針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

国姓爺・鄭成功

2020-07-30 08:39:59 | 漢詩・古典・エトセトラ

 父、鄭芝龍は福建省泉州府の人で、平戸藩・松浦隆信の寵を受け平戸老一官と名乗った。長崎県平戸市川内町に住んで日本人の女性、田川マツを娶った。身籠ってたまたまマツが千里ヶ浜に解拾いに行った時に俄かに産気づいて家に帰る暇のなく浜の木陰の岩にもたれて鄭成功を出産したので浜には「誕生石」がある。幼名を「福松」と言い、7歳の時に父の故郷の福健に移る。鄭一族は、厦門島(かもんとう)や金門島を根城にして密貿易を行っていたので、政府や商売敵との抗争で私兵を持っていた。

                               

 1644年李自成が北京を陥落させて崇禎帝が自決すると明が滅んで順が立った。すると旧明の皇族達は各地で亡命政権を作り、鄭芝龍らは「唐王・朱 聿鍵(しゅ いっけん)」を擁立したが、清の軍の攻撃であっけなく滅ぼされた。(元号を隆武としたので隆武帝と呼ばれた)

 そんな中父の紹介で隆武帝の謁見を賜る」帝は眉目秀麗な成功を気に入り、朕に皇女がいれば娶わせる処だが、残念でならない。その代わり国姓である「朱」を賜るといった。

                                   


 鄭成功は「畏れ多い」と決して「朱姓」を名乗らなかった。しかし、人からは国姓を賜った大人」と言う意味で「国姓爺」と呼ばれるようになる。鄭成功は勢力を立て直す為に台湾に渡り拠点にしようと試みた。当時はオランダ東インド会社が統治していたが、1661年に澎湖諸島を占領したのちゼーランディア城を落とし、城跡に安平城を築き「王城」とした。オランダ人を一掃して鄭氏政権を樹立したが熱病に罹り死去した。
 鄭成功は今日、台湾人の」不屈精神の支柱,象徴である「開発始祖として社会的に高い地位を占めている。台湾城内に「明延平郡王祠」として祭られています。

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いよいよ、仙人修行です。

2020-07-26 08:37:43 | フライの話

針外しは、何年か前に、「生きるか、死ぬか」の肺炎をして2か月ほど入院してましたが、最近の「コロナ」で、此処で罹っちゃたら「あっという間にあの世逝き」になるというので、8月一杯迄、山に居ろ!」という指令が出た訳でありますのさ。

         
しかし今回の「Go To キャンペーン」、まったくくだらない事やっていますね。アメリカのカリフォルニアでは3つの秘策で死亡者(だっけ) 0になりました、

その一つ目はPCR検査を何回でも無料で受けたれるという事。少しでもおかしいと感じたら好きな時に受けに行けて15分でおわってしまう。

日本は何でこの検査をもっと増やして無料に出来ないんだろうね?。

2番目は濃厚接触者の「追跡」だ。接触があったと見られる患者に電話コールするという物。そのじんいんが3万人?いるとの事です。日本という国は議員、官僚、小役人と山のように人がいる。それが現場に行かないで「箱」(国会や庁舎)に閉じこもって政策出しているのでいつも「頓珍漢」所謂、「船頭多くして船山へ登る」だ。現場に行ってよく考えて政策出せばこんな事にならなかった。
針外しが最初から言ってましたが、検査と追跡隔離しかないと思っています。

政府がヨーロッパ帰りの患者とかを放置してしまった事。陽性でも無症状の人を自宅療養させてしまった事。検査したくても検査出来ない。病院に行っても対処してくれない。こんな事やっている間にコロナを蔓延させてしまった。どうしてこんなに馬鹿ばかり揃ってしまったのかね?。

マスコミも「安倍の馬鹿さかげん」についてけっして言及しない。コロナの陽性者が日に日に増えて危機感があると国民の目をそっちに向けようとしているね。

       

 こんな事をぶつくさ言いながら山で「金丹」練りながら仙人修行しますかなあ!。もう国の馬鹿共を罵倒しても手が付けられない状態だし。という訳でボケ防止を兼ねてフライタイイングと洒落込みました。

前回の「extend body」の練習です。まあまあ何とか作りました。でもこれは大量生産は出来ませんね。目を瞑ってすいすいと巻ければ別ですが。前にも言ったようにこのフライで爆釣する訳ではありません。あくまでも自己満足の世界です。いい素材、レンゼッティ―のマスターバイスで巻いて綺麗に出来た!。みんな自己満足です。そして魚のいないところに何百回綺麗に投げてもそこに魚がいなければ釣れる訳ではないのだ。
後日本の河川は急流が多い。今みたいに「線状降水帯」が押し寄せて川が怒涛のように流れれば魚が皆海に流されてしまうか、逃げ場がなくて死んでしまうかも知れないね。可哀そうな事だ。

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鳥の餌台の続き

2020-07-23 06:07:01 | 立科・信州の話。

今回の目的の一つ。野鳥君達の「レストハウス」の設置です。鉄製束のベースもピッタリです。

 

