針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

小野道風

2024-04-08 22:07:35 | 御先祖様

小野道風

    名前は良く知っていますが所謂どういうお方は全くと言って知りませんね。花札の柳の下で蛙が一生懸命、葉に飛びつこうとしているのを見て悟り書の大家になったと記憶していますがその他は全くしりません。(とうふう・みちかぜ)とも言われています)平安時代の前期~中期の人物で894年(寛平6年)に生まれて967年2月9日(康保3年12月27日に亡くなりました。貴族・能書家で参議篁(小野篁殿)の孫です。大宰大弐、小野葛絃の三男、官位は正四位・内蔵頭です。

小野小町とは従兄(いとこ)に当たりますそれまでの中国的な書風から脱皮して和様書道の基礎を築いた人物と評されています。後に、藤原佐理と藤原行成と合わせて「三跡」と称され、その書跡は野跡と呼ばれています。醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇、冷泉天皇に仕えました。兄弟には兄の好古がいます。子には奉時、長範、奉忠、奉明、公時がいます。


         

小野葛紘が尾張国春日井郡、上条(現在の愛知県春日井市松河戸)に滞在中、里女を母に葛紘の三男として生まれたとされる。史実としては確認できない、あくまで伝承の類でありますが、江戸時代の18世紀には既にこの説が広まっていたとあります(本当かよ。)

                              
                     これは道風の書ではありません。こんなに下手ではありませんね。(そう針外しが書いたんだ)
                しかし、よく恥ずかしくもなく、出したもんだ。(習ってないからしょうがねーだろ)

醍醐朝の延喜5年(905年)には弱冠12歳にして大嘗会(だいしょうえ)の屏風の色紙形を書く。延喜20年(920年)能書の撰により非蔵人に補されると、翌延喜21年(921年右兵衛少尉に任ぜられる。延長3年(925年〉少内記となるが、同年に勧修寺(かんしゅうじ)で行われた醍醐天皇の生母である贈皇太后(なんと読むか分かりません)・藤原胤子’(たねこ?)の法要において、道風は供養願文の法華経の清書役に抜擢されました。

以後道風の宮廷内における能書活動が活発になっていく。延長4年(926年)興福寺の寛健が入唐するにあたって、当時の日本の文士文筆を唐に対して誇示するために、菅原道真らの漢詩とともに、道風の書いた行書・草書各一巻を携行しており、既に日本を代表する能書家になっていた様子が窺われます。のち、醍醐朝では書家として以下の活動があります。

  • 延長5年 (927年)2月、大納言・藤原清貫の60歳の賀にあたり、小野忠則とともに金銀泥下絵の色紙に『法華経『薬師経』などを書いています。
  • 延長5年(927年)12月、円珍に智証大師の諡号が贈られた際、諡号の勅書を浄書(智証大師諡号勅書)
  • 延長6年 (928年)6月、清涼殿、南廂の白壁に漢唐の名君賢君の徳行を揮毫
  • 延長6年(928年)12月、内裏の屏風六帖に、大江朝綱の漢詩を浄書。なお、この下書が『屏風土代』であります。
  • 延長6年(928年)醍醐寺の西大門、東大門の額を揮毫。南大門にも道風の草書があげられたが、得意の草書を選定した醍醐天皇の鑑識眼に対して、道風は「あな、賢王や」と感激している。
  • 延長7年 (929年)9月、紫宸殿の障子の賢臣像の銘を書き改める

朱雀朝では従五位下に叙勲され、内蔵権や右衛門佐(うえもんのすけ)
を務めた。朱雀朝での活動には以下がある。

  • 承平2年(932年)11月、大嘗祭において屏風の色紙型を揮毫
  • 承平3年(933年)8月、康子内親王の裳着(しょうちゃく)で屏風の色紙形を揮毫
  • 天慶2年(939年)11月、『慈覚大師伝』を書写
  • 天慶5年(942年) 4月、醍醐寺釈迦堂の門額を揮毫

村上朝に入ると、天慶9年(946年)右衛門府の官人が職務を怠り会昌門を開かなかったとして処罰され、右衛門佐であった道風は贖銅(しょくどう)2斤の刑に処される。さらに、翌、天暦(てんれき)元年(947年)には障りの由を伝えないまま荷前使の差遣に参加しなかったため解官の憂き目に遭った。その後は以下の活動を行っている。

