永春白鶴拳は、文字通り白鶴拳の一派である。その由来は、伝説によれば五枚大師の弟子である方詠春が創始したと言われている。福建省の永春県地方で始まったため、永春の名前を拳種に冠するようになったという説である。
さらに、もう一つの説に、泉州少林寺の永春殿ない内で練習されていたことから「永春」の名を掲げられたという説が、雑誌「武林」1984年5月号で紹介されている。
「方永春説」
方永春は浙江省の方振東の娘である。方振東は武術と医術に長けた人物であった。永春は方振東晩年の子供だったため溺愛し、その衣鉢をつがすべく医術・武術をのニ術を熱心に伝えた。成人するとともに永春は結婚するも、その生活は続かず、不幸な結末を迎えた。
結婚生活に失敗した方永春は浙江を離れ福州の地に下り尼僧となった。この地で鶴の動きに学び、父振東に教わった技法を合わせ編んだのが永春白鶴拳であると言われている。
一方で、方永春ではなく方七娘とする説もあるが、名前以外は同じ説であることからもともと同一人物であるとの説もある(方七娘の父の名は方掌光という)。

ちなみに、少林寺の、有名処を紹介します。

広東十虎 王隠林、蘇乞兒、鐔済筠、黄麒英、鐵指陳、蘇黒虎、黄澄可、鄒泰、黎仁超
東莞三傑 莫清嬌、皮碟、王老佐
少林五老(五雄) 五枚尼姑白眉道人、憑道徳、至善和尚、苗
少林三雄 方孝玉、方美玉、方世玉
少林四侠女 苗翠花陸阿采、方永春、紅小雲
少林八傑 陸飛鵬、竜彪、尚志、謝福、李錦綸、洪熙官、胡恵乾
少林七奸 李流芳、陳景昇、高進忠、宋承思、方魁、馬雄、白安福

方 世玉 伝説の人物?。

 広東省肇慶の出身とされ、この地域を中心に伝承されてきた。父は方徳、母は武林の名手である苗翠花。幼い頃から母から武術の訓練を受ける。方孝玉、方美玉、方世玉の3人兄弟。
10歳のときに武術の達人を試合で殺してしまい、追っ手から逃れるために福建少林寺に入山。そこで修行を積む。
下山後、民衆を苦しめる悪人たちと戦い、人々から尊敬を集めるが、清朝政府による福建少林寺焼き討ちの際に若くして死亡してしまう。


黄 飛鴻   ワンスアポン ア チャイナで有名な方だね。

流派は南派少林洪家拳で、始祖・洪煕官の直系の弟子。素早く的確な蹴り技は「無影脚」と賞された。「無影脚」はもともと女性武術家の技であったが、その夫である宋輝鏜から洪家鉄線拳の型と交換で教わったといわれる。
広東省南海の人、1847年生まれ。黄飛熊とも。父の黄麒英は「広東十虎」の一人に数えられた武術の達人。黄麒英は息子には学問を修めさせたいと当初は武術を教授しなかったというが、十二歳頃には家伝の拳法をほぼ修得し、さらに黄麒英の師である陸阿采、また林福成、鐵橋三に師事したとされる

 鉄線拳は鉄橋三の創始した型であるが、鉄橋三の高弟・林福成が仏山の街頭で演舞中、誤って見物人に怪我を負わせてしまった際、治療を助けた黄飛鴻に感謝して伝授したとも。空手のナイファンチ(鉄騎の型)はこの鉄橋三の流れと解釈しています。

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秘宗拳と詠春拳について。

2021-02-19 20:28:45 | 武道・拳法の話

 秘宗拳については以前にも少し書きましたが、ブルース・リーの「ドラゴン危機一髪」の尊師の写真が「霍元甲」になっており、秘宗拳(燕青拳、迷蹤芸 迷踪芸)と詠春拳が混同されてしまっているのでまた書く次第です。ブルー・リーの詠春拳は少林寺尼僧の厳詠春によって創設された拳法です。
       
              大侠・霍 元甲
秘宗拳(秘踪拳)は主として河北省などに伝わる武術。別名として、燕青拳、迷蹤芸(迷踪芸)がある。迷蹤芸の名は複雑な歩法を用いることに由来するとされる。

 秘宗拳(燕青拳、迷蹤芸)の開祖は『水滸伝』の登場人物「浪士の燕青」であります。浪士とは伊達男という意味ね。燕青の主人である盧俊義が燕青に伝え、燕青から後世の伝人に伝えられたとする場合もある。伝説では、燕青は北宋に対する反乱軍の将であるため、伝人は開祖(宗師)の名を秘したことから秘宗拳と呼ばれたとしている。秘宗拳に限らず、開祖を武侠小説に登場する人物や伝説上の人物に仮託することは珍しいことではなく、類似した例は日本武道にも見られる。盧俊義が燕青の体に見事な彫り物(入れ墨)を彫らせた事も有名です。

近代においては、上海精武体操学校(上海精武体育会の前身)を創設した静海(天津)の人、霍元甲の迷蹤芸がよく知られている。霍元甲は家伝の武術を父である霍恩第に学んだと言われている。また南京中央国術館の姜容樵李元智は河北省滄州に伝えられた秘宗拳を陳玉山より学び、劉雲樵は槍の李書文に拝師する前に張耀廷より秘宗拳を学んでいる。また、大連に伝わる秘宗拳は蘇明遠に始まると言われている。

 中国は燕青拳の由来にはいくつの仮説があります。 1、菩提達磨が発明した。2、少林寺僧侶、緊那羅王が発明した。元朝、紅巾軍は少林寺を攻撃した。緊那羅王は敵を退ける、燕青の名を借り、「燕青門」を創立した。3、この拳法の起源は河北燕州と山東青洲地域、ゆえに「燕青拳」と言う。

               
        平凡社、浪士の燕青、けい天柱(けいてんちゅう)の任原(じんげん)を投げ飛ばす。

秘宗拳の套路(型)

秘宗拳の套路として秘宗長拳(燕青架子)、小護掩(小虎燕)、四路奔打、練手拳、綿掌拳などがある。秘宗長拳は太極拳のようにゆっくりと練習される套路であり、「少林慢架子」と呼ばれることがある。 姜容樵は霍元甲とは伝承系統が異なる秘宗拳(秘宗長拳)を書籍で公開している(一部に太極拳と共通する技法名が見られる。)。秘宗拳の迷蹤芸は無影拳と呼ばれることがある。

詠春拳
 古来より永春拳とも咏春拳とも呼ばれ、またこれまでに多くの分派が生じており、近年「咏春白鶴拳」や「紅船咏春拳」、「詠春拳」はそれぞれ別門派として扱われるようになっている。異なる点として、古いものほど洪家拳に近い趣があること、古い「咏春拳」には詠春三大手と呼ばれる基本手型が存在しないことなどがあり、他の南派少林拳発生との関連もあいまって、定義することは難しい。ただし「永春拳」と称していたものから「言」偏のついた「詠春拳」と称するようになったのは、詠春拳王と呼ばれた広東省佛山の武術家及び湯液家、梁贊より以降に限られており、この系統での套路(形)を、小念頭、尋橋、標指の三つに梁贊がまとめたからだと考えられる。これについては後から他門派の技法や形を取り入れている混合的な流儀も存在する。

詠春拳の歴史と伝説 南少林寺と起源
詠春拳の発祥には清朝に対するレジスタンスや、粤劇(広東オペラ)の発祥が関わっていると言われる。創始者とみなされている者としては、至善禅師、五枚尼、苗顕、厳詠春、方永春、張五(攤手五)などの名が残る。それ以降の伝承者の名称には粤劇における役名も多く、古伝の永春拳と粤劇はその創成期において歴史を共有していたと考えられる。これは古伝の永春拳が洪家拳(洪拳・洪熙官)と関連が深く、紅船戯班粤劇の旅巡業の劇団、一座は船で移動していた)内で、散逸した南派少林拳の伝承を受け継ぐ為に技術交流が頻繁に行われていたからとみられている

厳詠春から紅船戯班娣

詠春という名称については、厳詠春という女性の名から取ったとされている。彼女は中国武術史上、最も強い女性拳法家「少林四侠女」と呼ばれ詠春。

 厳詠春の父、厳二はある事件によってタイやミャンマー国境に程近い四川省の大涼山まで逃亡をし、そこで豆腐を売って生活をしていた。厳二は地元の少数民族から四川梅花拳(五枚尼姑伝の拳法)などの南派少林拳を学ぶ。厳詠春はそれらを父から学び改良したという。また厳詠春が鶴と蛇の闘争を元に創案にしたとする説もある(傍ら、厳詠春という名は当時の武侠小説に登場する主人公の名前であったという実在の人物を疑う意見もあるうえに諸説も存在する。たとえば古伝の永春拳の創始者の一人と伝わる五枚(五梅)尼姑が、四川省の大涼山に隠れそこで詠春拳を作ったという伝承や、至善禅師が南少林寺の「永春殿」で練習していたためという説など)。

 佛山の茶葉商人であり後に厳詠春の夫となる梁博儔がそれを学び、そして更に古伝の永春拳は梁博儔の唯一の弟子である広東省佛山の商人、梁蘭桂へと受け継がれていった。梁蘭桂は粤劇をこよなく愛しており、佛山から粤劇の「紅船戯班」が旅巡業にやって来た折りに、そこの役者であった黄華寶と船員の梁二娣に永春拳を教えることとなった。激しい修行の末、黄華寶と梁二娣は古伝の永春拳を継承し、これ以後、古伝の永春拳は、広東省周辺の民間芸能である粤劇の興行一座であった「紅船戯班」の内部で伝承されてきたとされている。

方七娘も有名ですよね。方家の三人、方孝玉、方美玉、方世玉が少林三雄として有名です。そのうちの一人方世玉(ファン シーユー)が特に有名です。また洪拳の洪 煕官(ハンシークアン)も有名です。

てな感じで引用して書きました。

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いよいよ、明日。(今日16日)

2015-04-15 20:48:35 | 武道・拳法の話

針外しのとっつあんはサッカーが好きなのだが、ボクシングも好きなのだ。何故かって、武道ですからね。で、いよいよ待ちに待った、タイトルマッチ、山中慎介君の試合が明日やるのだ。

彼、いいですなあ!。男が惚れると言うやつです。男前だし、真の強さを持っていますし。強烈な「神の左」はとって魅力なのだわさ。

彼を見ていると、何故jか水滸伝に出てくる「浪士の燕青」が被ってきます。一撃で倒す彼の強さ、あの形意拳の 郭 雲深、半歩崩拳、遍く天下を打つ(半歩崩拳、遍打天下)のような、相手に打つ余裕を与えない強さもあります。


                                    


                                    

以前、亀田興毅君に挑戦状を突きつけたが未だに実現していないね。今度の相手は誰だろう?。8度目の防衛だとか。早くみたいもんですね。

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山中伸介

2014-05-05 06:25:28 | 武道・拳法の話

 先日、どこのチャンネルだかわすれちゃったけど、(ケーブルTVの専門CHだと思ったけど)山中伸介のタイトルマッチを見ました。長谷川穂積のもやってたかな?。針は専ら山中君の方をメインにみていましたがね。

いやー、相変わらず強いですねー。 

  

強烈なボディー打ち。ボディーが決まるから左も決まる。  

 

 久々に強い選手が出てきたぞ。これからは、山中君と井岡君の時代ですね。

                           

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陽侠と陰侠

2010-04-14 05:11:11 | 武道・拳法の話

 針の好きな愛読書には、生涯の書、「三国志」、「三侠五義」「三銃士11巻完結」その他、ありますが、この中の、「三侠五義」の話。 侠とは侠客の事。で三侠とは北侠事、欧陽春、南侠事、御猫展照、双侠の丁兆蘭、丁 兆惠と陥空島の五鼠、五鼠(ごそ)とは
鑽天鼠(天をくつがえす)の盧方(ろほう)
徹地鼠(穴を掘り起こす)の韓彰(かんしょう)
穿山鼠(山をうがつ)の徐慶(じょけい)
混江鼠(江をくつがえす)の蔣平(しょうへい)
錦毛鼠(にしきを着た)の白玉堂(はくぎょくどう)

 侠客とはいっても、日本の侠客とちょっと違います。中国の侠客は忍者の様に、塀を飛び越え、暗器を使い、悪辣な事をしている者がいると、家に忍び込んで、成敗したり、弱い困っている者がいると、大金を持たせて救ったりします。つまり義に生きているんですね。この辺りは日本と中国とは、ちょっと、国状を異としますね。

 有名なところでは、梁山泊の英雄達がいますし、新しいところでは、燕青拳・迷踪芸(めいそうげい)の大侠・霍元甲や形意拳の郭 雲深、八卦掌の董 海川がいます。こう言うと、伝説上の人かと思うかも知れませんが、梁山泊の地煞星を除いて実在の方々です。(水滸伝の原文は大宋宣和遺事です)

 事の起こりは、皇帝の前で、御猫展照が技を披露した事が、錦毛鼠の白玉堂の癪に障った事から始まります。(ネズミだからね。猫が皇帝に可愛がられるのが許されないのさ。)

 その話しの荒筋・経緯は読んで頂く事として、この方々は、所謂、世間様に、あの御方は誰誰と、名前も知れているし、功名も万人に知れ渡っています。所謂、陽侠
 ただし、この方々も、自分達がやった事は上手く隠しています。

 一方、侠客には、世間の人々は、名前も知らなければ、功名は尚更知らない。人を成敗しても、それは、「妖怪の仕業、不慮の死に見せかける」。こういう人達を陰侠といいます。簡単に陰侠とはいいますが、世間に自分の存在を明かさない、知られない。時には、愚鈍を装う。普段はトンチンカンな事さえ言う。これは極めて困難な、大変な労力なんですな。是は、日本の、「根」に似ています。

 兎角、人からチヤホヤされる事を好むものですが、この人達は、何の報酬も功名を求めない。ただ、悪徳な者を成敗した時に、家財を一切合財、持ち去りますが。(このお金は困った人達がいると惜しみなく施しをします。)
 この物語では黒妖狐の智化、小諸葛の沈 仲元がそうだ。

 中国ではこの「黒妖狐 智化が冠を盗む」が京劇であります。」[智化盗冠]

 前者・陽侠は、日本では、幡随院長兵衛とかでしょうかね。(ちょっと違うか)。前にもいいましたが、日本のは飛んだり跳ねたりしません。

 後者は今、流行の「必殺・仕事人」の人達でしょうかね。 後者のこの陰侠は、チョッと間違えると、ただの偏屈者の殺人者になりかねない。

 よっぽどの信念・正義・自分自身の確立がないと、義侠の心が無駄になりかねないのであります。正義、義侠、智謀、学識、人格が全て備わっていないと、壮漢とか好漢(オトコダテ)とは認められないのだ。

中国でこういう人達が、現れた背景には、賄賂諌言が蔓延っていたのもありますよね。法があっても、いい加減な役人が適切な処理をしなかったのもありますので、国民自身が法になって、悪事を片付けていたのもあります。(なんせ、お金を積めば、死刑でさえも、免れて、遠島、流刑になったりします。

 で、別に世間に知れなくても、不満にも、癪にも思わないんですね。一般に壮漢・好漢と言われるにはこの位の気持ちでいたいものだ。また、そうでなくとも、それに近い気持ちは持っていたいですよね。

 「大道、親を滅す」じゃないんですけど、「その人の為」「その人の将来の為」なら、時には「良く思われないのを承知で」対応する。う~ん、なんか、「方便」にに似ていますよね。これは結構辛いんですな。よく思われないのを承知で、時には嫌われるのを厭わないで、応対するのも、好漢、壮漢の辛いところなんですね。あはは、ちょっと格好いい事を言っちゃったぜ。

気持ちの上では、「泣いて馬ショク(字が出てこないぞ。馬+畟。)を切る心情かなあ!」←出来もしないくせして!。フン。

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人を助けるには

2010-03-12 20:24:30 | 武道・拳法の話

 針が以前、少林寺拳法を習っていた時の話し。少林寺に入るには、一応仏界に入るのを前提となります。結婚式を協会で上げる時、キリスト教に、入るようなもんかなあ!。←こら、この不届き者めが!。

 で、技を習得する前に教則本(科目表)の他に教典をもらいます。

   

 皆さんは、良く社会科で教わった仏教に対する解釈で「小乗仏教は個人のみ助けて、大乗仏教は衆生を助けるので、大乗が優れ、小乗は是に次ぐ」と教わりましたよね。

 少林寺の教典はそういう解釈はありません。というよりか、それは間違った解釈が後世に伝わった物と解釈します。

               (聖  句)お釈迦様の言葉。

 己れこそ己れの寄るべ、己を措(お)きて誰に寄るべぞ、良く整えし、己こそまこと得がたき寄るべ也。
 自ら悪をなさば、自ら汚れ、自ら悪をなさざれば、自らが浄し、浄きも浄かざるも自らの事なり。他者に依りて浄むる事を得ず。


            


 人をたすけるのに自分が頼りない者だと助けられない。そんな者は助ける前に自分が潰れてしまう。小乗仏教はこの「」と言う文字と、自分しか助けないという誤解。
 
 大乗は他力本願で多くの衆生を助ける、それと「」と言う字の解釈がイコール優れているという解釈に結び付いてしまったのであります。つまり、裏返して言うと、小乗は「人を助けるのにまず自分をしっかり確立しろ」ということを説いたものだったんです。

 大体、この「大乗」の解釈を伝えたのは、少林寺の飯炊き僧の恵能?だか、恵芳?とういう僧が伝えたものだと歴史書は伝えています。

 この大乗の他力本願は、人に救いを求めるに、「それだけ素直な気持ちを持て」という気持ちを説いたものだったんです。真純単一に教えを請う姿勢を暗黙の内に説いたものと針は解釈します。←これはこれで、とっても大事な事です。つまり、純真な心を持って仏の前に膝ま付いて、(心をさらけ出して)教えを請うものだったんです。
 これを「正果を得る」と言います。