が軽量化の為か、材料が強くありません。近い将来、朽ちが早くて壊れてしまうかも知れません。だから原寸計っておいて設計図作っておいて作り直す事を考えています。

        

鉄製束自体が頑丈なので小さいビスでもしっかり取り付けられた。庭の、前の餌台のポールを利用して、かなり打ち込みました。しっかりと立っています。

     
最後に餌台に付けた足をポールの穴にねじ込んでいきます。(受け側にネジが切ってあります。)
結構、長く回転させます。ちなみに、ネジは左回転すると締め込む「逆ネジ」です。

シャキンと出来上がりました。鳥の餌台はこれがい一番簡単で、頑丈です。

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我が家の山法師

2020-07-22 14:33:32 | 立科・信州の話。

 昨日から山に来ています。コロナでうるさい中、兎角、越境には煩いのですが、余りにも、短絡的な考えね。最近じゃ別荘族に対する批判も消えて、どっちかというと、来て金を落としてほしいのが本音。東京から保菌者が来るのは困るけど、別荘族はスーパーで買い物したら、上に上がって、人との接触なんてありえないね。

で上がって来て、家に着いてみると山法師が満開。っていうかまだ散らないでいてくれました。

     

最近、この辺りじゃ、名が知れてきたらしく、見にきたりします。

     
毎年、頑張って、見事に咲いてくれます。感謝だね。

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李鴻章と袁世凱

2020-07-20 09:34:04 | 漢詩・古典・エトセトラ

曽国藩と李鴻章

 うーんと時代は新しくなって、清朝末期になります。咸豊元年(1851年)に太平天国の乱が勃発して、清朝は大いに動揺する訳です。其処で任に当たった曽国藩が湖南省に移動して湘軍を編成して太平天国との戦いを開始した。李鴻章にも転属命令が出て友人の呂賢基と共に故郷の安徽県に戻り安徽巡撫代理の周天爵の幕僚となって合肥を本拠地として、同じく戦いに参加した。

                                                                             
                      曽 国 藩

  一方太平天国の乱に農民一揆がこれに加わった。これを捻軍(’捻匪とも云う)と言います。(油紙を捻(よ)って燃やし神を迎える風習が農民にあった。)
アヘン戦争後の社会不安と太平天国と相まって農民が加わった。元は河北一帯にいる博徒や強盗、遊侠のとの集団だった。太平天国の鎮圧後この捻匪の鎮圧が主になったが曽国藩があまり成果を上げられず代わりに李鴻章がその任に当たった。よく~匪という言葉が出てきますが、盗賊・山賊、馬賊、博徒、侠客 山賊等を総称して匪賊といいます。

 中国共産党も嘗て赤匪と呼ばれ日本と戦っている時に、旗色が悪く逃げる時に、「日本軍には何一つ残さない」という理由から、村を焼き討ちして村民は皆殺し、物資は強奪が当たり前だったと聞いています。特に「地主階級」と呼ばれた人たちは、その場で銃殺された。それ故に、共産党軍は赤い匪賊=赤匪と呼ばれ恐れられていました。よく「南京大虐殺」という言葉を聞くと思いますが、共産党軍の方がもっと酷い事をしたそうです。大体軍律が厳しい日本軍がそんな勝手な事をしたというのもちょっと疑わしい。(これはよく分かりませんが)    

2013年の「今の中国についてあれこれ」に記載してあります。「赤い故郷を捨てた人々」。文字変換する時に「せきひ」と入れてもこの赤匪の文字は出てきませんね。中国政府も言われるのが嫌なんだろうね。
                    
             
                  李 鴻 章

 湖広総督に任命されて同時7年(1868年に完全平定を果たした。後、曽国藩の後を継ぎ、直隷総督に就任した。この時に北洋通商大臣も兼ねたので「北洋軍閥」と呼ばれた。李鴻章は清朝の重臣筆頭として西太后の厚い信任を得る事となった。

袁世凱

             
                  袁 世 凱 

 袁世凱は朝鮮に政経両面において清の軍勢を扶植して日本勢力と対抗して、排除しようとした。特に経済的に充実をして勢力が強まった。ところが、朝鮮にて貧困と圧政に喘いだ民衆が甲午農民戦争(東学党の乱)を起こした。朝鮮は中国に軍の派遣を要請したのだが、日本もこれに対抗して派兵したために日清戦争が勃発した。結果、清の大敗に終わり李鴻章は責任を問われて失脚した。

 これを見た袁世凱は本当の意味で近代化した軍隊の必要性を痛感した。当時、清の軍隊は軍備の資金を与えられても情感の横領が頻発していて十分な装備を持たなかったり、兵の訓練が出来ていなかった。袁世凱は日清戦争後胡燏棻から引き継いだ陸軍(定武軍)の洋式化の職に就き、近代兵器を伴った兵の訓練・規律等を実施し大きな成果をあげた。