  • 天暦3年(949年)11月、屏風の色紙形に『坤元録』の屏風詩20首を書く
  • 天暦7年(953年)8月、朱雀院御周忌の一切供養に際して『目録之外廿六巻』を分担執筆
  • 天暦8年(954年)8月、文章博士・橘 直幹の民部大輔を兼任を請う申文を清書
  • 天徳元年(957年)右大臣・藤原師輔の大饗において屏風の色紙形を書く

天徳2年(958年)正月に道風は山城守への任官、あるいは近江権守の兼帯を請う奏状を村上天皇に奉じる。その願いは叶わなかった一方で、その文章は平安時代の代表的な詩文集を集めた『本朝文粋』に収められている。同年3月に新たに乾元大宝(硬貨)が鋳造されることになったが、眼病(老人性白内障)の進行により細字を書くことが困難になっていたため、銭文の土代(字様)を書くことができなかった。しかし、第一の能書としての評判は変わらず、翌天徳3年(959年)5月に藻壁門の額字を揮毫。さらに、8月に清涼殿で行われた詩合において、慣例であれば左右の各10首の清書は別人が書くべきところ、村上天皇は両方の清書を道風が行うことを望む。

そこで、左方は勅令により道風が清書し、右方は右兵衛督・源 延光
の邸宅に強引に連れ込まれて酒でもてなされたあげく道風が清書させられている。しかしこの時の清書も「能書之妙」「義之再生」と絶賛された。康保3年(966年)12月27日卒去。享年73。最終官位は正四位下行内蔵権頭。
とまあ、履歴はこの位にして

能書としての道風の名声は生存当時から高く、当時の宮廷や貴族の間では「王義之の再来」ともてはやされた。『源氏物語』では、道風の書を評して「今風で美しく目にまばゆく見える」(意訳)と言っている。没後、その評価はますます高まり、『書道の神』として祀られるに至っている。

晩年は健康を壊して随分と苦しんだ。痛風に苦しんでいたらしく、65歳ぐらいの頃から目が悪くなり、67歳ぐらいの頃には言語までが不自由になったという。その頃からの道風の文字はのびのびした線ではなくなり、後世ではこれを「道風のふるい筆」といっている。

勅撰歌人として『後撰和歌集』に5首の和歌作品が採録されている

道風の作品は、雄渾豊麗、温雅で優れ、草書は爽快で絶妙を極め、その筆跡を「野跡」という。醍醐天皇は深くその書を愛好され、醍醐寺の榜や行草法帖各一巻を書かせた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小野妹子(2)

2023-07-24 10:04:45 | 御先祖様

奈良時代の遣隋使として、国の重要な仕事を果たした小野妹子の家系図

【家系図】
                                 
そもそも、小野妹子とは?小野妹子は遣隋使として活躍した6世紀から7世紀の官人です。聖徳太子が「日出る処の天子・・・」としたため、隋の皇帝を激怒させた、あの有名な文書を、聖徳太子の元から隋の皇帝まで運んだのは、小野妹子と言われています。そもそもは「天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)」という皇子から続く系譜で、天皇家に繋がる家系です

飛鳥時代、妹子は遣隋使として渡航のために筑紫(現北九州)に出向いた際に病気になり、宇佐八幡宮に祈願すると全快。帰国後、かつて、小野郷と呼ばれ、領地内だった現在の左京区上高野に八幡宮を移して三宅八幡宮を創建したとされています。

江戸時代、三宅八幡宮の東にある西明寺山で発見された、板石を組み合わせた土葬石室は小野毛人の墓と判明しました

聖徳太子が創建したと伝わる六角堂は、華道家元・池坊が住職を務めており、その始祖は妹子とされます。遣隋使として大陸に渡った際、仏に花を捧げるのを目にした妹子は、太子の死後、菩提を弔うために出家し、晩年は毎日仏前に花を供えました。この日課は六角堂の住職が代々行う風習となり、生け花の発祥の地となりました。本堂の北側は、太子が沐浴した池の跡とされ、その池のほとりにあった僧侶の住まいが池坊と呼ばれるようになりました。

