針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

前出師の表と後出師の表

2020-08-31 20:39:07 | 漢詩・古典・エトセトラ

劉備亡きあと、孔明は懸命に蜀の結束を固めようとします。

              
               長坂橋の戦いで、救出された劉禅        

 劉備の子、劉禅阿斗が惰弱で頭脳も凡庸、明晰でなかったので教え諭す意味、蜀の結束を促す意味で孔明が上奏したものです。漢の国の復活を掛けた劉備の意思を継いで劉禅阿斗を補佐します。せめて、呉の孫策のような器であったらね。また曹操みたいに、子供を沢山?作っていれば後継ぎに困らなかったろうにね。

前出師の表 (大意)

現在天下が魏、呉、蜀に分れており、そのうち蜀は疲弊していることを指摘する。そういった苦境にもかかわらず、蜀漢という国が持ちこたえているのは、人材の力であるということを述べ、皇帝の劉禅に、人材を大事にするように言う。

さらに、郭攸之、費禕、董允、向寵といった面々の名をあげ、彼らはよき人材であるから、大事にしなくてはならないと言い、あわせて後漢の衰退の原因は、立派な人材を用いず、くだらない人間を用いていたからだとも指摘する。また国の衰退は必ずと言って良いほど、トップに居る人間が私利私欲に走る方といって間違えない。

         
             諸葛亮           劉禅阿斗は記憶力が悪く父によく叩かれたとあります。
後出師の表 (大意)
 まず、自分が先帝である劉備から、逆賊である魏を討伐するようにと言われてきたことを確認し、魏の力があまりに強大で、自分の力はあまりにも弱く、このままの状態では蜀は魏に滅ぼされるであろうと述べる。そして坐して滅亡を待つよりは、先手を取って魏を討滅すべきであるとする。しかし、良からぬ輩が、自分の北伐を批判していると述べる。このような批判に対し、6つの疑問点をあげてその批判の不当さを指摘する。

  • 今の蜀の状況は、同じく漢中に拠った漢の高祖(劉邦)、張良、陳平の才能に遠く及ばない者しかいないのに、坐して天下をとろうとするのはなぜか。ただ座っているだけでは天下は取れない。張良・陳平は、高帝に仕えた有名な謀臣である。彼らは天下を取るために、中国中を駆けずり回った
  • 劉繇(りゅうよう)や王朗は、自分の州郡の中にとどまり、結局孫策 に敗れてしまった。
    • 動かない蜀の様子を劉繇や王朗と重ね合わせて批判する
  • 曹操は優れた軍略家であるが、それでも身を危ういところにおいて戦ってきた。自分のような小人物はなおさら、危ういところに身を置かないでどうするのか。
  • 曹操のような人物ですら、敗戦を繰り返しているのだから、自分のような小人物が戦いに負けたことをあれこれ言うのはどうか?。曹操は、勝つ事も多いが、赤壁を始め負ける事の方が多く、甚大であったではないか。
  • 数年後には、あちこちから集めてきた優秀な武将や兵たちが死んでしまうのに、優秀な者達がいる今のうちに戦わないのはどうしてか。関羽、張飛無き今趙雲も高齢である。軍の力が未だあるうちに行動をするのが上策である。
  • 今、蜀は益州しか領有しておらず、経済力がない。このまま放っておけば、経済力のより大きい魏と対抗することはできないのではないか。

さらに、時代の流れは予見しがたいとし、弱小なる蜀も魏に勝てるかもしれないとし、死ぬまで努力すると述べる。

これはただ単に戦を増長する為ではなく魏や呉に比べると蜀は弱小なのでこのままでは他国に呑み込まれてしまう危惧を述べたものであります。実際孔明亡き後、魏の内部に居た司馬懿仲達によって劉禅はあっけなく降伏してしまいます。司馬懿は魏の主君である曹丕を滅ぼし魏の君を手中に収めてしまいます。
いくら優秀な臣下が居ても頭が惰弱だと国が持ちませんね。その後、晋という国家を設立してしまいます。
こうなってしまうと何が何だか分からなくなってしまいます。義とか忠等全く意味が亡くなってしまった感がありますね。前に水鏡先生(司馬徽)が天に昇らんと欲すれども惜しいかなその時を得ずと言いましたが同族の司馬懿が天下を取る事になりますが、えてしてその司馬懿もその後の隋に平定されてしまう事になる訳です。

人生は自分の思惑とは別の方向に向かうのが常と言う事ですね。「欲かいて恥かく」って言いますが、恥ならいいんですが、自分の大事な人生を捨てるなんて事もありますので、ユメユメ、注意を怠らない事が肝要です。
絶えず、魏軍の南下を脅威に感じていた事が伺われます。

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孔明の最後 (4)

2020-08-29 10:14:26 | 漢詩・古典・エトセトラ

 建興12年春2月、第5次の最後の北伐を行った。諸葛亮は屯田・開墾を行い、持久戦の構えをとって五丈原で司馬懿と長期に渡って対陣した。

しかし、同時に出撃した呉軍は荊州および合肥方面の戦いで魏軍に敗れ、司馬懿も防御に徹し諸葛亮の挑発に乗らなかった。

 孔明は魏軍は遠路行軍しており、必ずや食料不足になると考え、必ずや蜀の食糧庫を狙ってくると考え、食糧庫の谷に硝煙・火薬を山のように埋伏させておきます。司馬懿仲達ははたして此処を攻略して、食糧確保出来たと安堵しますが、守備兵のいないのに罠と悟り脱出を図りますが、既に時遅し、入り口は火の山。山の上からは硝煙・火薬が雨あられと降り注ぎます。流石に仲達も覚悟をきめますが、天は無情にも雨を降れせて鎮火してしまいます。これを葫蘆谷の戦いと言います。

           

諸葛亮は病に倒れ、秋8月(8月23日)、陣中に没した。享年54。諸葛亮の死後、蜀軍は退却した。この時、孔明は死にあたって自分の亡骸を椅子に座らせて仲達が来たら見せるようにします。孔明既に亡き者と確信した司馬懿は追撃を仕掛けたが蜀軍が反攻の構えを見せ、孔明が現れると慌てて撤退した。この事から当地の民衆は死せる孔明、生ける仲達を走らすと言い合った。