 光緒34年(1908年)光緒帝が崩御(一説によると西太后が光緒帝を毒殺したとあります)しその翌日に西太后も病没して宣統帝が即位する。宣統帝の父醇親王、載灃(裁縫)が摂政王となると政界での状況は一変します。
 醇親王は戊戌の変法で兄の光緒帝を裏切った袁世凱を憎んでおり、宣統元年に失脚となります。更に袁世凱を殺害する計画があったが、いち早く内部情勢を得て北京を離れる事が出来た。河南省彰徳彰の近くに居を構え失意の日々を送ることになります。しかし政界内に彼の部下が多く残っており情報は頻繁に入ってきたらしい。

 宣統3年、孫文率いる「辛亥革命」が勃発。華中、華南では革命派有利に展開する。朝廷内の満州貴族等も袁世凱の他これを鎮圧出来る人物はいないと判断して、清国第2代内閣総理大臣、湖広総督に任命され反乱軍の鎮圧を命じられた。袁世凱は部下の段祺瑞・馮国璋を向かわせつつも自らは動かず裏では革命派と極秘に折衝した。

 そして自らの革命臨時大統領の確約を取るや。寝返り、朝廷の要人に「政権の譲渡・交代」を促した。宣統4年2月12日に宣統帝の上諭が発布されて皇帝が退位清朝は滅亡した。同15日に議場での満場一致で新生中華民国の臨時大統領に就任した。汚い奴と言われそうだね。ま、命が掛かっているから、しょうがないって言えばしょうがないけど。

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新しいお客さんが居付きました。

2020-07-18 08:38:03 | 野鳥の話

最近うちの前の公園にオナガが住み着きました。オナガはシンプルだけど綺麗な鳥です。以前は「芝公園」に集団で居付くようになり、15,6羽位いたかなあ!。それが、分家したのか、はたまた繁殖で、餌の確保が困難なのか、赤羽橋の交差点のビルの立ち木に住んで其処から公園に向かっていたのですが。去年の猛暑でビルの反射熱が厳しいのか、一時何処かへ行っちゃいましたが、今年のコロナの影響で交差点の裏の「飯倉公園」にも人がいなくなり居心地が良かったのか棲むようになりました。本来警戒心が強いはずですが、人が危害を加えないと認識したんでしょう。この公園は小さい公園ですが、うちの町会の「縄張り」でして、温厚な人が多いんですね。

最近、子供が2羽増えました。お子ちゃま達は警戒心が薄いせいか、スズメや鳩と一緒に人の食べているパンなんかを食べに降りてきます。物心付いた時から公園で人と接触しているので目の前に降りてきますね。

          

一応、あっちの枝に留まって、こっちの枝に留まって警戒しながら降りてきて、咥えると、うちのビルの屋上の手摺に留まってたべています。こういう時に気を付けないと、人にあまり慣れさせると、悪さをする奴が出てくるという事だ。鳩に「ボーガン」で撃ったりする不心得者がいる.誠に残念だね。人間界と結界が重なっている今日、動物と上手く共存出来るといいね。動物は「純真」ですからね。

 特徴を見てみると、青味がかった翼と長い尾。全長:36cm。本州中部と北部の山地の林や人家付近で留鳥。群れで見られる。
繁殖期も、数つがいが比較的近くに集まって巣をつくる。ゲーィとかゲーィキュキュキュと鳴き、春にはキュリリリ…などと甘い声も出す。幼鳥は尾が短く、頭に白い羽が混じる。アジア東部とイベリア半島に分布する。赤ちゃんの時は可愛いですね。

この公園は「飯倉五丁目町会」の縄張りみたいな所です。ビルの谷間で比較的芝公園にも近く、お昼を食べたりしてちょっとした憩いの場所です。鳥君達も都会で安心して暮らせる場所はそうありません。

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エクステンドボディーのタイイング (2)

2020-07-16 09:17:48 | フライの話

と言うか、補足説明です。

このただで貰ったバイス結構役に立ちますね。extendbody用のkitもがっしりとかなり安定して動きませんね。

         
ボディーを作って、♯2487の針に付けるのですが、良い感じにセット出来ます。

         
マラードダックのフェザーのウィング。brownとか一つのフェザーを左右切さいてウィングに仕立てます。brownとかgingerのハックルを巻いたらなかなかの出来です。

                                                       
              羽の網目模様もなかなかいいね

が、魚がいる処、とか時合、キャストの正確さが揃わないと釣れません。やはり、下の野池に行ってブルーギルでも釣りましょうかね?。

しかし、前にも確か言ったような。進歩がないということですかね。

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エクステンドボディーのタイイング (1)

2020-07-15 07:18:25 | フライの話

ちょっとひとやすみです。

youtubeでタイイングを見ると結構色々と数多く出ていますけど、製作者が独自のツールを使っていたり、珍しいマテリアルをこれ見よがしに(笑) 使っていたりします。このニードルにしても当然売ってはいません。特注で作ったんじゃないかね?。それにこのニードル、回転するんですよ。ボディーを抜き取るにしても回転すると便利ですよね。
で、extendbodyを作ってみる事に。ニードルに浮力のある緩衝材を巻いて糸で縛り、その上にダビング材を薄く巻きます。その上に上半分にディアヘヤーとかエルクヘヤ―を乗せるように置いて黒く塗ったスッレドをリブ(節目)を巻くようにして後しっぽを3本選んで終わりです。