【小野篁】政治や学問、馬術、芸術に優れた人物でしたが、朝廷の批判を堂々とするような直情型の性格から、「野狂」というあだ名がついていました。常に他者の顔色を伺っている平安貴族には、篁のストレートな性格や行動は、理解しがたかったようです。
平安時代の官僚・学者・歌人と書く分野で活躍した人物で弓の名手としても知られています。身長190cmの大柄で武芸に優れて自由奔放な性格だったと言われています。針外しの家にはかつて「鬼の橋」という書が御座いまして小野の篁殿の事が書かれています。その中には死後も東北ににらみを利かせる為に立ったまま納棺させられた坂上田村麻呂も出てきます。また篁殿は閻魔庁にも出入りしていて昼は朝廷で夜は閻魔庁で働いていたという伝説があります。六道珍皇寺の庭には冥界に行く為の井戸とこの世に戻ってくる井戸があります。生前付き合いのあった「藤原良実」が若くして亡くなった時に地獄に行ったところ閻魔大王の傍らに篁がいて「この人は誠実な方で本来地獄にこんなに早く来る方ではありません」と言ったら大王が「篁が言うなら娑婆に戻してあげてくれ」と言ったそうな。後に良実がその事を世間に言いふらしたので人々から恐れられたとあります。
後に天皇から「篁帰ってきてもいいぞ」と声が掛かり、下谷に居を構えてそれが「小野照埼神社」になりました。

  

【小野小町】(825年頃~900年頃)も小野妹子の子孫です。篁の孫とする説もありますが、正確なところはわかっていません。非常に美しかったといわれており、日本では「世界三大美女」として有名です。和歌の名手で、六歌仙、三十六歌仙、女房三十六歌仙に選ばれています。小野小町の和歌は情熱的な恋の歌が多いそうです。当時は女性の記録がほとんどなく、その生涯は謎に包まれていますほとんどなく、その生涯は謎に包まれています。

                                                               
【隨心院】鞍馬街道の北にあって通称:小野寺と呼ばれています。小町が実父の暮らした生家を訪ね、900年(昌泰3)4月1日にこの地で息絶えたという逸話が残っています。敷地内には供養塔や小町が井戸の水に映る年老いた我が身を見て嘆き悲しんだとされている井戸等ゆかりの場所があります。本堂の裏手には小町に寄せられた千通の手紙が埋められているという小町文塚があります。薬医門の西には小町が宮廷を辞した後。晩年を過ごした邸宅があり朝な夕な顔を洗った井戸が今も残っています。
        

               百夜(ももよ)通いとカヤの木                                            隨心院(ずいしんいん)
 能の間には、小町宛ての恋文を貼って造られた小町文張地蔵尊と、晩年の姿を写したとされる卒塔婆(そとば)小町像が安置されています。本堂の裏手には小町に寄せられた千通の手紙が埋められていると伝わる「小町文塚」があり、薬医門の西側には小町が宮廷を辞した後晩年を過ごしたと

 隨心院には平安時代、深草少将が愛する小町の元に百夜通う事を誓った「百夜通い」伝説にゆかりのある榧木が現存しています。小町は榧の実を糸に綴ってその日数を数えていたそうですが、99日目の大雪の日に少将は凍死し、願いが叶いませんでした。小町は菩提を弔う為にその榧の実を蒔いたと伝えられています。本来小町は一族のたっての希望である天皇のお手付きで子を身籠るのが目的であったので失意の反面女として嬉しかったのかも知れません。

                                                                                          六道珍皇寺

【小野道風】(894年~966年)平安時代の書道家で、小野篁の孫にあたります。中国からきた書道を日本風にアレンジして、和様書道の基礎を作り、藤原佐理と藤原行成と並んで、「三跡」と呼ばれています。道風の書の評判は高く「源氏物 」にも登場し、作中で絶賛されています。一方、性格は祖父同様に激しく、悪い評判が流れたこともあったようです。 篁の孫で能書家として秀でた才能を持っており、平安時代前期に日本独自の書道(和様書道)の基礎を築いた人物。道風を祭神とする道風神社の境内にある池の水をすずりに用いたとされ、その水を使って書くと上達すると伝わります。

            

公家から武士へ、地方に土着化した小野氏。

                            

平安時代が下ると、徐々に小野氏は藤原氏や菅原氏などの他家におされ、勢力を失っていきました。公家になれかった小野氏は、地方に役人として赴任することになり、各地で土着化し武士になっていきました。