           
                     五丈原

この時の模様を土井晩翠氏が詠っています。かなり長い歌なので一番だけで以降は割愛させて頂きます。針外し「秋風、星落つ五丈原」と間違えて覚えてましたよ。とほほ。
星落秋風五丈原    土井晩翠
      一
  祁山(きざん)悲秋の 風更(ふ)けて        清渭(せいい)の流れ 水やせて
  陣雲暗し 五丈原(ごじょうげん)、       むせぶ非情の 秋の聲(こえ)、
  零露(れいろ)の文(あや)は 繁(しげ)くして    夜(よ)は關山(かんざん)の 風泣いて 
  草枯れ馬は 肥ゆれども            暗(やみ)に迷ふか かりがねは
  蜀軍の旗 光無く               令風霜の 威もすごく
  鼓角(こかく)の音も 今しづか。        守る諸營(とりで)の 垣の外。

  丞相(じょうしょう)病 あつかりき。      丞相病あつかりき。

 
  帳中(ちょうちゅう)眠(ねむり) かすかにて  風塵遠し 三尺の
  短檠(たんけい)光 薄ければ         劍(つるぎ)は光 曇らねど
  こゝにも見ゆる 秋の色、          秋に傷めば 松柏(しょうはく)の
  銀甲(ぎんこう)堅く よろへども       色もおのづと うつろふを、
  見よや待衞(じえい)の 面(おも)かげに    漢騎十萬 今さらに
  無限の愁(うれい) 溢(あふ)るゝを。     見るや故郷の 夢いかに。

  丞相病 あつかりき。           丞相病 あつかりき。

  夢寐(むび)に忘れぬ 君王(くんのう)の   四海の波瀾 收まらで
  いまわの御(み)こと 畏(かしこ)みて      民は苦み 天は泣き
  心を焦(こ)がし 身をつくす        いつかは見なん 太平の
  暴露のつとめ 幾とせか、        心のどけき 春の夢、
  今落葉(らくよう)の 雨の音        群雄立ちて ことごとく
  大樹(たいき)ひとたび 倒れなば      中原(ちゅうげん)鹿(しか)を 爭ふも
  漢室の運 はたいかに。         たれか王者の 師を學ぶ。

  丞相病 あつかりき。                                     丞相病 あつかりき。

  末は黄河の 水濁る
  三代の源(げん) 遠くして
  伊周(いしゅう)の跡は 今いづこ、
  道は衰へ 文(ふみ)弊れ
  管仲(かんちゅう)去りて 九百年
  樂毅(がっき)滅びて 四百年
  誰か王者の 治(ち)を思ふ。

  丞相病 あつかりき。

 諸葛亮は自身の遺言により漢中の定軍山に葬られた。墳墓は山の地形を利用し作り、棺を入れるだけの小規模なもので、遺体も着用していた衣服を着せたままで、副葬品は一切入れないという質素なものであった。よく王侯が死ぬと殉死するのが常であったが孔明はその代りに皮で土を包みそれを埋葬させたとあり、これが饅頭の始まりとされています。

『三国志』の撰者の陳寿の評では「時代にあった政策を行い、公正な政治を行った。どのように小さい善でも賞せざるはなく、どのように小さい悪でも罰せざるはなかった。多くの事柄に精通し、建前と事実が一致するか調べ、嘘偽りは歯牙にもかけなかった。みな諸葛亮を畏れつつも愛した。賞罰は明らかで公平であったとあります。

  

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臥竜先生 諸葛孔明(3)

2020-08-27 16:45:31 | 漢詩・古典・エトセトラ

 赤壁に戦いの後、劉備たちは荊州南部の4郡を手に入れます。諸葛亮は軍師中郎将に任命され、4郡の内の3郡の統治に当たり、ここからの税収を軍事に当てた。この頃、諸葛亮と並び称された龐統が孔明の推挙にて劉備の陣営に加わります。

最初龐統と会った劉備は容姿の醜かった龐統を見て御興褪めして地方官の役を与えて追いやります。龐統は任地に赴き、毎日、酒を飲んでは寝てばかりです。ある時、張飛が見回りに訪れてこの有様を見てなじると、「こんな事は造作もない事です。半日もあれば」と言うので、やらせてみると、山のように積んであった訴状を半日も掛からないで処理してしまいます。張飛の驚く事。飛んで帰ってこの一部始終を報告します。諸葛亮,大笑して、「龐統は、そんな処に居る人間ではありません」。劉備、大いに恥じたとあります。

 建安16年(211年)、益州の劉璋より、五斗米教の張魯から国を守って欲しいとの要請が来た。しかし、その使者の法正と張松と謀って、益州の支配を頼りない劉璋から劉備の手に渡す事を目論んでいた。劉備は初めこれを渋ったが、龐統の強い勧めもあり、益州を奪う決心をした。劉備は龐統・黄忠・法正らを連れて益州を攻撃した。諸葛亮は張飛、趙雲、劉封らとともに長江を遡上し、手分けして郡県を平定し諸葛亮らは戦うところすべてで勝利した。郡県の平定を終えると劉備と合流し共に成都を包囲し、蜀の国に入ります。

その後、劉備は曹操に勝利し漢中を領有したが、荊州が孫権に奪われ、荊州の留守をしていた関羽が捕らえられ、斬殺された。

 劉備の養子の劉封が孟達,申儀の裏切りにより曹操軍に敗走して成都に戻ってくると、劉備は劉封が関羽の援軍に行かなかった事と、孟達の軍楽隊を没収した事を責めた。諸葛亮は劉封の剛勇さは劉備の死後に制御し難くなるだろうという理由から、この際に劉封を除くように進言した。劉備はその提案に従い、劉封を自殺させた。