色々フライショップとかを見ても売っていません。でこれに似たようなものを作る事にしました。

 
其処で、千枚通しの小型の物を壊して針だけにして、その針を取り付けようとするんですが、今度はそれを銜えるバイスが無いね。

普通のタイイングバイスは針の太さの幅迄広がるのが精いっぱいです。
散々探していたら中国か何処かで作ったのか小型の万力(バイス)が出ていましたので試してみる事に。購入したら「何でも「ギフトプレゼント?」で0円で手に入りました。「やったー!」

来てみて結構がっしりと銜えてしっかり固定できました。問題は後高さです。低いとタイイングやり辛い。スレッドを回すのも難儀だね。

  
で、こんなん作ってみました。余った角材が有ったので簡単に。留めるのに皿ビス一本。回転防止で細いビスを付けてがっちりと取り付け成功ね。回転しないけどこれだけでも上等です。

 
          右は千枚通し。潰したのはもっと小さいもの。

       
           初めてなのでギッタギタの出来です。

タイイングで大事な事は、綺麗にタイイングする事も大事だけど、その工程を一通り通しでやるのも大事ね。何回かやって段々と完成度を増して行くのさ。見るからに「汚ったねー」けどこれからバランスとかを考慮に入れてね。でも出来損ないだからといって、釣れない訳ではありませにょ。案外とこれがいい釣果を得る事が出来るかも知れません。

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補足説明です。

2020-07-13 11:28:05 | 漢詩・古典・エトセトラ

臥薪嘗胆の頃からの孫武の行動が出て来ない。闔閭が孫武の反対を押し切って越に攻め込み、矢に当たって破傷風になって陣没した話はありますがその後孫武の話が出て来ない。

                                                                             

「呉越春秋」での夫差内伝によると讒言するものが出て、辞職を願い出て、隠居し「孫子の兵法」の再編纂をしたとありますが、言い伝えの粋を出ません。呉王夫差は段々と慢心が酷くなり、またもや讒言によって、孫武の莫逆の友伍子胥に「剣」を賜り、自決させてしまい、孫武も誅殺させられてしまったとも。

孫武の祖先は春秋時代の陳の国の公子で田完であり、5世後の孫武の祖父が軍功があったとして「孫」の姓を賜った。

田氏・鮑四族の陰謀・乱を起こすのを見て、呉に逃げて、呉の将軍となった。孫武には、孫馳、孫明、孫敵の3人の息子がいて、次男の孫明は、呉の富春郡(会稽市を13分割して、その中の一つ)を賜り、「富春孫氏」の祖となったとあります。

三国志の一国、呉の孫堅の父は孫鐘は「瓜売り」をしていたとする記述があります。よく戦いの最初に相手を蔑んで「何処何処の「瓜売りが」とか「ムシロ売り」とか相手をののしる手段に使われます。この「ムシロ売り」は劉備玄徳の事です。劉備玄徳は耳が大きかったので「大耳児」というあだ名もありました。                     

               
                        孫堅と長男の孫策(小覇王と呼ばれた)顔に矢が当たり亡くなった。

   兎角、国政に携わると、陰謀。讒言は当たり前で、良い時は大人しくしているが、一度、何かあると、途端に周りの虎視眈々としている輩が君主を惑わして、陥れます。後の漢の時代、軍師の張良は劉邦の没後、そそくさと宮中から離れて身の安全を図りました。   君主の心は移ろい易く、国の安定の頃になると、有象無象の駄目臣下が自分の立ち位置の確保のためにある事ない事平気で讒言します。      国と国とが争っている時は,生にしがみついているので緊張感がありますが、安定してくると途端に「驕り、傲慢、慢心」の」虜になってしまい。今まで功のあった忠臣がどれだけ追放,誅殺させられた事か。かの、国士無双の韓信でさえ、言い掛かりを付けられ車引きの刑にあってしまった。「狡兎死して走狗烹らる」です。

                                     
                    孫  権
            「外は周瑜に内は魯粛に問え」という太后の言葉で即位した。

現在の浙江省・杭州市富陽区南部にある村では90%が「孫氏」を名乗っています。富春孫子の家系図では、清末の辛亥革命の「孫文」もその中に名を連ねているとあります。中国では古からの名家の家系が脈々と繋がっています。諸葛孔明の生まれた隆中の村に村には今尚、諸葛の姓だけの村もありますし「八陣図」が塀に残っています。
                                                                            
                                               
                                                              孫 文

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時代は下って臥薪嘗胆。

2020-07-10 06:31:20 | 漢詩・古典・エトセトラ

紀元前496年迄遡った話です。
中国戦国時代、呉と越の話です。呉と越と言えば「呉越同舟」ですね。「敵同士が同じ船に乗る」「そんなのはあり得ないという事です。

また有名な話しとしては、「天勾践を空しゅうする事勿れ、時に范蠡無きにしも有らず」これを最初読んだ時に「テンコウセン」てなんだ?。船の名前なのかえ?。なんて思った事も。↞嫌だねー、その学の無い事!。その意味が分かったのも最近になってから。(顔、真っ赤!)
「天は勾践を見放すようなことはしない。必ず范蠡のような忠臣が現れて助けてくれる」の意味。