【小野好古おののよしふる(884年~968年)は、藤原純友の乱の際に、九州に下向して乱を鎮圧したとして、有名です。一方、武蔵国(現在の関東)に下った小野氏の子孫は、武蔵国多摩郡横山という地名にちなんで、横山氏と名乗るようになります。横山氏は関東で勢力を伸ばし、近隣の武士の氏族と婚姻関係を結び、武蔵七党という有力な武士団を結成します。その後、武蔵七党は鎌倉源氏の傘下となり、鎌倉幕府を支える御家人として活躍しました。

小野政直・政次親子

戦国時代に遠江国(静岡県西部)の井伊家に仕えた、小野政直、政次親子も小野妹子の子孫といわれています。井伊家の家臣でありながら、たびたび謀反を起こしたり、今川家と通じて井伊家を窮地に陥れたりしたことで、奸臣かんしん(国を傾けた臣下のこと。)と呼ばれています。息子の小野政次は、井伊家から当主の座を奪ったこともありましたが最期は、井伊家に協力した徳川家康によって、あえなく討たれます。悪いイメージの強い、政直・政次親子ですが、近年、再評価する声もあるようです。最近では大河ドラマ「おんな城主 直虎」(2017年)にて、陰で井伊直虎を支えた人物として、小野政直が描かれています。俳優の高橋一生さんが演じ脚光を浴びました。

現在の有名人では、女優のえのきさりなさんが小野妹子の子孫とのことでした。

                   

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小野妹子氏(1)

2023-07-19 08:49:48 | 御先祖様
 小野妹子は近江国滋賀郡小野村(現大津市小野)の豪族で、天足彦国押人命を氏祖とする小野氏の出身で『大日本史』によれば天帯彦国押人命(=天足彦国押人命)の6世孫である米餅搗大使主の後裔にあたる。『古事記』孝招天皇の段に「天押帯日子命は……春日臣……小野臣……の祖なり」とあり『日本書紀』孝昭天皇の段にも「天足彦国押人命はこれ和珥の臣等の始祖なり」とあります。
系譜は明らかでないが、一般に流布されている小野氏の系図では、妹子を敏達天皇の皇子である春日皇子の子となっています。『日本書紀』雄略紀において「春日小野臣大樹」との人物が登場し、妹子はこの大樹の後裔とする説もあり、この説の場合は春日仲君の娘老女子が敏達天皇の妃となり春日皇子を産んだことから、小野氏を春日皇子の系統に繋いだと想定するが、定かでありません。
 
【お墓】
科長神社南側の小高い丘の上に、古くから小野妹子の墓と伝えられる小さな塚があります。妹子は、推古天皇の時代に遣隋使として、当時中国大陸にあった隋という大国に派遣された人物です。
妹子が聖徳太子の守り本尊の如意輪観音の守護を託され、坊を建て、朝夕に仏前に花を供えたのが、華道家元 池坊の起こりになったとされることから、現在、塚は池坊によって管理されています。

             
 
 
    小野妹子墓           


【1度目の遣隋使】

小野妹子と言えば遣隋使です。607年、聖徳太子の命により、遣隋使として隋(中国)に派遣されました。その目的は、隋の先進的な技術や制度を学び、日本に持ち帰ること。実は遣隋使が派遣されたのは小野妹子で2回目のことで、以降も合わせて5回以上の派遣が行われています。600年に派遣された1回目については『随書』に記述があり、当時の倭国(日本)の政治の在り方について、隋の高祖は納得できなかったため改善を訓令し、それに怒った倭国は『日本書紀』から派遣の事実そのものを除外した、とされています。

そして2回目、小野妹子による遣隋使。こちらは『日本書紀』に記述が残されており、日本の王が煬帝(隋の二代目皇帝)に宛てた国書を持っていったと記されています。

その国書の内容は、まとめると以下の通り。「日が昇る国(日本)の天子(君主)から、日が没する国(隋)の君主に書を送ります」しかしこれを見た煬帝、「なんて無礼な手紙だ!今後こんな失礼な手紙は私に見せるな!」と大激怒。というのも、当時の中国の思想では、「天子」に値するのは中国のトップに君臨するもの1人だけだとされており、自分だけでなく日本の君主が「天子」と名乗ったことが許せなかったのです。

さて、そんなわけで怒りに満ちた煬帝は、日本を遥かに下に見た返書を書き小野妹子に託します。日本の君主に渡しておけ、ということです。もちろん、そんなものをそのまま渡すわけにはいきません。関係を築くためにわざわざ海を渡ったのに、このままでは溝が深まるだけです。困った小野妹子。しかし、ここでさらなる大問題が発生します。なんと、小野妹子はその渡された返書を紛失してしまったのです。