建安25年(220年)には曹操が死去した。翌年、劉備は成都で漢帝を称して、即位して蜀漢を建て、諸葛亮は丞相となった。

 劉備が関羽の敵討ちの為に呉へ進軍を計画した。しかし、この戦いの準備段階で飲んで寝ていた張飛が部下に殺されるという事件が起こり、諸葛亮は張飛が就いていた司隷校尉を兼務する。この戦いは最初は順調に行き、途中孫権は和睦を行おうとしたが、孔明の言に従わず返って、陸遜の作戦にはまり大敗に終わった。これを夷陵の戦いと言います。この戦いの後、諸葛亮は「法孝直(法正)が生きていれば、主上(劉備)を抑えて東征させたりはしなかっただろう。例え東征したとしても、このような危機にはならなかっただろうに」と嘆いた。これは孔明の失策だったと言えます。だんだん孔明の意図とは違った方向に歴史は進んでいきます。

 劉備は失意から病気が重くなり、逃げ込んだ白帝城で崩御する。崩御にあたり劉備は諸葛亮に対して「そなたの才能は曹丕の10倍ある。きっと国を安定させて、最終的に大事を果たすだろう。もし我が子、劉禅が補佐するに足りる人物であれば補佐して欲しい。もし我が子に才能がなければ迷わずそなたが国を治めてくれ」と言った。これに対し、諸葛亮は、涙を流して、「私は思い切って手足となって働きます」と答え、あくまでも劉禅を補佐する姿勢を取った。此の時「託孤の臣」には李厳も指名されている。「託孤の臣」とは父に死なれ、幼くして即位した君主の補佐を頼み、国政をゆだねられる重臣のこと。

           

 また、劉備は死に際して諸葛亮に向かい、「馬謖は言葉だけで実力が伴わないからけ重機に用いる莫れ、そなたはその事を忘れずにな」と言い残した。後に街亭の戦いで、孔明の指図に従わず、山の上に陣取り、水場を押さえられて司馬懿仲達に負けてしまいます。これが蜀軍の先行きを決定付けてしまいます。

             
              何の、変哲もない小高い山だが、馬謖は水を断たれて惨敗します。

馬謖は孔明の後を継ぐ天才でありながら、自分の才に溺れて大敗してしまいます。孔明は馬謖の才を惜しみながら首を刎ねる事を命じます。これが有名な「泣いて馬謖をきる」の経緯です。            

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諸葛孔明、臥竜先生(2)

2020-08-23 20:04:34 | 漢詩・古典・エトセトラ

 周瑜はまだ野に居た鳳雛先生事、龐統を曹操の元に向かわせ曹操の大船団が、川が怒涛のように荒れ狂い船酔い、疫病に苦しんでいる様子に乗り込んでいき「船を鎖でお互い繋ぎ止めれば静かなる事大地を進むが如くです」と進言します。案の定揺れがピタッととまり、曹操もかなり安堵します。しかし、これは龐統の謀だったのです。ただ徐庶だけはそれを見抜いており、わが身の安全を龐統に問て、北方の馬騰の抑えになることを申し出て戦場から離れ難を逃れます。(これを連環の計)と言います。

                     
                 周   瑜                               鳳雛先生事、龐統  士元  

        
              右側が河口になります。

 両軍は、長江に沿う赤壁で対峙します。周瑜は大軍を有する曹操を相手にするには火計しかないと判断し・張允が旧友のよしみで呉軍に訪ねて来た時,大飲させて机の上に蔡瑁にあてた偽の内通の書をわざと置き忘れて荊州水軍の要である蔡瑁を曹操の手によって殺させてしまいます。

 更に曹操の策によって偽りの降伏をしてきた蔡瑁の仇を打ちたい従弟の蔡中、蔡和を利用し、偽情報を曹操軍に流させる。周瑜は将軍の黄蓋と共謀してわざと諍いを起こして老将の黄蓋をむち打ちにします。そして蔡中・蔡和を通じて曹操に偽の降伏を申し出る。(これを苦肉の計といいます)曹操は疑り深いのでかなり手傷を負わせたとのことです。

 いよいよ、曹操の大軍と赤壁で対峙する訳ですが、呉軍にはいい矢が不足していました。かつて諸葛亮を恐れていた呉の大都督 周瑜は難題をかけて諸葛亮に一週間で矢を10万本揃えるように要望します。すると諸葛亮は「戦にそんな時間を費やせられない、私なら三日で揃えて御覧にいれましょう」と。呉の面々は驚くばかりです。魯粛は「先生軽々しくそんな事を言って大丈夫ですか?」すると孔明は船を三艘用意させ、藁で芯を作り周りを白い布で覆い、曹操の大軍に向けて夜半に出航します。

                               
                                           赤  壁

 到着すると孔明は琴を鳴らし、船を横向きにして敵前に停泊させます。慌てた曹軍は矢を雨アラレと打ち込み、時を得て今度は船先を反対に向けて矢を射こませます。こうして、矢で針ネズミのようになった船を呉軍迄引き返すと10万本どころか一説によると30万本も用意してしまいます。
周瑜は内心驚きいよいよ孔明を亡き者にしようと思う訳です。

 苦肉の計を進めたいのですが一つ難題が残ります。それはこの時期十月は北西の風が吹いていて呉軍にとって逆風だった訳だ。散々悩んでいると孔明が「私が東南の風を吹かして御覧に入れましょう」孔明は七星壇を作らせて祈祷に入ります。皆は訝しがりますが、後1日の頃東南の風が吹き始めます。これは祈祷ではなく、一年でこの時期に東南の風が吹く事を孔明は知っていたのでした。

 すわこそとばかりに苦肉の策を実行に移します。曹操の大船団に近付いた黄蓋はまんまと火を放ちます。曹操の見張りは船の汽水線が軽いのを見破りますが、大船団に近付いた黄蓋はまんまと火を放ちます。

 曹操の船は龐統の策によって鎖で繋がれており逃げるに逃げられない。あっという間に大火災となります。こうして、曹操は命からがらやっと逃げます。一方孔明はかねてから周瑜のたくらみを感知しており、東南の風が吹くや否や、その機に乗じて呉を脱出します。