 越を強国に築き上げた王の允常(いんじょう)が亡くなると太子の勾践が後を継いだ。この允常の死を機に呉王闔閭が孫武の反対を退け、越に大軍を率いて攻め込んだ。しかし、父の代から仕えていた范蠡の奇策で呉軍を欈李で大敗に追い込んだ。この時越の武将の放った矢で闔閭が足を負傷し、これが原因で、破傷風に罹(かか)り陣没した。呉でも太子の夫差が即位して、対立はさらに深まった。夫差は伍子胥の補佐で呉を立て直して悦に攻め込んで今度は越を滅亡寸前まで攻め込んだ。

                         
                                 夫 差

勾践は范蠡の進言に従って夫差に和を申し入れた。これに伍子胥は猛反対したが、押し切って和を受け入れた。勾践は呉に赴き夫差の召使になって使えることになったが、范蠡の工作によって程なく越に戻る事が出来た。勾践はこの時の悔しさを忘れず部屋に苦い「肝」を吊るし毎日舐めて復讐を誓ったのである。これを会稽の恥といいます。この会稽の恥は中国の書物では頻繁に出てきますので覚えておくといいですね。

                         
                                勾 践


 呉王夫差が薪の上に寝てその痛みに耐えた事と勾践が肝を舐めて復讐を誓った事を合わせて「臥薪嘗胆」という故事になりました。一説には臥薪嘗胆は勾践一人の事とする説もあります。もしかすると、勾践だけだと面白みが無いので、前者の方を定説にしているのかも知れません。

越は着々と国力を蓄えて夫差が中原の会盟に出かけた時を狙って呉に攻め込み、太子 友を斬り殺した。夫差は慌てて呉に戻ったがその後、越に滅ばされてしまった。

呉を滅ぼした勾践は越の都を琅琊(江蘇省の連雲港市海州区)に遷都し、諸侯を会盟して中原の覇者になった。が勾践は讒言を信じるようになり腹心の范蠡が去り文種が自害したりして、衰退してしまった。人間喉元を過ぎると、昔の苦労を忘れがちになります。よく「治世に於いて乱を忘れず」といいます。また「天は人の安逸を許さない」と言いますね。武道でも、「残心」と言う言葉があります。「四六時中気を張る」事はしなくていいですが、一寸心の片隅に要心をして置くことを忘れずにね。

 

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孫武と伍子胥。もう一人の孫子・

2020-07-08 12:10:06 | 漢詩・古典・エトセトラ

「戦わずして勝つ」という戦略思想。戦闘の防勢主義と短期決戦、また間諜(スパイ)の重要性等軍事研究において、戦略や戦術情報戦等幅広い領域で業績を残した。その軍事思想は現代に於いても有効性を失わず、今尚研究されている孫子の兵法です。

                   
                     孫 武

針外しの唯一知っているのは「敵を知りて己を知らば百戦して百戦危うからず」です。敵の軍勢の規模どういう街道をいつ通るか等情報が無ければ戦えません。孫子は情報戦が基本になっています。

孫武の逸話には、

 呉王の闔閭が「先生の著作十三編は全て読んだが宮中の夫人で少し軍の指揮を見せてもらう事は出来るか?」「分かりました。」孫武は宮中の美女180人を集合させ2つの部隊に分け武器を持たせて整列させた。そして王の寵姫2人を各隊の隊長に任命した。孫武が「貴方達は前後左右が分かるか?。と聞くと「ハイ分かります」と答えた。其処で将軍の印である鉄斧を置き命令を始めた。太鼓を打って「右」と号令すると、宮女達は馬鹿にしてどっと笑った。孫武は命令が既に明白なのに実行されないのは指揮官の罪なり」と言って隊長の寵姫2人を斬首しようとした、壇上で見ていた闔閭は驚いて「将軍の腕は既に良く分かった」余はその2人がいないと飯も美味くないので切るのは止めてくれ」と止めようとしたが、孫武は「一度将軍として任を受けた以上陣中にあっては君命でも従いかねる事が御座います。土肥って闔閭の寵姫を2人共斬ってしまった。そして新たな隊長を選び再び号令を掛けると今度は女性部隊は命令通りに進退し粛然と声を出す者も無かった。軍令と葉かくもありきですが、昔から陣中に戯言なし」と言うように、一切の戯れ事、冗談事」は存在しません。それはそうだ、いったん軍令が発せられて、ある将兵が失敗して「今のは冗談でした」なんてありえません。こういう将兵は即、斬首です。

 孫子の兵法は孫武の作という定説が覆った事が有りました。1972年山東省の臨沂(りんき)県で発掘された一軍の銀雀山漢簡で「孫子の兵法13編、と孫臏の表した「孫臏兵法の竹簡が発見されました。分析の結果、孫武と孫臏は別人と証明された。孫武は伍子胥と共に闔閭に仕えていて、孫臏は一代下ります。孫臏は若い頃将軍の龐涓(ほうけん)の嫉妬から罪を着せられて「足切の刑」に処せられた。孫臏の臏と言う字は「足切」という意味があります。実は針が高校生の時に赤坂の本屋でこの書が出ていまして夢中になって読んだものです。

                   
                     孫 臏 

 歴史背景はWikipedia等で検証して頂くとして孫臏で有名な話は「馬陵の戦いで龐涓の部隊が日暮れに到達するであろう場所に木で障害物を作り傍の木の絵dに板を吊るして「龐涓死於此木之下」(龐涓この樹の下にて死せん)と書き記させた。そして、その道の両側に兵1万を伏させ、兵達に「日没の後、此処に火がともるであろうからそれに向かって矢を射かけよ」と命じた。果たして計算通り夜半になって龐涓が到着して障害物を除けようとしてふと、木の枝に書かれたものがあると兵が言った為に自らこれを読もうと松明の火を掲げた。これに斉の伏兵が一斉に矢を放ち、軍は大混乱に陥った。自らが負けた事を悟った龐涓は「遂成豎子之名」(ついにあいつの名を世に知らしめてしまったの意)と言って息絶えた。

一方、伍子胥は孫武を闔閭に推挙して共に呉で働いたしたが、時に、太子 健に秦から嫁を貰う事になったが、少傅(しょうふ・副侍従長)の費無忌(ひむき)は楚に嫁いでくる伯嬴(はくえい・絶世の美女で嬴は秦の皇族の姓)を秦迄迎えに行ったがその美しさを見て太子ではなく平王に取り入ろうと考え側室に上げてしまい大使には別の女性をあてがってしまった。太子とすれば面白くありません。当然親子の対立となります。

                      
                                                                        伍子胥 

         伍奢とその子の伍尚(伍子胥の兄)と伍子胥もその影響力を費無忌に恐れられ平王に取り入っては伍家の一族の連座を図った。平王は伍奢を捕えて伍尚と伍子胥に「お前たちが都へ来たらお前達の父を助けると使者を送った。伍子胥はそれが伍家全員を殺す為と見抜き兄に逃げるように誘うが伍尚は父を見捨てられないと都に向き捕まり結局殺されてしまった。伍子胥は巧く呉に逃げられて復讐を誓う訳です。

 柏挙の戦いで孫武と共に出兵して兵法の天才孫武と地理に詳しい伍子胥の働きでついに楚の都、郢(えい)を陥落させます。楚の平王は既に死んでいて墓の所在が分からなかったが土地の者の子束に大きい穴を掘って其処に埋葬し、更に其処へ水を流して巨大な湖とした事を聞き、水を抜き王墓を暴き屍体を引きずり出して300回にも及び屍体を鞭打ったとあります。これが「屍体に鞭打つ」の語源になりました。歴史を紐解くと飽きる事を知りませんね。

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絶対に人には勧められません。

2020-07-06 07:15:21 | 針の民間療法。

山での話。「冬を過ぎて春近し」の頃に例のうざったい「杉花粉」の季節となります。この季節、難儀に思っている人は数多くいる事と思います。

幸い、針外しはスギ花粉は全くと言って良い程、症状がでません。が、その後がいけない。多分「ヒノキ」かなんかだろうと思うのですが、目頭がとてつもなく痒くて、掻きむしってしまい、目頭から血が出てしまう事も。挙句に最近は薄くなって来ましたけれど、瘡蓋(かさぶた)になってしまい、収束の頃目頭が黒く色素が付いてしまいました。

冬の間、鼻水、涙目、クシャミが酷いので「ナザール」等や「鼻炎カプセル」で凌いでいますが。この「目頭7時30分」、じゃなかった。(笑)。目頭の痒さは少し収まるが、山に行くと白樺の新緑は綺麗なんですが、ついでに花、とは言っても、「花穂」が垂れ下がる頃になると、この症状が顕著になってくる訳です。アレルギー用の目薬しても駄目、消炎剤(頭痛薬の事ですけど)を飲んでも効きません。

ほとほと困っていた時、ふと坂田の金時だか、二宮尊徳だか忘れてしまったが、温泉が眼病に聞いたという事を思い出した。体に発疹が出来て、薬(ステロイド)を塗っても駄目でしたが、下にある「権現の湯」に入ったら、痒みが2~3回で症状が無くなった。此処の温泉スパも確か「塩化物泉」。で考えたのだが、入浴剤であちこちの温泉の成分を謳ったものがありますね。前からバスクリンの「塩炭酸泉」があったかと。

            
冷え症、神経痛、しもやけ、湿疹、あせも、にきびなんて書いてあります。権現の湯の方は神経痛、慢性皮膚病その他、似たり寄ったりね。
ま、閑話休題(それはさておき)この入浴剤を、お湯で溶かして、目を洗ったら、凄く楽になって痒みが取れました。右の目は物がゴロゴロと入ったみたいで、鬱陶しいのこの上なかったけどそれも解消した。何度か痒みが戻りましたが何回か洗っているうちに気にならなくなりました。粗い顆粒状なので、そのまま目に入ったら痛いですから、よく溶かすね。

「針の民間療法」なんてとっても「胡散臭い」カテゴリーですけど、良くなったという事で掲載しました。

が、「良くならない」とか「症状の悪化」とかあったら止めるか、お湯で洗い流して下さいね。あくまでも、自己負担、自己責任という事でお願いします。

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2020-07-04 07:16:45 | 針の政治談議

                          

① 前の記事と重なる処もありますが、ちょっと前からこの人を観察していましたが、「桜を見る会」に見られるように、ひょっとして、天皇陛下に自分を並べているんじゃないだろうか?。森友の瑞穂の国にしても「自分が特別な存在」感がとてつもなく出ているしね。

「自分がこの国の王」と僭称している不届き者なのかも知れないね。そう考えるとなんか辻褄が合う感じがします。世の中で真に自分を認めてくれる人間がいないせいか、自分をチヤホヤしてくれるのがいると、まるで「ご褒美」みたいに税金使って優遇する。加計がいい例だ。それだから自由に出来る金をはじき出したい訳だ。
 
② 今若者の犯罪が特に増えてきた。国が税金という名目で先取りしている。IT企業のトップが国の金を大量に取って偏ってしまったお陰で一般国民に回る金が少なくなってしまった。国はつまり低所得者と高所得者が両極端にしてしまった。ちょっと前に「勝ち組」「負け組」という言葉が流行りましたが、国がそういう社会を作ってしまったと思います。ビルゲイツとかが必要のない位財をなして、「一人勝ちして後はその他大勢」。金持ちと低所得者をハッキリ分けてしまった。

 そういう傾向を国が是正しなければならないのに安倍他自民党は自分の懐を肥やしてしまっている。麻生なんかは「手を挙げた人の見を対象にする」なんて、まるで自分の金のような言い方だ。

 若者たちの正社員化を推進しなければならないのに、全くやっていない。むしろ皆「期間雇用社員化」だ。

ちょっと話は変わりますが、小泉前総理の時代には税金の滞納を理由に修正申告させたり、保育園や保健所を潰して公務員を減らしてしまった。当時はそういう公務員も一般に比べれば優遇されているという意見があった。

其処に従事している人を削減して、其処に割り当てられる金を横取りしてしまった訳だ。つまり公務員の口減らしだね。反面、国会議員や官僚、役人のトップはどうだ?。全く粛正されていないじゃないか?。ボーナス増やそうとしています。国民がコロナで苦しんでいるのにね。

 税金が足りているのにその内訳を国民に示さないで、更に増税しようとしている。官僚のトップも安倍にそう進言しないなんて駄目な官僚だ。安倍も安倍で官僚に自分に忖度しろ」と言ってんだろう。蟻とアリマキのズブズブの関係だね。

 年功序列の社会の仕組みも欠点はありますが、少なくとも社会は安定していた。ちゃんと勤め上げれば必ず昇給があった。今はまるで貧民製造の社会だ。こんなんでは、大正の時の「米騒動」が起きるような気がしてならない。

小泉の時はアメリカからの圧力に対して金を作るのがあったが、安倍の場合は自分の為に作り始めた。まわりにも「おこぼれ」を与えながらね。

 ましてや外国人雇用を諸外国からの要請で増やしてしまっている。これは官僚も裕福に育っているのか苦労を知らない政策を安倍に進言しているので国の内部に向かわないで外面を良くしてしまっている。ま、世界の困窮している人たちの救済も確かに大事だけどね。

 これは針の習った「少林寺拳法」の教典にあるのだが、
「己を措きて誰によるべぞ,よく整えし己こそ真得難き寄る辺也」とあるように人を助けるにまず自分から。自分を確立しないと人なんて助けられないね。(これが大乗仏教との誤解を生んだ。自分のみ助けるという解釈を付けた。)

 慈悲心や正義感に溢れていても力があっても人の役に立ったり助けたりすることは出来ません。力があっても愛が無ければただの暴力だとする少林寺拳法の極意と言うべきものです。これを力愛不二と言います。*大乗と小乗の優劣何て無いのさ。

 これを広げると自国が充実しないと
他所の国を助けるなんて出来やしない。助けようとして、自国が崩れて潰れてしまいます。(2010年3月14日カテゴリー武道の話「人を助けるには」に書いてあります)

 しかし、何でこんなに素人でも分かるような馬鹿をくりかえすんだろうね?。「なんか早く捕まえてくれ!」といっているみたい。歴史にこんなに不評、汚名を残して、自分の子孫に対して恥ずかしくないのかね?。

安倍首相も若く政治家になった時は信念に燃えていただろうに、「人にばらまくのが善意」と勘違いするようになって、認めてもらいたい裏返しに森友や加計や桜を見る会なんかになっていったんだろう。

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ベーコン作りの流れ

2020-07-02 07:02:21 | 燻製の話

針外しに出来る事は限られているので、くどくどと、同じ事の繰り返しだ。という非難にもめげずにまた書きます。塩の量、砂糖の量なんかは

 燻製の話ベーコン作り2回目に記載されています。参考にしてね。

 塩・砂糖・オレガノ・ブラックペッパーを指定量作って肉にまぶして後はローズマリー・ローリエと一緒にキッチンペーパーでくるみ、ジプロックに入れて冷蔵庫で1晩置いておきますね。塩のお陰で水分が少し出て、代わりに塩が肉に浸み込んでいきます。

   

冷蔵庫からだしたら、キッチンペーパーを剥がして大鍋に入れて塩抜きです。30分~40分ね。それが過ぎたら再びローズマリーとかローリエと一緒に乾燥籠に入れて一日乾燥します。この時ある程度肉から水気が無くなるまで乾かします。何故かというと、濡れたままキッチンペーパーでくるんでしまうと、乾燥して剥がす時にペーパーが肉に貼りついてしまうからです。

                        
 なかなか剥がせないし、結構こびりついて、それが残っています。口に入ると嫌ですよね。剥がし終わると今度は燻製です。我が家の燻製器は山に置いてあるのは大きいアメリカ製のと東京にある鍋型のタイプがあります。この鍋型のいい処はガスコンロを使うタイプであり、蓋をすると煙があまり出ません。換気扇を回せばほとんど煙は感じません。時間も20から25分と短くていいし。
 握り大目に桜チップを掴んで皿に入れます。粗目の砂糖を焦がすと「照り」が出て綺麗に仕上がります。ただ、鍋にこびり付くのでアルミホイルで四角く船を作って入れる事をお勧めします。
  
       
 もう一つ注意する事があります。それは肉から油がぼたぼたと落ちて燻製チップが濡れてしまい燻製が上手く行きませんのでチップの皿の上にアルミホイルで遮断してあげます。ぴっちり蓋をしないで煙が出る位のレベルです。最初は強火でチップを焦がします。煙が出てきたら中弱火から弱火へ。

       

今のガスコンロのタイプは加熱すると炎が小さくなったり消えたりするので針外しの処ではリンナイの安いコンロを使っています。

       

 煙が出てきて、20分から25分加熱すると燻製は終わりです。こんな状態で一晩、冷蔵庫に入れて肉を落ち着かせます。
肉を切るのにスライーサーがあると便利ですが、包丁で切ってもいいよ。端の色の濃い処は食べてもいいけど、小さめに切って、スープにするといいかも。肉はあまり焼かない位が美味しい。焼き過ぎるとカリカリしてしまい、小っちゃくなってしまいます。

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老子について

2020-07-01 09:36:17 | 漢詩・古典・エトセトラ

老子は、老聃(IMEパッドで出すと「耼」この字になってしまいます。略字体なのか間違いかどっちかだね)」。諸子百家のうち道家はこの老子の思想を基礎としています。後に確立された道教は老子を始祖とします。「老子」の呼び名は「偉大な人」を意味する尊称と考えられています。書「老子」(老子道徳教)を書いたとされるがその履歴については不明な処が多く実在が疑問視されたり存在したとされる時代について激しい議論がなされています。道教のほとんどの宗派で老子は神格化され崇拝されて三清の一人の太上老君の神名を持ちます。 
   
最高神・元始天尊  「道」を神格化した霊宝天尊(太上道君) 老子を神格化した道徳天尊

三清・玉皇大帝-黄帝・西王母・七仙女・八仙・関羽・嫦娥・媽祖・鐘馗・雷公・電母・太上老君他。

針の好んで読む西遊記には玉帝を始め数多くの神々がいます。関羽は三国志に出てくる英雄。鐘馗は張飛がモデルで二郎伸君の門番をしているし嫦娥は月に住む女官で美人さんです。寿老人は南極老人と碁を打ってるし、太上老君は「とつつ宮」で金丹を練っています。

                  

 論語で有名な孔子(孔丘)が礼節、仁義を謳ったら老子は「大道廃れて仁義有り」。「お前が禮とか仁義で縛ったお陰で人間、男女の自然な道が閉ざされてしまった。」というのがあります

天下に水よりも柔弱なる物はなし

水は丸い器に入れれば丸くなり、四角い器に入れれば四角になる。万物に恩恵をあたえながら、少しも自慢することなく、つねに低い所へ位置する。そのあり方はきわめて柔軟で謙虚だ。それでいて硬い岩でも打ち砕く力を秘めている。一見、主体性がないように見えるが、その実つねに低いところへ流れようと強固な主体性を秘め、何も為してないように見えながら、万物に恩恵を与えている。時には水蒸気となり氷となって、
その姿は臨機応変、自由自在。人間もかくありたいもの。今持っているものに満足し、ありのままの姿を喜びなさい。何も欠けていないと悟れば、全世界が自分のものとなる。

大器は晩成す。:「大きな器はいつまでも完成したように見えない。

大方は無辺也。:大きな四角はその辺が見えない。

大巧は拙なるが如し:本当に巧妙なものは稚拙に見える。

天網恢恢疎にして漏らさず:天の編み目は粗いが何一つ漏らさない。

柔は能く剛を制す:
これは我らが少林寺拳法では「剛能く柔を断つ」という対句になっています。

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