 大体仏教を大乗・小乗と分ける事がおかしいと思うわけであります。針の自分勝手な解釈は日本の神道は祖先を祭る事。仏教は人の道を教える道と考えるのであります。もっとも、人の道を教えるのはキリスト教もヒンズー教も、イスラム教もありますがね。

 少林寺に達磨大師が来て僧侶のお経ばかり読んでいて体力が無い事を憂えて「易筋経」を残したとあります。後、僧侶の護身を兼ねて、また、華陀の五禽之戯を取り入れて拳法が発達しました。

 この教えを元に修行された僧が「人に一つ恩を受けたら(嵩山少林寺で拳法を教えてもらった、恩を受けたら)、その人(少林寺)に恩を返すのではなくて、10人の困っている人にその恩を返せ」という教えの元に嵩山・少林寺から下山(世の中に出る)するのであります。

 こうしてみると本当の仏の教えというのは偶像崇拝の宗教なんかではなくて、人の道を教えるものだったんですね。本来お経というのは、それを唱えるば願いが叶えられるものでも救ってくれるものでは全くもってないという事です。

 この事は、人間でも動物でも同じです。今の世の中、自分の生活を守るというよりか、維持するだけでも大変ですものね。困った人、助けを求めている動物に目を向けるって事なんて余裕もありませんもんね。

 だから、せめて、慈愛の心を持って、人を殺めたり、動物を捨てたり虐待する事だけは止めてもらいたものであります。

あ、断っておきますが、針は仏教徒(僧侶)ではありません。少林寺も突き蹴り遣っている時に、腕に蝿が止まったのを老師に見咎められて、「永久除名」になりました。ほ、本当かよ!?。←嘘だよ、嘘!。(爆)

コメント (2)
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龍華拳の逆小手と合気道小手返しと柔道の突込と言う業。

2008-02-20 23:12:01 | 武道・拳法の話

柔道、三船十段の動画を見ていて気が付いた事が。それは、短刀を持った相手が中段を付いてきた時に、小手を捻って投げる「突込」という業だ。

 針は合気道は知らないけど、合気道の業の中に「小手返し」と言う業があるのは知っていた。合気道の元は先述した西郷四郎氏の養父西郷頼母氏の「大東合気術」である。

       
              植芝吉祥丸師範 小手返し    

また少林寺拳法の中の龍華拳の逆小手という業がある。これらの業の流れは少々違っているが、基本は小手を捻って投げる業だ。

       

       
  少林寺拳法、龍華拳、逆小手 この、受けてをしている人は針と同じ大森道院で師範されていた、来馬六段です。永平寺で修行された後、巣鴨の刺抜き地蔵・高岩寺の御住職をしていると聞いていますが他のお寺に勤務されているのか。優しいいい先生でしたよ。

 柔道の「突込」という業は三船十段の出版物には載っていなかったが、動画の中にあった。それを参考にして下さい。

                http://www.hiroburo.com/archives/50372306.html

                動画後半の所にありますよ。

 人間の骨の構造から、仕掛ける技は、流派を問わず、同じ業が生まれるんだね。

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講道館の名人といえば。

2008-01-17 22:13:11 | 武道・拳法の話

講道館でもう一人忘れてはならない人がいます。それは隅落とし(別名:空気投げ)の三船久蔵十段だ。

        
              壮年期               晩年

前回の西郷四郎氏を調べていたら、たまたま、三船久蔵十段の動画を発見した。

        http://www.hiroburo.com/archives/50372306.html

この隅落としという業(わざ)、動画を見ると分かりますが背負い投げの横方向の投げだ。柔道の仕掛けにまず相手の左後ろに押して其の後に其の反動を生かして前に投げるのが襟背負いだが、これを横方向に相手の右手方向に、持っていったのが、隅落としに見える。

                      
    
         次は逆方向から見た所だ。

                    

三船十段の書によれば、投げると言うより転がす感じらしいのだが、やはり天才と言うと今簡単に使うけど、三船十段こそ天才なんだね。凡人の針には到底分からない。分かるのがこの程度だ。

         

こんな動画が見れるなんて思っても見なかった。西郷四郎の山嵐も残っていたらなあ!。幻になってしまった。柔道選手権とかオリンピックでこれらの業が見れるのは何時のことになるんだろう。(嘆)

追記:後で動画を見直したら、もう一つ下の方に三船十段の動画がありまして、其の中に「山嵐」がでてました。動画では前に落とす投げ方だが(基本)、西郷四郎六段のような小柄の方が、相手にもぐりこんで、一気に跳ね上げる大技だったに違いない。

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