 呉軍の大勝利となり大敗した曹操の軍は烏林に兵をまとめて逃走します。

 一方、劉備軍は諸葛亮の指示の下、曹操の退却先に伏兵を置き、舞い込んできた曹操と残った軍に追い討ちをかける。しかし諸葛亮は「今曹操は天命がつきておらず、殺す事は不可能であるし、殺しても今度は呉が強大になって対抗できなくなるだろう」と判断し、曹操に恩がある関羽をわざと伏兵に置き、あえて関羽が曹操に対し恩を返す機会として与え、関羽が曹操を逃がすのを黙認する。(昔、漢寿亭候の位を授けてもらった恩義があります)

こうして曹操は荊州の大半を手放さざるを得ず、立て直すのに長い年月がかかります。以後荊州は劉備と孫権の係争地になります。

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やっと見つかった

2020-08-21 21:16:54 | フライの話

 この間から、フライタイイングを始めた訳なんですが、ロッド(竿)はあるのは分かっているのですが、リールがどこ行っちゃったか分からんチンです。東京の家のテレビのアンテナケーブルを作るのに物置を探しついでに片付けしていたら、何やら胡散臭い箱が!。「あれれ、」「もしかすると」「キャンプ用品じゃないね」

若かりし頃は記憶がしっかりしていて結構長い期間が過ぎても思い出せますが、しばらく釣りから離れていると完全に記憶が遠い彼方ですね。「あったあ!」。

     

 そういえば女神湖のワカサギ釣り用のロッドとリールを買ったのだが、その翌年から水質の悪化で釣り禁止になってしまったので、フライリールと一緒にしまい込んだのをすっかり忘れてしまったのだ。だいたい3日前の事も忘れてしまうのに15年も前の事なんか覚えている訳ないじゃん。やはりネームプレートとかテプラで分かるようにしないとね。

何はともあれ久しぶりに姿を見れて感慨ひとしおだね。

メーカー

ロッド

全長

リール

天  竜

FATES

7f 02

FATES

天  竜

SUPER FATES

8f 06

MARRYAT

     
             下が短い方のロッドだよ

このリール当時は「ちょっとした」ものなので、嬉しい気持ち一杯なのさ。

 でも三銃士の中のアトスがダルタニアンの従者のプランシェが自慢げに「少々土地を購入しましたんで」アトスが話の途中で「ねえ、君のそのちょっとした土地・・・」と言ったらプランシェは自分の思い上がりを「いやっ」と言うほどおもい知るのであった。という一節を思い出した。(アトス=ラ フェール伯爵はブロアに広大な土地と城を所有する伯爵様なのであります)

                     
                  アトス=ラ エール伯爵     従者プランシェ
        あくまで映画の中の役者だよ。


 閑話休題、久しぶりにロッドにリール付けてダブルホールの練習でもしますかね。しかし、現地に行って魚の顔を見なけりゃ「釣り師」とは言えないのだ。

今の子供達がゲームばかりしているのを見ると、「小手先ばかりの技術」ばかり上達して有頂天になっていますが、魚釣りに限らずスポーツとか武道とかで自分に磨きをかける方に力を入れてもらいたいね。

ゲームは悪いとは言いませんが、ゲームでサッカーなんてやらないで実際に球を蹴って遊んでもらいたいね。平面じゃなくて立体でね。

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有名な諸葛孔明。臥竜先生(1)

2020-08-19 14:31:32 | 漢詩・古典・エトセトラ

 時は184年,張角の唱えた太平道「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」という新興宗教であった黄巾の乱が勃発して,漢の末期(後漢)は天下入り乱れて混沌の時代となります。「中山靖王の末裔」の劉備玄徳、と私塾を開いていた雲長関羽、と鴻家の家にいた張飛翼徳が桃園にて「義兄弟の契り」を結んで手勢を率いて立ち上がる訳です。(これを桃園の義といいます)

  この時期には諸葛亮は「自らを管仲、楽毅に比していたが、当時の人間でこれを認める者はほとんどおらず、親友の崔州平崔均の弟)や徐庶だけがそれを認めていた。

           
                諸葛 亮 孔明

  諸葛亮は晴耕雨読の毎日を送っていたが、友人の徐庶が劉備の下に出入りして、諸葛亮のことを劉備に話した。劉備は徐庶に諸葛亮を連れてきてくれるように頼んだが、徐庶は「諸葛亮は私が呼んだくらいで来るような人物ではない」と言ったため、劉備は三度足を運び、熱意を以て諸葛亮を迎えたがこれを「三顧の礼」というのは有名な話ですよね。

 孔明の嫁さんは黄承彦の娘で「私の娘は色が黒くて醜いが、才能は君に娶わせるに足る」と言い、諸葛亮はこれを受け入れた。周囲ではこれを笑って「孔明の嫁選びを真似てはいけない」と囃し立てたという。これ以降、不器量の娘を進んで選ぶことを「孔明の嫁選び」と呼ぶようになった。因みに、鳳雛先生の龐統は黄承彦の親戚であり、諸葛亮は奥さんを通じて龐統と親戚でもあります。

 『襄陽記』には、劉備が人物鑑定家として有名な司馬徽(水鏡先生)を訪ねた折、諸葛亮は「時勢を識るは俊傑にあり」として「伏竜」と「鳳雛」、すなわち諸葛亮と龐統とを薦めたという話が載る。また「伏龍、天に昇らんと欲すると雖もその時を得ず」と言ったとあります。

諸葛亮は劉備に対していわゆる「天下三分の計」を披露し、曹操・孫権と当たることを避けてまず荊州・益州を領有し、その後に天下を争うべきだと勧めた。これを聞いた劉備は諸葛亮の見識に惚れ込み、諸葛亮は劉備に仕えることを承諾した。これを「孔明の出廬」と呼びます。そしてこの時劉備が言った言葉に「水を得た魚のようだ」(これを「水魚の交わり」と言います)

 建安13年(208年)劉表が死去。その後を予定通り劉琮が継ぐ。その為に長男の劉琦は命すら危ぶまれていた。劉琦は自らの命を救う策を諸葛亮に聞こうとしていたが、諸葛亮の方では劉表一家の内輪もめに劉備共々巻き込まれることを恐れて、これに近寄らなかった。そこで劉琦は一計を案じてて家宝を見せると騙し高楼の上に諸葛亮を連れ出して挙句に梯子を外して助言を求めた。孔明は仕方なく助言をした訳ですがこれが後に窮地を救う事になります。

 諸葛亮は劉備に荊州を取れば曹操に対抗できるとすすめたが、劉備はこれに難色を示す。まもなく曹操が南下を開始すると、劉琮はすぐさま降伏してしまった。劉備は曹操の軍に追いつかれながらも、手勢を連れて夏口へ逃れた。この時劉禅阿斗を抱いて曹操の軍を蹴散らし鬼神の働きによって渡り合い突破した趙雲子龍の話は有名で、長坂橋の戦いとして語り継がれています。

         
             趙雲 子龍
 曹操軍に追いつかれて「これ迄」と覚悟を決めた折に危機一髪で劉琦の援軍に助けてもらう事が出来ました。

 孫権陣営は情勢観察のため、劉表の二人の息子への弔問を名目に魯粛(あの「外には周瑜、うちには魯粛に問え」の魯粛です。)
派遣してきていた。諸葛亮は魯粛と共に孫権の下へ行き、曹操との交戦と劉備陣営との同盟を説き、これに成功した。

 この際、孫権から「劉備殿はどうしてあくまでも曹操に仕えないのか」と問われ、諸葛亮は「田横は斉の壮士に過ぎなかったのに、なおも義を守って屈辱を受けませんでした。まして我が主・劉玄徳は王室の後裔であり、その英才は世に卓絶しております。多くの士が敬慕するのは、まるで水が海に注ぎこむのと同じです。もし事が成就しなかったならば、それはつまりは天命なのです。何故曹操の下につく事などできましょうか」と答えた。

 当時呉の内部では主戦派と投降派に分かれていましたが、孫権も迷いましたが、孔明が一つの歌を披露します。孔明は曹操が「二喬」を欲しがっていると告げ、更に曹操の子・曹植がその望みを謳った詩「銅雀台賦」を諳んじたことで周瑜は激怒、孫権に対し主戦論を主張する。これによって孫権は開戦を決意します。
その大喬は孫策夫人で小喬は周瑜婦人なのでした。孔明は其の事を重々承知して、とぼけて話をしたのでした。レッドクリフでは小喬が曹操の元に人質に向かうなんてありますが、全く以てふざけた話です。

その後、劉備・孫権の連合軍は曹操軍と長江流域(昔は揚子江って言ってました)流域で対戦する事となります。

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散水ホースのジョイント

2020-08-16 22:23:00 | DIY

 山での散水はまず、ホースが長い。当然ノズルを付けるので圧力が掛かります。10mとか15mともなるとジョイント部から水が漏れてしまいます。今の基部はABS樹脂製の物が多い。ホースが短いと役には立つんですが、長くなると結構水が漏れて噴き出します。

 

 たまたまこの製品が出ていたので、とりあえず購入です。「水漏れ無し」なんて書いてありますしね。試しに短いホースで試してみようと思い取りに行ったら「ありゃま、お客さんだ!」この山に居を構えて20年余りたちますが、「ミヤマクワガタ」は初めてです。

   

 日向だと暑いので、日中は木の根元に潜ったりして過ごしています。この場所は風通しがいいので過ごしやすいんだろう。ご退去頂く迄暫く中止です。でも全然動かないね。

 しょうがないので、今使っている10mホースに付けてみる事にしました。上手く漏らないでくれるかな?。「買ってしまって失敗したかな?。なんて要らぬ心配するもんです。そりゃそうだ!。これ1個で900円もするんですからね。

        

元栓開けて、蛇口を開くと圧が掛かってホースが膨れてきます。「おお!、全く漏れがないね」。
無駄に金を掛けないで良かった良かった。

           

ピストルノズルも全く漏れてません。上手く行くときはすんなりと終わるもんだね。一発で合格です。

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とっても晴れがましい気持ち。

2020-08-14 07:40:58 | 日記

 山の夏は子供の夏休みになります。当然、両家の友人や親戚の子達がわんさか集まります。今回、友人の市川君からの依頼で、針外しピザを作ってくれないか?との事。大人、私入れて8人子供6人。「何枚つくるかなあ?」「4枚じゃ足りないね。6枚作るか!」

 強力粉、薄力粉(各140g×3を3っつ)、ドライイースト、塩、砂糖、オリーブオイルを用意して、3団子
作る訳ですが針外しはプロではありません。出来上がったのは9時ジャストね。

これさえ作っておけば、後は乗せるもの用意すればいいので、まずはOKね。

 今回はサラミと針外し手作りの燻製ベーコンシーフードです。下の写真は以前の物ね。なんせ人が多く行ったり来たりで写真撮っている暇ありませんでした。

    

いつものピザトースター。ヤフーのオークションで何故か、即決2100円、ただ送料が2600円多分送料で元取ってるんだろうね。これが案外重宝で役にたっています。

                     
                           
                                    写真頂いたので、載せます。
先に子供達から食べさせたら口に入れた途端「美味しー!」の連発。その食い方の早い事。「凄いね!」
「針さん、子供達がこんなに食べるの普段ないよ。」「これって凄くない」「食べた傍からお代わり!」親が間を抜って、食べる時間が取れません。結局、親の食べる時間は後回しになりました。
「余ったら明日の朝、食べて」なんて言ってましたが、「とんでもない、こりゃ完食だわ」

                                     

3種類のピザもそれぞれ美味しくて大成功だね。特にシーフードは初めてでしたが、とても美味しかった。

 子供達食べ終わったら今度は「絵日記」です。こんな小っちゃいのに、字が上手いなあ。絵も上手!。
それより嬉しかったのはよほど美味しいと思ってくれたのか、針ピザ(本当は違うんですよ)とても美味しい!。ピザの絵も描いてくれました。

        
 この後、親達も絶賛してくれまして「また作って!」とリクエストも沢山頂きまして、大団円となりました。しかし、良く食べたね。小学1年生くらいのこなんか6,7枚食べたなんてヌカシテいますぞ。皆お腹が膨れているのが、はっきりわかりますね。 



 何とも嬉しい限りですね。こりゃ、ピザ生地をもっと手際良く早く作れるように研究しないとね。「もうちょっと大きくなってきたら6枚じゃ足りまへん」なんて言っています。晴れがましい反面、ちょっと恐ろしくなりましたね。
 来年のご予約も頂きまして、はてさて今度は8枚位生地を作らないと足りないので眠れない日々が続きます。    

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こんな事も分からないのかね?。

2020-08-13 07:50:01 | 針の政治談議

 コロナ対策している店に対して適合ステッカーを配布している訳ですが、昨日、その店で集団クラスターが発生してしまった。ま、出るべくして出たのでごく当たり前なので何をかいわんやなのですがね。

 PCR検査をして陰性の人だけ店にはいれるようにすればよいものを店にばかり対策を要求している。これやっている事が逆だ。いくら店が対策をしていても無症状を含む陽性者が店に来たら防ぎようがない。でも陰性の人にもそれが分かるようにステッカーを発行すればいいじゃないか。

 確かにこれだけでは不十分だが、そこからこぼれ陽性者(後に陰性から陽性になるもの)も出るかもしれない。でもそれを承知でPCR検査を続けてやっていればどんどん収束してくるはずだ。

 中には不心得者がステッカーを偽造する奴が出てくるかもしれないね?。もしその者が陽性者になったら罰金刑にすればいいじゃないか。自分が陽性なのを承知なのに相手に移した場合は傷害罪かな?。でもそうはいかない無症状者もいる。だからこそ猶更、国民全員にPCR検査を実施して何回でも検査を受けられるようにするのが基本だ。

陰性が証明された人が堂々とお店に行けば、経済効果も損なわれない。経済が優先なら猶更この方法を取るべきだと思う。地道だけど、一番確実で近道だと思います。

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今の中国についてあれこれ(3)

2020-08-12 20:13:52 | 針の政治談議

 今の中国は嘗ての清の時代よりも拙い、程度の低い国家になってしまった。かつての皇帝が納めていた時代は国土は大きかったが、それ以上広げようとはしなかった。(隣県を制圧して統一はしましたが)(元の時代を除いて)万里の長城がいい例だ。あれだけの物を作っても隣国からの侵入に手を焼いていました。
 広いと収支が付かなくなるのが分かっていたからだ。で何よりも人民の生活の安定を「君主の基本理念」としていた。
 今の共産党国家は皇帝が何人もいるか、集団で既得権益を貪り食ってそれを守っている状態、「中華人民共和国」なんて言う国名なんてちゃんちゃら可笑しい。

 中国の一帯一路にしても、もう世界から白い目で見られるようになってきている。一時は中国の金に目が眩んで不平等とも言える条約を締結してきたが、やはり中国が秦の時代からの覇権根性が見え隠れするね。結局は、諸外国は離れて行ってしまった。

 「結局は中国に有利に、利益はその国に落とさないで自分が裕福になるという考えが中心の国家だ」

 良く中国はGDPがアメリカの次とか追い抜いたとか言っているけど、13億のにんげんが1円利益をあげると13億円儲かるわけだが、国がその利益を人民に回さないで国外の覇権の為に金を使ってしまっては国民の生活は豊かにならないね。富裕層が増えれば増えるほど格差が広がって不満が爆発して内乱がおきるのだ。

紅衛兵で軍隊を作ってそれが「国威」だなんて、近代国家からは全くかけ離れています。軍隊をいくら作っても「そいつ等のただ飯」を食わせるだけでも相当な出費だね。

そんなんで万が一、何処かで紛争が勃発しても世界からは中国の性悪が知れ渡ってしまっているので、中国は何も出来ません。せいぜい「三国志」等のエキストラで使われるのが精一杯」だ。

今の中国の発展は為替の変動相場制ではなく固定相場性を勝手に決めてしまって、本来他所の国の利益をかすめ取ってきたのが最大の要因だ。それで紅衛兵や軍隊を養わせていたのだが、国際から変動相場に切り替えさせられてからは衰退の一途だね。

今、ファーウェイがアメリカ、ヨーロッパから締め出しされていますが、昔から中国は間諜の国。孫子の兵法にも真っ先に謳っているのがまずスパイによる情報獲得だ。

民主主義の周庭さんや黄之鋒氏が1日で釈放されたが、世界の批判の目が強まってきたので、釈放せざるを得なかったからだ。

 人民共和国を謳っている以上、「基本的人権」に関して「内政干渉」という言葉は当てはまらない。人間の尊厳にかかわる事については、国の元首であろうが共産党という党であろうが国の思惑とか、そんなのに「内政干渉」なんて言葉はありえない。

 中国政府のそんな駄目な報道官があれやこれや言っても、世界の目は節穴ではないという事だ。

毛沢東が「毛沢東語録」なんて、おこがましい物を作っても時代が変わって次の代の後継者が、自分の思惑、利益が優先になってきた時から「中華人民共和国」の終わりが近づいてきている。

一つの家で一人でも馬鹿が出るとその一家は落ちぶれてしまうね。

中国は自国内をもっと発展させれば十分に豊かになれるのにアメリカとかヨーロッパ、日本という「隣の芝生」が良く見えるんだろうね。外に出ようとすればするほど摩擦がこれからもどんどん増えて自分の首を絞める結果になりのは目に見えている。

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蒼穹の昴

2020-08-09 21:32:40 | 漢詩・古典・エトセトラ

 知る人ぞ知る、浅田二郎氏原作 「蒼穹の昴」。田中裕子主演 西太后。中国語も立派。西太后のいい面が書かれています。
                           
                             田中裕子の「西太后」

 物語は光緒の時代、一人の女性が孤児、男子2人(兄、梁 啓超(文秀),弟 梁文春 (春児)、妹(名前忘れました)1人を育て上げ、兄は科挙で進士に及第主席で状元になります、。弟は宦官となって宮中へ上がります。其処から話が始まります。

       
          晩年の西太后と若かりし頃の西太后

 その兄が梁 啓超です。18歳の時に康 有為が広東省南海に帰郷すると啓超は友人の陳 千秋と共に面会・歓談し,康 有為の勧めで私塾「万木草堂」を開く。それからそこを拠点に有為から「公洋学」を学ぶと同時に康有為の大同思想に感銘を受けて学海堂戻っては宣伝し老師とか学友と論戦した。

      
                                                         梁 啓超

1898年変法派の主張を容認した光緒帝に招かれて梁啓超達は立憲君主制としての革命に携わる。が、事態は一変して西太后、袁世凱等保守派がクーデターを起こし変法派は弾圧・処刑されてしまう。

一方の弟の方はその純粋な心の持主なので西太后からの寵愛を受けます。皮肉にも兄弟は相反する地盤で行動することになって行きます。

これを戊戌の政変と言います。光緒帝も西太后に毒殺されてしまいます。その為に西太后は中国の三大悪女にされてしまいます。しかし近年、中国当局者や浅田氏の推理により、いい面も大分明らかになりました。

兎角歴史家の歪曲により、「面白、可笑しく」する為にでっち上げられていることが多いようです。

  梁啓超は辛うじて日本に亡命した。其処で新しい国が高度成長してまるで明け方の風を」呼吸するが如く頭もスッキリして気持ちが良かった。

此処の国の役人から、職人に至る迄希望を持って活躍して勤勉であり進取の気風に満ちていた。無名の小国が近代国家となる様を目のあたりにしたのである。

 そしてこの思想が辛亥革命・孫文へと繋がっていきます。
孫文は日本との関係を重視していましたが、時代は変わって毛沢東の頃になると大分方向性が変わって、江青による「文化大革命」となります。

 ナショナルの「松下幸之助」は戦後の詫びの積りだったか資金援助、知的財産、ノウハウを惜しげもなく与えていましたが、一方で中国は日本の資金援助を利用してあろうことかそれで日本に向けて「ミサイル配備」しましたね。彼の善意は全くもって裏切られました。

 江沢民になるともっと酷く「反日」を武器として対抗するようになります。一説によると、韓国も中国も時の連合軍司令官「マッカーサーの裏工作」で反日が仕組まれたとあります。
 だから、ひょっとするとアメリカのトランプと中国の習近平は裏ではこっそりと繋がっているのかも知れません。
日本も韓国も両国の「出汁」にされているのかも知れませんね。

反日の嘘は以前に書いた2013年の「今の中国についてあれこれ」に記載してあります。「赤い故郷を捨てた人々」に書いてありますので参照してください

ちょっと脱線しましたね。

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山アジサイが咲き出しました。

2020-08-09 10:09:30 | 立科・信州の話。

 蓮華ツツジ、山法師が終わって次は山アジサイの番です。最初白色って華やかじゃないなあーって思ってましたけど、山には山の色という物があります。変に艶やか過ぎると違和感が出てバランスが崩れますね。 

     

 ま、物に「適度」という言葉があるようにそこそこ咲くのが品位があっていい感じであります。女性にしても折角綺麗に育っているのに「ゴテゴテ」と塗りたくって所謂「オーバーデコレーション」になるのは針外しは好みません。(ってお前だけの意見だろ!)

白居易の長恨歌の楊貴妃のように「宮中の粉黛、顔色なし」です。

  

見慣れてくると、いいかんじね。立科に小梨の樹がこんなにあったのか?と思うのですが、この山アジサイの樹もかなり自生しています。

都会によくあるアジサイのうちガクアジサイのパターンに似ています。この木にしろ「原種」に近いんだろうね。
  

よくあるアジサイは「西洋アジサイ系」なんだろう。

           

今は咲き始めで沢山花芽を持っているので、これからもっといっぱい開いてくれるだろう。

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リス君が2匹に増えました

2020-08-08 08:21:07 | 立科・信州の話。

なんせすばっしっこいのなんのって。ちょっとでも気配を感じると「サッと」逃げてしまいます。そのくせ餌箱が空になると母屋の方に様子を見に来たりします。野鳥のレストランに大食漢が来てしまったね。リス君達は秋口に来ていましたが、山の春夏は短いからね、ある時に体に栄養をため込んでおかなかければならない訳だ。

         

最近、もう少し小さいリス君が来るようになった。もしかして「番」(つがい)なのかも知れません。その子はまだ、初お目見えなので警戒心が強いね。

         

ここのところ、2,3日顔を見せてません。何処かで、ご飯を用意してくれている処が見つかったのかも知れないですね。ま、1年中餌を用意できる訳もないので、山に来る人で御飯を用意してくれる人を5、6件確保していれば越冬も、楽になるかもしれない。

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ちょっとおかしくないかい?

2020-08-07 07:23:08 | 針の政治談議

 人それぞれ意見はお持ちだろうと思いますが、政府の今の対処の仕方が全くを以て出来ていないと思う。

 最初ダイアモンドプリンセスで感染が広まり武漢では悪念の終わりから広まり始めていたのを日本政府は既に知っていたにもかかわらず、ヨーロッパからの帰省者を野放しにしてしまった。

 その後もPCR検査をちっともやらないで野放図状態。巷では、どんどん感染が広まっている。毎日毎日感染者何人何人と発表しているが、何のために発表しているんですかね?。

その裏では対処が全く進んでいない。

 コロナを収束するのにはやる頃は簡単!。PCR検査をどんどんやって陽性、陰性を割り出して、陰性の方には証明書を発行してその方たちは飲食街に行くのはOK.。何も店の営業時間を短縮規制なんかする必要はないね。

陽性の方はそのまま入院。これを地道にどんどん推進していく以外に収束はかなわない。

 最初が肝心だった。無症状の人、体温とか軽症者の条件を満たさないと自宅待機にしてしまった。

 毎日毎日ワイワイ騒いでいるだけで、その足元では患者を増やし続けてしまっていた。今でもどんどん感染者が増えてしまっているじゃないか?。

専門者委員会の釜萢 敏 氏なんかは「PCR検査」をしても全部を網羅できないなんて言っているが違うだろ!。だからやらないって「言い方だ変だし、脱線してしまっているね。

 分化会の小林敬一郎氏なんかは「税金を投与するのも国民の理解を得られない」なんて言っている有様だ。税金をこれだけ増税して森友,加計,桜で金を無茶苦茶使ってしまっていたんだろ佐川にも功労金代わりに莫大な退職金払っているし、池田、案里には1億五千万円も平気に渡しているし。税金の使われ方が滅茶苦茶なのに「理解を得られないなんてとてつもない学者ボケの意見だ。こんな奴等が上で指揮を執っているのに「ヘンだと思わないのかね?」

安倍が馬鹿だから、取り巻きも馬鹿。官僚も総理が馬鹿だとやり易い。自分たちの書いた答弁書をそのまま、読んでくれるのは「合っていようが間違っていようが」ありがたい存在なんだね。官僚も総理のご機嫌さえ取っていればこの先日本がどうなろうと知ったこっちゃないのだ。

今の政府にしても官僚(役人)にしてもコロナを収束する気が全くない。なんか数字遊びをしている感じすらある。国民も「マニュアル馬鹿」ばかり。政府の子供騙しの政策を有難く励行さえしている。何でこんなに一辺倒に政府の指示に従っているんだろう?。

ある感染症の専門医は「コロナは1か月で収まる」とさえ言っています。

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岳飛という人

2020-08-05 06:28:52 | 漢詩・古典・エトセトラ

Wikipediaからの引用です。
 
 岳飛は国を身を挺して守ったとして英雄として祀られています。武林(武術界)でも多くの門派で始祖として崇められています。古の武術家を始祖としているのに、兵法家、孫臏の孫臏拳、秘宗拳の三国志の浪子の燕青、槍の李書文で有名な八極拳の岳飛等々あります。

 127年、岳飛は25歳の時、開封流守の下で北宋の首都開封を金軍から守ることを命じられていた。流守は金に降伏するが、岳飛の戦いは評価され、1130年朝廷より通州と泰州(江蘇省長江北岸の地)を鎮撫する正式な官に任じられた。
 折りしも同年11月、秦檜は金の軍から脱走し、宋に戻った。この時既に、北宋は首都を臨安(杭州)に移し、南宋となっていたが、和平派と抗戦派の争いは激しくなっていた。抗戦派は「秦檜は金の和平論者ダランとの内々の約束の下で帰国を許された」と非難していた。これが、後世に秦檜が金と密通していたと言われる原因となった。

          

 将軍たちが国内各地の混乱を治めていた時、秦檜は1131年宰相に任命された。一方、岳飛は、1134年古来中国の南と北を結ぶ交通の要衝である湖北の襄陽(じょうよう)を奪還し、高宗は岳飛の戦いを賞賛した。

 同年、彼は節度使を授けられた。32歳の若さであった。さらに、スピード出世したため、他の武将から嫉妬の眼を差し向けられるようになった。また、学問も出来、他の将軍とそりが合わなかった。

 1139年正月、宰相秦檜は宋金和平交渉をまとめ、河南と陝西地方が南宋に返還され、その代わりに南宋は金に歳幣として銀25万両、絹25万匹を贈ることになった。ところが、金朝内で政変が起こり和平派のダランが殺され、和平は破綻した。

 さらに、岳飛は「願わくは謀を立てて全勝を期し、黄河以北の地を収め、手に唾して燕雲(北京と山西)を回復し、仇を報じて国に報いん」と上奏し、秦檜の憎悪を買った。

 和議が破れると、金軍が一斉に南下して洛陽や開封を占拠すると、南宋もまた抗戦派の将軍が応戦した。

岳飛は岳家軍を率いて北上し、洛陽を回復、開封郊外にまで及んだが、和平を模索する秦檜は南宋軍に引き上げを命じ、岳飛も1140年、武昌に引き返した。その時、岳飛は「我が10年の努力は1日にして廃された」と嘆いた。

 秦檜は和平を実現するために抗戦派の力を削がねばならないと考え、節度使の軍事力を削減させる策をとることにした。つまり、将軍を高官に転任される交換として、彼らの私兵を国家に没収していった。しぶる将軍に対しては、賄賂を使った買収もあった。清廉な岳飛が買収に利かないとみると、秦檜は岳飛と息子の岳雲に根拠のない罪を着せ、投獄した。そして、妻の進言に従い、1141年12月に処刑してしまう。岳飛は39歳で、岳雲は23歳であった。そして、翌年、金との第二次の和議が成立したのだった。

 その後、岳飛の冤罪が証明され。杭州の西湖のほとりには岳王廟が建立された。岳王廟の岳飛と岳雲父子の墓の前には、彼らを陥れた秦檜夫婦が縄でつながれた形で正座させられ、頭を垂れている石像が並べられている。中国人観光客には、その石像に向かって唾をかける者もいる。国賊というわけである。

その岳飛で有名なのは背に母親によって彫られたとされる黥(入れ墨)「尽(精)忠報国」の4文字があったという。

いくら英雄が孤軍奮闘しても周りが「馬鹿」「私欲の徒」だと国を亡ぼす原因になりますね。今の日本は安倍からして馬鹿ですけど。いつか英雄が出ないですかね?。

因みに前回射鵰英雄伝の「郭靖」を「郭青」としましたが「郭靖」の間違えでした。「靖康の恥を忘れるな」から全真教の丘処機が字を取って命名したものでした。慎んでお詫び申し上げます。

 金は徽宗・欽宗以下の皇族と官僚など、数千人を捕らえて北方へ連行した(この出来事を「二帝北行」という)。彼らはそこで悲惨な自活の虜囚生活を送り、異郷の地に骨を埋めることとなったのである。熱い鉄板の上を歩かされ飛び跳ねたという話もあります。靖康というのは南宋のその時の年号です。飛んだり跳ねたりするのを金の者たちが腹を抱えて笑ったとあります。

また、同じくこの事件で宋室の皇女たち(4歳から28歳)全員が連行され、金の皇帝・皇族・将兵らの妻妾にされるか、官設、妓楼「洗衣院」に入れられて娼婦にさせられた。今では考えられない事ですね。

秦檜
は頭が良かったのかも知れないが、兎角「箱物」から出ないで政治を語ると、とんでもない結果が待ち受けるということです。

 南宋はチンギスカンに滅ぼされ、モンゴル族の支配に下ることになる。元の時代に、岳飛は異民族の金と戦ったとして語り継がれ、歴史上の英雄と呼ばれるようになる。

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