小野妹子はこれを、「百済(朝鮮)に盗まれた」と弁明していますが、一説では返書を見せて怒りを買うことを恐れた妹子がわざと破棄したのでは、という見方もされています。どちらにしても、周囲からすると返書をなくすという大失態を犯したのは紛れもない事実。彼はその責任を取り流刑に処されますが、のちに恩赦されました。

【2度目の遣隋使】

前回隋から帰ってきた際、煬帝の勅使として裴世清という人物が日本へ来ました。その翌年、今度は彼を隋へ送り届けるために、再び小野妹子は隋へ向かいます。この際、多くの留学生が随行しました。高向玄理、南淵請安、僧旻などです。彼らはこの時学んだ技術や文化を生かし、日本に帰国後は改革に大きな役割を果たしました。なお、遣隋使が送られたのは614年で最後とされています。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小野 篁殿の話。

2007-03-26 18:18:31 | 御先祖様

前に小野 篁 殿の話をしたが、その続きだ。当時のわが国は一夫多妻であり、篁殿は異母兄弟の比宇古と恋仲になった事は有名な話。(←本当かよ)。

 

          
                   小野 篁 殿

 

  比宇古姫が井戸に落ちて死亡し、篁がその井戸へ入り、亡き坂上田村麻呂と会い、そこから、冥界に行き来するようになった。・・・と言うお話 。

 前回、私の周りで奇妙な事・・・と言いましたが、差しさわりがあるのでまたの機会に持ち越しです。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

うちのご先祖様か?。

2007-03-20 23:27:31 | 御先祖様

うちの祖父は秋田の人で、その本家の人の名前を見ると、「順悦氏」とかうちの叔父さんには「亡き順之助さん」とかいる。私のご先祖は東北の「小野家」。秋田県の南秋田郡の岩瀬という所の出だ。東北の「小野家」と言えば百人一首の中で「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 海人の釣舟」という歌を詠んだ、参議、篁(さんぎ、たかむら)事、小野 篁だ。(お、断定しちゃって大丈夫か?。)

先には小野妹子、孫娘には小野小町がいますぞ。(当然私なんぞ,その一統の中の宇宙の果ての目糞、鼻糞だけどね)。

          
 当時うちの爺さんは四男坊か五男坊。所謂、農家の食い詰めモンで、職探しで東京に出た来たパターンだと思っていましたぞな。
 小野 篁というと、篁は、毎晩冥府に通い、閻魔王庁で裁判を手伝っていた人物としても知られる。
          
         皆さんご存知、閻魔大王様で御座る。

 篁はまだ学生であったときに罪を犯した。 そのとき、藤原良相(よしみ)が篁の弁護をした。何年か経ち、篁は参議となり良相も大臣となっていた。あるとき良相は重病となり、他界した。 直ちに閻魔王の使いの者に捕らえられて、王宮で罪を定められようとした。見ると、閻魔大王様のかたわらに篁殿がいた
             
               小野 篁 殿

  篁は閻魔に「この人は、正直で良い人だ。篁に免じて許してあげてくれないか」と言う。閻魔は「篁がそうと言うのならば、許してやろう」と答える。 こうして良相は、生き返ったのだ。
良相が内裏に行き、篁に会った。あのときの閻魔王庁でのことを尋ねると篁は「昔、私の弁護をしてくださったお礼をしただけ。人には話さないでくださいね。」と言う。話を聞いて良相はますます篁を恐れ、 「篁は普通の人間ではない。閻魔王庁の臣であった」と知った。
このことは自然と世間に広まりって、人々は「篁は閻魔王宮の臣として冥途に通っている人だ」 と恐れたという。
 それ以後小野家の人間は代々そういう能力を持った人間を出していると言われています。最近、うちのカミサンの親戚と本家の「小野家」下谷の「小野照崎神社」の娘さんと新たに親戚となってしまったのだ。要は「遠い親戚が近くの親戚になった訳だ。
 「小野照崎神社」は小野 篁が御東下した際に立ち寄った上野の下谷に居を構えその後、逝去された後、建てられた神社なのだ。
 ・・・とだんだんと私の身辺にも少し変な事が起きている。
        

              下谷の小野照崎神社 

お祭りは浅草の三社祭りと重なってしまうので神輿の担ぎ手を大分とられてしまうが、年々盛んになって来ている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする