小野道風
小野葛紘が尾張国春日井郡、上条(現在の愛知県春日井市松河戸)に滞在中、里女を母に葛紘の三男として生まれたとされる。史実としては確認できない、あくまで伝承の類でありますが、江戸時代の18世紀には既にこの説が広まっていたとあります(本当かよ。)
これは道風の書ではありません。こんなに下手ではありませんね。(そう針外しが書いたんだ)
しかし、よく恥ずかしくもなく、出したもんだ。(習ってないからしょうがねーだろ)
醍醐朝の延喜5年(905年)には弱冠12歳にして大嘗会(だいしょうえ)の屏風の色紙形を書く。延喜20年(920年)能書の撰により非蔵人に補されると、翌延喜21年(921年右兵衛少尉に任ぜられる。延長3年(925年〉少内記となるが、同年に勧修寺(かんしゅうじ)で行われた醍醐天皇の生母である贈皇太后(なんと読むか分かりません)・藤原胤子’(たねこ?)の法要において、道風は供養願文の法華経の清書役に抜擢されました。
以後道風の宮廷内における能書活動が活発になっていく。延長4年(926年)興福寺の寛健が入唐するにあたって、当時の日本の文士文筆を唐に対して誇示するために、菅原道真らの漢詩とともに、道風の書いた行書・草書各一巻を携行しており、既に日本を代表する能書家になっていた様子が窺われます。のち、醍醐朝では書家として以下の活動があります。
- 延長5年 (927年)2月、大納言・藤原清貫の60歳の賀にあたり、小野忠則とともに金銀泥下絵の色紙に『法華経『薬師経』などを書いています。
- 延長5年(927年)12月、円珍に智証大師の諡号が贈られた際、諡号の勅書を浄書(智証大師諡号勅書)
- 延長6年 (928年)6月、清涼殿、南廂の白壁に漢唐の名君賢君の徳行を揮毫。
- 延長6年(928年)12月、内裏の屏風六帖に、大江朝綱の漢詩を浄書。なお、この下書が『屏風土代』であります。
- 延長6年(928年)醍醐寺の西大門、東大門の額を揮毫。南大門にも道風の草書があげられたが、得意の草書を選定した醍醐天皇の鑑識眼に対して、道風は「あな、賢王や」と感激している。
- 延長7年 (929年)9月、紫宸殿の障子の賢臣像の銘を書き改める
朱雀朝では従五位下に叙勲され、内蔵権や右衛門佐(うえもんのすけ)
を務めた。朱雀朝での活動には以下がある。
- 承平2年(932年)11月、大嘗祭において屏風の色紙型を揮毫
- 承平3年(933年)8月、康子内親王の裳着(しょうちゃく)で屏風の色紙形を揮毫
- 天慶2年(939年)11月、『慈覚大師伝』を書写
- 天慶5年(942年) 4月、醍醐寺釈迦堂の門額を揮毫
村上朝に入ると、天慶9年(946年)右衛門府の官人が職務を怠り会昌門を開かなかったとして処罰され、右衛門佐であった道風は贖銅(しょくどう)2斤の刑に処される。さらに、翌、天暦(てんれき)元年(947年)には障りの由を伝えないまま荷前使の差遣に参加しなかったため解官の憂き目に遭った。その後は以下の活動を行っている。
- 天暦3年(949年)11月、屏風の色紙形に『坤元録』の屏風詩20首を書く
- 天暦7年(953年)8月、朱雀院御周忌の一切供養に際して『目録之外廿六巻』を分担執筆
- 天暦8年(954年)8月、文章博士・橘 直幹の民部大輔を兼任を請う申文を清書
- 天徳元年(957年)右大臣・藤原師輔の大饗において屏風の色紙形を書く
天徳2年(958年)正月に道風は山城守への任官、あるいは近江権守の兼帯を請う奏状を村上天皇に奉じる。その願いは叶わなかった一方で、その文章は平安時代の代表的な詩文集を集めた『本朝文粋』に収められている。同年3月に新たに乾元大宝(硬貨)が鋳造されることになったが、眼病(老人性白内障)の進行により細字を書くことが困難になっていたため、銭文の土代(字様)を書くことができなかった。しかし、第一の能書としての評判は変わらず、翌天徳3年(959年)5月に藻壁門の額字を揮毫。さらに、8月に清涼殿で行われた詩合において、慣例であれば左右の各10首の清書は別人が書くべきところ、村上天皇は両方の清書を道風が行うことを望む。
そこで、左方は勅令により道風が清書し、右方は右兵衛督・源 延光の邸宅に強引に連れ込まれて酒でもてなされたあげく道風が清書させられている。しかしこの時の清書も「能書之妙」「義之再生」と絶賛された。康保3年(966年)12月27日卒去。享年73。最終官位は正四位下行内蔵権頭。
とまあ、履歴はこの位にして
能書としての道風の名声は生存当時から高く、当時の宮廷や貴族の間では「王義之の再来」ともてはやされた。『源氏物語』では、道風の書を評して「今風で美しく目にまばゆく見える」(意訳)と言っている。没後、その評価はますます高まり、『書道の神』として祀られるに至っている。
晩年は健康を壊して随分と苦しんだ。痛風に苦しんでいたらしく、65歳ぐらいの頃から目が悪くなり、67歳ぐらいの頃には言語までが不自由になったという。その頃からの道風の文字はのびのびした線ではなくなり、後世ではこれを「道風のふるい筆」といっている。
勅撰歌人として『後撰和歌集』に5首の和歌作品が採録されている。